心が疼く。
甘く、妖しく、残酷に。
とても、幸せだった。
彼に会えて、良かったと思う。
穏やかな陽だまりのような日々が、いつまでも続いてほしかった。
でも──良過ぎるとやっぱ、ロクなことがねぇ。
意識が“あれ”に、完全に搦め捕られてしまう前に、一つだけ。
君に、心からの謝罪を。
どうか許してほしい。
君を──
「 」
・
・
・
「な~るほど、そういうことだったんだ……」
寝惚け眼の幼主の身支度を、深窓の育ちと俄かには信じられない、まるで
生まれつきの奉仕者のような手際の良さで、すべて整えてやり──侍女た
ちは当然のことながら、「お方さまの御手を煩わせずとも……!」と慌てて
主を止めたが、「おたくらの念入りさじゃ、蛭魔局御自らが痺れを切らして怒
鳴り込んでくるよ?」という、苦笑気味の御方に至極ごもっともな一言を返さ
れた途端、彼女らの動きは凍り付き、まったく使い物にならなくなってしまっ
た──、「せーなくん、朝だよ起きて~? あと半刻で※朝の総触れだよ~
?」と、切羽詰った状況には何とも相応しくない、のんびりとしたセリフと共に
己の局部屋から送り出した後(本来ならばこの一言ですぐ、瀬那は完全に目
を覚ますのだが、慌てている時の彼は却ってドジを踏みやすく、要領も悪くな
るので、キッドはわざと瀬那を半睡の状態のままにしておいて、自分が代わり
に支度をしてやり、それが終わったところで初めて、彼を“起こす”のである)。
「何か頭痛いんで今朝の総触れ欠席します」と、蛭魔局に使いをやって病欠
(?)を申請し、さわやかな秋晴れの空の下、部屋の縁側で茶を啜りながら
キッドは、乳兄弟であり、大奥入りに際してもその条件の一つとして、特に自
分付きの※お広敷侍(おひろしきざむらい)とさせた鉄馬から、昨日の午前か
ら夕方──即ち、瀬那が自分の部屋に来るまでの間に起きた一連の騒動に
ついて、調査報告を受けていた。
「……ということだ……だが……深入りはしない方が、賢明だ……」
鉄馬が自分の意見を口にするのは珍しい。もともと口数少ないのに加え、
その重厚で、しかも今日は意図的に低められた声は、念仏のように聞き
取りづらく、慣れたキッド以外の者にはまるで不明瞭だった。しかしそれで
あるからこそ、どこかに必ず潜んでいるであろう、蛭魔の息のかかった者
による盗み聞きも、警戒する必要が無かった。
「ん、分かってる。下手に口出して却ってこじれたら面倒だもんね」
本心を言えば、何とかしてやりたかった。だが同時にまた、どうにもならない
ということもまた、長年の経験と、そして近頃になってようやく気付いた事々
から、分かっていた。
「皆……辛いんだね……」
風に乗って、前栽の小さな木の葉が一片、キッドの湯呑みの中に舞い落ちる。
それを取り除くでもなく静かに見つめながら彼は、ポツリと呟いたのだった。
・
・
・
所詮は他人事と、冷酷というのとは違うが、どこか突き放したように淡々と
した態度の主に鉄馬は、御身自身にもいずれ何らかの形で影響を及ぼす
やもしれぬことなのだから、もっと身を入れて聞いてほしいものだと、小さく
溜め息をついた。
確かに、本人は決して認めたがらないが、後宮や大奥のような、権力と陰
謀の腐臭渦巻く伏魔殿に於ける身の処し方については、学問から得た知
識や教養だけでなく、生来の鋭い勘によるところもあって、キッド(紫苑)は
万事、そつが無い。だがそれでも鉄馬は、漠然とした不安を感じていた。
ある時期を境に、何事にも必要以上の興味と感情を示さなくなってしまった、
生涯の主にして大切な親友。その端正な顔がまだ憂愁の翳りを知らなかっ
た、※書始(ふみはじめ)の前にまで遡る遠い昔。一使用人の子に過ぎぬ己
が若君と、無邪気に様々な遊び事に興じることが許されていたあの頃には、
彼に確かに存在していた明るい生気が、ほんの少しずつではあるが、着実
に戻り始めた今日この頃。本当なら自分も、それを素直に一緒に喜んでやり
たかった。
キッドが“瀬那君”と呼ぶあの少年は、人間のありとあらゆる負の感情が澱
を成す、この泥沼のような世界にあって、不思議なほど穢れていない、白い
蓮のような存在だ。優しい、とても良い子だと思う。だが皮肉なことに、その
魂の稀有な清らかさほど、この大奥に似つかわしくないものもまた無い。主
に報告した今回の件といい、このままではいずれ……。
鉄馬はキッドにも分からないほどの微妙な角度で、眉を顰めた。
(我が主は将軍に非ず。キッドが──紫苑が、この静謐な陽だまりから引き
ずり出されそうになるのであれば、その時は……非情だが、あの小さな彼を
──)
数多の憂苦を経た末、ぼんやりとした中にも意外としたたかな一面を持つよ
うになり、けれどその実やはり、硝子細工の脆さをも孕み続けている主の神
