冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

福在眼前(フゥザイイエンチエン)

2009年04月04日 | 阿含×瀬那
ドーン、ズガラゴワッシャー──!!!

ジグザグ形の閃光が、黒雲垂れ込める雨空に瞬いたかと思うと、凄まじい
轟音がとどろいた。

(光が音よりも速いってホントなんだなぁ……)

中学校の理科の時間に習った知識を、瀬那は、人の姿をした“臥竜”の上
に突っ伏しながら、思い返していた。

──

「お゛ぃ、チビカス……うぜぇ、どけ」

熟睡しているものとばかり思っていた竜が──正確には、熟練の匠の手に
なる丹青の竜を、その逞しい背中に住まわせている、神に限り無く近くはあ
るが、今はどうやらまだ“人”である男が、明らかに機嫌が悪いと分かる、ド
スの効いた低い声で凄んだ。

「や、です」
「あ゛ぁ゛ぁ゛ー?」
「だって、こうしてないと阿含さんが飛んでっちゃいそうなんですもん」
「……テメェ、雲子に今度は何吹き込まれやがった」
「雲水さんはなんにも言ってませんってば。今日、阿含さん待ってる間、書
庫の方にお邪魔させてもらってたんです。で、そこに在った本の中の一冊に、
雷雨の日に空へ上ってく竜の挿絵が入っててですね……」
「現実と非現実の区別がつかねー馬鹿がこれ以上アホなことぬかす前に息
の根止めてやる」

一息にあっちの世界へ送ってやる俺様の慈悲にせいぜい感謝しやがれ地
球のCO2削減にも貢献してあ゛ー俺って凄ぇ善い奴ーと、一息に言うが早い
か、寝起きとは思えない俊敏な動きで、男──金剛阿含は、起き上がった。

その弾みで、瀬那はベッド脇の壁に、したたかに背を打ち付け──そうにな
ったが、何の気紛れか、元凶が起床と同時に発動した神速のインパルスに
より、相手に首っ玉を猫の仔のように掴まれて、予想していた痛みを、とりあ
えずは回避出来たのだった。

「でもこれはこれで痛いですよぅ……」
「さっさとどかねーからだ、ド阿呆が」

そのままゴロリと床の上に転がされ、ついでに(阿含にしては)軽い蹴りも一
発お見舞いされた少年は、幼児期以来、十何年振りかに「いーもーむーしー
ゴ~ロゴロ~♪ ひっくり返ってゴ~ロゴロ~♪」をする羽目に陥った。

「大体テメー、空の上に何か有るだなんて、その年でマジ信じてんのかよ?」
「え? えーっと……さ……さあ……?」

どうなんでしょうねと、少年は小首を傾げた。

「もし仮に地上(ここ)より佳い女や美味い酒がワンサとあって、おもしれー事
にも事欠かねーってなら確かに悪かねーが、だからってこの俺にわざわざ足
運べなんてトコ、存在する価値も必要も無ぇし」

傍若無人な物言いはいつものことながら、自分の言葉に阿含が反応を示し、
返事を返してくれるのが、少なくとも傍に居ることは鬱陶しがられていないよ
うだと、仄温かな思いが込み上げてきて、瀬那は僅かに口端を緩めた。

「確実に存在するって保証があんならともかく、ハッキリしねーことに体力使っ
て無駄足踏むなんてのは、まさにテメーら愚民どものすることだな」

ゴ……ゴロ……ピカッ!……ドォォォン!!!

吐き捨てるように言うと、改めて惰眠を貪り始めようとした男を、一喝するかの
ように再び、雷鳴が轟く。

「だぁっ、るっせー!!!」

もともと怒りの沸点の低い男である。

「別に“こっち”でそれなりに楽しくやってんだから、誰もわざわざ“そっち”なん
か行かねーっつだよ、ボケが!」 

何に対してなのかは謎であったが、とにもかくにもブチ切れた阿含は、瀬那
が転がったままであるのもお構い無しに、数個有った枕のうちの一つを、床
に向かって投げ付けた。

「う、わぁ……っ!」

たかが枕と言うなかれ。百年に一度、出るか出ないかと言われる天才が投
げたそれならば、岩にも等しい凶器となり得るのである。瀬那は素肌の上に
巻き付けていた薄い毛布を、慌てて上に引き上げて、頭まですっぽりと覆っ
た。

ガッ……ゴロ、ゴロン……

羽毛製の凶器は、瀬那のすぐ傍の、彼が今日、書庫から借りて来た、件の昇
竜の挿絵入りのものを始めとした古書数冊と、それらと共に借りてきた(勿論、
拝見後はきちんと返却の予定である)、恐らくは骨董品が納められていると思
われる、小さな木箱にぶつかった。

(あ~ぁ、壊れてたらどうしよ……雲水さんは全部ガラクタだって言ってたけど
……)

しばらく経ってから、恐る恐る、毛布の中から顔を出し、阿含が再び寝入ったの
を確認すると、瀬那は木箱から飛び出してしまった中身を──蝙蝠と、真ん中
に穴の開いた古銭とを組み合わせた文様があしらわれた、幾多の歳月を経て
かなり黒ずんでしまっている、馬蹄形の銀塊十数個を拾い集めた。

(良かった、欠けたり皹入ったりはしてないや……)

一つ一つを素早く点検し、すべて問題無しと分かると、掌の上の、最後に確認
した一個をそっと撫で、やれやれと安堵の溜息を一つ。

そうして瀬那が、それらを再び、箱の中に戻そうとした時──

「う、わぁっ」

グイと体を引っ張られ、少年は、思わず小さな悲鳴を上げた。

「もともと殆ど無ぇ色気もさっきとっくに使い果たしちまったテメーなんざ、いつも
ならさっさと叩き出すとこだが……」

普段全然居ないし使わないんなら有っても意味無ぇとかフザけた真似しやがっ
て、あのクソ親ども&雲子の野郎……と、しかし罵声の後半が途切れ途切れ
になってきたかと思うと、阿含は瀬那を、隆々とした筋肉の波打つ懐の辺りへ、
乱暴に掻き抱き。

「カスちび体温……なんにも無ぇよりゃ……マシ、か……zzZ」

そして再び、臥竜となった。

──要するに、不在がちの部屋の主の意向は完全無視の形で、此処のエアコ
ンは取り外され、売却処分か廃棄処分をされてしまったということらしい。(←家庭
内に於ける最近の地位は意外と低い?)


