冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

朱に交われば赤くなる(下)

2008年12月02日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
「心外だな、阿呆とは……」

不快感に顰めた顔すら麗しい、呉越の古ならぬ、今この時を生きる、傾城
傾国の美貌。

「ホントノコトヲモウシアゲタダケデゴザイマスデスヨー」
「むしろ御気でも触れられたか」
「So crazy……」
「ん~、ちょっと※うとましいかな?」
「ぶっちゃけキモウザイ、ってか「「「「変態」」」」

パン!

その瞬間、扇子が鮮やかに閉じられる。

「瀬那君の爪切りが、大事なことではないとでも言うのかい、君たちは?
冷たく無慈悲な金属の道具が、もしも誤って彼の指の柔肌に食い込み、
紅の雫が滴り落ちるような事態にでもなったら! かと言って、彼の桜貝
のように可愛らしい爪を伸びるままにまかせて剪定せずにいては、あの
五弁一重咲きの可憐な双花に触れられない……こんな板挟みには耐え
られない僕の音楽性は、ゆえにこそ、御所の御風を真似させて頂いたと
いう訳さ……だからね、いいかい? 仮に君たちの言うように僕が変態で
あるとしても、それなら僕は、“変態”と言う名の夫君思いの御台所だ
というだけのことであって、別段痛くも痒くもない」
…………

弱点は、それを指摘された本人自らがそれを弱点と認めた時から初めて、
本当の意味に於いての弱点となるのであり、逆に言えば、本人がそれを
弱点と思っていない限りは、それを幾ら突ついてみたところで何の意味も
無く、また何も引き出せるものなど無いのだという、赤御台はその、非常
に分かりやすい一例であった。

「だが将軍とは……武門の総帥であって、都の主ではあられませぬ。太
平の有難き御世とは申せ、戦への心構えは常に有って然るべきもの……
多少の怪我や病如きに泣き喚くようでは天下万民に示しがつかぬし、そ
もそも瀬那は……深爪の痛み程度にも耐えられぬような軟弱者に非ず」

剣道場で目にする小さな若武者の、この上無く真摯な双眸と、己が指南
の下に日々積み重ねられる精進の結果、本当に少しずつではあるが、着
実に彼のものとなりつつある成果を思い出し、内容こそ堅いが、この者に
しては珍しいと、誰もが感じる柔らかな口調を以って反論したのは、進典
侍であった。
 
「あぁ、その通りだぜこの糞筋肉……これでテメーの行状に何一つ疚しい
ことが無けりゃ、その思慮とも相俟って最高だったんだがな……それこそ、
そこの糞赤目と地位を交換させてもいいって思うくれぇに、な」
「然りとは(さりとは)……?」
「糞チビが稽古の後、着替える度に、奴が着てた道着と袴をテメーが“回
収”
すんのはまだいいとして、それを“収集”すんのは止めろ」
「……」
「「「「…………」」」」

お稽古の度に新しいものを用意してもらうのって、何だか勿体無いですよ
ねとかあいつがおかしなこと言うもんだから、変に思って調べさせてみりゃ
あ……しかも洗って返すでもなく汗臭ぇまんま、葛籠の中に何着も何着も、
その上わざわざ自分の手ずから畳み入れてるって一体、何考えて……っ
てか、何に使うつもりだよいやぶっちゃけ何に使ってんだよあんま知りたか
ねぇけどと、蛭魔局は、半ば憐れむような眼差しを相手に投げ付けた。

さいあ「オメーらも他人(ひと)のこととやかく言えた義理
か」


御局さまにビシャリと遮られ、御手付き二人は一瞬、その大柄な体をビクッ
と竦ませた。

「な、何のことを仰って……」
「ミニオボエモキオクニモゴザイマセーン」

暗色(あんしょく)の頭は左へ、明色(めいしょく)の頭は右へ、綺麗な線対
称のそっぽを向く。

「すっとぼけても無駄だっつーの……上様の御八つの※お余り、それも特
に食い掛けのを狙って毎日毎日、※高坏(たかつき)が膳所に下げられて
くる途端、海の御部屋の御二方が乱入してきちゃ、血眼になって取り合っ
てるってなぁ……昨今じゃ御末お半下どもの溜まりにまで伝わってる笑い
話なんだよっ!」
……
…………

残酷な神……ならぬ、残酷な沈黙が場を支配する。

「フー……どんなに外見(そとみ)を飾り立ててみたところで、本来の氏素
性の卑しさというものはやはり、隠し切れないようだね」
「何と浅ましい……犬畜生でもあるまいに、これではまるで地獄の餓鬼に
も等しき振舞い……」

紅白二人がこれ見よがしに眉を顰める中で──

「下手な口を挟まねえってのは利口だが、コソコソ逃げ出そうとしてるって
ことはやっぱ、貴殿にも何ぞ、後ろ暗きことお有りとお見受け致しま
するが……如何に(いかに)、紫苑御方?

「……え~っと……その、ねぇ……?」

部屋の入り口から優美な裳裾が完全に消え掛ける、寸前のことであった。
                      ・
                      ・
                      ・
(どこか……穴を掘るのに適した、人目につかない、良い場所は……無い、
だろう、か……)

謹厳実直な御広敷侍が、叫びたくて叫びたくて楽になりたくて堪らないの
は、君が好きだとか好きでないとか王様の耳はロバの耳だとか上様には
猫耳も犬耳も似合うだとか、そういった(どういった?)内容ではなく。

(いっそ、永の暇を請うて0/2/2/0/2/2へ……)

時空を超越した某人材派遣会社にまで思いを馳せてしまうほどの彼の苦
悩、それは。
                      ・
                      ・
                      ・
「近頃やたらめったら漢籍買い込んでると思ったら、また変なこと始めやが
って……」
「や、ちょっとした好奇心って言うか……そ、そう、爪と同じでさ、“※身体
髪膚之を父母に受く”
って言うじゃない?」
「Shut up! 糞チビが孝行すんのに値するような二親じゃなかったから要
らねぇんだよ、そんな配慮は! 誤魔化そうったって無駄だぜ? テメーの
真意なんざとっくにお見通し……ってかヒゲのくせに発想が無駄に乙女
で気持ちワリーんだよ!」
「……すっごい差別発言なんじゃないのかねぇ、それって?」
「喧しい! 言い返すくらいなら※林のジジィがこの前糞チビ用に書き下し
た漢文(からぶみ)の間違い、原本無しにその場で速攻指摘したそのおツ
ム、もっと生産的な方向に向けてみろってんだ!」

紫苑御方が、肌身離さず身に着けておられる西陣の香袋、それに施して
ある刺繍が実は、幼主の御髪(おぐし)を定期的に削いで差し上げたもの
を一定量貯めてから、香を溶いた水に長期間漬けた後、やはり一定量を
削ぎ落とし、同様の処理を済ませた自分の髪と共に縒り合わせたものを
糸代わりに、※髪繍(ファーシウ)なる技術──材料の質よりも、縫い手の
腕前よりも何よりも、大切で必要不可欠なものがあるのは、言わずもがな
──を用いて一針一針、丹念に縫い取られていったものであるということ。

「どいつもこいつも……」

認めたくはないが、もしかすると自分には、人を見る目が無いのかも知れ
ない。

「マ(まるで)/ダ(駄目な)/オ(男)ばっかりかよ!!!」

キリキリと痛む白い額に手を当てて、吐き捨てるように叫んだ、その刹那。

(蛭魔さん)

御局様の脳裏に浮かんだのは、心に響いたのは。

(……ったく、明日、だけだ……明日一日だけだかんな、糞チビ……)

明日だけは、政務も学問も鍛錬も稽古事もすべて無しにして、好きに
過ごさせてやろう。甘味も好きなだけ食させてやろう。それに、少しだ
けなら……日頃の労いの意味も込めて、ほんのちょっとだけなら(←二
回言ったよこの人どんなツ○デレ/笑)
、頭を撫でてやってもいい。

鬼の目にも涙、はたまた御取締の心にも憐憫の情?

とにもかくにも、今日この日ばかりは己の傀儡(くぐつ)が、どうにも不憫
に感じられてならず、自分でも何故だかよく分からぬままに、ただ何とな
く、優しくしてやりたいと思った、蛭魔局様なのでありました。
                      ・
                      ・
                      ・
クシュン!

「な、何か寒気する……風邪、引いたのかな?」

誰からも愛され、好かれ、恋われ、慕われ、慈しまれて……その人生は、
幸福と栄光だけに満ち満ちていて、然るべき筈なのに。

当代公方・瀬那様の毎日は、何故だか気苦労が絶えず、それ故に※苦
爪楽髪(くづめらくがみ)、苦髪楽爪(くがみらくづめ)──持ち主の性質と
は正反対の、茶目っ気たっぷり自由奔放な跳ね髪と、計十本の柔き(や
わき)両手指先、それに輪をかけて繊細な三日月の爪が、驚異的な速さ
で伸びてゆくという、嗚呼、何たるこの矛盾、そして悲喜劇の悪循環!

果たして彼の、輝ける明日はどちらに……?(笑)
                      ・
                      ・
                      ・
「フー……勿論、僕の所に決まっているじゃないか」
「……此方(こなた)へ」
「ハイハイハイ俺んトコ! 瀬那と明日一緒に遊ぶのは俺、絶対俺!!!」
「少し黙ってろ水町……# あ、あのな、瀬那君、もし嫌じゃなかったら、俺
と明日……」

「あー……そういえばねぇ、瀬那君がずっと見たがってたあの古い絵草紙
だけど、実家(さと)に置きっぱにしてた俺の本、こないだ全部こっちに引き
取ってうちの部屋の書庫にぶっ込んだ時、偶然見つけたもんだから、今度
瀬那君と一緒に見ようと思って日干ししといたんだけど……」

「Fucking! お前ら全員一遍死んできやがれ!!!」


                         <落ちぬままおしまい/笑>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

語釈

うとましい……
御所・公家言葉で言うところの「気持ち悪い」、「気味が悪い」。

お余り…
将軍や大名、その家族の食事は、毒見やお代わりの分も含めて、多めに
用意されるのが普通であった上(八食から十食分ぐらい?)、ガツガツとし
た大食いは下品で好ましくないと考えられていた為にいつも、相当の量が
残されていたようである。残った物を下の者達が食べるのは、ごく普通の事
であったらしい(殆ど手付かずで残されていたのであろうから、汚いとか惨め
といった感覚も薄かったのではないかと思われる)。ってか、主の食事=お仕
え人たちの分込みっていうのは、どこでも暗黙の了解だったのではないかと。
誰も口に出してハッキリ言わなかっただけで。
余談ですが、これが中国だと、王朝支配の時代なんかもう、皇宮や王侯貴
族の家に勤めていた使用人及び奴隷達は、普通なら絶対食べられないよう
な御馳走ばかりと知っていたので皆、御主人様達の食卓の残り物は、先を
争って食べてたらしいです。食べる以外にも、外で売ると凄く良い値段で売
れたみたいなんですよ、これが、残飯なのに(主家黙認の場合が多い)。ま
あ、素材からして凄かったのは確かにそうなんですけどね。
更に余談ですけど……今でも多分、こっちの大きな会社や学校、高級飲食店の残飯って、
専門業者が買い取って再加工した後、廻りめぐってまた幾度かの手を加えられた上に、またどっ
かで売られてると思いますよ、多分……。売られないでも、其処でそのまま再利用されてる可能
性も凄く高いですし、日本で先日ぶっ潰れた某高級料亭みたく……


高坏…食べ物を盛る脚付きの台。現在では神饌を盛るのに使われる。

身体髪膚…
「身体髪膚,受之父母,不敢毀傷,孝之始也」(身体髪膚、これを父母に
受く、敢えて[あえて]毀傷[きしょう]せざるは孝の始めなり)。
『孝経』の有名な一文より。人間の体というのは、そのすべての部分が皆、
両親祖父母引いては御先祖代々から受け継いできたものであり、時と場
合によっては、既にこの世を離れられたその目上の世代の御方々の依代
ともなり得る、とても大切なもの。故に濫りに粗末に扱う事や、不注意によ
る怪我や病で損なうような事は許されず、また、その大切な体を健常に保
つ事こそは、およそ人の為し得る第一の孝行と言えよう……と、いった感
じの意味として昔々、習ったような気がします。確かこの後、更にもう数行
続いていたような……年々物忘れが酷くなってきてるなぁ(苦笑)。
前編の方で、噛み切られた(笑)後の瀬那の爪が丁重に扱われていたの
も、恐らくはその影響。そう言えば、爪や髪の毛って、古今東西を問わず、
spiritualな物事とよく結び付けられてますよね。ちょっと調べてみただけで
も、この『孝経』以前の時代から、多くの国々で凄く大切なものと考えられ
てたみたいですし……(あ、でも臓物も結構重視されてたよな……)。何で
でしょ、ふしぎフシギ不思議ー???