経構造は、彼が物心ついた時には既にその傍らに控えており、現在に至る
まで最も忠実な腹心にして、最良の友の見るところ、強靭な鋼鉄線と繊細な
銀糸を縒り合わせて作られた、複雑極まりないものである。そんな主とあの
無垢な幼将軍の取合せは、道を一歩踏み外せば奈落というこの大奥に於い
ては、非常に危険であると言わざるを得ない。
そしてもう一つ。ここに住んでいる者たちには空気と同意義、故に意識すること
も無いのだろうが、大奥と外界の合法的な接点・お広敷で働く鉄馬には分かる。
京の後宮もそうであったように、脂粉の匂い甘やかにして綺羅のはびこる奥御
殿という場所には、人の心を歪ませる、何か瘴気のようなものが、常に漂ってい
る。まがりなりにも“官”として身を置き、いよいよそれが難しくなった時には、宿
下がりを口実に、後宮を出たその足で、そのまま行方をくらますことの出来た禁
裏と違い、“側室”として入ったこの大奥では、目の前のキッド(紫苑)ですら果た
して、いつまで正気を保っていられるだろう? しかも今回は、彼が既に将軍の
寵を受けてしまっている以上、主に注目する視線は、あの抜け目の無いお取締
を始めとして、前回よりも更に多く、華麗な迷宮からの脱出は絶対に不可能なの
である。
実際、鉄馬の危惧している通り、暗雲は既に垂れ籠め始めていた。
・
・
・
観楓の宴から数日後。紫苑の方は改めて、大奥入りを果たした挨拶をしに、
手土産を携えてお付きの者たちと共に、側室や高職者たちの住む、広々と
した一の側長局の各部屋を回った。勿論、瀬那の訪れを待つだけの普段と
違って、先日の宴に引き続き、その出立ち非の打ち所無く整えられた上で
の訪問である。
何事も見逃さない、智謀に富んだ鋭い金眼(きんめ)を持つお取締・蛭魔局
からは、大奥法度と側室の諸事心得を言い聞かされ、また給与の沙汰と、
卑猥な言葉の羅列による激励というか、煽動を受けた(実際、蛭魔の表現
のあまりの露骨さ・過激さに、キッドは危うく、もてなしの茶菓を噴き出すと
ころだった)。
たとえ筆頭側室の地位を奪われたとて、その漆黒の瞳の高潔さはいささかも
損なわれていない進典侍は(紫苑の方は堂上出なので、先任者の進典侍を
飛び越え、公家出身者にのみ許される上臈側室の地位を与えられており、そ
の高位故に、未だ御子を上げていないにもかかわらず、“お部屋様”と仰がれ
ていた)、紫苑の方の来訪に対し、丁重な挨拶と立派な返礼の品をもって返し
てきた。“文武両道”という四字熟語が、まさに人の形を取ったかのようなこの
先任側室の、言わば敵手である自分の訪問にも、決して取り乱すことなくきち
んと礼に適った、かと言って慇懃無礼という訳でもない見事な応対にキッドは、
先日の宴での幸若の腕前といい、その装いや返礼品の質実でありながら、さ
り気ない趣味の良さといい、相手が※“御内証の方”(ごないしょうのかた)に
選ばれたのも道理と、改めて舌を巻く思いだった。
続いて訪れたのは、そのあまりの広さと青畳の鮮やかな色合い故に、大海
かと見紛うような大きな座敷だった。
その部屋には二人の住人が同居していた。御子を未だ上げず、また進典侍
のように特殊な地位と立場にある訳でもなく、そもそも筋目からして、かの御
方とは差が有り過ぎる御手付き中臈たちが、個室に住むことは大奥の制度
上、許されておらず、二人は蛭魔の監督の下、相部屋を余儀無くされていた。
しかしさすがに両者の、標準を遥かに上回って堂々たる体躯に配慮してか、
大奥中臈の通常の相部屋と比べればこの二人の住居は、居間として使われ
ている、先述の広々とした、庭に面して日当たりの良い縁座敷を始め、寝間
(ここだけは当然のことながら別々である)、書斎、用途様々のお小座敷数部
屋、また衣裳部屋や※お仕舞所、湯殿に厠、物置に加え、大きな※旦那さま
方の御用を滞り無く務めるために集められた、これまた大柄なお半下たちの
※溜りなど、殆ど独立した一軒の住居と呼んで差し支え無かった。
先日の宴での凛々しい直垂裃姿とは打って変わって、涼秋とはいえ晴天の日
中、それも気ままな自由時間ということでお掻取は羽織らず、山吹地に八角形
を基本とした連続幾何模様が織り出された※蜀錦(しょっきん)の小袖だけを身
につけ、左右側頭部のやや上辺りで二つに分けて束ねられた豊かな金髪のそ
れぞれの結び目に、※虎目石をドングリの実に模して飾り付けた、一種の※花
櫛を挿した水町は、西の都から鳴物入りでやって来た新入り側室の気品に満
ちた姿が視界に入った途端、大好きな上様からお世話を任された白黒斑の猫、
白い※毛長鼬(ケナガイタチ)と一緒に遊んでいたそれまでの上機嫌な笑顔を
一変させ、眉を急角度に吊り上げた。二匹の愛玩動物をギュッと胸に抱き締め、