(に、してもやっぱ阿含さんの頭って油くさ……しかも……ヒィィィ……寝顔でも、
こ、怖っ!)

けれど、直に感じるその体温と、微かにアルコールの匂いも混じった“竜”の体
臭は、彼がその気になれば、いとも容易く潰せるであろう、小さな蝙蝠にとって、
しかし何故だかその晩は、とても心地良いものだったようである。

                                       <おしまい>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

少しだけ加筆訂正を致しました。最近は阿含と蛭魔さんの口調が上手く書き分
けられず、密かに悩みの種となっております。執筆当時は下記状況に↓在りな
がら、

先月、日本だったら洪水扱いされんだろーなーってくらい、物凄い雷雨の日があ
ったんです。周囲は半ば川と化し、あっちこっちで落雷するもんだから殆ど一日
停電しちゃってもう、大変でした。蝋燭の灯りの下、ビカビカ(“p”じゃなくて“b”
でした)不気味に光る夜空を窓から眺めながら、御飯を食べている時に思い付
いた話です(ロマンが無いよ)。
“福在眼前”、本来の意味とそう離れてはいないし、直訳すればつまりはそうい
う事じゃない、ねえvv?←誰に対して言ってんですか、香夜さん。


と、蝶・ノリノリで書いていたというのに……!(「ノリノリ」って表現はもしかした
らもう、死語……?) 今の香夜さんには、馬カッコ可愛い阿含が(=馬鹿でアホ
で強くて所により可愛い阿含。←って、何か増えてる、余計なのも入ってるΣ(゜ロ゜;)!!!/苦笑
足りない、足りないわ……orz! Give me 原作(WJと最新刊), please……!

今回のタイトルは、中国の吉祥図案の一つを拝借しました。
“福”「フゥ」=幸福(→“蝠”「フゥ」=コウモリ)在(=存
在する)
“眼前”「イエンチエン」=目の前に(→“眼銭”
「イエンチエン」=五円玉のように、真ん中に穴の開
いた硬貨)

コウモリが硬貨を抱き締めていたり、コウモリの顔の前に硬貨があったりと、パ
ターンは色々あるようですが、意味としては要するに、読んで字の如く「幸せは
目の前に(すぐ傍に)」、或いは「幸せはもう目の前、すぐそこまで来ている」とい
ったものらしいです。ちなみに作中の銀塊がどーのこーのというのは、いつの時
代か詳しくは存じませんが、とにかく、昔々の中国のどこかに、そういう物が有
ったとか無かったとかいう記述を(どっちよ)物の本で読んだ、石丸さん並みにう
すらボンヤリとした記憶によるものです(つまり信憑性ゼロって事ですね、香夜
さん!)。

嫦娥奔月 (後編)

2006年10月06日 | 阿含×瀬那
(生意気、カスのくせに……)
戦いは一進一退の攻防を繰り返していた。阿含がその「気」を全開にすれば、
戦いの場が人界である以上、この周囲一体を全壊せしめるのはいと容易い
ことであり、蛭魔との決着もすぐつく筈だった。しかし阿含は、敢えてそうしよ
うとはしなかった。何故なら――

(ちびまでふっ飛ばしたら意味ねえしな……あーメンドくせ)

この場合、阿含は別に、瀬那を「守ろう」と思っているのではなく、お気に入り
の玩具を壊したくない幼児と同レヴェルであった。だがそれにしても、彼がこの
ようなまだるっこしい戦い方をしているということ自体、今までなら決して目に
することの無い光景だった。

(畜生……仙薬さえ飲めりゃ……)
蛭魔は蛭魔でまた、苛立っていた。現在こそ、阿含の子どもじみた気紛れに
より、互角に戦えているが、このまま持久戦に持ち込まれれば、未だ昇仙を
果たせていない以上、どんなに強大な妖力をもってしても、地上の一生物に
過ぎない自分の方が、※気力体力ともに限界が早く来る分、神である阿含よ
りも圧倒的に不利だ。瀬那を抱いていることで、片手しか使えないというハン
デも、原形を半ば現しかけた半妖態に戻ることで、何とか補ってはいるが、そ
れも果たしていつまでもつことやら。

もともと尖り気味であった両耳は既に、完全に獣の耳と化し、顔を始めとする
透けるように白い肌には青く不気味な紋様が浮かび上がっていた。禍々しい
ほどに赤く、濡れたような唇。そこから伸びた鋭い犬歯は、蛭魔の妖しい美し
さをいやが上にも増していた。男にしてはやや細くしなやかな、両の手の長い
五指の先には、紫紺の色をした鋭い爪が、妖しく艶めいた光沢を放っている。
そして彼の背後にはふさふさとした金色の尾が九本、孔雀の羽根のように華
麗に波打っていた。

焦りは蛭魔に、同時並行で続けていなければならなかった瀬那に対する、
誘惑の術のための意識の集中を、途切れがちにさせていった。それと同
時に、瀬那の意識にも光が差し始める。
                       ・
                       ・
                       ・
(あれ……?僕、どうして蛭魔さんに抱っこされてんだろ?)
(蛭魔さん……誰かと戦ってる?)
(あれは……)
蛭魔が戦っている相手の輪郭が徐々に明確さを増してゆき、それが瀬那の
脳裏で完全な像を結んだ瞬間、彼の意識は一気に覚醒した。

「阿含さん!」
瀬那の叫びに阿含も蛭魔も一瞬、動きを止める。

「阿含さんも、蛭魔さんも、な、なんで……戦ってるんですか?」
恐る恐る問う瀬那に、馬鹿にしたような表情で最初に返事を返したのは、その
夫だった。

「あ゛ー?何寝惚けたこと言ってやがる。てめぇがうかうかこのカス狐にさらわ
れたりすっからだろーが、バーカ」
「え、さらわれ……???」
ゆっくりと目線を上げる瀬那の目に映ったのは、この世のありとあらゆる負の
感情――憎悪、嫉妬、悲哀、侮蔑、欲望などを一堂に結集させた、これまで
に見たことも無いほど恐ろしく歪んだ蛭魔の表情だった。
「蛭魔、さん……?あの……?」