林の~…
え~っと(苦笑)、まず全世界の林さん、お気を悪くされておられましたら本
当に申し訳御座いません。二次創作しかもパラレル作品の蛭魔さんという
事で、どうしてもあのように乱暴な呼び方になってしまいました(別にパラレ
ルじゃなくてもいつもあんな感じか?)。
ご存知無い方の為に説明を付け加えさせて頂きますと、江戸時代、徳川幕
府には、幕府と繋がりの有る学問所一切の統括や、将軍やその後継者へ
の儒学指南を任された、大学頭(だいがくのかみ)という職が御座いました。
これは江戸時代初期、家康から家綱の徳川四代に渡り儒学を教え、またそ
の知識を以って幕政(とりわけ典礼面)に貢献した林羅山(はやしらざん)の
血筋に連なる林氏の人間が代々務めていたものです(ただし「大学頭」とい
う正式の役名並びに役職は羅山の孫・鳳岡[ほうこう]に始まる)。羅山さん
(←知り合いかよ)は四書五経に訓点を施した「道春点」(どうしゅんてん/
「道春」は羅山さんの僧号にして通称)でも有名です。
で、まあ(ハイ?)、このお話に出てくる幕府の中で一番権力持ってんのは
蛭魔局様なんで、その……どんなに偉かろうが頭良かろうが、例え年上で
あったとしても、あの御方にかかりゃー、当代の大学頭さんもJiji-E呼ばわ
りされてしまう訳でありまして……(←それでオブラートに包んだつもりかぁ
ぁぁ)。
まさかこげな所にいらしているとは思いませんが、後裔の皆様、とりあえず
スンマソンどした……m(_ _)m 「糞」を付けなかったのが、香夜さんのせめ
てもの良心です)

髪繍…
こちらで放映されていた、お針子がヒロインのTVドラマを見ていた時に知っ
た技術です。ただし香水に漬け込んだ点と、他人同士の髪を縒り合わせる
というのは、香夜さん的捏造。本物は恐らく、切って後、洗浄して乾かした、
一人の人間の髪だけを使って刺繍してゆくものと思われます。

苦爪楽髪~…
「苦爪楽髪」の方は、苦労している時には爪が速く伸び、幸せな時には髪が
速く伸びるという意味の言い伝え(諺?)。「苦髪楽爪」はその逆で、苦労時
には髪が速く伸び、幸せなら爪が速く伸びるとの事。「じゃあ、両方同じくらい
の蝶・スピードで伸びてる場合は?」という、香夜さんの捻くれた疑問の答え
は、未だ見つかっており申さず……(苦笑)。

朱に交われば赤くなる(上)

2008年12月02日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
彼の長く、しなやかな指は氷のように冷たいけれど。

チュ……クチュ……

「……っ///」

薄く、しっとりとした唇の感触は、この上も無く優しく、柔らかく、けれど
微かにざらついた舌だけは、ほんの少し、意地悪で。

カリ……

そのものを剥ぎ取られるとでも言うのなら話は別だが、先端だけならば、
何も感じない筈。

それなのに、それなのに。

「やめ……やめて、くだ、さい……っ……」
「?」

グイと、受動的要素で構成されている部分の方が遥かに多い、常日頃
の様子からは考えられないほど乱暴な勢いで、若将軍は、己が両手を
包んでいた白い掌を振り払った。

「おおおおおお付きの人たちも居る前で、こんな、は、は、恥ずかしいこ
と……」

その柳眉を微かに上下させた以外は、特にうろたえる風でもなく、お美
しい御台所は、ただただ訳が分からぬといったように首を傾げられると、
とにかくまずは事の仔細を問うて、次第によっては背の君のお許しを請
わねばと、静かに体の向きを斜め横へとずらし、※紅型(びんがた)の多
種多様にして色鮮やかな染模様に彩られた胸元より取り出した畳紙へ
と※丹花の唇(たんかのくちびる)を押し当て、口中に含んでいたものを
くるみ取る。

そしてそれを二つ折りにした手を、能の所作のようにスィ……と伸ばせば、
下段左側の最前に控えていた樹理が膝行して御前へと罷り出で(まかり
いで)、袂から取り出した白羽二重の小袋の口を緩めて畳紙の中味を押
し戴くと、後ずさりでもと居た場所へと一端戻り、腰を下ろしたかと思うと、
すぐにまた立ち上がり、しかし此度は両膝を屈めた中腰の姿勢にて、“そ
れ”
を御火中に投ずるという自らの勤めを果たすべく──既に不要のもの
とは言え、かつて上様の御体の一部を成していたものを塵芥の如く粗末
に扱うなど許されず、ましてや濫りに(みだりに)下の者に始末させるなど
以ての外──、音も無く下がって行った。

「フー……何をそんなに慌てふためいているんだい?」
「だだだだって……!」

見苦しくないようにと、眼前の麗人がどれほど自分に気を使ってくれてい
たのだとしても、ハッキリと見えなかったからこそ、想像力は余計に逞しゅ
うなるというもの。

この人の皓歯で噛み切られた時の濡れた感触、赤い舌先に絡め取られ
た状態から畳紙へとそれが移される時、雨雫を貫いた蜘蛛の糸のように
伸びたのであろう、銀糸の様──頭から振り払おうとすればする程、悩
ましげな想像は朧げなものからどんどん、鮮明なものへと、秒単位で変
化してゆくのだった。

「当たり前のことをしただけだろう? この場に於いて最もあの任に相応
しかったのは、どう考えても僕だけだったのだから」
「そ、それなら普通にやってくれれば良かったじゃないですか……!」
「……普通? 普通、だっただろう?」
「普通じゃありませんでしたよっっっ!」

双方、意思の疎通がままならぬもどかしさに睨み合う──いや、この場
合は将軍の側が一方的にと言うべきか。淡紅色に上気した頬、僅かに
潤んだ上目、水中から放り出された金魚の如くパクパクと開閉する小さ
な口のゆえに、迫力はまったくと言ってよいほど無かったけれど。

「絶っっっ対! 変ですよ、おかしい! ねえ、光太郎さんもそう思ったで
しょう!?」

いつもなら主よりも、小柄な少年の肩を喜んで持つ御台所付き御小姓筆
頭であったが、さすがに今回ばかりはその問いかけが、あまりにも唐突
であったことも重なって、特に深く考えることも無く──別に、いつだとて
深く物事を考えている男ではないのだが──、あっさりと将軍の御下問
にお答えした。

「え、どっか変だったか?」

別に普通だったんじゃねえの?と、怪訝そうな顔付きをする相手に、少年
は最後の砦も崩れ落ちた事を悟り、それでもなお諦め切れず、更に下段
に控える者たちへと縋るような視線を向ける。なれど返されるは無情にも、
「お上、何ゆえのお腹立ちさんであらしゃるか?」といった表情と、小首を
傾げる仕草ばかりであった。

「フー……ひとまずは落ち着いた方がいい、瀬那君……」

この世で唯一人にだけ向けられる、穏やかな美声にて紡がれる言の葉。
常であれば程無くして少年を大人しくさせ、時によってはその動きを止め
ることさえも可能であるそれであったが、今日ばかりは、それを紡ぐ端麗
な唇、その端からホロリと零れ落ちた、白珊瑚の欠片にも似た三日月型
の小さな塊がいけなかった。

御台所の着物それ自体の華やかさを引き締めるため、臙脂と褐色という、
比較的地味で尚且つ変わった取り合わせで組まれた※名護屋帯から垂
れる糸房に、ちょこんと数塊のそれらが引っ掛かるのを目にして、少年は
最早耐えられぬとばかり、絶叫した。

「う……うわぁぁぁっ!!!」

そしてとうとう、茹蛸のような色と化してしまった顔を背けると──ああ何
て美味しそう……と、本能的に思ったことを心と口の外に出さなかったの
は、浮世と言うか、この世離れを通り越してあの世寄りの感性の持ち主で
ある赤御台にしては珍しく、賢明な判断であったと言えよう。彼と共にはる
ばる京よりやって来たお仕え人たちは、先程までの光景にこそ何ら驚きを
示さなかったが、主の心中に於けるこの呟き(否、惚気と言うべきか)を耳
にすれば、その時ばかりは間違い無く、誰しもが顔に朱を上らせていたで
あろうから……閑話休題──、この草深い御殿の主が誰よりも、何よりも
大切にしている小さな御宝は、一目散に山里の丸を走り出て行ってしまっ
たのである。
                      ・
                      ・
                      ・
「……と、いう訳なんだが、僕は何か瀬那君の気に触るようなことをしたの
だろうか?」
「「「「「…………」」」」」

疑問を投げかけてくる割には、特に気に病んでいるという風でもなく、殆ど
無表情に近い※芙蓉の顔(かんばせ)に、パタンパタンと所在無さげに開
閉を繰り返される、白檀の骨の扇。

ああ白磁の頬でもいい白魚の手でも構わない、素のままに白く透き通った
雪肌(せっき)を引っぱたくか引っ掻くかして傷だらけにしてやりたいとまず
思ったのは、山里の丸は御台所御休息の間に大奥より召集された五名の
内、下位に在る大柄な御手付き二人。

とりわけ、冬の蒼海の瞳を持つ方は、肌理細かな額にかかる濃紺艶やか
な髪の筋の隙間から覗く、何本もの青筋が、あまりにもくっきりと生々しく
浮き出ており、日ノ本の人間としてはかなり彫り深く整っている容貌、そし
て並外れた背丈とも相俟って、その醸し出している雰囲気はさながら、人
外魔境のそれであった。膝の上で凄まじい握力によりギリギリと握り締め
られてしまっているせいで、折角の※光琳水(こうりんみず)の清らな(きよ
らな)流れにもその内、何やら禍々しい色合いをした、鉄臭いものが混じり
そうな気配である。

「破廉恥な……」

滅多なことでは感情に引き摺られず、顔を負の念に歪めたりすることも皆
無に等しかった筈の御内証の方は、たった一言、低く呟いたきり、絶句し、
その後は渋面をフイとあらぬ方向へ向けたまま、二度と御台所の方を見よ
うとはしなかった。ギュッと、真一文字に固く引き結ばれた唇は、強く噛み
締められ過ぎて、限りなく白い色合いへと近づきつつあった。

「こっちの人たちは……うん、見んの多分初めてだったろうし、そりゃ、まあ
……吃驚しただろう、ねぇ……」

非礼にならぬようにと、下方の畳へと向けた顔を、※江戸紫の袖元でゆっ
たりと覆った努力も空しく、両肩どころか体全体を小刻みに震わせている、
公家出の大上臈。

「じゃあさじゃあさ~、次は俺にやらせてよ!」

俺ぴっととか自分の鼬で慣れてっから、瀬那のちっせーのでも上手く出来
るからと、尖らせっぱなしであった口をようやく元に戻すと今度は、此処が
どこであるかなどとはお構い無しに、青畳の上に転がり、両手両足をバタ
バタジタバタと駄々っ子のように振り回して自己主張を始めた、子どもと呼
ぶには少々育ち過ぎの観有る、職人泣かせ呉服の間泣かせの御手付き
その二に──どれほどの精魂を込められ、いかに手間隙かけて作り出さ
れた着物も服飾の品々も、誰かが気付いた時にはいつも既に水の中、眠
っている間でさえ半刻もじっとしていられずに、将軍お渡りの夜を除いては
毎晩、泳いでいるかの如き寝相で廊下に転がり出てくる彼にかかっては、
あっという間に皺くちゃ、一週間と持たずにボロボロのぐちゃぐちゃの粉々
にされてしまうのである──

カコン!

本日下された仕置きは、相部屋の御手付きその一によるいつもの鉄拳制
裁ではなく、それまで、出された茶菓に手を付けることもせず、ただひたす
ら沈黙を守るばかりであった御取締が、日頃の働きに対するせめてもの感
謝の印にと、幼主より特別に賜った※献上博多(けんじょうはかた)を用い
て仕立てた帯に差し込んでいたのを、目にも留まらぬ早業で抜き取っての、
正確無比なキセル投げであった。

「どいつもこいつも……」

ユラリと立ち上がった御取締の背後には、凄絶な怒りの焔が、大きな大き
な渦を巻いていた。それもその筈、忙しい執務時間中、まがりなりにも御
台所からのお召しとあって、渋々ながらに貴重な時間を割いて来てみれば。

「糞チビの爪切るくれえのことで阿呆かテメーらはっっっ!」
                      ・
                      ・
                      ・
「え……それではこちらでは、将軍さまでらしても、鋏か剃刀で爪をお切ら
せになるのですか!?」
「って言うか、人の歯で噛み切らせてるって方が俺ら的には吃驚……グェ
……」
「まあ、玉体とお呼びするくらいだから、傷付けなどしては畏れ多いという
禁中の考え方は、理解は出来るけど、此方の上様は別に、現人神という
訳ではないからね……」

控えの間。目を真ん丸くする山里の丸老女に対し、進典侍の御機嫌伺い
に参上していたこの日、噂に名高い赤御台のお召しを受けた一族の誉れ
へ、興味本位も手伝ってお供を願い出たところ、「……心知れたる者ら控
え居れば、後(のち)、多少はあの苛立ちと不快感も軽減されようか……」
と、謎めいた言葉と共に、存外にスンナリと同行を許された、王城の一門
──この通り名を耳にして、どこのお家のことを指すのかが分からぬ者は、
江戸の人間ではないとすぐ知れる──に連なる、恰幅の良い若者二人。

苦笑を浮かべた片方は、武士としては珍しく眼鏡を掛けた、知的で穏和な
風貌、そしてこれまた武士としては珍しい、柔らかな人当たり。

もう片方は、上は大名家の姫君方から下は江戸の町娘ら、果ては目の肥
えた吉原の綺麗所たちにまで、道行けば必ず黄色い嬌声で騒がれる割に
は、誰に対しても隔て無く、驕り無く接し、幼子たちに共遊びをせがまれる
ことも多い、朗らかな笑顔が誰からも好かれる、しかし先程より、隣室にて
この御殿の主より饗応(?)を受けている、己が同族にしてかつての同輩が、
その意志強き両の眼(まなこ)より放ち続け、華麗な※金泥(こんでい)の絵
襖を突き抜けてくる殺人眼光を、もろに浴びてしまう位置に端座しているが
ために、現在は半死半生の若獅子である(移動する気力さえ最早無し)。

「何とぉぉぉ……まっこと奇怪な慣わしではあるがそのこと、もっと早くに筧
先生にお知らせ致すことが出来ておれば……この大平、一生の不覚なり
ぃぃぃっ!!!」
「お前の“一生の不覚”は一体、一生に何度有るんだよ……」
「クッ……大平であれば当然の失態と言えようが、仮にもこの僕ともあろう
者が、此奴と同じ過ちを犯そうとは……僕は、僕は虫ケラ以下なのか!?
あぁ……悔し涙で目の前がっ……目が、目がぁぁぁっ!」
「大西、それ幾ら何でも言い過ぎ言い過ぎ、業界用語でギスイー。大平の
涙の量が心なしか当社比ってか、当家比で倍増した上に何か赤いの混じ
り始めたから、それ以上はやめてやれ、な?」

王城の二人を更に上回る身の丈の巨漢二人を、その間に座った小人のよ
うな小男が──もっとも、この二人に挟まれれば、大抵の人間は皆、その
ように見られよう──、慣れた態度で宥めている。

「……それだけ……神にも等しいと、思し召さるるほどに……御台様は……
上様を……お慕い申し上げて……いると……いう……こと、だろう……」

口を開く様子すら、目にした者は片手で数えるほどということで有名な御広
敷侍が、どこか遠くを見るような目付きと、抑揚は無いが重々しい声音で呟
いた、その言葉に。

「おお、アンタよく分かってんじゃん、粋と言ってその心即ちスマートだぜ!」

若さはバカさ……もとい、怖いもの知らずと言うか、相手がまず、自分の主
の敵手の腹心であるということをすっかり忘れ、光太郎は鉄面皮の男の鋼
のように強靭な両肩を、親しみを込めてバシバシと叩いた。

「鉄馬」の通称で通っている男が、光太郎のその無遠慮な手を払い除ける
こともなく、黙然とされるがままになっていたのは何故かと言えば、この時、
彼は自分の主が、此度の御台所お召しに先んじて事の仔細を知り、「じゃ
あ俺は髪を貰うとしようかねぇ」と言った時の、貼り付けたような薄っぺらい
笑顔を思い出し、今ひとたび寒々しい思いに駆られていたからである。

言えない、言える訳が無い。

古来より秘密というものは、かなりの高確率で誰かにばれるように出来て
おり、また、それを知る者は、常にそれを誰かに言いたくてたまらぬと相場
が決まっているものだが、こればかりは絶対に言えない。

もともと鉄馬は寡黙な性質(たち)であり、口も相当に堅い方だが、このこと
に関してはゆめ、気が緩んでついウッカリなどと、口を滑らせたりしないよう、
よくよく注意せねばならぬ。それも命が惜しいなどといった理由からではなく、
主の面子を重んじればこそ。

(…………)

心中でのみ、彼は密やかに溜息をつくのだった。


                                  <(下)へ続く>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

語釈

紅型…
一枚の型紙だけを用いて、何種類もの色と模様を染め出した生地。原色鮮
やかな沖縄の琉球紅型が最も有名。

丹花の唇…美人の赤く美しい唇。

名護屋帯…
not名古屋帯です、御注意。室町時代から江戸初期にかけてまで流行した、
組紐状の帯。両端には房が付いていて、後ろか横で蝶結びにするのだそう
です。糸の組合せはカラフルなものが多いらしく、実際には今回香夜さんが
捏造したような奴は無いと思われます。しかも夏用の帯みたいです。後述し
ますが、蛭魔さんは冬用帯結んでるってのに……orz!