拗ねた子どものように両頬をプゥと膨らました水町は、唇を尖らせながら、ずばり
言い切った。
「俺、あんたのこと嫌い。あんたが来てから俺が瀬那と過ごす時間、すげー
減った。前なら夕方の自由時間は瀬那、いっつも俺と一緒に過ごしてくれて
たのに!」
キッドを真っ直ぐに睨み付ける、ついさっきまでは仔犬のそれのように無邪
気に輝いていた、榛(はしばみ)の柔らかな薄茶色をした双眸には今や、純
粋過ぎる悲哀と怒りが満ち溢れていた。化粧気の無いさっぱりとした、相手
の健康美溢れる容姿に加え、事実このところ、瀬那が自分の部屋ばかり訪
れてくれていること──とは言っても、体裁を取り繕うため、時折ハタと思い
出したかのように臥所を共にする以外は、一緒にお喋りをしたり、菓子を食べ
たり、キッドの得意な手芸を瀬那が教わったりと、彼らの交流は至って健全
で微笑ましいものばかりなのだが──を、嬉しく思い、且つ心待ちにするよう
になりながらも、だからこそ同時にまた他の局部屋に対し、少々の後ろめた
さを感じ始めていた現在のキッドには、水町の率直さはたとえ側室お心得の
一つ、“上様のお側に侍る者同士、いささかの嫉妬の念も起こすまじきこと”
に違反していようとも、それは血の通った人間であれば当然のことと、宮仕え
をしていた頃のように、その情念を厭わしく煩わしいものと捉えることは最早、
出来なかった。
「あ~、そりゃまたどうも……スンマセン」
「!!!」
目下の者たちや物への八つ当たりなどといった、理不尽なことを好まぬ元来
のサバサバとした気質上、やり場の無い怒りをうまく発散出来ず、日に日に
募る苛立ちをそれでも必死に堪えていたところへ、キッドのこの、のほほんと
した対応(水町にはそう感じられた)は、却って逆効果だった。何か言い返し
たくとも、相手との間に立ちはだかる大きな身分の壁に、悔しさの余り、目尻
に微かに滲み始めたものを見られまいと、水町は顔を伏せてサッと立ち上が
り、くるりと体の向きを己の寝間の方向へと転換させると、猫と鼬を抱き締め
たまま、足音も荒くドスドスと縁座敷を出て行った。
(やば、失敗……嫌味の一つもかまして俺のこと完全に憎ませたげた方が良
かったか……)
己の迂闊さに嘆息し、今日は※髢(かもじ)まで足してきっちりと結ばれた髪
の中に、思わず手を突っ込んで掻き回しそうになってしまったキッドと同時に、
同居人の後姿を見送りながら、必然的に一人で、名実共に第一のお部屋様
の応接をしなければならなくなったもう一人の中臈──こちらは※縹(はなだ)
に金糸で、天に向かってすっくと伸びる豊かな稲穂を刺繍したお掻取と、綸子
の※間白(あいじろ)をきちんと着込んだ上に、※銀襴繻子(ぎんらんしゅす)
地の半幅帯をキリリと前横に結び下げ、すっきりとした姿の筧もまた、大きな
溜め息をついた。
「誠に合い申し訳御座いませぬ……水町の無礼、何卒ご容赦下さりませ、
紫苑の方さま。あれの相部屋の者としてこの筧、代わりに謝罪させて頂き
まする」
地位の上下に加え、紫苑の方の方が年長ということもあり、筧は両手の三つ
指を畳について深々と、濃紺の髪つややかな頭を下げた。海が育んだものよ
りも小粒な淡水真珠を幾つも連ね、米粒に見立てた簪の、真珠が互いに擦れ
合う、玲瓏として涼やかな音が微かに鳴り響く。
「いえ、こちらこそ年甲斐も無く由無きことを……どうぞ、お顔とお手をお上げ
下さいますよう。大奥にてはあなた様方の方にこそ一日の長がお有りです。
こなたへの御遠慮など無用のこと……ってか……あ~、あの、こーゆーまど
ろっこしい遣り取り、もうやめません? 水町君の様子から察するに、おたくら
も瀬那君から、普段は気楽にって言われてんでしょ?」
目上の御方の突然の砕けた口調に、伏した中臈の畏まって縮められていた
両肩は一度、ピクリと揺れた後、緩やかに力を抜いていった。そしてゆっくり
と体を起こす筧。紫苑の方が部屋を訪れる前の、端然と正座した姿に戻った
全身からは、本来の幅広さを取り戻した両肩を中心として、あの進典侍に勝
るとも劣らぬ、堂々とした風格が漂っていた。
「ああ、まあな。こっちとしてもその方が有難い。改めて名乗らせてもらう、筧だ」
「局名は紫苑の方って言うらしいけど、そんな大仰な呼び方してたら疲れちゃう
だろうから、俺のことはキッドって呼んでね。あ、これつまらないもんですけど」
「ご丁寧にどうも……」
キッドから差し出された手土産の白羽二重の反物を受け取り、一応は礼を述べ
る筧。しかし、水町のようにあからさまでこそなかったが、キッドの鋭敏な心眼
は確かに、筧の深い、紺碧の海の色をたたえた瞳の中にも勢いよく燃え上がる、
水町の瞳にあったのと同質の、ただし色は異なる蒼い炎を、ハッキリと知覚して
いた。