未だ自分の想いと意図するところに気付かぬ瀬那の鈍感さに、更に苛立ち
を増幅させられながら、それでも彼を想い切れぬ己の諦めの悪さに、蛭魔
は今日何度目かの舌打ちを再び繰り返した。

「チッ……覚醒しちまったか……まあしゃあねえ。おい瀬那、この瓢箪開けろ」
「え……これってまもり姉ちゃんのくれた仙薬の……?」
つぶらな瞳をぱちくりさせて、瓢箪を手に取る瀬那。瓢箪と蛭魔と阿含を順番
に見ると彼は、素っ頓狂な叫び声を上げた。

「ひ、蛭魔さん、いくら昇仙したいからってそんな、阿含さんを、こ、殺……!」
最後は狼狽のため、瀬那の舌はもつれて言葉が意味を成さなかった。瀬那
の中途半端な解釈に、肝心の自分の想いは届いていないことを知り、蛭魔は
とうとう激昂して、瀬那を怒鳴りつけた。

「こんの※三界一の大馬鹿野郎が!仙人になりてぇんじゃなくて、おめーが
俺のもんになる前にあの糞ドレッドの嫁になんぞなるから、今こんなしち面倒
くせぇことになってんだよ!!!」
「……?僕が、蛭魔さんのものになる?……それって……」
正確に三秒数えた後、ようやく真の理解を得た瀬那の顔は、ボンと音を立て
て赤くなった。

(ふーん……ちびすけはカス狐のこと意識したこと無かったのか)
眼前で繰り広げられる、俗に言う“痴情のもつれ”に、蛭魔への攻撃及び瀬那
奪還の手を暫し休め、高みの見物を決め込むつもりの阿含だったが──

「す、すみません、ごめんなさい、蛭魔さん……でも、この仙薬は婚資として
持ってきたものなんで、結婚した当事者同士、つまり僕と阿含さん以外は手
を付けてはいけないん……です……」
消え入るように小さい、だがはっきりとした拒絶だった。執着など欠片ほども
見せるものかと固くしていた意思とは裏腹に、阿含の唇の両端は吊り上がり、
三日月のような弧を描く。優越感に満ちた皮肉が何故か、口から自然とこぼ
れ出た。
「っつー訳だ。夫婦揃って嫌だっつってる以上、部外者にはお引き取り願いま
しょうかねぇ?」

瞬間的に、蛭魔の金色の瞳から、感情の熱と理性の光輝はすべて消え失せ、
暗澹たる虚無がそれらに取って代わった。しばらく瀬那を凝視した後、蛭魔は
その艶麗な紅唇から、恐らくはそれが本来の彼のものであろう、無機質且つ
絶対零度の冷たさを宿した声で、冷酷極まりない言の葉を紡ぎ出した。

「なら仕方ねえな……。瀬那、一瞬だけだから我慢してろ。あとでちゃんと反
魂術かけてやっから」
片手にありったけの「気」を込める蛭魔。彼は瓢箪を瀬那もろとも粉砕し、仙
薬の一滴を口にした後で阿含を殺して、その上で瀬那を蘇生させるつもりな
のだ。

(嫌!)
何が嫌なのか?何故そうなのか?具体的なことは瀬那自身にも分からなか
った。ただ本能的に、今、蛭魔から身をかわさなければならないと思ったのだ。
片足だけをそっと地面につけ、それと同時に渾身の力でそこを蹴り上げた。人
の形をした光の矢が、蛭魔からも阿含からも一定の距離を取る。
「「?」」
蛭魔も阿含も、ただ訝しげに瀬那を見るだけだった。

「……蛭魔さん、あなたにこの仙薬は渡せません。けれどそう言って簡単
に諦めてくれるあなたでないことは、僕もよく知っているつもりです。けれど
逆にこれさえ無くなってしまえば……」
強張った顔つきで蛭魔に言った後、続けて彼は、後ろの阿含に視線を移し
た。表情を緩め、苦笑とも泣き顔ともつかぬ微妙に崩れた顔つきで、小首
を傾げる。

「んーっと、あんまりお酒飲みすぎないで下さいね。死にはしなくとも、体に
良くないのは間違い無い訳ですから。喧嘩も程々にしといた方がいいです
よ?それと、ずっと前から※まもり姉ちゃんの所に禽獣たちからの陳情が
しょっちゅう寄せられてましたから
、一日で一つの森を狩り尽くすような狩猟
はいい加減に慎まないと、その内いくら阿含さんでも相応に罰せられますか
らね。あとは……」
こまごまとした諸注意を慌しく言い終えると、瀬那は最後にふぅと静かな溜
め息をついた。そして囁くような小声で封印解除の呪を唱えると……一息
に瓢箪の中身を飲み干したのだった。かくして冒頭の呟きに戻る。

「さよならです、阿含さん……どうかいつまでもお元気で……」
                       ・
                       ・
                       ・
仙薬を飲んだらどうなるのか、実のところ瀬那も詳しく知っている訳では
なかった。ただ、どのような事態になろうと、現状を打破するすることさえ
出来ればと思ったのだ。仙薬を飲み終えた瀬那の体は突然、ふわりと
浮き上がった。

(体が……すごく軽い?)
浮遊の高度が徐々に増してゆく。

ふわり、ふわり、ふわふわふわ……。

蛭魔からも阿含からも、どんどん遠ざかってゆく。

「てっめ、待てっつんだろがゴルァァァ!後でどうなるか分かってんだろう
な!?」
普段の阿含なら絶対に口にしないであろう、没個性的な怒号と焦慮の
表情。だがすべては無駄だった。蛭魔は蛭魔で、まさか瀬那がこれほ
ど思い切った行動を取るとは思わず、今やその双眸から暗い霧は吹き
払われ、再び感情が──ただし今度は、彼の最も忌み嫌うそれの一つ
である“狼狽”が、ゆらゆらとその中を漂い、また彼の四肢はまるで石
像のように立ち尽くすばかりだった。

ふと瀬那の視線が蛭魔にも向けられた。

――今の内に、早く逃げて下さい――

蛭魔は唇を血の出るほど噛み締めた。己の行動を後悔する気も反省す
る気もまったく無かった。だが結果として自分は“負けた”のだ。ギュッと、
今度は両方の拳を強く握り締め、長く鋭い爪を両の手のひらに食い込ま
せる。

(俺は、諦めねえからな……覚悟しとけよ、この糞チビ!)