芙蓉の顔…花のように美しい顔。

光琳水…
江戸時代中期の芸術家(メインの仕事はやっぱり絵?)・尾形光琳の考案に
よる、形や構成を単純明快にした水の模様。

江戸紫……武蔵野の紫草から作った染料による、青味の強い紫色。

献上博多…
煩悩を打ち砕くとされる仏具・独鈷(どっこ)と、法会の時に撒く花々を入れて
おく器・華皿(はなざら)に着想を得た幾何模様をそれぞれ、縞模様と交互に
織り出した絹織物。江戸時代には、黒田藩が毎年幕府に献上していた事で
有名。男物に関しては存じませんが、女帯に使う場合は冬用。

金泥…ニカワと水と金粉を混ぜて作った絵の具。

金鶏再び晨す(きんけいふたたびあしたす)

2008年06月01日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
思いめぐらすのはお前のためだけ。
迷うこと無く言い切れる。
俺のすべてはお前のもの。
だから
お前のすべても俺のもの。
                      ・
                      ・
                      ・
そういえば、この人のこんな無防備な姿に接するのは初めてであったと、
今更ながらに気付くと同時に、訳も無く顔が赤らんだ。

「絡まってる所は切っちまっていい、そこに鋏あんだろ」
「あ、はい……」

彫りも何の飾りも無い、その権勢から考えれば随分と質素に感じられる、
ただの花梨の鏡台に向かう仏頂面の御取締は、目線で銀の鋏を指し示
した。

垂らしたままの金髪、白小袖一枚を身にまとったきりの姿は、決して弱々
しい訳ではないが、いつものあの威圧感とはまるで繋がらない。

シャ……シャ……

今日この日、飴色つややかな※散斑鼈甲(ばらふべっこう)の櫛に流るる
豊かな黄金の流れを一心に梳いているのは、専属の侍女でも小姓でも
ない。

他ならぬその持ち主の、主君だった。

(いい匂い……)

今日はまだ何も髪に付けていない筈だが、特別調合の※銀出しの匂い
は長年の使用により、既に頭皮に完全に染み付いてしまっているのか、
少年の目の前にある金色の滝からは強い芳香が漂ってきて、彼の鼻腔
をからかうようにくすぐる。

(どんな感じがするんだろう?)

綺麗な水場を見つけたら、危ないからとどんなに注意されても、その中へ
分け入ってしまうのが子ども、踏み止まるのが大人。

蛭魔に、「絡まっている部分は切ってしまって構わない」と言われた先刻、
自分の手の動きが止まっていたのは、この黄金の滝に顔を埋めてみたい
という、命知らずの危険な好奇心に駆られたから。

(でも実は後頭部にもう一つ口があって、そこからガブッて食べられちゃう
かも……それとも顔が金になっちゃうとかさ)

若将軍の読書傾向はどうもおかしな方向に偏っているようである。

「にしても本気なのかよ、ったく……」
「……っと、な、何がですか?」
「テメーがさっき江戸城の中心で叫んじまったこ・と・だ・よ!」
「ああ……いいんじゃないですか、たまには?」

別に表に出御しないって訳じゃないし、どうせ蛭魔さんこんな状態なんで
すから、政務に多少の滞りが出るのは絶対に免れないんですし……それ
に何より、僕の気が済みませんから……と、潜りの部屋子(?)はクスリ
と笑った。
                      ・
                      ・
                      ・
気晴らしにと、城の天守閣に上ったある日のこと。限られた時間ではあっ
たが青い空と己の膝元にある都の繁栄振りを満喫した後、御座所に戻ろ
うと階段を下りようとして──若将軍は見事、足を滑らせた。

「っの馬鹿……!」

お供の内で、真っ先にそれに気付いたのは、奥勤めながら破格の待遇で
その日の供を許されていた、蛭魔局だった。局が咄嗟に幼君の小柄な身
体に両手を伸ばし、抱き締め、己が細身で覆うようにしながら諸共に落下
し、将軍の頭があわや板敷きの床と衝突しそうになったところで、局は瞬
時に半身を捻って自らを緩衝材とした。御蔭で幸いなことに、将軍の方は
大事に到らなかったものの──

「蛭魔さん、蛭魔さん!!!」
「………」


危険を顧みず命懸けで自分のことを守ってくれた御取締の、沈香芳しく染
み込んだ亀甲文様のお掻取に包まれた、細くしなやかな身体に取り縋れ
ば、声音の出ぬ※血珠色(ちだまいろ)の唇に代わり、眇められた金眼が
何よりもまず先に、己の安否を問うてきてくれた。

あの時に思わず零れた、温かな涙の感触──

「本当に……有難う御座いました……」

掠り傷一つすら付けさせるものかと、小さな身体を力一杯抱き締めていた
局の利き腕の骨折は、全治までにはかなりの時間がかかろうとの、御匙
の診断であった。

「誰が何と言っても、たとえ蛭魔さん自身が嫌がっても、今回だけは僕の
したいようにさせてもらいますから!」
「何アホなこと抜かしてやがる、この糞チビ!」


局の怪我が完治するまで、自分がその身の回りの世話をすると言って譲
らぬ、これまでに無く勇気有る発言で、これまた初めて己の意志を押し通
そうとする若将軍に対し、周囲は呆れ果て、最初は勿論、誰一人としてま
ともに取り合おうとはしなかったのだが──

「命令です! 僕のこの命令に逆らう人は、永の暇を取らせます! それ
とも八丈島に流されたいですか!? 残りの人生全部、※一室に籠もらせ
たまま終わらせてあげてもいいんですよ!?」
(((((!?)))))


特に激しかった、側室たちの珍しく一致団結した反対にも、事の次第を耳
にして、自分専属の御匙を差し向ける故、思い止まれと、配下の者を通じ
て伝えてきた最愛の正室の言葉にも決して耳を貸さず、「一遍死んでこね
ーと治んねえのかテメーのその馬鹿さ加減は!?(≠蝙蝠の御紋の御威
光を一体何とお心得あそばしますか!? 苟しくも天下を統べる御方が一
僕(いちしもべ)の看護をされるなどと……!)」と、本音と建前が逆転して
しまうほどに激怒した蛭魔局自身をも

「怪我人は黙って大人しくしてて下さい!」

と、一喝して黙らせてしまった小さな天下人はそれからというもの、覚束無
い手付きで本当に、看護師と部屋子の真似事を始めたのだった。
                      ・
                      ・
                      ・
「え~っと、どんな形に結いましょうか……」

畳の上に乱雑に広げられた髪型の図案集を見比べながら、小首を傾げて
訊ねてくる少年。この自分ともあろう者が、呆れを通り越して脱力感すら感
じているのは、あながち怪我のせいばかりではあるまい。

「テメーのぶきっちょな腕じゃ無理だ」
「……!」(←両頬を膨らませている)
「……だぁぁー! ったく、栗鼠(りす)みてーに膨れんな!」
「だって……」

一旦臍を曲げた子どもというのは、早く機嫌を直させないといつまでもイジ
イジとしていて、煩わしいことこの上無い。次の間からビクビクと様子を窺っ
ている侍女・小姓たちの目さえ無くば、問答無用で一発殴るか蹴るかして
黙らせてやるのに……!と、白い額と幾筋かの金のほつれ毛が揺れる顳
顬に於いてピクピクしている青筋を押さえながら、軽い溜息を一つ。

「……油適当に塗って、元結で一つに束ねるだけでいい」

仕方無い、※御年寄詰所へ出るのはもう、諦めることにしよう。実際、平時
であれば、自分が厳しく仕込んだ部下たちに口頭で指示をするだけで、大
抵の執務は事足りるのだから。

決定と同時に局は頭の力を抜き、小さな両手にもたれかからせた。いつも
と同じ整髪料である筈なのに、今日は常日頃よりももっと、ずっと心地良く、
頭皮に馴染んでゆく。

(……子ども体温だとやっぱ、満遍無く綺麗に溶けんだな)

独特の香りと心地良い静謐で満たされた、ふんわりと優しく穏やかな時間
と空間──自分には似つかわしくなく、また許されるようなものでもないと
いうことは、自身が一番よく知っている。

だが。

「俺は、テメーと、いつも一緒だ」
「蛭魔さん?」

何があっても、誰が相手でも、必ず、どんなことをしてでも、お前を守る。
この両手は愛も慈しみも知らないけれど、未来永劫、お前を独りぼっちにだ
けは、決してさせない。

「蛭魔さん? 何か言いましたか?」
「……」

訝しく思いながらも、とりあえず作業を始めようとしていた、頼りなげな二の
腕を強く掴み、どうやったものやら、小柄な身体をクルリと反転させ、トスン
と畳の上に押し付けて、上から見下ろす。

「ひ、蛭魔、さ……?」

こんなにも早く好奇心が満たされるなんて、と、眩い金色の滝の内部で少
年は、真ん丸に見開いた目をパチクリさせながらも、ふっと口元が柔らかく
緩んでゆくのを抑えることが出来なかった。

「ふふ……」
「何笑ってやがる」

世界で一番、安全で待遇の良い牢獄。昔はこの静けさが、ただただ怖く寂
しく、どれほどの有形無形の想いが自分を抱き締めてくれているのかにもま
ったく思い到らずに、独り泣いてばかりいたけれど。

「だって……蛭魔さんの髪の毛、頬に当たってくすぐったいんですもん」

いつからか見せるようになった、屈託の無い、心から愉快でたまらないとい
った感じの、朗らかな笑い。

そうだ、お前はいつもそんな風に、花が咲くみてーに笑ってろ。

欲しかったのは至高の権力だったのか、それとも別の何かだったのか、今
となってはもう、思い出す術も無い。

分かっているのは唯一つ。

かつて花盗人だった己が今では、花守人としての職務に命を賭けていると
いうことだけ。

たとえいつか、この肉体が朽ち果てたとしても、あの誓いとこの思念だけは
決して、褪せない、枯れない、滅えたり(きえたり)しない。

「クク……」
「ひ、る、ま、さ……?」

ケーッケケケケケケケケケケケケケケ…………!!!

(ひぃぃぃ……や、やっぱ怖いぃぃぃ……!)

バサァッ!

蛭魔局のほっそりとした首が──首だけが反り返ると同時に響き渡る、高
らかな哄笑。と、同時に何本もの金の格子が、妖しく煌めきながら、一挙に
引き上げられた。

拘束が解かれた花は大樹公という名の“小”樹公に戻り、それを解いたかつ
ての盗人にして現在の守人は、※公(こう)の奥御殿を差配する、鬼神も恐れ
をなして逃げ出すどころか鬼神そのものと評判の、恐るべき辣腕家の大奥総
取締に戻った。

「……政務もテメーの勉強も、しばらくは全部ここで俺が見る。いいな?」
「え、あ……はい」
「野外の鍛練はしばらく休みにしてやっけど、その分このスカスカ頭にみっち
り帝王学仕込むからな、覚悟しとけ」
「はぁ……」
「ま、俺は優しいからな。たまには息抜きの時間も作ってやる」
「じゃ、じゃあ、蛭魔さんって確か、大奥では※連珠(れんじゅ)一番強いんで
すよね?」
「大奥に限んねえぜ、俺の前じゃどいつもこいつも最弱だ」
「あの……教えて、もらえます……か?」
「は? いい年こいて五目並べかよ?」
「だって僕、誰とやっても実力で勝てたこと、一度も無いんですもん……皆い
っつも手加減してくれる上にわざと負けて……」

彼なりに、悔しかったようである。

「は~……ったく、そんなことでしょげんな、この糞チビ!」
「うぅ……」
「俺の教え方は進より厳しいからな、腹括っとけよ? これから俺以外の奴
との勝負で負けたら切腹だかんな!!!」

んでもって上さまが真剣勝負をご所望であらせられるにも拘らず手ぇ抜くよう
な奴は、今後は打首獄門だぜYa-Ha-!と、無事であった方の手で主を抱き
起こし、息がかかるほど近くにまで顔を寄せて、ニッと笑いかけてきたかと思
うと──局は、その※弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の
それにも例えたくなるような美しい指で、ビシッと将軍の額を強く弾いた。

「っ! 何すんですかぁ!?」
「弾き甲斐の有りそうなデコが目の前にあったから弾いただけだ」

ケケケっとふてぶてしく笑う姿に無駄な抗議をしつつ、いつもの調子を取り戻
してくれた彼を見るにつけ、若将軍は堪らなく嬉しいと思ったのだった。
                       ・
                       ・
                       ・
本当に盗まれたのは、誰の心?
本当に守られているのは
本当に救われているのは
だーれだ?
                                         <終>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