「なるほど、おたくが筧君ね……何でも蘭語だけじゃなくてエゲレス語の読み書
きまで出来んだって? 瀬那君がす~ごく興奮しながら話してくれたよ」
一瞬だけ、筧の鋭すぎる視線はふっと嬉しそうに和らいだ。
「瀬那君が……そうか」
(おや、まあ……これはこれは……)
キッドの興味深げな表情に気付いた筧は途端、慌てて表情を取り繕ったが、
バツの悪さは如何ともしがたかったようで、それきり素っ気無く、「用が済ん
だのならもう帰ってもらえねぇか? 俺、書見の邪魔とかされんの好きじゃ
ねえから……」と、キッドが来るまで読んでいた本に目線を戻すと、最早チラ
とも彼の方を見ようとはしなかった。キッドもその気持ちを察し、敢えて詮索
するような真似はせず、サラリとその場を後にしたのだった。
・
・
・
そして最後。この御方に会うのが、その日のキッドの最大の目的だった。
大奥からはかなり離れた山里の丸におわす、美貌、才智、そして宮家の
血筋と、玉に瑕一つ無い、だが謎多き貴人。あの心優しい小さな天下人
の隣に、望めばいついかなる時も寄り添うていられる、この世で唯一にし
て正当な権利──先程会ってきた中臈二人は恐らく、喉から手が出るほ
ど欲しているのであろうそれを、塵芥を払い去るが如く簡単に放棄したと
言われる、美しき御台所。
鉄馬からの報告、そして何故か不思議なほど京の事情に明るく、共に興じ
る西の都の遊び事も、その腕前はともかくとして、基本はおおよそ知ってい
る瀬那が、時折見せる切なげな表情をそれとなく観察することで、今ではキ
ッドにも、自分が江戸へ下る前後の大奥の、複雑な人間関係がほぼ、完全
に呑み込めていた。
「代わり……なのかな? ま、別にいいけどね」
自分自身ではそれを己の心情と疑っていない、淡々とした呟きとは対照的
に、キッドの、およそ激情というものを宿したことの無さそうな双眸が、心持
ち眇められたのは果たして、申の刻(午後4時頃)を回り、赤みを増してきた
夕日の眩しさのせいだけであったろうか。
・
・
・
柔らかな※石竹色(せきちくいろ)の地に、金と緑を主体にした孔雀の羽根
模様が、目にも彩な京友禅。強い陽射しは苦手とかで、西日が差し込む今
の時刻、舶来品の日除け眼鏡をかけた御台所は、螺鈿細工の施された美
しい琵琶の調律に精を出しておられた。
「ようこそ、武者小路の……」
(後編②へ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※注釈
朝の総触れ…
代々の日課と定められている御仏間拝礼、また大奥居住の母親・御台
所・側室・子どもや孫といった家族たちとの朝の対面や、お取締を始めと
する高職者たちから奥向きに関する諸報告を聞くため、将軍は毎朝定刻
に、“中奥から”お鈴口に入り、お鈴廊下を通って大奥へやってくる。たと
え大奥泊まりの翌朝であっても、必ず一旦は中奥に戻り、入浴、身支度、
朝食、健康診断などを済ませた上で、改めて来ないといけない(ただし
幼少、病弱、好色などの理由で大奥にいる時間の方が長かった者は別)。
なので当然、キッドさんにお着替え(笑)させてもらってる瀬那将軍の朝
の風景は、“捏造”です。
お広敷侍…
お広敷は大奥の諸事務を取り扱い、また大奥に出入りする人間や品々を
検察して、非常事態を警戒する役目も負う場所。そこに勤務する役人の事
をお広敷侍と呼ぶ。
書始…
皇族・公家の男子が初めて漢籍の読み方を習う、就学始め(教師に就い
て学問を学び始めること)の儀式。7歳頃に行われた。
御内証の方…
未成年の将軍に性の手解きをする、初めての房事の相手。或いは側室中
のNo.2。この小説の中での進典侍の立場には、両方の意味が有ります。
ただし『爪紅』にも書きましたように、進さんが側室として召されたのは、赤
御台が山里の丸に引き籠った後の事です(ぶっちゃけますと、諸事情によ
り赤羽×瀬那は、まだ褥を共にしていません)
お仕舞所…化粧や着替えをする部屋。
旦那様…各局部屋の主の事。
溜り…控え室。
蜀錦…中国四川省産の有名な絹織物。蜀江の錦(しょっこうのにしき)。
虎目石…
タイガーアイの事。キャッツアイよりも色が濃く、廉価。装飾品とする。
花櫛…造花で飾り付けた櫛。
毛長鼬…イタチ科の哺乳類。家畜化したものがフェレット。
髢…
頭髪をより長く、或いは豊かに見せるため、地毛に結び付ける入れ毛、
付け毛の類。現在で言うところのエクステンションに近い。
縹…薄い藍色、紺碧の空の色。
間白…お掻取(打掛)と下着の間に着る絹の小袖。
銀襴繻子…
繻子は五本以上の経糸、緯糸を使って織った平たい絹を指す。金襴緞
子の“金”が“銀”になり、地が繻子の織物と考えればよい。
甘く、妖しく、残酷に。
とても、幸せだった。
彼に会えて、良かったと思う。