この逞しさと不羈の才こそは、瀬那が蛭魔に対して最も憧憬と尊敬の念
を抱いた部分だった。そうして、決意を新たに蛭魔もまた天高く飛翔して
姿を消し、後には阿含だけが残された。
                       ・
                       ・
                       ・
緩慢な飛翔を何日も続けた先に瀬那が辿り着いたのは、月宮だった。
昔、まもりから聞かされた話ではここは、罪を犯した神や仙の流刑地
であるとのことだったが、それにしては誰もいない……?

瀬那はまったく知らぬことであったが、この不毛の地に流された流刑者た
ちは皆、その孤独に耐え切れず、神仙としての悠久に近い命を捨て、輪
廻の輪に再び加わることを望んでこの地を去っていったのであった。何に
生まれ変わるのか誰にも分からないというその選択は、死刑以上の極刑
と考えられていた。

そうして、今は無人と化している筈の宮から、小さな銀白色の“何か”が、
ピョコピョコと駆けてきた。瀬那の足元に辿り着いた物体は、ピョコンと
小さなお辞儀をする。それは、賢そうな眼をしたウサギだった。

「えっっっ……君は……?」
瀬那様デイラッシャイマスネ?
「どうして僕の名前を?君は誰?」
ワタクシメハコノ月宮ヲ預カリマス、イワバ看守ノヨウナ者デゴザイマス。
罪ヲ得テコノ地ヘイラシタ訳デハナイアナタ様ノコト、西王母様ヨリ、ヨク
オ世話ヲスルヨウニト申シツカッテオリマス。

「まもり姉ちゃんが?」

瀬那は玉兎(ぎょくと)という名のそのウサギから、自分が地上を離れた
すぐ後、蛭魔は無事、阿含から逃げ切れたと知って安堵したが、同時に
また、あの誇り高い蛭魔が、瑶池のまもりのもとへ、自分の保護を頼み
に行ってくれたという後日談を聞くと、複雑な思いを禁じ得なかった。

自分がもっと早く蛭魔の気持ちに気付いていれば、今回のような事態は
起こらなかったのかもしれない。慙愧の念が湧き起こるも、では自分が
蛭魔を、阿含のように「夫」として見られるかどうかと考えると、答えはや
はり「否」であった。

(不思議だな……)
己の気持ちを自覚した今でさえ、死ぬほど阿含が恋しいという訳ではない。
だが瀬那は何故だか、心にポッカリと穴が開き、そこを風が虚しく吹き抜け
てゆくような気がした。そしてそれは奇しくも、地上に残された彼の夫にも、
共通した気持ちだったのである。
                       ・
                       ・
                       ・
「あー、つまんねえの……」
瀬那が月宮へ去ってからの阿含の生活は、酒に喧嘩に女と、客観的に
見れば、瀬那が来る以前と比べてそれほど変わった訳ではなかったが、
その生活を送る当事者にとっては、前と違って酷く単調でつまらないもの
に感じられていた。

蛭魔や、まもりを始めとする天・仙界の重鎮たちのように、転生以外で、
瀬那を月宮から出す方法を求め、日々右往左往というのは、阿含の面
子が許さなかった。だがやはり正直なところ、瀬那のいない、この空虚
で退屈な生活を、阿含は明らかに持て余していた。

(クソッ、あんなちびのこといつまでも考えてんなんて俺らしくもねえ……)
認め難い未練を無理に呑み込んでしまおうとするかのように、彼は勢い
よく酒を煽った。首を仰け反らせた拍子に、柔らかな光を放つ今宵の満月
が、ふと彼の目に止まる。陽光と違い、強靭さの欠片も無い、すべてを包
み込むような優しい光の心地良さにふと惹かれ、阿含は無造作に墨鏡を
取り外した。もっとも、遮るものが無くなったところで、阿含の驚異的視力
をもってしても、真珠色に輝く月の表面にも、やや薄暗い、変形真珠にあ
るような窪みにも、あの小柄で気弱な“妻”の姿は見出せなかったが。

(何にもねえ退屈な所だっつー話だけど、あいつ何して過ごしてんだろ?)
杯を手の中で所在無さげにクルクルと回す阿含の双眸に宿っていたのは、
いつもの不敵な光ではなく、この男にしては何とも珍しい、深遠なものだっ
た。しばらくして、やおらむっくりと立ち上がった彼は、何を思ったか、月明
かりを頼りに外へ出て行った。女の所や酒場で寄り道をすることもなく、半
刻ほどして邸に帰ってきた阿含の両腕には、彼自身が食すとは到底思え
ない、果物や菓子といった甘味類が山ほど抱えられ、彼のかつての妻に
こそ、たまらなく蠱惑的に香るであろう芳香を放っていた。それらを阿含は、
適当な台を引っ張り出してきた上に無造作に積み上げ、露台に置いた。
そして自らもその前に座を占める。

「……せいぜい有難く思え、この俺がわざわざ……」
言葉にすると却ってもっと決まり悪くなったのか、彼はフンと鼻を鳴らすと、
僅かに口を開いて、低い声で何事かを囁き、手を一振りした。するとどうし
たことか、並べられた甘味類が淡く不思議な光を放ち始める。続いて阿含
はパンと両手を打ち鳴らし、忠実なる従者たちを呼んだ。

オ呼ビデ御座イマスカ?
かつて、強烈な光と熱を盾としていた彼らの計り知れない傲慢さは、彼ら
のそれを上回るものを持つ、目の前の男の存在故に、今や完全に影を潜
め、そしてまたその男に対し、彼らに絶対の忠誠を誓わせていた。

「月の──月宮の上を何周か旋回してこい」
………………………
主の謎めいた命令に金烏たちは、露台に並べられ、供物とされる術をか
けられた甘味類と、命じられた行き先から、程無くして主の真意を悟った。
彼らの今回の任務は、今は惜しくも姿無き、かつて彼らを手ずから世話し
てくれていたこともある、この邸の心優しき奥方に、これらの品々の出所
が安全なものであり、遠慮なく受け取るようにとの、送り主の意図を伝え
ることなのだ。