語釈

金鶏再び晨す…
正しくは「牝鶏晨す」(ひんけいあしたす)。手元の電子辞書では出典が『書
経』の(牧誓)となっております。要するに、今回も捩りタイトル(笑)。
朝を告げるのは雄鶏というのが、日本や中国に於ける一般的なイメージです
が、雄鶏ではなく、牝鶏が朝一番にコケコッコーと鳴いたら……? 香夜さん
が現在住んでいる辺りでは、どちらも時と所を構わずコケコケ仲良く鳴いてい
るので、香夜さんを含め、誰もそんな事気にしてはいませんが、どうやら昔の
人達はそれをあまり好ましく思っていなかったのでしょうか、この言葉は女性
が男性を押さえ付け、家庭の内外を問わず権力を振るうことの例えとされて
います。そんな事態になれば一族や国家が破滅してしまうYo……!と。お馬
鹿さんがトップになっちゃったら、その人が男だとか女だとか関係無く、物事
って結局駄目になっちゃうと思うんですけど……と、率直に言えるこの時代に
生まれてこれて、香夜さんは幸せ者。
金鶏は『祖庭事苑』という禅宗の辞典に載っている、天界の鶏。この鶏が夜
明けに最初に鳴き、続いて他の(人界のって事か?)鶏達もコケコッコーと鳴
くらしいです。『錦鶏』とも書き、中国語では金も錦も同じ鳥を指すようですが、
日本語では金が伝説の鳥、錦は実在するキジ科の鳥を意味するのだそうな。
錦の雄は金色の飾り羽が頭頂部にあり、首から下も大変カラフルとの事。
蛭魔×瀬那は瀬那受けの原点ですから!(←先日の絵茶で再確認) 貴方
がお元気でないと他の瀬那受けも活きてこないのですよ!という思いを込め
て、拙ブログ大奥では速攻でお元気になって頂きました。とりあえず、うちの
蛭魔さんは、国破れても瀬那が元気ならそれでいいよいいよいいんだぜYa-
Ha-!みたいな(←蝶・意味不明)。え、『春望』? それってなぁに、美味しい
の(´・ω・`)?(笑)

散斑鼈甲…黒い斑紋がまばらに散っている鼈甲。

銀出し…
銀出し油。鬢付け油よりももっと固形然とした整髪油。真葛(さねかずら)の
蔓の粘液を始めとした諸々の材料から作られており、とても良い香りがする
らしい(実物の匂いを嗅いだ事が無いので、本当かどうかは知りませんが)。

血珠…赤い珊瑚を研磨して、宝石として通用するようにしたもの。

一室に~…
押込め即ち禁固刑の事。閉じ込められるのは牢でなく、城や武家屋敷、或
いは寺のどこか一室。

御年寄詰所…
御取締や複数の御年寄たちの執務室。当番交代制で詰めていた。

公…代名詞的敬称。notおおやけ。

連珠…
基本は二人で碁石を交互に打ってゆき、先に自分の色を五個連続で並べた
方が勝ちとなる(縦でも横でも斜めでもいい)五目並べだが、多くのルールが
有り、五目並べよりはもう少し複雑な遊び。

弥勒菩薩半跏思惟像…
この単語を検索サイトに入力して、画像を見るのが最も分かりやすいのでは
ないかと。日本では広隆寺と中宮寺のが有名ですよね。韓国のもなかなか
素敵だと思います(ってかあっちが本家本元?)。


VS白秋戦で蛭魔さんが、ガオたんにズン!ドドドドドド!!!と、右腕を折ら
れてしまったという衝撃のニュースを知った時に「おおおぉぉ……orz!」と殴
り書きしたSS。今回の再UPに当たっては、リンク(?)してたっぽい現代の方
での場面を、完全に削りました(よく“アレ”をUPしてたもんだ、当時の香夜さ
ん/苦笑/覚えていらっしゃる御方はどうか生温く笑ってやって下さいませ)。

あの時はこんな↓感じでした。

例によって例の如く、実物は未だ目にしておりませんけれど、白秋と戦った
チームのQBの悲劇にして悪夢、再びだそうで…蛭魔さん……orz
キッドさんの時同様、激情迸るままにブン殴り書きで御座います。それでも
ショックが大き過ぎて、語釈や更新報告までする気力は……無くなりかけ
の絵具チューブか歯磨き粉を搾り出すが如く、本文を捻り出すだけで精一
杯でありいした……(パタリ/倒)。

夢見たっていいじゃない、人間だもの。


現在は完全復活だの何だのと仰っているようですが、本当に大丈夫なのか
なぁ? 相手はあの大和だし……大和以外の帝黒メンバーも色々と凄いの
でしょうが、悪意の有無に関係無く、やばい事仕掛けてきそうなのはやっぱ
り大和しか思い付きません。“史上最悪の敵”って絶対マルコじゃなくて大和
だと思う。ってかアイシーの“最”ってあんまり信用出来ません。多過ぎたり
コロコロ変わったりで価値が大暴落(?)。

零れ話。本文に上手く組み込めなかったので断念した、大奥の主な皆さん
から蛭魔局へのお見舞いの品々一覧。

赤御台…
実家から持参の蝶・克明な六道絵の模写を、療養中はさぞ退屈であろうか
ら暇潰しにでもせよと、被下(くだされ)。単に「死ね」では生温い上に芸が
無いので、「堕ちろ。そして廻れ」みたいな? クフフのフー……(類似点:
美形だけどキモくて変態、所により冷酷無慈悲。←全世界のナッポー愛好
家の皆さんに謝れ)

進典侍&水町…
水町が実家(魚河岸の大店か廻船問屋。未決定)からお取り寄せした各種
の鮪を進が“素手”で解体し、捌いた刺身盛り合わせ(え)。江戸時代の後
期ぐらい(?)までは、鮪はあまり人々に好まれる魚ではなかったらしいです。
他の魚に比べ、江戸に届くまでに鮮度引いては味が落ちてしまうのが速か
ったのと、「しび」という古名が「死日」に通じて、不吉な感じがするからという
のが主な理由だったそうな。特に武家社会ではかなり忌み嫌われていたよ
うなので、こいつらの場合は直球で「死ね」。
点々と血とか色々な物が飛び散った白帷子着用の進の姿は、その後も長き
に渡り、大奥御膳所の怪談として語り継がれてゆく事になります。ちなみに
盛り付けは水町が担当。江戸っ子二人の斬新な趣向の共同作品は、ドス黒
く変色した血とてんこ盛りの切り身with御頭・臓物・骨がとっても小粋☆ 精が
付いて怪我の治りも速まります★

キッド&筧…
海の御部屋の御庭(室内同様、住人たちに配慮されているので他の御部屋
のものよりも格段に広い)で丹精されている花々の数種類を、ちょっと趣向を
変えて、活け花というよりも、西洋のフラワー・アレンジメントに加工。
お手本とした洋書の植物学の本の翻訳は筧担当、実際の作業はキッド担当。
綺麗には違い無いのだが、白・黄色・紫を中心とした過剰な程の小菊と輪菊、
そして香りのアクセントを添えている大輪の鉄砲百合が挿された青磁の壺と
いうのは……明らかに供花(くげ)、要するに仏花を意識しているものと思われ
ます(笑)。御台さまから頂戴した六道絵の中から、蛭魔さんが一番気に入っ
たものを床の間の壁に掛け、床板の上にこのフラワー・アレンジメントを飾ると、
素晴らしくカオスな空間が出来上がります。そこで食べる御飯(主菜:鮪刺身)
はきっと、格別のお味に違いニャイ(うわ)。

ちなみに強制的にお相伴に与らされた上さまより贈り主さんたちへ、漏れ無く
しばらく口利きませんてか利きたくありません目と目が合ったら光速で視線逸
らさせてもらいます皆酷いよウルウルの涙目で馬鹿馬鹿馬鹿ぁー(;´Д⊂)!!!
の刑を、お返しプレゼント。面と向かって「嫌い」と言われるよりも、或いは走っ
て逃げられてしまうよりも、遥かにこたえるであろう恐ろしい刑罰です(-ー-)b

大奥シリーズに関してのご注意!③(内容重複)

2007年09月07日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
大奥シリーズ本編の『爪紅』及び『朱を奪う紫』、並びに現時点では題名
未定の進典侍編は、another storyである『April shower』とは、まったく
違う世界のお話です。

もともとパラレル小説である大奥シリーズですが、あの平行世界は複数
存在しており、本編の方は全体的に暗い長編連載、カテゴリー名「もう一
つの大奥」の方はそれとは反対にコメディー中心で、大抵Happy Ending
で終わる読切りが多くなる事と思われます。

上記以外は双方、大体同じ設定となっております。そして同じ設定の中
で最も重要なのは、拙ブログの大奥は、男子禁制ではないという事です。

将軍職だけはやはり男系襲職(相続?)ですが、香夜さんの捏造設定に
より(脳内ミキサーで何日も何日も攪拌致しましたけれど、やっぱり小野
不○美先生にだけは、やっぱり日本の方向に向かって土下座しておこう
……お許し下され……orz)、男でも子を生せる事にしてあります(詳しく
お知りになりたい方は、進典侍編③をお読み下さいませ)。

どちらにも有り得たかもしれない“過去”、有り得たかもしれない“未来”
そして決して交わる事の無い二つの“現在”。

以上の事をご理解の上、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

ちなみに、本編とanother storyの温度差は↓くらい御座います。

本編:
ttp://jp.youtube.com/watch?v=avGCYaYMAjs
(国が違いますけど/苦笑。チャングムと同じ舞台で、あんなにも違うもの
か……面白いけど)
ttp://jp.youtube.com/watch?v=CX4sCCfv23E&feature=related
これも国が違う上、香港で制作された作品だから違和感がなぁ……北京
の宮廷なのに皆、広東語喋っとる(苦笑)。衣裳やセット、大道具・小道具
の類なんかの時代考証もされ方、微妙な感じだし。でも、雰囲気的にはま
あ……(普通話Verの最終回は結構、感動出来たし)? が、やっぱし俳
優陣がどいつもこいつも好みに合わない……何故あれがモテる……?
一番笑ったのは側室の下着が、金太郎の前掛けが派手になったものにし
か見えなかった事(笑)。
ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICL-61548
(14番『奥女中』、17番『炎上』。無料で試聴出来ます)
ttp://jp.youtube.com/watch?v=rEmbtS10Yx4
(また国違いますけど、まああまり気にしないで下さい。赤御台→瀬那のイ
メージ。雰囲気と言い歌詞の意味と言い、愛っつーよりも呪いに近い気がす
るのですが、それでこそ赤羽×瀬那なのかも? ボーカルの人の顔がガ○
トっぽかったら更に良かったんですけどねぇ……)
ttp://jp.youtube.com/watch?v=fttNm0jeItY
(これも赤御台×瀬那将軍かな? 女声なのがちょっとアレかもしれません
が……)
他の大奥住人達×瀬那ソングもそれぞれにあったりするのですが、ま、
そちらのご紹介はまたいずれ。


another story:
ttp://jp.youtube.com/watch?v=yxESYh5K_h4
(↑本編も面白いのですが、以下に述べているのはOPについてです)

赤御台×瀬那将軍を中心として、こういった方向に持ってゆきたいと、日夜
精進を重ねているところです(だが方向が明らかに間違っている方向)。大
奥に限らず、赤羽×瀬那のギャグストーリー(without耽美要素)って、↑こ
れに集約されるんじゃなかろうかと真剣に考えている(でも「真剣」の解釈が
間違っている)今日この頃。ちょっと聞いた感じではカッコ良さげで、その実、
何言ってんだかサッパリ分からないカオス。でも耽美要素が入るとこれ、駄
目なんですよね。
ジャ/ガーさんも嫌いじゃないけど、やっぱりマ○ルさんを初めて読んだ時の
インパクトには及びません。瀬那は……め/そ(笑)?
ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICL-61548
(12番『美味に~』、18番『蝶のワルツ』、同じく無料)
ttp://jp.youtube.com/watch?v=RW42-c9_y5k
(映像は関係無いです[苦笑])
セレクトが微妙過ぎるのはまあ、勘弁して下さい(苦笑)。普段あんま、
音楽聴かない人間なんで……(苦笑)。

『April shower (後編)─夢に夢見た胡蝶の涙─』の語釈

2007年05月17日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
おするすると~…
下記の“やは”が無ければ、物事が何事も無く円滑に進行する様子を言い
表す“するする”を丁寧な表現にして、「今年の雪中御投物も無事に終わっ
てよう御座いました、このこと満足に思います」と、いうような意味になるの
だが……↓


や~は~…
“やは”は日本語の助詞(とは言っても現代語ではもう使われていないでし
ょうが。それに“は”の読みはもしかして“わ”だった……? 古語辞典が手
元に無いので確認出来ず、またもうろ覚え万歳☆★(゜0゜(○=(‐_‐○)
意味としては強い疑問を表したり、反語の意味で使われたり。上記の“おす
るする~”とくっ付く事で蛭魔局の怒りを表しており(「~~~満足に思……
ってるわきゃねーだろがぁ! [な]んだこの状況は!?」みたいな)、また
原作でお馴染みのセリフ「Ya-! Ha-!」との掛詞(?)としました(笑)。


被布…
羽織に似ているが、衽がそれよりも左右に深く合わせてあり、そうして重な
った布地の下(内側)になる方の上部が背中を回り(一周し)、今度は上(外
側)の布地のやはり上部、その端っこに来るようにした上で、房付き飾り紐
で留めた、外套のようなもの(もう少し薄手か?)。江戸時代が舞台の時代
劇などでは、武家の寡婦や茶人、俳人がよく着てたように思います(やっぱ
りうろ覚え)。女児の七五三で、三歳の女の子たちが着るものでもあります。


紗綾形綸子…
吉祥紋である卍の形を崩し、それを連ねた模様を織り出した絹織物。


御高祖頭巾…
女性の防寒用具の一種。防寒目的以外に、武家の女性がお忍びで外出す
る時などにもよく使われた。紐が付いてはいるが、見た目だけで言うなら現
代のスカーフで髪の毛も含め、頭部全体から首筋までを(?)きっちり覆った
ような感じ。


管狐…
オコジョの別名。毛皮はアーミン(ermine)の名で有名。蛭魔さんの襟巻きは
白狐のにしようか、これにしようかかなり悩んだ末に、間を取ってこうなりまし
た(笑)。


餺飩…野菜たっぷりの味噌煮込みうどん。山梨県の名物。


匙…江戸幕府や大名お抱えの医者。御典医。御匙(おさじ)。


朝鮮唐津…
藁を焼いた後の灰から作られた白い釉と、茶褐色や黒、鼈甲色の釉を掛け
分けた、或いはどちらかを先に掛けた後、その上からもう一方を掛け流す事
で、二種類の釉が絶妙な模様を生み出す陶磁器類。佐賀県の名産品。特
に茶器には名品が多い。


御三の間…
大奥の御目見え以下の役職の中では最高位の職場。将軍の妻妾や娘、大
奥高職者達の雑用係(意外にも掃除や給仕、ペットの世話、諸備品の管理、
荷物運び等の肉体労働にも従事する)。生粋の武家出身の娘達が「正式な」
大奥勤めに出る際、最初に配置される所(部屋子などの又者はまた別の扱い
なので)。


お火の番…
夜間の見回り当番。深夜0時頃から「火の御用心さっしゃりましょう(さっしゃり
ませー)」と、独特の調子の掛け声をかけながら大奥の各廊下や炊事場、湯
殿などを見て回る。


被衣…
上流階級の女性が外出の際に顔を隠すため、頭から被った衣。平安時代に
端を発する。関東地方では、江戸時代中期までには恐らく廃れていたと思う
のですが、赤羽さんは京都から輿入れしたという設定ですし、何より雰囲気
重視のため(苦笑)、袿をそのまま被っているとお考え下さい。


