『In spring it is the dawn that is most beautiful.』
(前編)
・
・
・
捨てる神あれば……とはよく言ったもんだ。
「う……流石に今回はヤバイか」
粉雪の降りしきる深夜、男は次第に灰色から銀白色へと変貌してゆく冷た
いアスファルトの道端に座り込んでいた。頭上のテンガロンハットが雪除け
として役に立つのも、果たしてあとどれくらいだろうか。
神に祝福されざる己の呪われた肉体は、死の恐怖とはまったくもって無縁
ではあるが、だからといって痛苦の感覚が無いという訳ではない。寒さと空
腹のダブルパンチに見舞われながら身動き一つ取れないというこの状況に
は、いかな“悪魔”とて、かなり辛いものがある。
(パトラッ○ュ……じゃなくて鉄馬、俺もう疲れたよ……何だかとっても眠い
んだ……)
そういやあの教会でルーベンスの模写も見たよ……と、彼が現在死にかけ
ているこの地で、今から何十年か前、テレビで大人気を博した某感動TVア
ニメの少年主人公の如き呟きを、同地でこれまた数十年来の人気を博する
某劇画の主人公・極太眉毛がチャームポイント(?)の冷徹で寡黙な凄腕の
殺し屋にそっくりな使い魔が耳にすれば、「寝るな、寝たら死ぬぞ!」と、頬
骨が折れる勢いで両頬を叩いて起こしてくれること間違い無しなのだが、生
憎とその使い魔は正にこの自分──腑甲斐無い主人を救わんが為に現在、
己の傍を離れている。
(それにしても酷いよね……俺、契約内容に嘘なんかついてないし、ちゃ~
んと契約の前に何度も念押ししたし、一週間以内ならクーリング・オフもOK
だよって言ってあったのに……)
人間の魂で命を繋ぐ、世にも恐ろしい闇の生き物──と、呼ぶにはどうにも
迫力不足なこの悪魔、魔界では「キッド」と呼ばれる彼はしかし、天上界へ
の侵略にも地上の覇権にも興味は無く、ましてや飛び散る生物の血肉に快
感を覚えるようなスプラッタ趣味など、欠片も持ち合わせていなかった。
キッドはあくまでも日々の糧として人間の魂を求め、その代償に彼ら人間たち
の様々な願いを、天上界の目を引かぬ範囲内で叶えてやり(「世界征服」だと
か、「憎い相手を呪い殺してやりたい」といった物騒な依頼人の召喚には最初
から応じないか、「ごめんねぇ、そーゆーお願いはもっと高位の悪魔じゃないと
叶えられないんだよ」と、ぬけぬけと言い逃れてきた彼である)、そうして地上
の日陰で使い魔の鉄馬──魔道に詳しい者ならば、使い魔をいつも連れてい
るという時点で、キッドが、実はかなりの上級悪魔だということが分かるのだが
──と二匹、ひっそりと暮らしていた。
ところが──
「跡形も無く消え去るがいい、主に背きし忌まわしき地獄の蛇よ! その身
は煉獄の業火に燃え尽きて、栄光の日にも再び甦ることなかれ!」
正義感に燃えた熱血エクソシストの声が今も耳に残っている。間一髪のとこ
ろで鉄馬が体当たりをして、奴の気を逸らしてくれたお蔭で、追い込まれた
教会からほうほうの体で逃げ出し、命だけは何とか助かったものの──
(まったく、冗談じゃない……)
ご丁寧にも「御利用はよく考えた上で、計画的にネ☆★」と、人間の観賞眼
にも十分耐え得る、可愛らしいサボテンのモンスターが注意している契約書
には今や、“無効”の意味を表す天上界の印が押され、神々しくも無情な光
を放っていた。
(鉄馬にしたって、満身創痍のあの状態で、“あの家”まで助け呼びに行くな
んて、とてもじゃないけど……)
例え辿り着けたところで果たして、あの男が──何であるよりもまず、高貴
な貴族悪魔であろうとするあの、「父」という名の他人、自分にとっては「親」
と分類される怪物が、最早今となっては無価値の負け犬に、救いの手を差
し伸べてくれるものだろうか?