このように不器用な心遣いをするようになった主の姿こそ、奥方には一番
の心の慰めとなるであろうにと、金烏たちは主人夫妻双方のために残念
に思った。だが彼らは出過ぎた口出しは控え、首肯して命令を承ると同時
に、羽根の色を黒く変え──太陽の化身たる彼らが夜に月の周りを飛び
回るのは、自然の理に背くことである──、夜の闇の中へ溶けていった。
                      ・
                      ・
                      ・
「え……?」
瑶池を離れてからというもの、何度こう呟いたことか。まったく世界は新鮮
な驚きに満ちている。

その時、瀬那は休憩のため、月宮の外に出て、夜空を眺めていた。月に
来てからというもの、玉兎が細やかに世話をしてくれるので、誰かさんの
ための家事や雑用に追われる必要の無くなった瀬那は、いささか手持ち
無沙汰な状態にあった。そんな時に見つけたのが、宮の奥にあった、物
資が無限に湧き出る倉庫と、膨大な種類と冊数を誇る書庫であった。

月に住むことを余儀無くされた者たちは、基本的には外界との直接の接
触を禁じられているが、不毛の地である月世界の静寂と無聊をやり過ご
すため、物や手紙のやりとりは事実上、黙認されていた(もっとも、それ
でも転生を望む者は後を断たなかったのだが)。まもりを始め、瀬那に心
を寄せる者は今も数限りなく存在する。彼らからの心のこもった手紙や
贈り物に報いるにはどうしたらよいかと考えた挙句、思い付いたのが、倉
庫の薬種と書庫の薬学書を利用した薬作りだった。

瀬那の、こまごまとした物事を扱いなれた小さな両手と、有り余る時間は、
その方面に於いてはなかなかの腕前を見せた。玉兎を助手とし、一人と
一匹でたわい無いお喋りに興じながら、瀬那はせっせと薬を作った。彼の
誠心誠意籠った薬は大層よく効くと評判で、今では神仙たちからの頼み
だけでなく、地上の者たちからの祈りも殺到している。瀬那はそれらの願
いを快く聞き入れ、一つ一つ丁寧に薬を作り上げては、月から吹く微風に
それらを乗せ、彼らのもとへ送り届けていた。

しかしその忙しさも、ついに瀬那の心から阿含の影を消し去ることは出来
なかった。各地からの手紙により、阿含の近況を知ることは難しくなく、阿
含の生活も彼自身も以前と殆ど変わっていないことを知った瀬那は、むし
ろ安堵の溜め息を洩らしたくらいであった。自分が去ったことで意気消沈
した阿含の姿を見たいなどといった、自惚れも甚だしい馬鹿げた望みを抱
くには、瀬那はあまりにも自分を卑下し過ぎていた。

しかし、そんな単調な、だが穏やかな月宮での日々の中に、再び阿含の
従者たちの独特の羽音を耳にしようとは……。じっと闇夜に目を凝らせば、
空の漆黒に紛れてはいるものの、向こうからも敬愛を込めた柔らかな黒い
視線が18個、返されてきた。それと同時に、甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
慌てて周囲を見渡せば、いつの間にやら、瀬那の周囲は彼の好物で足
の踏み場も無いほどであった。

「あー……」
胸の中を、温かな思いが潮のように満たす。驚きはやがて、クスクスと嬉
しげな笑い声に変じた。

(僕と阿含さんって一緒に暮らすよりも、案外、一定の距離を置いた方が、
誰にとってもいろんな意味でうまくいくのかな?)
瀬那は顔に柔らかな微笑をたたえたまま、みずみずしい桃を一つ、手に
取って齧り、笑みを更に深く、幸福そうなものにした。
                      ・
                      ・
                      ・
昨晩は彼にしては珍しく、酔いつぶれてしまった阿含は、朝日の眩しさに
不快げに目を細めた。

「ムカつく……」
心身ともにその一言に支配された彼は、迎え酒でも飲もうかと、しぶしぶ
重い体を起こした。すると、空になった台の上には、幾つもの包み。傍ら
には人間の姿を取った金烏の一人(?)が、冷水の入った水差しと茶碗
を盆に載せて恭しく捧げ持ち、片膝をつき頭を垂れて控えていた。

阿含は台の上の包みと金烏の青年とを交互に見遣ると、それぞれの効能
が丸っこい文字で書かれた複数の包みの中から、迷わず“酔い醒まし”と
書かれたものを手に取り、その中から薬包を一つ摘まむと、中身の粉薬を、
従者が絶妙の間合いで差し出した冷水と共に、一気に飲み干した。

匂いも味も“効能”も、そのすべてが誰かを思い出させる、優しい桃のそれ
だった。

「甘ぇ……」
邪気も悪意も取り除かれた、滅多に見られない主の顰めっ面に、従者の
青年は両肩を微かに震わせながら、一刻も早くこのことを兄弟たちに聞か
せてやりたいと、必死で笑いを堪えていた。

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※注釈
体力と気力に限界が存在する分
…仙人や妖孼、妖精(妖孼の一つ前の段階)の能力は、修行や、
   日月など大自然の精華を浴びる事によって得られたものであり、
   個人差こそあれ、生来ある程度の神通力が備わっている天界
   の神々に比べると、体力的・精神的限界値がやや低い……と
   いう事にしておいて下さい。また、この小説の設定では、地上
   の生き物から見れば永遠の命に見えますが、神仙もいつかは
   死ぬという事になっています(無に帰すと言うべきか。各世界の
   時間の流れ方や、各自の身体構造によって個体差有り)。
三界…天界、仙界、人界。転じてこの世、全世界を指す。
禽獣の陳情…西王母は大地の守護者でもある。

嫦娥奔月 (前編)

2006年10月06日 | 阿含×瀬那
「阿含さん、元気かな……?」

普段は月宮に籠って薬作りに専念している瀬那だが、毎年の中秋には必ず外
に出て、地上を眺める。陰暦八月十五日の夜、地上から見える満月が普段より
も殊更に明るく、美しく輝くのは、そこに住まう唯一の住人が、地上に残してきた
かつての夫と心を通い合わせられる嬉しさに、顔を綻ばせる日だからである。