問わぬは無情~…
『源氏物語』若紫の巻にて、病み上がりの源氏が不仲の正妻・葵の上を久々
に訪ね、見舞いの一言も言おうとしない彼女の冷淡さに不平を述べた際、葵
の上は「君をいかで 思はむ人に 忘らせて 問はぬはつらき ものと知らせ
む」という古歌(出典不明/どうにかして、貴方を想う人達に貴方の事を忘れ
去らせ、愛する人に気にかけてもらえないという事がどんなに辛いかという事
を、貴方にも一度、ガツンと分からせてやりたい……と、いうような意味だった
気が)に絡ませて、「問わぬはつらきものにやあらむ(貴方様のお加減をわた
くしが尋ねようとしないのは、果たしてそれほど無情な事でしょうか? そちら
はわたくしの事、元気であろうがなかろうが、ちぃ~っとも気にかけて下さいま
せんのに……ねぇ?)」と切り返したが、その恨みがましくも気品に満ち溢れ
た流し目は、気後れしそうな程に気高い中にも若干の恥じらいが含まれてい
て、何とも言えず美しいものであったと書かれている(……ツンデレですか?)。
赤羽さんの場合は視線でなくお声をポイントとさせて頂きましたが。


瑩貝…紙や絹に光沢を出すため、こすり磨く時に使われる貝殻。


緋の袴…
紅花で染めた袴。紅の袴とも称する。基本的には大人の皇族・公家女性が着
用するもので、江戸時代には公家・武家問わず、無位無官の者は着用出来な
かったという。赤御台様は宮家のご出身ですから問題無し(多分)。


伽羅の御方…正妻の隠語。


くべれば~…
琥珀は香料としての使い道もある(これは本当、広/辞/苑にも載ってます)。
燃やすと良い匂いがするらしい(こちらは真偽不明。何かの薬品と一緒に加
熱するとか、一定の条件の下でというのなら分かるが……)。改めまして、雰
囲気重視でお読み下さいますよう、お願い申し上げますm(_ _)m


薫紙…香料を染み込ませた紙。


いとぼい…京都の御所・公家言葉で“可愛い”。


解語の花…美人。


紅顔…若さと美しさに満ちた顔。


直千金…
北宋の政治家にして著名な文人・蘇軾の作品『春夜(詩)』の中の起句(第
一句)、“春宵一刻直千金”(しゅんしょういっこくあたいせんきん)。花かぐわ
しく咲き乱れる春の朧月夜の情趣は、ほんの一刻だけでも、千金以上の価
値があるという意味。


『千里集』…
平安時代前期の漢学者にして歌人(中古三十六歌仙の一人)・大江千里
の著した『大江千里集』の事。「照りもせず……」はその中にある歌で、白
居易のある詩を日本語に翻訳したもの。後には新古今集の春の部にも入
れられた。意味は読んだ通りそのままで、ハッキリと照り輝く訳でもなけれ
ばどんよりと曇り翳っている訳でもない、朧な春の月夜に勝るような美しい
景色なんてある訳無いじゃない……みたいな。またまた源氏物語でアレな
のですが(香夜さんそんなに好きだったっけか?)、花宴の巻で朧月夜の君
が口ずさんだ事により、以降の時代でより広く人口に膾炙したのだそうです。
“しく”(如く)が“似る”になっている事もあり。
赤御台様ご機嫌なので、フォントが桜月夜のほわわんピンクとファンシー黄
色に……(笑)!


奢れる人も~…ご存じ、『平家物語』の冒頭文(序文?)より。


玉露…露を玉に例えた言葉。今回はnotお茶(笑)。


春の雪…
冬に降る普通の雪と比べると雪片が大きくまた柔らかく、積もってもすぐに
溶けて消えてしまう事から、儚さの象徴でもある。そんな淡雪で雪合戦が
出来るのか、それでも一応雪は雪、雪がまだ降る時期に八重桜が開花し
ているのか、そして何より日にちが旧暦3月1日、即ち欧米の太陽暦では4
月1日万愚節に当たるという事で、『April shower』前後編は大奥シリーズ
本編ではないのですよ~と、強調したつもりなのです、香夜さんは。

April shower (後編)─夢に夢見た胡蝶の涙─

2007年05月17日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
ズガァァン! パラパラパラ……

襖、柱、畳、障子の木枠と到る所、また障子紙、縁板の一枚一枚に至る
まで、代々の住人たちの愛憎や紅涙が、脂粉の甘やかな匂いや幽艶な
る名香の数々と共に染み込んだこの世の秘境・大奥。そこに於いて数年
前より現在の住人たちの鼻を掠めるようになった、実体のある分、幻妖
などよりも遥かに危険と恐れられている、火薬の臭い。

四人の側室たちの互いに一触即発の危機にあったこの場を収めたのは、
たった一発の銀の弾丸であった。

「本年の雪中御投物も※おするすると済みやりまして祝着………………
や~は~!?」

孔雀緑の※被布(ひふ)も鮮やかに、その下には白妙の※紗綾形綸子
(さやがたりんず)の小袖の裾、優雅に長く、頭部には白い※御高祖頭
巾(おこそずきん)。首回りは如何にも暖かそうな※管狐(くだぎつね)の
純白の毛皮襟巻きで飾られている。黄金作りの銃把煌びやかに、女の
肢体にも似てある種独特の艶かしさを感じさせる銃身の、つやつやとし
た黒光りとの対比も目に眩い、ご愛用の短筒を白くしなやかな指先でク
ルクルと器用に回しながら、居丈高に周囲を睥睨するその人こそ、大奥
総取締・蛭魔局である。その両肩の辺りでバチバチと青白い光を放つ静
電気に、一同慌てて正気を取り戻し平伏。中庭のお末・お半下たちに至
っては哀れにも、水町を除いては全員、雪中に跪く破目に陥った。
                      ・
                      ・
                      ・
「鬼の居ぬ間にってか、この糞チビ……」

いっそ永遠に病魔と関らなくて済むように楽にしてやろうか?と、キッドの
部屋から更に別の、誰にも属さぬ部屋へと病室を移され、蛭魔局に両頬
を今、餅のようにギュウギュウと抓られ伸ばされ上下にグルッと回して猫
の目をされている瀬那は、ただもう涙目で「ごめんなひゃいごみぇんにゃひ
ゃいひふみゃひゃんごめんにゃふぁ~い!!!」と平謝りする他なかった。

「もうひまふぃえんふぁら~、なほるみゃでぃえひゃんとねてまふきゃら~、
だはらみんにゃのことわゆるひへあへふぇくだひゃい~~~!!!」

身分の上下に関係無く、仕置きとして、今頃は全員仲良く(?)表の下人
たちに代わっての雪掻きに従事しているであろう、大奥の者たち──とり
わけ四人の側室の安否を、幼将軍はこんな時でも心配する。

「……チッ」

ボフンと乱暴に瀬那を布団の上に放ると、窒息死でもさせたいのかという
ような勢いで局は、その上からボフボフボフと何枚もの掛け布団と毛布を
落とした。続いて今度は右の袂から取り出した※朝鮮唐津の茶碗の中に、
左の袂に入っていた玻璃の水瓶の中身を空け、更に懐から取り出した小
さな薬包の中身をその中に空けると、局は茶筅で碗の中身を手際良く混
ぜ始めた。

(ヒエェェェェェ……まさかホントに毒殺されちゃう!?)

ガタガタと震え出した瀬那の様子をチラリと一瞥すると、フンと鼻を鳴らし、
右の口端だけを器用に歪めて人を小馬鹿にしたような嘲笑を躍らせると、
蛭魔局は攪拌の手を止め、確認するように中身の匂いを嗅いだ。そして
一口を口中に含むと、どうやら納得のゆく出来だったようで、小さく頷いた
局は、茶碗を瀬那に突き出した。

「おら、とっとと飲みやがれ」
「え……あ……」
「ただの薬だっつーの、毒見までしてやっただろが?」

大分良くなったみてえだから今までのより軽い薬に替えさせたと言う蛭魔
局に対し、それでも茶碗の内側に毒物判定のための銀箔が張られていな
いことから、まだぐずぐずとする瀬那。

「チッ……手間かけさせんじゃねえ」

とうとう痺れを切らした局は、迅雷の如き速さで茶碗の中身を呷り、そして
乱暴な手付きで瀬那を引き寄せると、驚愕の形に開かれた唇に己のそれ
を重ね、口中に含んだ薬湯を一気に幼主の食道に流し込んだ。

「ん……んん~……!」

脳髄をクラクラと痺れさせるような甘い芳香に反して、微かな苦味が口一
杯に広がり、一筋だけ、飲み切れなかった液体が瀬那の胸元を汚した。

「飯食ったら後はもうとっとと寝ろ……おい、そこに控えてる奴ら! 膳所
に今晩は※餺飩(ほうとう)作るように言ってきやがれ! 糞※匙(さじ)が
今日からはもう粥やめてもっと滋養のあるモン食わせろっつってたってな」

軟らかくなるように長時間の煮込みを命じ、そして最後に懐紙でサッと瀬
那の濡れた口元と首筋を拭うと、少し離れて目と口を真ん丸くしたまま硬
直しているお供の※御三の間女中たちを置いてけぼりにして、蛭魔局は
何事も無かったかのようにさっさと寝所を出ていってしまった。

(相変わらず傍若無人な人だなぁ……)

伽羅の残り香に先程の口移しを思い出し、瀬那の顔が薄く上気する。

(表でも奥でも将軍職って、気苦労の方が多い……ってかそれしか無い
んじゃ……血筋のことさえなかったら蛭魔さんこそ適任なのになぁ……)

そう思って溜め息をつく瀬那に、将軍寝所を下がろうとしていた蛭魔局付
きの御三の間の少女たちの内の一人が、去り際、聞こえるか聞こえない
かの小さな声で早口に囁いていった。

「蛭魔局さま本日初詣の折、お参りは形ばかりで済ませ、我ら大奥の者
一同を先に帰らせたる後、供させた蘭医に霊験あらたかと評判の御神水
を調べさせた上で、御自ら水瓶に汲んでまいられた由……」

わたくしどももつい先程、警護に残った伊賀者たちより漏れ聞きましたる
次第……と、遠ざかっていった声の余韻に浸りながら瀬那は、自分の病
状は一両日中に必ず完治するだろうとの確信を抱いた。

心身が風邪の発熱とは何やら違った、快い暖かさを感じるようになったの
は、遠方より微かに流れ込んできて鼻腔と胃の腑をくすぐる、香ばしい味
噌の匂いのせいだろうか。
                      ・
                      ・
                      ・
そうして夜も更けた頃。日中のほどよい疲労に加え、蛭魔局お手製の薬
湯がよく効いたのか、すやすやと眠っていた瀬那だったが。

シュッ……シュッ……シュッ……シュッ……

不思議な物音にふと、目を覚ました。

「ん~~~……?」

普段ならば(お、お化け!?)と、すぐに恐慌状態に陥る小心者の瀬那な
のだが、今宵に限っては何故だか落ち着いている。ハッキリとした根拠こ
そ無かったが、彼の第六感が告げていたのだ。

(幽霊とか刺客とか……怖いものじゃない……でも掛け声しないから※お
火の番の人たちでもない……この音は……これは……)

下賤の者では決して有り得ない、体の重さをまったく感じさせず、衣擦れ
だけが軽やかに響く、足音の無い、雲の上を滑るような独特の歩き方。

瀬那は一度大きく深呼吸をし、目を閉じて刹那の瞑想に耽った。五感を研
ぎ澄ませ、彼が再び目を開けた時には、真っ白な障子に月明かりが不思
議な影を映し出していた。スッと起き出して、襟元と姿勢を正す。

「どうぞ、入ってきて下さい……」

相手は軽く驚いたような気配を示した。やがて音も無く障子が左右に開く。

ザァッッ

早春の朧月夜の淡く優しい光と、未だ雪が残っているこの時期にしては
珍しい、練り絹のように滑らかでしっとりとした、少々の湿り気を帯びて肌
に心地良い夜気が、淡紅色一重のものよりも遥かに濃艶な色合いと作り
の八重の桜吹雪と共に室内に入り込んできた。

「!」

その勢いに驚いて瞬きを二、三度繰り返し、気が付けば目の前には白い
※被衣(かずき)の──

「やっとお見舞いに来て下さった」

瀬那の声にも表情にも喜びが溢れんばかりであった。

「※問わぬは無情だったかな?」

囁き声の一語一語が、まるで意志を持った人の手のように瀬那の背筋を
撫でさすり、聴覚を甘く刺激する。

「~~~っ、無情も無情の大無情ですよっ! 僕たち結婚してるのにっ!
赤羽さんの意地悪! 嗜虐趣味! 人でなしっっっ!!!」

顔を紅潮させ、乱暴な動作で眼前の白被衣をバサァッと取り去ると瀬那は、
夜目には昼日中よりも更に艶に美しく映る紅毛赤眼の、やんごとなき正室
に抱き着いた。

「フー……だがその人でなしに御身を抱き締めさせてくれる瀬那君、君こそ
未だ僕を本名で呼んでくれないとは、何と水臭い……」

何だか畏れ多い気がして……と、“つま”の名を呼び捨てにすることを躊躇
った瀬那が、「愛が足りない」と不満気な御台所に出した妥協案、それが、
御台所の生家から“宮”一字だけを取り除いたこの「赤羽さん」という呼び方
だった。

「う……そ、それについては、その……す、すみません、練習は続けてるん
ですけど、やっぱりまだ、どうしても……」
「構わないよ、ゆっくりやればいい……だが今の呼び方に、もっと甘く、愛を
込めてもらえると嬉しいんだが……」

くつくつと忍び嗤われながら耳元に吐息と共に吹き込まれた内容に火照ら
された顔を、瀬那は相手の氷襲(こおりがさね)──糊張の後に※瑩貝(よ
うがい)で磨かれて、艶やかな光沢を放つようになった白瑩(しろみがき)の
表地と、白無紋の裏地で作られた柔らかな冬の襲に埋めて隠し、心を落ち
着かせようとしたが、しかしそれは逆効果にしかならなかった。

日除け眼鏡をかけていない、妍麗に過ぎる顔──特にその紅匂やかな視
線から逃れようと、己の顔を御台所の胸元より下に移動させようとして、却
って目に付いた※緋の袴の鮮麗さ、そして全身から漂う香気に瀬那は、当
初の目的も忘れ、陶然とした。