・
・
・
人間界で言うところの18世紀から19世紀にかけて、欧州中部某国が誇る大
作家にして大詩人、尚且つ自然科学研究家でもあり、また政治家でもあった、
然る多芸多才の人物が著した有名な戯曲──願いのすべてを叶える代わり、
人生に十分に満足し、最早この世に未練は無しと思ってその旨を口にした時、
幸福に満ち足りたお前のその魂を貰うと、悪魔は一人の老学者と契約を結ぶ
も、相手は最後には昔の恋人に説き伏せられて敬虔さを取り戻し、教会で悔
い改めたことによって、天にまします父なる神に許され、神の御使いたちの祝
福を受けながら、天に昇っていったという、あの話だ──に、そっくりとまでは
ゆかずとも、よく似た展開によってキッドは現在、命の危機に瀕していた。
(あ、もしかしてこの間、図書館で借りてきたあの本がいけなかったのかも?)
神と人間の側からすればあれは、確かに感動的な結末なのだろう。キッドも、
読後感としては、「まあ、面白かったかな?」ぐらいには思っていた。けれども
いざ、己の身にそれが、現実として起こったとなれば、話は別である(加えて、
悪魔が人間界の図書館を使っていることに対しても、突っ込みは無しの方向
で一つ。ちなみに彼は税金をきちんと納めている、どういった方法でかは不明
だが[!])。
視点を変えてみよう。そもそも人の魂を食らわなければ生きていけない身体
を持って生まれたのは、自分のせいではない。悪魔とて、食べなければ死ん
でしまう。働かざる者食うべからずと、「ホントに悪魔かよ」と言いたくなるよう
な殊勝な心がけの下、キッドは真面目に働いた(それは領地収入等に代表
される既得権益だけで裕福に暮らす誰かに対する、ささやかな意地でもあっ
たのかもしれない)。仕事内容があくまでも、“悪魔”にしか出来ないことであ
ったとしても、である(not洒落)。
セールストークにも契約書にも虚偽は皆無、そもそも契約相手の人間の心を
魔法で誘惑するような卑怯な真似は一切していない(心のデリケートな部分
はちょびっとだけ、つっついたかもしれないが、多くの人間たちが営む“企業”
とやらの“営業活動”なるものを超える程の熱心さ、猛烈さには到底及ばない
ものであったとは、キッド自身も使い魔の鉄馬も依頼者たちも、すべてが認め
るところであった)。
契約書にある直筆の署名と血判は、頑是無き子どもでもなければ悩める青少
年(名前は別に「ウェルテル」ではなかったが)でもなく、また健忘症の老人で
もない、男女問わず、独立した意思と確固たる思考力を持つ壮年の人間たちが、
熟慮を重ねた末に自ら望んで書き、押したものだ(そもそも、後腐れの無いよう
にとキッドは、依頼者をかーなーり、選り好みしていた)。
それなのに、遥か遠い昔、神聖不可侵の父なる創造主に対して謀叛を起こし、
天界を追放された堕天使たちの末裔だというだけで、その行動のすべてを問
答無用に“悪”とみなされ、労働の正当な成果を理不尽にも奪われた上、あま
つさえ餓死しそうになっても、地上の迷える仔羊たちのように、温かな救いの
手を差し伸べてはもらえないのだ。
(今になって考えてみりゃ今回の依頼者、契約書作成ん時、他のお人らと違っ
て手の震え、そういや止まってなかったねぇ……)
う~ん、最近Routine Worksばっかだったから観察眼鈍ってたのかねぇ……と、
迫り来る死を目前にしても未だ、キッドのボヤきは止まることを知らず、それ故
に彼の意識が、更に遠のきかけたその時だった。
・
・
・
「ピット、ピット、可哀想に……痛かったよね? ……ごめん、ごめんね……」
自分まで胸を締め付けられるような、嗚咽交じりの呟きが、素晴らしく食欲をそ
そる蠱惑的な匂いと共に、キッドの脳中枢を刺激した。
(子ども……の、泣き声……?)