「さよならです、阿含さん……どうかいつまでもお元気で……」
「おいっっっ、待てよ……待てっつってんだろっ……!」

あれほど焦った顔の阿含を見たのは初めてだった。
瀬那は思い出し、クスリと小さく笑う。
決して良い夫ではなかった。その強弓をもった蛮勇は※三界の隅々にまで余す
所無く轟き、また本人の自信も大層なもので、「横暴」という言葉を具象化したよ
うな男だった。大酒飲みで女癖も悪く、気に入らないことは何でも暴力で解決し、
あちこちで諍いを起こしては血の臭いを体中にこびりつかせて──
だがそれでも最後には必ず、いつも、自分のもとに帰ってきてくれた。

「おー、ちびすけー、今帰ったぞー」
「ちびすけって、僕には瀬那っていうちゃんとした名前があるんですからそう呼ん
で下さいって何度言ったら……ってうわっ、お酒くさっっっ!」

阿含は不思議なことに、どれほど飲んでも酔ったとしても、酒に溺れて自分を見
失うことは無かった。むしろ飲んでいる時の方が、普段よりも機嫌がよいくらいで、
介抱しようとする瀬那をそのまま抱き上げて胡坐をかいた上に座らせ、楽しそう
にその日の武勇伝(?)を瀬那に語って聞かせたりした。話が一段落ついた後の、
強姦まがいの乱暴な愛撫にはいつまで経っても慣れなかったが、大きな子ども
のように振る舞う時の阿含が、瀬那は決して嫌いではなく、眠る夫の逞しい二の
腕と胸板の檻の中からそっと手を伸ばし、蛇のように奇怪な髪の一房を弄くるの
も、実は密かな楽しみだった。
                        ・
                        ・
                        ・
そんな彼も、※玉帝から、阿含に嫁げとの命令を受けた当初は、やはり卒倒する
ほど驚いた。

当時、天空には10個の太陽が沈むこともなく輝き続け、大地は干上がるどころか
所々焼け焦げるという異常事態にあった。あわや地上とそこに住まう者たちが消
滅寸前というその時──

「チッ、面倒くせえったらありゃしねえ……しかもこのクソ暑さ……おい、テメーら
誰の許しで勝手してやがる、あ゛ぁ?マジうぜぇ……」

と、9個の太陽を続けざまに射落とした英雄こそ、阿含であった。もっとも、彼自身
には、地上を救おうなどといった気高い志はこれっぽっちも無く、癪ではあるがこの
世で唯一、自分が敵わぬであろうと認める玉帝に静かな、しかし決して有無を言
わせぬ口調で太陽の征伐を命じられたが故の、しぶしぶながらの行動であった。
意に染まぬ命令に従わねばならない屈辱と、汗の止まらぬ不快な暑苦しさで、阿
含の不機嫌はまさに絶頂にあった。躊躇うことなく10個の太陽すべてを射殺しよ
うとしていたのを、阿含の双子の兄にして玉帝の首席秘書官たる文曲星・雲水は、
それこそ命懸けで説得したという──この世に一つも太陽が無くなってしまえば、
それはそれでまた大問題だった。

そんな阿含に無償奉仕などさせて、機嫌を損ねたままでおくのは将来に禍根を
残すことにもなろうと、この世の森羅万象を統べる、長い白髭の飄々とした老爺
は、太陽征伐の褒美として阿含に、※西王母まもりの持つ不老長寿の妙薬──
彼女の果樹園でしか育たない上、結実は三千年に一度という貴重な桃の実を
惜しげもなく使って錬成された貴重薬であり、神仙がこれを口にすれば長い寿命
は更に延びる上に※功夫向上、地上の者が口にすればたちまち仙人になれると
言われている──を与え、また彼女が特に可愛がって目をかけており、男子禁制
※瑶池でも特例として側仕えを務めさせている※仙童・瀬那を阿含に娶わせる
ことにした。

仙薬はともかく、龍陽(男色)の趣味がある訳でもない阿含に瀬那をとは、一体
どのような思召しなのかと誰もが訝しんだが、天意は果たして量り難かった。

瀬那の第一の保護者を自任する西王母まもりは、その臈たけた美しい顔を険しく
引き攣らせ、すべての仙女たちを統轄する仙界最高位の女性に相応しい、威厳と
気品に満ちた普段の物腰をかなぐり捨てて、可愛い瀬那を阿含のような者には
やれぬと、玉帝に食ってかかった。しかし既に天命は下された後とあって、※綸言
は取り消せよう筈もなく、意気消沈して瑶池の大斗闕(宮殿)に戻ってきたまもり
を、逆に瀬那が慰める始末だった。

「大丈夫だよ、まもり姉ちゃん。こう見えても僕だって一応、男な訳だし……嫁に
っていうのは多分、下僕じゃあんまりにも外聞が悪いからっていう、陛下のご配慮
だよ、きっと」
姉とも慕う優しい仙女をこれ以上悲しませまいと努める瀬那に、まもりは潤んでも
なお美しい、慈愛の籠った眼差しを向けた。
「瀬那……あぁ、不甲斐ない私を許して……!」
泣き崩れるまもりの背をさする内、自分自身の驚愕や恐怖よりも、まもりを如何に
して落ち着かせるかということの方に気を取られるようになってしまい、しまいには
熱意すらもってまもりを説得し、自ら積極的に嫁入り支度(?)を整えていた、当時
の自分の、興奮とも言えるような奇妙な心情を思い出し、瀬那は再び苦笑した。
                        ・
                        ・
                        ・
太陽征伐のために地上に下りて以来、天界のように格式に縛られることなく、
かの世界よりも遥かに単純で自由な人界の生活を気に入ってしまった阿含は、
なかなか天界に戻ろうとはせず、人間たちが彼のために、感謝の念を込めて
建ててくれた邸で気ままに暮らしていた。

「ふーん……お前がジジィの言ってた奴か」
「はい、あの……瀬那といいます。どうぞ宜しく……」
深々とお辞儀をする瀬那に対し、阿含はあまり興味の無い様子だった。自分に
は興味を示さずともこれにならと、貴重な仙薬を見せても、一瞥をくれただけで、
「とりあえず蔵にでもしまっとけ」と言われたきりだった。

(とんでもなく怖い人って聞いてたけど……)
「んじゃ行くぞ」
「え、え、え……はい???」
しかし、瀬那の「夫」となった、目の前にいる屈強な男は、新妻(?)の困惑など
まったく意に介さず、どんどん歩き出した。瀬那も慌てて彼の後を追う。程無くし
て辿り着いた広大な森で、阿含が瀬那に命じたのは、猟犬の代わりを務めるこ
とだった。

ヒュン!ヒュン!ヒュン!