「……赤羽さんの匂い、いつもと違う……???」

蘭花の匂いのようでもあり、麝香のようにも感じられ、その二つが絶妙に
混じり合ったような、けれどやはりそのどちらでもないように思える、不可
思議な芳香。

「フー……やはり三日三晩焚き染めさせた甲斐があったかな……」

満足の吐息を漏らした御台所の説明によれば、蘭奢待という名の、入輿
の際に禁裏より賜った、奈良時代より伝わる由緒ある唐の香木とのこと。
沈香の最上のものは伽羅であるが、更にその伽羅の中でも最高のものと
いうのがこの、蘭奢待なのだそうな。

「他の者たちがどれほど念入りにめかし込んだところで……やはり一番は
※伽羅の御方だと……瀬那君には覚えておいてもらわないとね……」

ただの伽羅ではあの忌々しい御取締と被って癪ゆえ、京から持参してきた
貴重なそれすべて、使い切ってきたよと、勝ち誇ったように報告する麗人の、
思いも寄らなかった子どもっぽい負けん気に瀬那はつい、クスリと小さな笑
みをこぼしてしまう。

「……お気に召さなかったかい?」

ムッとしたように柳眉を逆立て、御台所の美声が氷柱の冷艶さを帯びる。
だが今日の瀬那はそれに怯んだりしない。

「いいえ、いいえ……白檀でも、“らんじゃたい”でも、赤羽さんの匂いなら
全部、僕の大好きな匂いです……」

そう言って見上げてくる一対の琥珀こそ、我が身を焦がす恋慕の炎に※く
べれば、さぞかしの清香を発するだろうに……などと考えてしまう己の心こ
そ、恋の甘過ぎる香りに酔い痴れているのだろうと御台所は考える。

「嬉しいことを言ってくれるね」

象牙の色と質感をした額に、両頬に、小さな鼻に、そして桜唇に自分の唇
を落としてやれば、小さな背の君は嬉しそうに笑みを深め、その小柄な体
を更に自分に摺り寄せ……ようとしてふと、その小動物のような動きを止め
た。そして突然、目にも留まらぬ速さで後ずさる。

「瀬那君……?」
「……ごめんなさい、僕の風邪、まだ完治してなくて……赤羽さんに移し
ちゃったりしたら、悪いですから……」

御台所は静かに立ち上がった。そして背の君の傍へと再び近付くと、胸元
に差し込んでいた白檀の扇を取り出して、パタ…パタ…パタ……と、ゆっく
り開くと、それを瀬那の頤の下に差し込んで、小さな顔を上向かせた。

「大丈夫、恋に溺れた馬鹿者は風邪如きにやられたりしないよ……」
「え……?」

大奥の者たちが愛用する※薫紙(くんし)の上に趣のある色鮮やかな絵を
描いた絵扇、或いは金銀の箔を散らした豪華な金扇・銀扇、または美麗な
友禅扇にたっぷりと上等の香を焚き染めたものとて、御台所ご愛用の中華
より舶来の骨董品、かの地で古の昔に栄えたある王朝の皇后が愛用して
いたと言われる、何本もの上質の白檀の骨の上に名工が繊細な透かし彫
りを施し、それらを純金の細い鎖を連ね、房飾りのようにして束ねた逸品の
細工の見事さ、そして幾年月を経ても一向に衰えぬどころか、却ってますま
す強まってゆく妙香には、決して敵うまい。

「※いとぼい瀬那君……」

如何に多くの※解語の花(かいごのはな)たちに囲まれて日々暮らし、それ
らの様々な魅力に素直に感嘆はしても、この赤御台の稀少な笑みのあでや
かさ、また美声、魅惑の香りなどを始め、彼に勝る存在は、瀬那の小さな世
界には確かに、存在しなかった。

「さあ……」

真っ直ぐに伸びた姿勢はそのままに、ゆっくりと腰を落とし、膝を曲げ、そして
徐々に近付いてくる白皙の※紅顔。

「おいで、僕の所へ……」

薄い唇から紡がれる誘惑の糸が、瀬那の耳朶から脳への侵入を図る。

「で、も……」

夜更けに、それも無断で寝所を抜け出し、しかも行き先が山里の丸とあって
は、明朝に蛭魔局からどのように叱られるか分かったものではない。

(もう一押しといったところか……)

そこで御台所は一気に攻勢をかける。

「フー……残念だよ、瀬那君……この間の鏡開き、てっきり僕の所へ遊びに
来てくれるものと思っていたのに、あの日の君は中奥で生真面目に具足開
き……御庭に出たと聞いて今日こそはと、氷室に保存しておいた餅でうちの
膳所にもう一度おすすり……ああ、大奥ではおゆるこか……おゆるこを拵え
させておいたんだが……」
「えっ……」

“おすすり”は京の御所言葉、“おゆるこ”は大奥言葉、共に汁粉のことである。
正月十一日、将軍は具足(甲冑)の前に供えていた餅を雑煮にして食するが、
奥御殿でのこの日は、鏡台の前に供えていた鏡餅を汁粉にして食べる“鏡開
き”である。

瀬那は雑煮も嫌いではないが、年に相応しからぬ子ども味覚で、甘い物が大
好きだった。しかもキッドの部屋でこの間お八つに食べさせてもらった京風の
汁粉は、関東風のものよりも更に瀬那好みの味だったのである。

「君がきっと気に入るだろう新しい琵琶曲がまた里より届いてね、かなり難しく
はあったがこれも先頃、ようやく完全に習得して、ぜひ君に聞いてもらいたいと
思っていたんだが……フー……実に残念だ……」
「あう……」

狙い通りである。甘味をチラつかせるだけでなく、先日と今晩二つの恨みを皮
肉にならない程度に仄めかし、尚且つ“今日こそはとの折角のもてなしの用意
が……”と、瀬那の良心にチクチクと訴えかける策である。さも哀しげな表情を
作ることも忘れない。傾城傾国の美貌に加え、極端な例えをするなら、伝え聞
く江戸吉原は百戦錬磨の太夫でもほだされるであろう、恐るべき手練手管だ。

「蛭魔たちのことなら心配しなくていいんだよ? どうせ……」

ふいに言葉を切って唇を弓形に反らせた御台所に、(話、通ってるんだ!)と、
真実とは正反対の希望的観測を持ってしまった瀬那は、瞬時にパッと目を輝
かせた。

「僕、行きたい! 連れていってもらえますか?」

(計算通り)と会心の笑みを浮かべた御台所。どこか別の世界の別の時代、
別の場所でなら、既存の世界を破壊し尽くした後、まっさらな新世界を創り
上げ、その神にもなれそうなほど衝撃的なその表情ではあったが、彼が俯
いていたこともあり、哀れな仔羊の純真な双眸に残酷な真実が映ることは
無かった。赤御台の方もまた、この先、その紅夜叉の嬌笑を、たとえどのよ
うな手段を講じても絶対に、背の君にだけは見せないようにするつもりであ
る。

「きっとそう言ってくれると思っていた、嬉しいよ。では早速……」

バサァァッ!

瀬那の背後に投げ捨てられていた白被衣が御台所の、瀬那よりも遥かに長
い腕の片方に引き寄せられて、再び宙を舞った。その翻る中、瀬那の目に映
った裏地の鮮紅──花嫁御寮の紅絹(もみ)の赤。

呆気にとられた瀬那の視界は※直千金(あたいせんきん)の風雅な春宵一
刻から一転して、熱情の紅炎燃え盛る、しかしながら薫香芳しく奇妙に優し
い感触の不思議な世界へと変わったかと思うと、その小柄な身体はふわり
と心地良い浮遊感に包まれた。
                       ・
                       ・
                       ・
照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜にしくものぞなき……

月華の下、※『千里集』に出てくる古歌を口ずさみながら、貴重な“戦利品”
を両腕に優しく抱きかかえ、もと来た道を再び滑るようにして進む、不気味
なほどにご機嫌な紅の人妖が一匹。そしてその後をトボトボと付いてゆく、
あやかしの手下にしては善良過ぎる一組の男女。

(なあ樹理、オレ今無性に“曲者じゃー! 出合えー出合えー!!!”って
叫びたくてたまんねぇんだけど)

御台所と人攫いっておんなじ意味だったっけか~?と、小声でぼやく光太郎
の背中を樹理は軽くポンと叩き。

(我慢よ我慢、それやったらうちのアレだけじゃなくて、蛭魔局さまや四人の
御方々全員敵に回して、死んだ方がマシってな目に遭わされるわよ?)

まあ気持ちは分かんなくもないけどねーと、明後日の方向に遠い視線を彷徨
わせるのだった。
                        ・
                        ・
                        ・
「ねぇ、知ってる?」
「「「?」」」
「今、多分、御台さま瀬那君とこ来てるよ」
「「「!!!」」」

何か色々おかしいと思って雪掻きの間、鉄馬に調べさせといたらさぁ、どうも今
日のことって、山里の丸の筋で逐一仕組まれてったぽいんだよね~と、苦笑が
ちに杯を口に運ぶ部屋の主、キッド。現在、彼の御部屋では彼自身を含めた四
人の側室たちの残念会(?)が、大好評開催中である。

「……成程。騒がしいことがお嫌いなあの御台所が御投物を見に来ないのは
当然のことと、さして気にも留めていなかったが……よくよく考えてみれば確か
に、御台所がおられれば我らも己の言動、日頃より更に慎まねばと細心の注
意を払っていた筈……」

御台所と言う名の枷が無かったからこそのあの醜態と、眉間の皺の数を増や
す進典侍。

「くっそ……分かってりゃあんな馬鹿な真似……」

愛しの君は今頃“紅蓮地獄”(筧命名)の中かと、筧は畳を拳で打ちつける。
勿論、ご存命中の幼将軍のすべらかな肌に、八寒地獄第七層の酷寒によ
る、大出血を伴う凍傷など出来よう筈も無い。あるとすればそれは、ここのと
ころは日に当たることも少なかった雪膚に今この瞬間も一枚、また一枚と散
り敷かれてゆく桜の花びらの如き、“鬱血”の痕だけだろう。

「せなぁぁぁ~~~……vvv」

既に酔いつぶれ、桃源郷で一人、上様との逢瀬を楽しんでいるらしい水町に、
筧の冷ややかな視線が向けられる。へべれけ水町の両腕の中に閉じ込めら
れ、必要以上の頬擦りやら接吻やらを与えられてもがいていた黒白のブチ猫
と白毛長鼬は、筧の八つ当たりの気配を敏感に察すると、とばっちりを喰らっ
てはかなわぬとばかり、水町の腕や顔に爪、牙を立て、その拘束から必死の
脱出を図る。

ゴン!

そして水町の頭に銚子がゴンと鈍い音を立てて命中し、その束縛が緩むと同
時に、二匹は一目散に紫苑の方御部屋を走り出ていったのだった。

「……っ痛ぇぇぇ! あにすんだよ筧ー!」
「ふん、知るか」

真昼の決闘の延長戦を始めた御中臈二人を尻目に、「若いっていいよねぇ」と
肩をすくめながら、キッドが進典侍に更に酒を勧めれば、進典侍はそれをただ
黙々と飲み干してゆく。

「ま、今日明日のところは潔く負けを認めましょ」
「※奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し……」
「おや、こいつは珍しい」
「……っ!」

キッドが茶化すように目を見開けば、(しまった)とでも言いたげな進典侍の、
珍しくも狼狽の色を滲ませた表情。

(何だ、昼間の嬉しそうな顔といい、ちゃんと喜怒哀楽あんじゃない)

新発見に気を良くしてか、キッドの杯も更に進むのだった。

そして翌朝は、大奥の至る所に残る壮絶な戦いの痕跡(重量級)、もぬけの殻
の将軍御寝所とそこに漂う蘭奢待の残り香、白くもあり赤くもある“何か”がその
周辺をふわりふわりと漂っていたとのお火の番たちの報告に、恐怖の連鎖反応
で昨夜からずっと恐怖に慄き、今もまともに仕事を始められぬ大奥女中たち、ま
た笊二人のせいで、一滴の酒も残っていないと大奥中の膳所から申し立てられ
た苦情に対し、怒りを爆発させた蛭魔局の短筒乱射で始まることになる。
                        ・
                        ・
                        ・
繊細華麗な蜘蛛の巣編みに捕らわれて、動けぬ蝶は何度も、何度も、自問を
試みた。己が昨日から今日にかけて目にしてきたすべてを、繰り返し反芻しな
がら。

ピチャン……

だがその都度、己を喰らい尽くさんとする赤い蜘蛛の貪欲な動きが、雪解け水
の白露を幾つも貫いている糸の一本一本を揺らす。その※玉露が蝶の瞳を濡ら
しては涙のように流れてゆき、蝶の思考の邪魔をするのだ。

はてさてはてさて、己が蝶か、貴方が人か?
はてさてはてさて、貴方が蝶か、己が人か?
※春の雪降るこの世界、果たして夢か、現か、幻か?