穏やかな陽だまりのような日々が、いつまでも続いてほしかった。
でも──良過ぎるとやっぱ、ロクなことがねぇ。
意識が“あれ”に、完全に搦め捕られてしまう前に、一つだけ。
君に、心からの謝罪を。
どうか許してほしい。
君を──
「 」
・
・
・
「な~るほど、そういうことだったんだ……」
寝惚け眼の幼主の身支度を、深窓の育ちと俄かには信じられない、まるで
生まれつきの奉仕者のような手際の良さで、すべて整えてやり──侍女た
ちは当然のことながら、「お方さまの御手を煩わせずとも……!」と慌てて
主を止めたが、「おたくらの念入りさじゃ、蛭魔局御自らが痺れを切らして怒
鳴り込んでくるよ?」という、苦笑気味の御方に至極ごもっともな一言を返さ
れた途端、彼女らの動きは凍り付き、まったく使い物にならなくなってしまっ
た──、「せーなくん、朝だよ起きて~? あと半刻で※朝の総触れだよ~
?」と、切羽詰った状況には何とも相応しくない、のんびりとしたセリフと共に
己の局部屋から送り出した後(本来ならばこの一言ですぐ、瀬那は完全に目
を覚ますのだが、慌てている時の彼は却ってドジを踏みやすく、要領も悪くな
るので、キッドはわざと瀬那を半睡の状態のままにしておいて、自分が代わり
に支度をしてやり、それが終わったところで初めて、彼を“起こす”のである)。
「何か頭痛いんで今朝の総触れ欠席します」と、蛭魔局に使いをやって病欠
(?)を申請し、さわやかな秋晴れの空の下、部屋の縁側で茶を啜りながら
キッドは、乳兄弟であり、大奥入りに際してもその条件の一つとして、特に自
分付きの※お広敷侍(おひろしきざむらい)とさせた鉄馬から、昨日の午前か
ら夕方──即ち、瀬那が自分の部屋に来るまでの間に起きた一連の騒動に
ついて、調査報告を受けていた。
「……ということだ……だが……深入りはしない方が、賢明だ……」
鉄馬が自分の意見を口にするのは珍しい。もともと口数少ないのに加え、
その重厚で、しかも今日は意図的に低められた声は、念仏のように聞き
取りづらく、慣れたキッド以外の者にはまるで不明瞭だった。しかしそれで
あるからこそ、どこかに必ず潜んでいるであろう、蛭魔の息のかかった者
による盗み聞きも、警戒する必要が無かった。
「ん、分かってる。下手に口出して却ってこじれたら面倒だもんね」
本心を言えば、何とかしてやりたかった。だが同時にまた、どうにもならない
ということもまた、長年の経験と、そして近頃になってようやく気付いた事々
から、分かっていた。
「皆……辛いんだね……」
風に乗って、前栽の小さな木の葉が一片、キッドの湯呑みの中に舞い落ちる。
それを取り除くでもなく静かに見つめながら彼は、ポツリと呟いたのだった。
・
・
・
所詮は他人事と、冷酷というのとは違うが、どこか突き放したように淡々と
した態度の主に鉄馬は、御身自身にもいずれ何らかの形で影響を及ぼす
やもしれぬことなのだから、もっと身を入れて聞いてほしいものだと、小さく
溜め息をついた。
確かに、本人は決して認めたがらないが、後宮や大奥のような、権力と陰
謀の腐臭渦巻く伏魔殿に於ける身の処し方については、学問から得た知
識や教養だけでなく、生来の鋭い勘によるところもあって、キッド(紫苑)は
万事、そつが無い。だがそれでも鉄馬は、漠然とした不安を感じていた。
ある時期を境に、何事にも必要以上の興味と感情を示さなくなってしまった、
生涯の主にして大切な親友。その端正な顔がまだ憂愁の翳りを知らなかっ
た、※書始(ふみはじめ)の前にまで遡る遠い昔。一使用人の子に過ぎぬ己
が若君と、無邪気に様々な遊び事に興じることが許されていたあの頃には、
彼に確かに存在していた明るい生気が、ほんの少しずつではあるが、着実
に戻り始めた今日この頃。本当なら自分も、それを素直に一緒に喜んでやり
たかった。
キッドが“瀬那君”と呼ぶあの少年は、人間のありとあらゆる負の感情が澱
を成す、この泥沼のような世界にあって、不思議なほど穢れていない、白い
蓮のような存在だ。優しい、とても良い子だと思う。だが皮肉なことに、その
魂の稀有な清らかさほど、この大奥に似つかわしくないものもまた無い。主
に報告した今回の件といい、このままではいずれ……。
鉄馬はキッドにも分からないほどの微妙な角度で、眉を顰めた。
(我が主は将軍に非ず。キッドが──紫苑が、この静謐な陽だまりから引き
ずり出されそうになるのであれば、その時は……非情だが、あの小さな彼を
──)
数多の憂苦を経た末、ぼんやりとした中にも意外としたたかな一面を持つよ
うになり、けれどその実やはり、硝子細工の脆さをも孕み続けている主の神
経構造は、彼が物心ついた時には既にその傍らに控えており、現在に至る
まで最も忠実な腹心にして、最良の友の見るところ、強靭な鋼鉄線と繊細な