読んで字の如く、矢継ぎ早に死の矢が放たれる。瑶池の清浄な環境に慣れて
いた瀬那にとって、血の臭いや動物達の悲鳴は決して心地良いものではなかっ
たが、これも「旦那様」のご命令と我慢して、その俊足を活かして獲物を探し、阿
含が射落としてゆくそれらを片っ端から拾い集めてゆく。表情こそ墨鏡(サングラ
ス)の効果でぼかされていたが、阿含も初めて目にする瀬那の脚力には内心、
舌を巻いていた。

「こりゃいい」

満足そうに笑うと、彼はいつもよりペースを上げて獲物を狩り始めた。阿含に射落
とされた九つの太陽たちの原形であり、今では彼の忠実な奴隷となっている、金
色に輝く羽根を持つ三本足の烏、金烏(きんう)たちの飛翔速度も相当なもので、
彼らを伴った鷹狩り形式の狩りもそれなりに楽しめたが、瀬那の速さは地を這うも
のであるにもかかわらず、金烏たち以上のものであり、楽しくない筈が無かった。
加えて、神々の中でも優れて鋭敏な五感を持つ彼は、どれほど遠くからでも生き
物の恐怖感や断末魔の悲鳴、そして血の臭いを感じ取ることが出来る。射殺され
た獲物の傍で震え、怯える瀬那の気配は、殺した獲物のそれ以上に、阿含の嗜
虐欲を心地良く刺激し、その体内の血を沸騰させた。
                        ・
                        ・
                        ・
(あの何かと真面目ぶった小うるせぇ西王母のお気に入りだっつう話だったから、
どうせつまんねぇ奴が来んだろとか思ってたけど、こりゃ当分の暇潰しにはなるな。
足もそこそこに速ぇし、使えるパシリが一匹増えたってとこか。それにウドの大木
みてえにやたらでかくて目障りな竜王一族や、あのちびすけと幼馴染とかいう、白
髪の小生意気な※風伯のガキの嫉妬に歪みまくった顔、いつも仏頂面でお堅い
※托塔天王の殺人眼光、頭ん中半分以上イカレてる赤目の※二郎真君が、デコ
のも含めて三つ目全部、白目んとこまで充血させたキモ顔と狂ったみたいに掻き
鳴らしてる琵琶の騒音は精神的公害だが……。そーいや雲水まで渋い顔してた
のは意外だったな。クズどものあんな顔見れただけでも、ちびすけが俺んとこ来た
甲斐があるってもんだぜ。それに……)

阿含は堪え切れないと言わんばかりにクククと忍び笑いを洩らした。

(何つっても一番愉快だったのは、昔から気にくわねえあの金毛白面九尾のカス
狐の、煮えたぎったみてぇなアホ面だ!)

ゴキゴキと首を鳴らし、両腕を伸ばしながら大きな欠伸を一つ。

(ああ、そういや何でかよく分かんねぇけど、ちびが来てからすげぇ気分よく眠れ
るようにもなったな)
                        ・
                        ・
                        ・
その日も、瀬那は早朝から大忙しだった。したたかに痛む腰をさすりながら(女に
いささか食傷気味だった阿含には、初々しい少年の瀬那が新鮮に映るらしい)、
あまり音を立てないように昨夜の残滓を湯殿で洗い流した後は、阿含の酒の熟成
具合の確認から始まり、金烏達への餌やり、弓矢や革靴の手入れ、阿含の着替
えを用意して朝餉の支度と、彼はそれこそ独楽鼠のようにクルクルと働いていた。
と、その時、微かに感じた、覚えのある波動。

「え……蛭魔さん?」
振り返った時には既に、禍々しい笑顔を浮かべた妖麗な白い顔が、瀬那の目線
に合わされていた。
「よう、糞チビ」

蛭魔は千年を越す修行を経て、その凶悪性さえ無ければ、※昇仙も夢ではない
と目される、強大な妖力を持つ狐の※妖孼(ようげつ)である。ある時、人界にし
か生えぬ薬草の採取に瀬那がまもりからお使いを頼まれ、訪れた森が偶然、運
が悪かったというべきか、その日、蛭魔に制圧された直後だった。

冷酷無慈悲と悪名高い妖狐を前にして、震えおののくばかりの瀬那だったが──
瀬那は仙術の会得には殆ど才能を示さなかったため、両足の※仙人骨故の俊
足を除いては、人間と殆ど変わらぬ非力さだった──、意外にも蛭魔は微かに
両目を眇めただけで、瀬那の目的を知った後には何故か、親切にも彼が探し求
める薬草の在処を教えてくれ、そしてすぐに姿を消した。

以来、瀬那がお使いや観光目的で人界に下りる度、蛭魔は彼の前にふらりと姿
を現しては、何くれとなく世話を焼いてくれたのだった。彼の乱暴な言動に、初め
はいつもビクビクとしていた瀬那も、次第にそのぶっきらぼうな優しさに「蛭魔さん、
蛭魔さん」と懐くようになり、互いが互いに抱く気持ちの種類が異なるのだけが蛭
魔にとっては不満の種であったが、それでも二人の関係はなかなかに良好なも
のだった。

瀬那と蛭魔の交友を知ったまもりは初めこそ、「とんでもないことだわ!」と、その
柳眉と普段は柔らかな線を描く眦を急角度につり上げたが、瀬那が人界に降りる
時、「天に阿含、地に蛭魔」とまで言われる、地上を代表する邪悪の化身が同行
すると、瀬那が危険に遭遇する確率が限りなくゼロに近くなり、遭ったとしても速
攻で蛭魔がその危険を「排除」してくれることに気付くと、しぶしぶながらも彼ら二
人の交友を黙認するようになった。何といってもまもりは多忙を極める身であり、
一日のすべてを瀬那に付きっ切りという訳にはゆかなかったからである。