うっすらと瞼を明けたキッドの目に映ったのは、バスタオルでしっかりとくるまれ
た何かを強く抱き締め、大粒の涙をボロボロ流しながら歩いてくる一人の少年。
よく見ればそのセーターの繊維までが薄く、鮮血に染まっている。
(どうしたの? 何がそんなに哀しいのかな?)
少年は抱き締めている対象のことで頭が一杯なようで、まるで目の前が見えて
いないようだ。このままでは伸ばしたままの自分の脚に蹴躓いて、転んでしまう。
「っこらせ……っと……」
実際にはかなりしんどかったのだが、殆ど条件反射のようにキッドは、脚を引
いた(雪の中に倒れている自分を人間たちに見つけられては色々厄介だろう
と、彼は先程からずっと姿を透明化させていた)。するとどうやら、さすがの神
も、このお気遣いの紳士を憐れんでくれたらしい。
「えっ……あ……?」
ペタペタと小さな足音が、止まった。
一時だけ哀しみを忘れ、つぶらな瞳を更に真ん丸く見開く少年。白く曇る視界
に、今、身体を温めるためにキッドが最も欲している蒸留酒と同じ色をした、一
対の瞳に視線を合わせるのは、何故だか酷く心地が良かった。
「だだだ大丈夫ですか!?」
(え……何この子、俺の姿見えてんの……?)
まさか死体?と、ビクビク恐れの入り混じった、けれど相手の無事を願う優しい
小さな手が、キッドのかさついた頬にそっと触れる。
「!」
体中に電撃が走った。流れ込んでくる甘美な精気に力づけられて、思わずカッ
と両目を見開くと、キッドは少年の、折れそうに細い手首を掴んだ。
「ひっ……」
(こんな極上の魂、見たことねぇ……)
怯えて身を後じらせようとする少年の至極当然の反応に対し、キッドは掴んだ
腕から相手の精気を一心不乱に貪った。
「……」
「……」
二人の間をしばしの間、沈黙が支配した。危害を加えられる訳でもなく、むしろ
土気色をしていた相手の顔が、徐々に血色を取り戻してゆくことに少年──瀬
那は、奇妙な安堵すら感じていた。
(変だけど、悪い人じゃなさそう???)
そしてまた、顔を上げた相手の顔の、何となくくたびれた印象とは不釣合いな、
けれど何故だかしっくりとくる、柔らかな薄紫の双眸──黄昏時の空より猶お
淡く、けれど夜の闇よりもっと深い、心を優しく押し包まれたが最後、二度と身
動きが取れなくなりそうな、不思議な色のそれの美しさに、ハッと息を呑んだ。
(あの花みたい、何だったっけ……んっと……)
アルバイト先の花屋で、屋外に置かれた商品とは異なり、店長が扱いにはくれ
ぐれも注意するようにと言っていた、店内のガラス製ショーケースに入れられた
高価な花々の中でも、その一番上に大切に置かれ、際立って優美な香りを放っ
ていた、薔薇に輪を掛けて高雅な印象を人に抱かせる蘭花を、彼は思い浮かべ
た。
・
・
・
しかし、そんな雅やかなイメージをするのはする側の勝手だが、それをされた
側が実際に雅やかであらねばならないなどとは、人間界でも魔界でも決まっ
ていない訳で、事実、本“魔”好むところの表現・“買い被り”をされたキッドの
方はと言えば。
(た、助かった……)
肉体(超絶)疲労時の栄養補給を済ませ、生き返った心地の彼は、一息ついた
ところで、少年から向けられる困惑と好奇の視線に、ハタと今の状況を思い返し
た。雅とは180度かけ離れた、現況を。
(うっわ最悪。俺、これじゃ変質者じゃん……)
客観的事実と人間界の常識から言うと、まったくもってその通りなのだが、少年