銀糸を縒り合わせて作られた、複雑極まりないものである。そんな主とあの
無垢な幼将軍の取合せは、道を一歩踏み外せば奈落というこの大奥に於い
ては、非常に危険であると言わざるを得ない。
そしてもう一つ。ここに住んでいる者たちには空気と同意義、故に意識すること
も無いのだろうが、大奥と外界の合法的な接点・お広敷で働く鉄馬には分かる。
京の後宮もそうであったように、脂粉の匂い甘やかにして綺羅のはびこる奥御
殿という場所には、人の心を歪ませる、何か瘴気のようなものが、常に漂ってい
る。まがりなりにも“官”として身を置き、いよいよそれが難しくなった時には、宿
下がりを口実に、後宮を出たその足で、そのまま行方をくらますことの出来た禁
裏と違い、“側室”として入ったこの大奥では、目の前のキッド(紫苑)ですら果た
して、いつまで正気を保っていられるだろう? しかも今回は、彼が既に将軍の
寵を受けてしまっている以上、主に注目する視線は、あの抜け目の無いお取締
を始めとして、前回よりも更に多く、華麗な迷宮からの脱出は絶対に不可能なの
である。
実際、鉄馬の危惧している通り、暗雲は既に垂れ籠め始めていた。
・
・
・
観楓の宴から数日後。紫苑の方は改めて、大奥入りを果たした挨拶をしに、
手土産を携えてお付きの者たちと共に、側室や高職者たちの住む、広々と
した一の側長局の各部屋を回った。勿論、瀬那の訪れを待つだけの普段と
違って、先日の宴に引き続き、その出立ち非の打ち所無く整えられた上で
の訪問である。
何事も見逃さない、智謀に富んだ鋭い金眼(きんめ)を持つお取締・蛭魔局
からは、大奥法度と側室の諸事心得を言い聞かされ、また給与の沙汰と、
卑猥な言葉の羅列による激励というか、煽動を受けた(実際、蛭魔の表現
のあまりの露骨さ・過激さに、キッドは危うく、もてなしの茶菓を噴き出すと
ころだった)。
たとえ筆頭側室の地位を奪われたとて、その漆黒の瞳の高潔さはいささかも
損なわれていない進典侍は(紫苑の方は堂上出なので、先任者の進典侍を
飛び越え、公家出身者にのみ許される上臈側室の地位を与えられており、そ
の高位故に、未だ御子を上げていないにもかかわらず、“お部屋様”と仰がれ
ていた)、紫苑の方の来訪に対し、丁重な挨拶と立派な返礼の品をもって返し
てきた。“文武両道”という四字熟語が、まさに人の形を取ったかのようなこの
先任側室の、言わば敵手である自分の訪問にも、決して取り乱すことなくきち
んと礼に適った、かと言って慇懃無礼という訳でもない見事な応対にキッドは、
先日の宴での幸若の腕前といい、その装いや返礼品の質実でありながら、さ
り気ない趣味の良さといい、相手が※“御内証の方”(ごないしょうのかた)に
選ばれたのも道理と、改めて舌を巻く思いだった。
続いて訪れたのは、そのあまりの広さと青畳の鮮やかな色合い故に、大海
かと見紛うような大きな座敷だった。
その部屋には二人の住人が同居していた。御子を未だ上げず、また進典侍
のように特殊な地位と立場にある訳でもなく、そもそも筋目からして、かの御
方とは差が有り過ぎる御手付き中臈たちが、個室に住むことは大奥の制度
上、許されておらず、二人は蛭魔の監督の下、相部屋を余儀無くされていた。
しかしさすがに両者の、標準を遥かに上回って堂々たる体躯に配慮してか、
大奥中臈の通常の相部屋と比べればこの二人の住居は、居間として使われ
ている、先述の広々とした、庭に面して日当たりの良い縁座敷を始め、寝間
(ここだけは当然のことながら別々である)、書斎、用途様々のお小座敷数部
屋、また衣裳部屋や※お仕舞所、湯殿に厠、物置に加え、大きな※旦那さま
方の御用を滞り無く務めるために集められた、これまた大柄なお半下たちの
※溜りなど、殆ど独立した一軒の住居と呼んで差し支え無かった。
先日の宴での凛々しい直垂裃姿とは打って変わって、涼秋とはいえ晴天の日
中、それも気ままな自由時間ということでお掻取は羽織らず、山吹地に八角形
を基本とした連続幾何模様が織り出された※蜀錦(しょっきん)の小袖だけを身
につけ、左右側頭部のやや上辺りで二つに分けて束ねられた豊かな金髪のそ
れぞれの結び目に、※虎目石をドングリの実に模して飾り付けた、一種の※花
櫛を挿した水町は、西の都から鳴物入りでやって来た新入り側室の気品に満
ちた姿が視界に入った途端、大好きな上様からお世話を任された白黒斑の猫、
白い※毛長鼬(ケナガイタチ)と一緒に遊んでいたそれまでの上機嫌な笑顔を
一変させ、眉を急角度に吊り上げた。二匹の愛玩動物をギュッと胸に抱き締め、
拗ねた子どものように両頬をプゥと膨らました水町は、唇を尖らせながら、ずばり
言い切った。
「俺、あんたのこと嫌い。あんたが来てから俺が瀬那と過ごす時間、すげー