阿含に嫁いでからの瀬那は何かと忙しく、蛭魔ともとんとご無沙汰だった。何故
今になって突然……?若干、疑問に思わないでもなかったが、久々に蛭魔に会え
た喜びはあまりにも大きく、瀬那の本来、その非力さ故に人一倍鋭い筈の危機回
避能力を鈍らせた。

「お久し振りです、蛭魔さん!いつこちらに?この辺りに何かご用でも?前もって
連絡してくれれば……」
「俺が来たいと思ったから来たんだ、テメーがあれこれ気を回す必要はねぇ。とこ
ろで瀬那……」
「はい?」

瀬那は今更ながら気付いた。いつもは自分を「糞チビ」としか呼ばない蛭魔が、
今日は自分を「瀬那」と呼んでいることに。違和感を覚えた時にはもう遅く、瀬
那は妖しく輝く蛭魔の、最大限の妖力が込められた両瞳に真正面から囚われ
ていた。その多くが美貌をもって知られる妖狐族、それも蛭魔ほどの大妖狐に、
誘惑の意志を含んだ眼差しで見つめられたらどうなるか──

「糞西王母の仙薬持って来い。テメーは俺と昇仙すんだ」
霞のかかった意識の下で、瀬那は僅かに首を傾げる。

「でも、阿含さん……が……」

一言だけ呟きを残し、瀬那の意識だけが闇に沈んだ。
                        ・
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「ちび、おいちびすけ、どこ行きやがった!?」
いつもなら自分の逆鱗に触れない、適当な頃合を見計らって起こしに来る筈の
瀬那が、今朝に限っていつまで経っても来ないことを訝しく思い、阿含は不機嫌
そうに邸内を、柄にも無く急いた足取りで探し回る。最後に辿り着いた蔵の中か
ら、瀬那が婚資として持ってきた仙薬が消えており、代わりに床に数本落ちてい
た、陽光に燦然と輝く黄金の毛髪を見た時、阿含の中の何かが音を立てて切れ
た。

「俺のものを断りも無く勝手にかっぱらってくたぁ……上等じゃねーか……」
瞋恚の焔が阿含の身を取り巻き、壁に打ちつけた拳は一撃でそこに大きな穴を
穿った。
                        ・
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                        ・
一方、こちらは蛭魔。首尾よく瀬那と仙薬の両方を手に入れ、千里を飛翔した
先にある、強力な結界を施した己のねぐらへ戻ったまではよかったが、仙薬の
入った瓢箪に、まもりの強力な封印が施してあったのはとんだ誤算だった。恐
らくは、阿含にそう簡単に薬を飲ませてなるものかという、まもりのささやかな
意趣返しであろう。瀬那に聞けば開け方はすぐにでも分かるだろうが、誘惑の
術を解いて彼を正気に戻せば、厄介なことになる。蛭魔がチッと舌打ちをした
ところで、急に辺りの空気がピリピリしだし、木の葉が次々と地面に落ちていっ
た。

「まさかこうも簡単に俺の結界破るとはな……あんの糞ドレッド……」
蛭魔は忌々しそうに顔を顰めた。頭脳戦でならともかく、力技ではさすがの蛭
魔も阿含には叶わない。得意の術を使っても、神々の中でも抜きん出て強大
な阿含の肉体及び精神に、果たしてどれほどの影響が及ぼせるだろう。

蛭魔がギリ……と薄い唇を噛んだその時──

ヒュン!

地上に於いてはあり得ない速さの何かが、蛭魔の滑らかな頬を掠めた。
チリリとした微かな痛みを伴い、白磁の頬に鮮紅が、一筋の線を描く。

「お次はどこがイイ?どこでもお望み次第だぜぇ?」
酷薄な笑みをたたえた口元に、歌うように楽しげな声。だが、墨鏡
の奥に
隠された双眸の中では、間違いなく溶岩が湧き立っていることだろう。

「ふん、てめーが糞チビみてぇなのに執着するとは意外だったな」
阿含をわざと挑発する蛭魔。少しでも長く時間を稼がなければらない。阿
含が本気を出せばおしまいなのだ。

「俺のもんを俺以外の奴に勝手に持ってかれんのがムカツクだけだ。オラ、
とっととちび返せや」
「嫌だね」
「あ゛?」
「糞チビを返そうが返すまいがオメーが俺を見逃すわきゃねえ。犬死はごめ
んだ」
「なるほど、ちげえねえ」
阿含は声を立ててゲラゲラと笑った。

「っつー訳で」
「おう」
阿含が再び矢を弓につがえた。蛭魔は瀬那を片手に抱き、空いた方の手の
ひらに妖力を込める。

「「始めっか」」
                                     
                                    (後編へ続く)
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※注釈
三界…天界、仙界、人界。転じてこの世、全世界を指す。
玉帝…道教などに代表される中国の神仙思想に於いて、天界の最高
         神とされる。玉皇上帝(玉皇大帝)。
西王母…やはり中国の神仙思想、古代神話に登場する有名な女神。
           中国西方の崑崙山に住み、すべての仙女を統轄する役目を
           負う。玉帝の妻という説も有り。
功夫…仙術の腕前、神通力の程度など。
瑶池…西王母の宮殿が建つ(或いはその傍にある)、玉のように美し
         い湖。
仙童…仙人・仙女に使える子ども。
綸言…君主が臣下に対して言う言葉。権威重きものであるが故に撤
         回することは難しく、“綸言汗の如し”で有名。
風伯…風の神。
托塔天王…仏教でいう毘沙門天。甲冑を身にまとい、両手にそれぞれ
              宝塔と矛(または宝棒)を持つ。道教では軍神と捉えられて
              いる事が多い。
二郎神君…玉帝の甥。三叉の矛を持ち、鷹と犬を供にした、額に第三
              の眼を持つ美しい青年の姿で想像されることが多い。
昇仙…仙界に於いて正式に仙人として認知されること。
妖孼…現代日本語、現代中国語では不吉の兆し、魔物、悪党などを
         意味するが、ここでは仙人になる一歩手前の、人外の存在を
         指す。原形が動植物、鉱物、気体など。
仙人骨…凡人には無い、仙人になれるかどうかを決める骨。