が逃げようとも悲鳴を上げようとせず、その真ん丸な視線が先程からずっと、己
の“目”に固定されていることから察するに、自分はどうやら、食欲と美味への興
奮に引き摺られ、悪魔の本性をさらしかけていたらしいと、キッドは気付いた。
(あちゃー、失敗)
慌てて頭を軽く左右に振り、頭上に積もった雪を払うふりをして、彼は両の瞳の
色を、こちらの世界ではありきたりなものに変えた。
(危ねぇ危ねぇ……)
洗いっ放しのボサボサ頭に無精髭、つい先程まで雪が積もっていたテンガロ
ンハットを始め、スカーフや腰のホルスターに挿されたピストルと弾丸(実は本
物だ)、革ブーツに洗い晒しのジーンズと、ウェスタン・スタイルで統一された
服装。一見、何の変哲も無い(?)西部劇マニアに見える現在の姿かたちに
は、路傍に積もった名も無き落ち葉──やがては雪によって地上からその姿
を残らず隠され、春の訪れまでには地中へ雪解け水と共に姿を消す、落魄の
枯色こそ似つかわしい。
温室育ちの過去は、本名と共に、疾うの昔に捨て去ったのだから。
「えっと……驚かしてごめんね? ところで君、どしたの?」
可哀相に、こんなに真っ赤に泣き腫らして……と、少々骨ばった長い指が瀬那
の目尻をそっと、優しく拭う。
「ピットが……」
「ピット?」
見知らぬ他人、しかも何やら曰く有り気な人物ではあったが、人をホッとさせる
その落ち着いた態度と穏やかな口調は不思議なことに、瀬那の心中の凍傷を、
治癒とまではゆかずとも、今以上に悪化することだけは、ピタリと止めてくれた。
「ピットが……僕の飼い猫が、帰宅途中の僕の姿を見て、飛びつこうとアパート
の二階から……いつもなら問題無かったんですけど、今日は雪が降ってて、ベ
ランダの手すりも湿ってツルツルしてて……この子、足を滑らせて着地に失敗し
ちゃったんです……運悪く地面も凍ってて……」
猫は首の骨を折ったとかで、快復の見込みはゼロと動物病院で診断されたら
しい。獣医には安楽死を勧められたそうだが、少年は、たとえ猫を必要以上に
苦しめると分かってはいても、決断を下すことが出来ず、自分勝手・自己満足
と分かってはいながら、それでも死ぬならせめて、自分たちの家でと、彼は愛
猫を抱き、動物病院からの帰路を力無くトボトボと辿っていたという訳だ。
<後編へ続く>
(前編)
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捨てる神あれば……とはよく言ったもんだ。
「う……流石に今回はヤバイか」
粉雪の降りしきる深夜、男は次第に灰色から銀白色へと変貌してゆく冷た
いアスファルトの道端に座り込んでいた。頭上のテンガロンハットが雪除け
として役に立つのも、果たしてあとどれくらいだろうか。
神に祝福されざる己の呪われた肉体は、死の恐怖とはまったくもって無縁
ではあるが、だからといって痛苦の感覚が無いという訳ではない。寒さと空
腹のダブルパンチに見舞われながら身動き一つ取れないというこの状況に
は、いかな“悪魔”とて、かなり辛いものがある。
(パトラッ○ュ……じゃなくて鉄馬、俺もう疲れたよ……何だかとっても眠い
んだ……)
そういやあの教会でルーベンスの模写も見たよ……と、彼が現在死にかけ
ているこの地で、今から何十年か前、テレビで大人気を博した某感動TVア
ニメの少年主人公の如き呟きを、同地でこれまた数十年来の人気を博する
某劇画の主人公・極太眉毛がチャームポイント(?)の冷徹で寡黙な凄腕の