減った。前なら夕方の自由時間は瀬那、いっつも俺と一緒に過ごしてくれて
たのに!」
キッドを真っ直ぐに睨み付ける、ついさっきまでは仔犬のそれのように無邪
気に輝いていた、榛(はしばみ)の柔らかな薄茶色をした双眸には今や、純
粋過ぎる悲哀と怒りが満ち溢れていた。化粧気の無いさっぱりとした、相手
の健康美溢れる容姿に加え、事実このところ、瀬那が自分の部屋ばかり訪
れてくれていること──とは言っても、体裁を取り繕うため、時折ハタと思い
出したかのように臥所を共にする以外は、一緒にお喋りをしたり、菓子を食べ
たり、キッドの得意な手芸を瀬那が教わったりと、彼らの交流は至って健全
で微笑ましいものばかりなのだが──を、嬉しく思い、且つ心待ちにするよう
になりながらも、だからこそ同時にまた他の局部屋に対し、少々の後ろめた
さを感じ始めていた現在のキッドには、水町の率直さはたとえ側室お心得の
一つ、“上様のお側に侍る者同士、いささかの嫉妬の念も起こすまじきこと”
に違反していようとも、それは血の通った人間であれば当然のことと、宮仕え
をしていた頃のように、その情念を厭わしく煩わしいものと捉えることは最早、
出来なかった。
「あ~、そりゃまたどうも……スンマセン」
「!!!」
目下の者たちや物への八つ当たりなどといった、理不尽なことを好まぬ元来
のサバサバとした気質上、やり場の無い怒りをうまく発散出来ず、日に日に
募る苛立ちをそれでも必死に堪えていたところへ、キッドのこの、のほほんと
した対応(水町にはそう感じられた)は、却って逆効果だった。何か言い返し
たくとも、相手との間に立ちはだかる大きな身分の壁に、悔しさの余り、目尻
に微かに滲み始めたものを見られまいと、水町は顔を伏せてサッと立ち上が
り、くるりと体の向きを己の寝間の方向へと転換させると、猫と鼬を抱き締め
たまま、足音も荒くドスドスと縁座敷を出て行った。
(やば、失敗……嫌味の一つもかまして俺のこと完全に憎ませたげた方が良
かったか……)
己の迂闊さに嘆息し、今日は※髢(かもじ)まで足してきっちりと結ばれた髪
の中に、思わず手を突っ込んで掻き回しそうになってしまったキッドと同時に、
同居人の後姿を見送りながら、必然的に一人で、名実共に第一のお部屋様
の応接をしなければならなくなったもう一人の中臈──こちらは※縹(はなだ)
に金糸で、天に向かってすっくと伸びる豊かな稲穂を刺繍したお掻取と、綸子
の※間白(あいじろ)をきちんと着込んだ上に、※銀襴繻子(ぎんらんしゅす)
地の半幅帯をキリリと前横に結び下げ、すっきりとした姿の筧もまた、大きな
溜め息をついた。
「誠に合い申し訳御座いませぬ……水町の無礼、何卒ご容赦下さりませ、
紫苑の方さま。あれの相部屋の者としてこの筧、代わりに謝罪させて頂き
まする」
地位の上下に加え、紫苑の方の方が年長ということもあり、筧は両手の三つ
指を畳について深々と、濃紺の髪つややかな頭を下げた。海が育んだものよ
りも小粒な淡水真珠を幾つも連ね、米粒に見立てた簪の、真珠が互いに擦れ
合う、玲瓏として涼やかな音が微かに鳴り響く。
「いえ、こちらこそ年甲斐も無く由無きことを……どうぞ、お顔とお手をお上げ
下さいますよう。大奥にてはあなた様方の方にこそ一日の長がお有りです。
こなたへの御遠慮など無用のこと……ってか……あ~、あの、こーゆーまど
ろっこしい遣り取り、もうやめません? 水町君の様子から察するに、おたくら
も瀬那君から、普段は気楽にって言われてんでしょ?」
目上の御方の突然の砕けた口調に、伏した中臈の畏まって縮められていた
両肩は一度、ピクリと揺れた後、緩やかに力を抜いていった。そしてゆっくり
と体を起こす筧。紫苑の方が部屋を訪れる前の、端然と正座した姿に戻った
全身からは、本来の幅広さを取り戻した両肩を中心として、あの進典侍に勝
るとも劣らぬ、堂々とした風格が漂っていた。
「ああ、まあな。こっちとしてもその方が有難い。改めて名乗らせてもらう、筧だ」
「局名は紫苑の方って言うらしいけど、そんな大仰な呼び方してたら疲れちゃう
だろうから、俺のことはキッドって呼んでね。あ、これつまらないもんですけど」
「ご丁寧にどうも……」
キッドから差し出された手土産の白羽二重の反物を受け取り、一応は礼を述べ
る筧。しかし、水町のようにあからさまでこそなかったが、キッドの鋭敏な心眼
は確かに、筧の深い、紺碧の海の色をたたえた瞳の中にも勢いよく燃え上がる、
水町の瞳にあったのと同質の、ただし色は異なる蒼い炎を、ハッキリと知覚して
いた。
「なるほど、おたくが筧君ね……何でも蘭語だけじゃなくてエゲレス語の読み書
きまで出来んだって? 瀬那君がす~ごく興奮しながら話してくれたよ」