<完>

『April shower (前編)─真“春”の“日”の夢─』の語釈

2007年05月10日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
湯文字…
腰から膝の少し上にかけてまでを覆う、女性の和服用下着。腰巻とも
言う(アケムラの紫苑御方の服装と名称が被るので、今回は“湯文字”
を採用)。
下着まで女物ってどうなんだろうと悩みつつも、さすがに水町に褌一
丁で雪の御庭を駆け回らせる勇気は有りませんでした。香夜さんにも
未だ、失う事の出来ないものが有ったという事ですか(苦笑)。それに
湯文字ならトランクスやそれ型の海パンに見えなくもないし(パンツとガ
ードルを一緒にしたようなものとよく聞きますが、タイトの巻きスカートっ
ぽい気も……)、下半身の冷え防止にもなりますから。でも水町、中が
ブラブラして邪魔か……ゲフ、ゲフン!(慌)


三月朔日、白襲…
表裏とも白地を用いる“襲の色目としての”白襲は、四月一日からの
衣替えに使われていた(今回は旧暦を使っておりますので、三月と
書きました)。それを進典侍は更に重ね着している訳です。


真綿…
綿花ではなく、生糸に加工出来ない品質不良の繭を引き伸ばして綿
状に仕上げたもの。柔らかさ、軽さ、暖かさを兼ね備え、主として防寒
用衣類に用いられる。


羅紗…
毛織物の一種で羊毛から織られている。江戸時代は鎖国貿易からの
輸入品が殆ど。


打裂羽織…
乗馬や旅行などの野外活動を目的として武士が着用する羽織。背筋
の縫い目の下半分は縫い合わせず、裂けたままにしておく。


本天…ビロード。


野装束…
江戸時代の武士の旅行時などの装い。野袴(絹や縞模様の織物か
ら作る、裾にビロードの広い縁を付けた袴。作中、素材が羅紗であっ
たり、縁を細くしたりしてあるのは、香夜さんの趣味です)と打裂羽
織を着用。


梨打子烏帽子…
紗、羅紗、綾織物などを揉んで、柔らかく作った烏帽子に薄く漆を塗
ったもの。鎌倉時代の辺りから武士たちが使うようになったものらしく、
正式には兜の下に着用するらしいが、陣中(陣屋)ではこの烏帽子
だけで済ませていたようである。江戸時代以降はどちらかというと儀
式用? 現代に於いては雅楽師さんなどが被っていらっしゃるそうで
す。


丁銀、豆板銀…
共に江戸時代の銀貨。丁銀は“大黒”、“常是”、“宝”の文字と、偽
造防止及び品質証明のために大黒像の印が捺されており、ナマコ
のような形をしている。豆板銀は丁銀の補助的役割を担っていた豆
粒型の銀。必要に応じて丁銀を切り刻んで使わねばならない“切銀”
(きりぎん)の不便を避けるために使われていた。


軟玉…
一般に宝石の“翡翠”として有名な硬玉(翡翠輝石/jadeite[ジェダイ
ト])と混同されがちだが、それよりは産出量が遥かに多く、価格も懐
に優しい玉(ぎょく)、即ちnephrite(ネフライト)の事。値段の割に大ぶ
りで良質のものも多い上、硬玉より細工に適している。


準貴石…
美しくはあるが、宝石よりは産出量が多かったりするなど、価値が多
少下がる装飾品材料の事。鉱物が殆どと思われる。


お透見屏風…
簾を中に張り詰めて、外の様子が透けて見えるようにした屏風。本来
は夏の納涼用だが、季節を問わず貴人の行事見物の際など、その姿
を覆い隠す目的で使われたりもした。


懐かしき…
①傍にいたい、ついていてあげたい。
②優しく、心惹かれる感じ。
③可愛い、愛おしい。
④思い出されて慕わしい。


和時計…錘を動力とする日本独自の時計。


手套…手袋。


黄貂…
貂はイタチ科テン属の哺乳類の総称。体長はどの種類も大体40㎝前後。
日本の本州北部に住む黄貂の冬毛は四肢の先端部分(黒色)を除いて
は黄色い。最高級は欧州やアジアの北部、また北海道に生息する黒貂
の毛皮、セーブル(sable)。でもキッドさんがそれ着てると、ただでさえ下
が豪華なんで、派手過ぎて何か興醒めだなぁと思い、黄色の方にしまし
た。銀座の女帝じゃないんですから……(西部の女帝説は否定しません
が/笑)。それに黄・白・紫にしておけば、春の三色菫(パンジー)にもな
りますし。


香炉峰~…
ご存知の方も多い筈、『枕草子』中のエピソードより(段忘れました)。唐
中期の詩人・白居易(白楽天)の七言律詩;
『香爐峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁』
(香炉峰の下 新たに山居を卜し 草堂初めて成り 偶々東壁に題す)の
中の第四句;
「香爐峰雪撥簾看」(香炉峰の雪は簾を撥[かか]げて看[み]る)
に関して、平安中期の一条天皇の最初の中宮・藤原定子と、その女房で
あった清少納言の間で交わされた知的な遣り取り。進典侍は瀬那に『論
語』などの漢学(漢文学)の他、国学(国文学)も教えているという設定に
してあります。


黒別珍…
黒い綿ビロード。絹100%である本天(本ビロード、所謂“ビロード”)に対し、
綿糸との交ぜ織、または綿糸だけを用いてそれらしく織った織物を指す。


白鯨~…
モビィディック・アンカー(Moby-dick anchor/笑)。“Moby-Dick”(モビー
・ディック)はHerman Melvilleの、映画化もされた有名な小説『白鯨』に出
てくる鯨の名前なんだそうです。


貝紫…
アッキガイ(悪鬼貝)科の巻貝の、内臓の中にあるパープル腺という腺を
取り出し、磨り潰し、日光に晒して染料としたもの。日光に晒すと初めは
黄色、または白色だったものが、徐々に赤みを帯びた独特の紫色になっ
てゆく。1gの染料を得るためには2,000個以上の貝が必要とされ、古代ギ
リシャや古代ローマに於いては“帝王紫”と呼ばれて大変に珍重されてい
たが、乱獲により15世紀中頃には貝がほぼ絶滅。幻の染料となってしま
った。
日本でも弥生時代に僅かに使われていたらしいのですが(国内のどこか
の遺跡から出土品が見つかっているそうな)、それ以降の日本では植物
染料が一般的になっていった筈ですから、まあ今回も捏造という事で一つ
<(^^;
現代日本でもイボニシガイやレイシガイといった貝を使えば、紫の色は出
るようですが、赤みはあまり出ないみたいです(紫苑の方のお着物には
その方が良いと香夜さんは思っています。赤紫は赤御台系の色ですから)。
それに海洋生態系にも良くない影響を与えるでしょうしね(--;A
キッドさんは瀬那から許可を得て天領か、海が近くにある藩にでも人を遣
って、貝を採ってこさせたんじゃないでしょうか。まあ、あまり深くは突っ込
まないでやって下さい(苦笑)。


腰紐…
着物(女物)の丈を整える目的で腰に結ぶ紐。


天也~…
『荘子』養生篇のどこかにあった言葉(うろ覚え/オイ)。


綿帽子…
真綿で作られた被り物。現在でも白無垢の花嫁は角隠しを使うか、これ
を被る。もともとは男女兼用の防寒用具で、至ってシンプルなものだった。


君子は~…
『易経』(革卦)の“君子豹変、其文蔚也”(すみません、私これ訓読出来
ません……orz)。“君子というものは自分が間違っていたならば潔くその
事を認め、隠したりしようなどとはせず、さながら豹の毛皮が秋、冬毛へ
と一気に変わる鮮明さにも似て、誰の目にも明らかなように、その間違い
を堂々と直すものである”というのが元来の意味。しかし時の経過と共に、
“利害関係などによって、それまでの考え方や態度をガラリと一変させる”
という、非難の意味を含んだ言葉としても使われるようになってしまった。
同書の“小人革面”、また『論語』(衛霊公)の“過ちを改めざる、これを過
ちという”と、(子張)の“過ちを文(かざ)る”を知っていると尚Good。進典
侍と紫苑御方の知的水準は同じくらいなので(無器用さの事さえ無けれ
ば、武士の対応には武家出身者をという事で、瀬那の看護士は進典侍
が務めていてもおかしくなかったんです/苦笑)、作中に進典侍の“発言”
としては出てこなかったこれら三つの言葉も、紫苑の方の方ではしっかり
“感じ取って”います。
思想書(?)や古典というのは、時代や人によって解釈が異なりますし、
そもそも最初にその考え方や言葉を口にした人、或いは作者が、どのよ
うな意図を持っていたのかという事は、現在では確認の仕様が有りませ
ん。ですので当然の事ながら、香夜さんの説明をすべて本気に受け取っ
たりはなさらないで下さいね。それこそ必要と場合に応じて、都合良く解
釈している事が殆どですから゜・゜*・(゜O゜(☆○=(`◇´*)o)


黒鍬~…
黒鍬は江戸城内の雑役夫。御庭番はこのお話の中に於いては、時代劇
や歴史小説でよく知られている隠密ではなく、御庭の番人を兼ねた庭師、
植木屋さんのようなものとお考え下さい。大奥の雪合戦の後には彼らが
御広敷役人たちの指揮の下、本格的な除雪作業を行います。


柳色…水色。

April shower (前編)─真“春”の“日”の夢─

2007年05月10日 | もう一つの大奥(瀬那総受/読切り)
大奥ではほぼ毎年恒例、冬から春にかけ、一の側長局の中庭に雪
が降り積もった際の名物行事として、“雪中御投物”──即ち、雪合
戦がある。

ポスポスポスッ!

「水町っっっ、よさないか!!!」

何より脱ぐな、いいかげん己の立場を自覚しろ、うちの部屋の体面を
どこまで汚す気だと、硬質の美しさに恵まれた顔と声の両方で、相部
屋の水町に激しい怒りを示すは、御手付き中臈の筧。

「やーだもんね~♪ そりゃそりゃそりゃっ!」

暦の上では既に春とはいえ、白銀の残雪未だ眩しいこの日に水町は
何と上半身裸、下は※湯文字一枚きりである。破廉恥極まりない格
好ではあるが、彼の突飛な振舞にはもう、大奥中が慣れ切ってしまっ
ており、加えてその明るく罪の無い性質もあってか、あちらこちらから
クスクスと聞こえてくる忍び笑いも、陰にこもった意地の悪いものでは
なく、どちらかと言えば子どもの悪戯に「やれやれ……」と、肩をすくめ
る大人たちのそれであった。唯一人怒っている筧の、なまじ彫りの深
い秀麗な顔立ちであるだけに、その迫力も人一倍はあろうかという憤
怒の様など、まるでどこ吹く風とばかり、水町は好戦的な表情と態度
を崩さず、長い両腕を風車のようにグルグルと回しながら、敵陣に対す
る猛攻の手を決して緩めようとはしない。

ポスポスポスポスポスッ!

「む……やるな……」

それに対し、仁王立ちも厳めしく果敢に応戦するは何と御内証の方、
進典侍。時は奇しくも※三月朔日、衣替えの日ゆえ、進典侍の本日
の御召物は表裏共に白き、※真綿入りの白襲(しらがさね)である。
ただし動きやすいようにと、一番上には※羅紗の※打裂羽織(ぶっ
さきばおり)、下半身の裾に白く細い※本天の縁(へり)──黒糸で
進氏の家紋が連続刺繍してある──を付けた黒羅紗の野袴に対し、
こちらは襟口、袖口、前身頃などが、家紋を銀糸でやはり連続刺繍
した黒本天で縁取られ、全体としては実用的な※野装束(のしょうぞ
く)となっている。

「だが……勝つのはこちらだ」

頭上の古風な※梨子打烏帽子(なしうちえぼし)を固定する白鉢巻を、
進典侍は気合いを入れ直すため、改めてギュッと結び直す。そうして
敵陣を見据える眼光も凛々しく、彼もまた反撃を開始した。

ゴゥッッッ……!

進典侍は水町と違い、一度に一つの雪玉しか投げない。ただしその雪
玉は、普通の人間が「雪玉」と聞いて想像し得るものの、数倍の大きさ
であり、またそれを進典侍は抜群の制球力でもって操るのだ。

戦いは一進一退の攻防を繰り返していた。
                     ・
                     ・
                     ・
ポーイポイッポーンポスンポポポーンッポーンポスポスッ
ポーイッ……


「聞きしに勝る絶景だねぇ」
「わぁ~……」

さわやかに晴れ渡った空から燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、キラキラと
眩しく輝く、辺り一面の銀世界に飛び交うのは何も、物騒な雪の白球
だけではない。

白雪に映え、御庭に更なる彩りを添えながら宙を飛び交う、上等の反物
・疋物の端切れで作られた色とりどりの愛らしい小さな巾着──延命袋。
その中には※丁銀や豆板銀といった銀貨、或いは銀細工、乃至は水晶
や※軟玉など※準貴石細工の小さな神像や仏像、動物の像、または帯
留や数珠といったこまごまとした贅沢品が、これまた白地の端切れに包
まれて入っており、他には懐紙に包まれた金平糖など高価な干菓子を
入れたもの、良質の香料を惜しみ無く使った練香を小さな袋一杯に詰め、
それ自体を匂玉としたものなどもあった。

これらの小さなお楽しみ袋は、雪合戦を観賞される各局部屋の旦那さま
方やそのお仕え人たちから、激戦の合間を縫って源平双方の勇者たち
──今年は例外として、基本的にはお末・お半下の混成部隊である──
へ、個人敢闘賞として投げ与えられるものである。それとは別に、勝ち組
のための豪華な賞品もまた用意されていることから、この勇ましく賑やか
な中にもどこか風流な大奥冬の陣に於ける士気が、毎年、極めて高いの
は当然のことであった。

「瀬那~♪ 見てる~!?」
「見てるよ~!」

雪まみれの手をブンブンと振り回し、水町が自分の存在をある※お透見
屏風(おすきみびょうぶ)の方向に向かって主張すると、少し掠れた声の
返事が返ってくる。その※懐かしき御声を耳にすると、筧も慌ててそれま
での渋面を取り繕うのだった。

数日前に引いた風邪をうっかりとこじらせて寝込んでしまった幼将軍は現
在、「とっとと治せ」との蛭魔局の厳命により、大奥の紫苑の方の許にて
療養中の身であった。局自身は、昨年暮れから目白押しの新年の儀式・
公式行事がやっと一段落したこともあり、正月に果たせなかった初詣をし
に行くと言って、昨日から大奥を留守にしている。

御自分に都合の良いように利用する場合を除いては、大奥の者たちの信
心、並びに迷信深さを、涙で化粧が流れ落ち、頭が腰に付きそうなほどに
仰け反って呵呵大笑しながら馬鹿にされる御方が、一体どういう風の吹き
回しかと、周囲の者たちは皆、訝しんだが、真相を探る勇気のある者は誰
一人としていなかった。

ちなみに瀬那の病身が中奥ではなく大奥、それも紫苑の方の傍にあるの
は、蛭魔局の指示によるものである。このところ世情、政局共に安定して
はいるが、自分が城を空けている間、万が一にも何かの折、表の瑣末事
が幼将軍を煩わせ、療養に差し支えては本も子もないとの配慮から、紫
苑の方の見識と如才の無い人あしらいなら、堂上出の上臈側室という確
固たる地位もあり、不測の事態が起きた時の表政庁との折衝も任せられ
ようと踏んだのだ。

加えて、紫苑の方を除く三人の側室たちには、看護のように集中力と細か
な気配りが必要とされる仕事は向いていないということが、彼らの普段の
行動から局には、容易に想像がついたということもあった──貴重なカラク
リ人形や※和時計を始め、繊細優美なお道具類を無意識の内に大量破壊
する進典侍然り、恋わずらいが昂じて、幼主の前では普段の端然とした様
子からは考えられないほど吃ったり転んだり、ついでに海の御部屋以外の
場所ではその構造が並外れた長身に合わないせいで、欄間などにしばしば
額をぶつけてしまう筧然り、いつでもどこでも愛玩動物と一緒に奇声を上げ
ながら走り回ってはすぐに着物を脱いでしまい、上様の御姿を見れば、時と
場所と状況をわきまえず即、抱きつこうとする水町然りである。

クイクイ

ふかふかとした毛織の※手套(しゅとう)に包まれた小さな手が、キッド
の※黄貂(きてん)の皮衣を遠慮がちに引っ張った。

「瀬那君、どうかした?」
※「香炉峰の雪……如何ならん?」

おやこれは進典侍のご教育の賜物かと一度大きく瞬きをすると、キッド
は「ん~……そうだねぇ……」と、しばし逡巡した。が、ここまで来てしま
った以上、もう何をしても結果は大して変わるまいと、肩をすくめて苦笑
すると、恐る恐るといった感じの上目遣いの幼将軍に、「あと四半時(十
五分)したらちゃんと床に戻るんだよ?」と念押しした上で、侍女たちに
お透見屏風をどけるよう命じた。

「キッドさん、有難う御座います!」
「ハイハイ、どう致しまして(……俺もホント甘いよねぇ)」

ほぼ治りかけているとはいえ、だからこそ大事を取ってもうしばらくの間は
おとなしく寝ていなければならない筈の瀬那だったが、無礼講の“雪合戦”
の存在を聞くといてもたってもいられなくなり──いいかげん退屈していた
らしい──、「ほんのちょっとの間だけでも見に行っちゃ駄目ですか?」と、
つぶらに潤んだ、寝間着を着ているせいもあって白い仔犬を思わせる瞳で
キッドを見上げ、その美しい袖に縋り付き、やれやれとキッドが白旗を掲げ
たのが、ちょうど半時前のこと。そして今年の雪中御投物が図らずも上様
の御臨席を賜ると知った、大の遊び好きにして上様大大大好きの水町と、
「有事の際に備えての鍛練の一種か」と、何かを激しく勘違いした進典侍
が、源平それぞれの大将に立候補して、今に至るという訳だ。

(さて、と……瀬那君結局は最後まで見たがっちゃうだろーし、皆見てるし、
御局さまへの言い訳どーしたもんかねぇ……?)