殺し屋にそっくりな使い魔が耳にすれば、「寝るな、寝たら死ぬぞ!」と、頬
骨が折れる勢いで両頬を叩いて起こしてくれること間違い無しなのだが、生
憎とその使い魔は正にこの自分──腑甲斐無い主人を救わんが為に現在、
己の傍を離れている。
(それにしても酷いよね……俺、契約内容に嘘なんかついてないし、ちゃ~
んと契約の前に何度も念押ししたし、一週間以内ならクーリング・オフもOK
だよって言ってあったのに……)
人間の魂で命を繋ぐ、世にも恐ろしい闇の生き物──と、呼ぶにはどうにも
迫力不足なこの悪魔、魔界では「キッド」と呼ばれる彼はしかし、天上界へ
の侵略にも地上の覇権にも興味は無く、ましてや飛び散る生物の血肉に快
感を覚えるようなスプラッタ趣味など、欠片も持ち合わせていなかった。
キッドはあくまでも日々の糧として人間の魂を求め、その代償に彼ら人間たち
の様々な願いを、天上界の目を引かぬ範囲内で叶えてやり(「世界征服」だと
か、「憎い相手を呪い殺してやりたい」といった物騒な依頼人の召喚には最初
から応じないか、「ごめんねぇ、そーゆーお願いはもっと高位の悪魔じゃないと
叶えられないんだよ」と、ぬけぬけと言い逃れてきた彼である)、そうして地上
の日陰で使い魔の鉄馬──魔道に詳しい者ならば、使い魔をいつも連れてい
るという時点で、キッドが、実はかなりの上級悪魔だということが分かるのだが
──と二匹、ひっそりと暮らしていた。
ところが──
「跡形も無く消え去るがいい、主に背きし忌まわしき地獄の蛇よ! その身
は煉獄の業火に燃え尽きて、栄光の日にも再び甦ることなかれ!」
正義感に燃えた熱血エクソシストの声が今も耳に残っている。間一髪のとこ
ろで鉄馬が体当たりをして、奴の気を逸らしてくれたお蔭で、追い込まれた
教会からほうほうの体で逃げ出し、命だけは何とか助かったものの──
(まったく、冗談じゃない……)
ご丁寧にも「御利用はよく考えた上で、計画的にネ☆★」と、人間の観賞眼
にも十分耐え得る、可愛らしいサボテンのモンスターが注意している契約書
には今や、“無効”の意味を表す天上界の印が押され、神々しくも無情な光
を放っていた。
(鉄馬にしたって、満身創痍のあの状態で、“あの家”まで助け呼びに行くな
んて、とてもじゃないけど……)
例え辿り着けたところで果たして、あの男が──何であるよりもまず、高貴
な貴族悪魔であろうとするあの、「父」という名の他人、自分にとっては「親」
と分類される怪物が、最早今となっては無価値の負け犬に、救いの手を差
し伸べてくれるものだろうか?
・
・
・
人間界で言うところの18世紀から19世紀にかけて、欧州中部某国が誇る大
作家にして大詩人、尚且つ自然科学研究家でもあり、また政治家でもあった、
然る多芸多才の人物が著した有名な戯曲──願いのすべてを叶える代わり、
人生に十分に満足し、最早この世に未練は無しと思ってその旨を口にした時、
幸福に満ち足りたお前のその魂を貰うと、悪魔は一人の老学者と契約を結ぶ
も、相手は最後には昔の恋人に説き伏せられて敬虔さを取り戻し、教会で悔
い改めたことによって、天にまします父なる神に許され、神の御使いたちの祝
福を受けながら、天に昇っていったという、あの話だ──に、そっくりとまでは
ゆかずとも、よく似た展開によってキッドは現在、命の危機に瀕していた。
(あ、もしかしてこの間、図書館で借りてきたあの本がいけなかったのかも?)