一瞬だけ、筧の鋭すぎる視線はふっと嬉しそうに和らいだ。
「瀬那君が……そうか」
(おや、まあ……これはこれは……)
キッドの興味深げな表情に気付いた筧は途端、慌てて表情を取り繕ったが、
バツの悪さは如何ともしがたかったようで、それきり素っ気無く、「用が済ん
だのならもう帰ってもらえねぇか? 俺、書見の邪魔とかされんの好きじゃ
ねえから……」と、キッドが来るまで読んでいた本に目線を戻すと、最早チラ
とも彼の方を見ようとはしなかった。キッドもその気持ちを察し、敢えて詮索
するような真似はせず、サラリとその場を後にしたのだった。
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そして最後。この御方に会うのが、その日のキッドの最大の目的だった。
大奥からはかなり離れた山里の丸におわす、美貌、才智、そして宮家の
血筋と、玉に瑕一つ無い、だが謎多き貴人。あの心優しい小さな天下人
の隣に、望めばいついかなる時も寄り添うていられる、この世で唯一にし
て正当な権利──先程会ってきた中臈二人は恐らく、喉から手が出るほ
ど欲しているのであろうそれを、塵芥を払い去るが如く簡単に放棄したと
言われる、美しき御台所。
鉄馬からの報告、そして何故か不思議なほど京の事情に明るく、共に興じ
る西の都の遊び事も、その腕前はともかくとして、基本はおおよそ知ってい
る瀬那が、時折見せる切なげな表情をそれとなく観察することで、今ではキ
ッドにも、自分が江戸へ下る前後の大奥の、複雑な人間関係がほぼ、完全
に呑み込めていた。
「代わり……なのかな? ま、別にいいけどね」
自分自身ではそれを己の心情と疑っていない、淡々とした呟きとは対照的
に、キッドの、およそ激情というものを宿したことの無さそうな双眸が、心持
ち眇められたのは果たして、申の刻(午後4時頃)を回り、赤みを増してきた
夕日の眩しさのせいだけであったろうか。
・
・
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柔らかな※石竹色(せきちくいろ)の地に、金と緑を主体にした孔雀の羽根
模様が、目にも彩な京友禅。強い陽射しは苦手とかで、西日が差し込む今
の時刻、舶来品の日除け眼鏡をかけた御台所は、螺鈿細工の施された美
しい琵琶の調律に精を出しておられた。
「ようこそ、武者小路の……」
(後編②へ)
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※注釈
朝の総触れ…
代々の日課と定められている御仏間拝礼、また大奥居住の母親・御台
所・側室・子どもや孫といった家族たちとの朝の対面や、お取締を始めと
する高職者たちから奥向きに関する諸報告を聞くため、将軍は毎朝定刻
に、“中奥から”お鈴口に入り、お鈴廊下を通って大奥へやってくる。たと
え大奥泊まりの翌朝であっても、必ず一旦は中奥に戻り、入浴、身支度、
朝食、健康診断などを済ませた上で、改めて来ないといけない(ただし
幼少、病弱、好色などの理由で大奥にいる時間の方が長かった者は別)。
なので当然、キッドさんにお着替え(笑)させてもらってる瀬那将軍の朝
の風景は、“捏造”です。
お広敷侍…
お広敷は大奥の諸事務を取り扱い、また大奥に出入りする人間や品々を
検察して、非常事態を警戒する役目も負う場所。そこに勤務する役人の事
をお広敷侍と呼ぶ。
書始…
皇族・公家の男子が初めて漢籍の読み方を習う、就学始め(教師に就い
て学問を学び始めること)の儀式。7歳頃に行われた。
御内証の方…
未成年の将軍に性の手解きをする、初めての房事の相手。或いは側室中
のNo.2。この小説の中での進典侍の立場には、両方の意味が有ります。
ただし『爪紅』にも書きましたように、進さんが側室として召されたのは、赤
御台が山里の丸に引き籠った後の事です(ぶっちゃけますと、諸事情によ
り赤羽×瀬那は、まだ褥を共にしていません)
お仕舞所…化粧や着替えをする部屋。
旦那様…各局部屋の主の事。
溜り…控え室。
蜀錦…中国四川省産の有名な絹織物。蜀江の錦(しょっこうのにしき)。
虎目石…
タイガーアイの事。キャッツアイよりも色が濃く、廉価。装飾品とする。
花櫛…造花で飾り付けた櫛。
毛長鼬…イタチ科の哺乳類。家畜化したものがフェレット。
髢…
頭髪をより長く、或いは豊かに見せるため、地毛に結び付ける入れ毛、
付け毛の類。現在で言うところのエクステンションに近い。
縹…薄い藍色、紺碧の空の色。
間白…お掻取(打掛)と下着の間に着る絹の小袖。
銀襴繻子…
繻子は五本以上の経糸、緯糸を使って織った平たい絹を指す。金襴緞
子の“金”が“銀”になり、地が繻子の織物と考えればよい。