臈たけた看護士は、世にも高貴にして愛らしい患者に更にもう数枚の羽
織やら何やらを手ずから重ね着させてやりながら、いつも通り捉えどころ
の無い、しかし以前と比べれば、心なしか満ち足りているようにも見える
微苦笑を、更に深めるのだった。
                      ・
                      ・
                      ・
そうして宴たけなわの頃。滅多に無い解放感と高揚感に支配され、わぁわ
ぁキャアキャアと盛んに喚声を上げる勇者たち。観戦者たちもその興奮と
熱気、そして明るい陽射しと五色七彩の美しい眺めに触発されてか、華や
かな笑い声を立てながら賑やかな応援をし、更にしきりと延命袋を投げる。

「……僕も、何か」

さすがに飛び入り参加という訳にはゆかないが、自分も何らかの形で皆と
一緒に楽しみたい──そうだ!

すっくと立ち上がったかと思うと、急に室内の桐箪笥を漁り始めた瀬那に、
今度は一体何事かと、キッドは訝しげな視線を向けた。

「あった!」

瀬那が手にしていたのは去年の暮れ、生地の見立てから始まるすべての
工程をキッドに一任して仕立ててもらった、己の冬用の羽織数枚であった。
瀬那の成長期を見越し、かなり大きめに仕立てられたそれらの内から、今
日のように澄み切った早春の淡い空の色に、地紋雲枠の綿入れ羽織を一
枚。そしてもう一つ、縦横とも僅かに用いられた銀糸がチラチラと星のように
瞬く、※黒別珍(くろべっちん)の長羽織。

二枚に引きずられるようにして部屋から出て来たかと思うと、突如として縁
側に立った幼将軍を、何事かと皆が注視する中、彼の細い二の腕は二枚
の羽織を交互にふわりと宙へ放った。昼の空は水町の手元へ、夜の空は
進典侍の手元へ。

「進さんと水町君まで風邪引いちゃまずいですから、着れるかどうか分かん
ないけど、もし良かったら……!」

貴人の御召物を拝領するというのは時代や国を問わず、大きな栄誉である
ことが多い。大奥もその例に漏れず、しかも、あどけない印象ばかり強い当
代の上様の、“放る”という、珍しくも小粋な行動に、観衆は一斉にどよめい
た。

お褒めに与った当人たちはと言えば、真っ先に小躍りして喜びそうな水町は
予想外にも、朱を上らせた小麦色の両頬を羽織に押し当てながら、俯いてい
る。進典侍の表情もパッと見には分かりにくいが、その頬骨から端正な口元
にかけて、普段の精悍なものとは違う、何とも言えぬ柔らかな線が浮かんで
いた。

「「……」」

面白くないのは筧とキッドである。

(何でいっつも水町ばっかり……)

自分は水町ではないのだから、水町のように振る舞うことは出来ない。
分かり切ったことではあるのだが、瀬那を想い、少しでも今の距離を縮
めたいと、日々重ねている自分なりの努力がなかなか実を結ばず、自
由奔放に振る舞う水町の方が却って、今日のような僥倖に恵まれたり
しているのを見てしまうと、普段は理性によってしっかりと抑制されてい
る嫉妬の念がこの時とばかり、ムクムクと頭をもたげてくる。

「ふーん……」

脇息を前にトンと置くと、片腕で押さえ込むようにして体重をかけ、もう
片方の腕は肘をつき、キッドは点々と無精髭の散った、けれど形の良
い顎を支える。

(……ここんとこずっと瀬那君と理想の暮らししてて柄にも無く浮かれ
ちゃってたけど……世の中ってどっかでちゃ~んと収支合うように出
来てんだ……いいこと尽くしの後にはやっぱロクなことがねぇ……瀬
那君に悪気が無い分、余計に凹むんだよね……)

あの二枚の羽織は“瀬那のために”作ったものなのに、それを製作者
本人の見てる前で、躊躇いなく他の者に与えてしまうというのは、如
何なものか。

「「……」」

スィ……とキッドが筧に無機質な視線を投げれば、今日この場に於い
てのみ、それは筧にはねつけられることなく受け止められ、ここに臨時
同盟が結ばれた。
                     ・
                     ・
                     ・
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン───ジャララララララララララッッッ!

「のあっ!?」
「む……!」

※白鯨をも捕らえる怒り……もとい、錨が唸りを上げて水町と進典侍に
襲い掛かる。彼ら二人が仰け反って出来た隙間をかいくぐり、分銅付き
の銀の鎖は瀬那の羽織を絡め取ったかと思うと、あっという間に操り手
の許へと戻っていった。

水町と進典侍がギン!と睨み付けたその先に佇んでいたのは──

「折角の瀬那君の御厚意、雪水に汚したとあっては申し訳ないから、俺
が一時預かっておこう。何、頑健な貴殿らのこと、さして問題あるまい?」

引き戻した鎖から丁重に二枚の羽織を外し、己の大きな袂に仕舞い込む
筧の、氷の微笑。そしてその両手に構えられたしろがねの狂気──もと
い凶器、鎖鎌(筧にとっては守り刀の代わりなのだそうだ)。厳しい中にも、
人に自然と畏敬の念を起こさせる雄大な冬の北海の双眸──だが流氷
の蒼く清冽な輝きが跡形も無く失せてしまったそこには、どんよりとして、
不吉ささえ感じさせる鉛色しか残っていなかった。

「返せよっ、筧の馬鹿ー!!!」

怒りに任せて水町が雪玉を筧めがけて投げつける。

パン!

ところがそれは標的に届くことなく、別の雪玉に儚くも粉砕されてしまった。
のみならず、更には水町の顔面にも、静観の姿勢を崩さぬ進典侍の精悍
な顔面にも“同時に”、冷たい感触と乾いた音が炸裂して──水町を遥か
に上回る投球速度に加え、進典侍を超える制球力。こんな神業の如き早
撃ち(?)が出来るのは、この大奥に於いてはただ御一方──

「ほらほら、余所見してちゃ駄目だよ~? まだ決着ついてないんだから
ねぇ」

何時の間にやら庭先に降り立っていた紫苑の方。のほほんとした口調
はそのままに、やや骨ばった両手の長い指で更に二つずつの雪玉を弄
んでいる。と、それまで両肩に中途半端に引っ掛けていた皮衣がするり
と、金色の雲のように滑り落ちた。そして現れた春の白躑躅(しろつつじ)
──表白、裏紫──ただし本日のお掻取は表裏共に同じ意匠、その内
側に着る紫の小袖と揃って初めて“白躑躅”となっている。

小袖は白糸の刺繍による一面の雪の華、即ち待雪草で埋め尽くされて
おり、お掻取の白地には菫が描かれている。いつもながらの衆に抜きん
出た御趣味に、ただただ感嘆の吐息を漏らすだけの者たちの中にあって、
絵心のある、その中でも更にごく一部の者たちだけは、表裏一体となっ
て鮮やかな対照を見せる御方様の装いの、特に菫と裏地の色に注目し
ていた。あの独特の紫色はもしや、今や幻と言われる※貝紫によるもの
ではなかろうか、と。

瀟洒と豪奢が不思議に入り混じった相変わらずの“矛盾”の結晶を、紫
苑の方はどこから探し出してきたのか美しい組紐で袖を括り上げ、また
それを※腰紐ともして、裾をからげた。

「……何か我らに含むところでもあるのか」

硬い声で問う進典侍に対し、微笑みと共に返されたのは更に数個の雪
玉と──

※「天也。也(天なり。人に非ず)」

寧静、恬淡を旨とすると荘子の考え方も含め、先人の教えというものは、
各時代の様々な人間によって、それぞれに都合よく解釈されることがし
ばしばである。神様の思し召しだよと薄く笑った紫苑の方は、※綿帽子
を目深に被り直すと、緩やかな弧を描いたままの口元を除いては、すべ
ての表情を隠してしまった。その背後に立ち昇る、例えるなら薄紫の紗
のように柔和な気配が、今日ばかりは晴天に加えて周囲に白が多いせ
いか、やけに禍々しく目に映るのは何故だろう?

「※君子は豹変す、か……含蓄に富んだ言葉だ……」

四書五経を諳んじているからと言って必ずしもその人間が儒学で言う
ところの聖人君子であるとは限らないというのもまた、古来より万人周
知の事実である。進典侍の手指がベキボキゴキキ……と不気味に鳴
った。

「キッドさんも参加するんですかー!? 凄いや、どの組が勝つんだろ?」
(上様、お願いで御座いますからもう少し場の空気をお読みになって下さ
いまし──!)

当事者たちを除き、身分の貴賎に関係無く、その場に居合わせた者たち
全員の切なる願いも虚しく、真の決戦の火蓋が今、切って落とされた。
                      ・
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「筧君、一緒に見よう?」

もう後で※黒鍬(くろくわ)と御庭番たちに雪掻きしてもらう必要無ぇよな
……どうせだからあいつら三人とも肺炎にでもなって寝込んでくんねーか
な……と、乾き切っていた筧の心と瞳に突如として潤いが。

「せせせせせ瀬那君!?」

旦那様、頑張って下さい……!!!と、自称腹心の部下である大平と
大西始め、海の御部屋のお仕え人たちが生温かい目で見守る中、筧
が慌てて座布団など御座の用意をと、焦って立ち上がろうとするのを瀬
那は、ふるふると小首を左右に振って制し、座にとどまるよう押し戻す。
そして──

「アハハ、一緒♪ 一緒♪」

あろうことか筧の膝の上にちょこんと腰掛け、その柳のお掻取の青き裏
地の海の中へと、自ら潜り込んでしまったのである。着ている者の意思
とは関係無しに前が引き合わされたことで図らずも、白の表地に施され
た柳絞りの、しだれ柳の枝葉のようにも見える線文様が、まるで瀬那を
絡め取ったかのような印象さえ受ける。

「あったか~い……」

常日頃からは考えられぬこの陽気さ、積極性、そして甘ったるい匂い。
どうも彼はお目付役のキッドがいなくなった途端、甘酒を好きなだけ飲
んで、酔っ払ってしまったようだ。

(俺が引きずり込んだ訳じゃなし……い、いいんだよな???)

思わず背後を振り返ると、忠義者たちが一様に親指を上向けにグッと
押し立てていた。紅毛の流儀で「良し!」という意味である。

赤子を抱くようにそっと小さな身体に両腕を回し添えて支えてやれば、
愛おしい小さな両手がごく自然に摑まってくる。そこから感じられる子
ども体温は、筧の全身をどんな防寒具よりも温かに包んだ。

(やっべ……すんげぇ胸バクバク言ってる……瀬那君に気付かれたら
……でも気付いてほしい気も……)

筧の複雑な想いを知ってか知らずか、無邪気な想い人はただ朗らか
な笑い声を上げ、観戦に熱中している。その無垢な心の蕾に初めて
の春を知らせ、開花させたのが自分でなかったことは、今でも歯軋り
するくらい口惜しいけれど、過ぎ去ってしまったことは最早、どうにも
ならない。せめて、己こそがいの一番に結実出来たなら──

(でも今はいい、今はこれだけで十分だ……)

筧はありったけの想いを込めて、彼にとってのこの世の至宝を抱く腕
に力を込めた。このささやかな幸せがとこしえのものとなってくれるの
であれば、他にはもう、何も欲しくない。

今の筧の願いはそれだけ、それだけ、それだけだったのに。

ドズシャァァァ! ドシャドシャボタボタボタ……

雪“ダマ”と言うよりも、雪“ダルマ”と呼んだ方がしっくりとくるような
物体が三つ、見事に筧の頭だけに命中した。不思議なことに瀬那は
まったく無事で、砕け散った雪の一片一片までもが筧の背中と周囲
にのみ、散乱している。この衝撃で、筧の頭から肩にかけてを覆って
いた※柳色の肩掛けがずり落ちた。水気がどんどんと浸透してゆく
濃紺の髪はしっとりと、徐々に黒味を増してゆき、そこからポタポタと
滴り落ちてゆく、日の光を受けて虹色に煌めく雫は、筧の涼やかに
整った両の目元、すっきりと通った鼻筋、白皙の両頬、そして細く上
品に整った顎から直接、或いはきちんと剃刀を当てられた滑らかな
襟足と首筋を流れ落ちて、重ね着した小袖、肌襦袢と徐々に浸透し
てゆき、ついにはその全身をしとどに濡らす。

芸術的なまでに計算し尽された、三方から同時の一点集中攻撃。

「「「漁夫の利(か/かよ/かい)?」」」
「……」
「か、筧くーん!!!」

瀬那の酔いもやっと醒めたようで、慌てて懐から懐紙と手巾を取り
出すと、見上げる位置にある、麗しくも能面のように生気の無い筧
の顔をせっせと拭き始めた。

「……有難う、瀬那君。もう大丈夫だから」

大きな掌が瀬那の小さな手をすっぽりと優しく包み込む。すると瀬
那もまた、けぶるように優しい微笑みを小さな顔に浮かべた。

君の笑顔さえあれば何も怖くはない。

「俺、恋路とかそういうの邪魔されんの好きじゃねえよ」

銀色の海蛇が唸りを上げて再び牙を剥くかと思われた、まさにその
──

     →『April shower (後編)─夢に夢見た胡蝶の涙─』へ続く