神と人間の側からすればあれは、確かに感動的な結末なのだろう。キッドも、
読後感としては、「まあ、面白かったかな?」ぐらいには思っていた。けれども
いざ、己の身にそれが、現実として起こったとなれば、話は別である(加えて、
悪魔が人間界の図書館を使っていることに対しても、突っ込みは無しの方向
で一つ。ちなみに彼は税金をきちんと納めている、どういった方法でかは不明
だが[!])。
視点を変えてみよう。そもそも人の魂を食らわなければ生きていけない身体
を持って生まれたのは、自分のせいではない。悪魔とて、食べなければ死ん
でしまう。働かざる者食うべからずと、「ホントに悪魔かよ」と言いたくなるよう
な殊勝な心がけの下、キッドは真面目に働いた(それは領地収入等に代表
される既得権益だけで裕福に暮らす誰かに対する、ささやかな意地でもあっ
たのかもしれない)。仕事内容があくまでも、“悪魔”にしか出来ないことであ
ったとしても、である(not洒落)。
セールストークにも契約書にも虚偽は皆無、そもそも契約相手の人間の心を
魔法で誘惑するような卑怯な真似は一切していない(心のデリケートな部分
はちょびっとだけ、つっついたかもしれないが、多くの人間たちが営む“企業”
とやらの“営業活動”なるものを超える程の熱心さ、猛烈さには到底及ばない
ものであったとは、キッド自身も使い魔の鉄馬も依頼者たちも、すべてが認め
るところであった)。
契約書にある直筆の署名と血判は、頑是無き子どもでもなければ悩める青少
年(名前は別に「ウェルテル」ではなかったが)でもなく、また健忘症の老人で
もない、男女問わず、独立した意思と確固たる思考力を持つ壮年の人間たちが、
熟慮を重ねた末に自ら望んで書き、押したものだ(そもそも、後腐れの無いよう
にとキッドは、依頼者をかーなーり、選り好みしていた)。
それなのに、遥か遠い昔、神聖不可侵の父なる創造主に対して謀叛を起こし、
天界を追放された堕天使たちの末裔だというだけで、その行動のすべてを問
答無用に“悪”とみなされ、労働の正当な成果を理不尽にも奪われた上、あま
つさえ餓死しそうになっても、地上の迷える仔羊たちのように、温かな救いの
手を差し伸べてはもらえないのだ。
(今になって考えてみりゃ今回の依頼者、契約書作成ん時、他のお人らと違っ
て手の震え、そういや止まってなかったねぇ……)
う~ん、最近Routine Worksばっかだったから観察眼鈍ってたのかねぇ……と、
迫り来る死を目前にしても未だ、キッドのボヤきは止まることを知らず、それ故
に彼の意識が、更に遠のきかけたその時だった。
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「ピット、ピット、可哀想に……痛かったよね? ……ごめん、ごめんね……」
自分まで胸を締め付けられるような、嗚咽交じりの呟きが、素晴らしく食欲をそ
そる蠱惑的な匂いと共に、キッドの脳中枢を刺激した。
(子ども……の、泣き声……?)
うっすらと瞼を明けたキッドの目に映ったのは、バスタオルでしっかりとくるまれ
た何かを強く抱き締め、大粒の涙をボロボロ流しながら歩いてくる一人の少年。
よく見ればそのセーターの繊維までが薄く、鮮血に染まっている。
(どうしたの? 何がそんなに哀しいのかな?)
少年は抱き締めている対象のことで頭が一杯なようで、まるで目の前が見えて
いないようだ。このままでは伸ばしたままの自分の脚に蹴躓いて、転んでしまう。
「っこらせ……っと……」
実際にはかなりしんどかったのだが、殆ど条件反射のようにキッドは、脚を引
いた(雪の中に倒れている自分を人間たちに見つけられては色々厄介だろう
と、彼は先程からずっと姿を透明化させていた)。するとどうやら、さすがの神
も、このお気遣いの紳士を憐れんでくれたらしい。
「えっ……あ……?」
ペタペタと小さな足音が、止まった。
一時だけ哀しみを忘れ、つぶらな瞳を更に真ん丸く見開く少年。白く曇る視界
に、今、身体を温めるためにキッドが最も欲している蒸留酒と同じ色をした、一
対の瞳に視線を合わせるのは、何故だか酷く心地が良かった。
「だだだ大丈夫ですか!?」
(え……何この子、俺の姿見えてんの……?)
まさか死体?と、ビクビク恐れの入り混じった、けれど相手の無事を願う優しい
小さな手が、キッドのかさついた頬にそっと触れる。
「!」
体中に電撃が走った。流れ込んでくる甘美な精気に力づけられて、思わずカッ
と両目を見開くと、キッドは少年の、折れそうに細い手首を掴んだ。
「ひっ……」
(こんな極上の魂、見たことねぇ……)
怯えて身を後じらせようとする少年の至極当然の反応に対し、キッドは掴んだ
腕から相手の精気を一心不乱に貪った。
「……」
「……」
二人の間をしばしの間、沈黙が支配した。危害を加えられる訳でもなく、むしろ
土気色をしていた相手の顔が、徐々に血色を取り戻してゆくことに少年──瀬
那は、奇妙な安堵すら感じていた。
(変だけど、悪い人じゃなさそう???)
そしてまた、顔を上げた相手の顔の、何となくくたびれた印象とは不釣合いな、
けれど何故だかしっくりとくる、柔らかな薄紫の双眸──黄昏時の空より猶お
淡く、けれど夜の闇よりもっと深い、心を優しく押し包まれたが最後、二度と身
動きが取れなくなりそうな、不思議な色のそれの美しさに、ハッと息を呑んだ。
(あの花みたい、何だったっけ……んっと……)
アルバイト先の花屋で、屋外に置かれた商品とは異なり、店長が扱いにはくれ
ぐれも注意するようにと言っていた、店内のガラス製ショーケースに入れられた
高価な花々の中でも、その一番上に大切に置かれ、際立って優美な香りを放っ
ていた、薔薇に輪を掛けて高雅な印象を人に抱かせる蘭花を、彼は思い浮かべ
た。
・
・
・
しかし、そんな雅やかなイメージをするのはする側の勝手だが、それをされた
側が実際に雅やかであらねばならないなどとは、人間界でも魔界でも決まっ
ていない訳で、事実、本“魔”好むところの表現・“買い被り”をされたキッドの
方はと言えば。
(た、助かった……)
肉体(超絶)疲労時の栄養補給を済ませ、生き返った心地の彼は、一息ついた
ところで、少年から向けられる困惑と好奇の視線に、ハタと今の状況を思い返し
た。雅とは180度かけ離れた、現況を。
(うっわ最悪。俺、これじゃ変質者じゃん……)
客観的事実と人間界の常識から言うと、まったくもってその通りなのだが、少年
が逃げようとも悲鳴を上げようとせず、その真ん丸な視線が先程からずっと、己
の“目”に固定されていることから察するに、自分はどうやら、食欲と美味への興
奮に引き摺られ、悪魔の本性をさらしかけていたらしいと、キッドは気付いた。
(あちゃー、失敗)
慌てて頭を軽く左右に振り、頭上に積もった雪を払うふりをして、彼は両の瞳の
色を、こちらの世界ではありきたりなものに変えた。
(危ねぇ危ねぇ……)
洗いっ放しのボサボサ頭に無精髭、つい先程まで雪が積もっていたテンガロ
ンハットを始め、スカーフや腰のホルスターに挿されたピストルと弾丸(実は本
物だ)、革ブーツに洗い晒しのジーンズと、ウェスタン・スタイルで統一された
服装。一見、何の変哲も無い(?)西部劇マニアに見える現在の姿かたちに
は、路傍に積もった名も無き落ち葉──やがては雪によって地上からその姿
を残らず隠され、春の訪れまでには地中へ雪解け水と共に姿を消す、落魄の
枯色こそ似つかわしい。
温室育ちの過去は、本名と共に、疾うの昔に捨て去ったのだから。
「えっと……驚かしてごめんね? ところで君、どしたの?」
可哀相に、こんなに真っ赤に泣き腫らして……と、少々骨ばった長い指が瀬那
の目尻をそっと、優しく拭う。
「ピットが……」
「ピット?」
見知らぬ他人、しかも何やら曰く有り気な人物ではあったが、人をホッとさせる
その落ち着いた態度と穏やかな口調は不思議なことに、瀬那の心中の凍傷を、
治癒とまではゆかずとも、今以上に悪化することだけは、ピタリと止めてくれた。
「ピットが……僕の飼い猫が、帰宅途中の僕の姿を見て、飛びつこうとアパート
の二階から……いつもなら問題無かったんですけど、今日は雪が降ってて、ベ
ランダの手すりも湿ってツルツルしてて……この子、足を滑らせて着地に失敗し
ちゃったんです……運悪く地面も凍ってて……」
猫は首の骨を折ったとかで、快復の見込みはゼロと動物病院で診断されたら
しい。獣医には安楽死を勧められたそうだが、少年は、たとえ猫を必要以上に
苦しめると分かってはいても、決断を下すことが出来ず、自分勝手・自己満足
と分かってはいながら、それでも死ぬならせめて、自分たちの家でと、彼は愛
猫を抱き、動物病院からの帰路を力無くトボトボと辿っていたという訳だ。
<後編へ続く>