冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

キッド×瀬那パラレル前編─2008/3/9

2008年03月09日 | キッド×瀬那?
『In spring it is the dawn that is most beautiful.』
             (前編)
               ・
               ・
               ・

捨てる神あれば……とはよく言ったもんだ。

「う……流石に今回はヤバイか」

粉雪の降りしきる深夜、男は次第に灰色から銀白色へと変貌してゆく冷た
いアスファルトの道端に座り込んでいた。頭上のテンガロンハットが雪除け
として役に立つのも、果たしてあとどれくらいだろうか。

神に祝福されざる己の呪われた肉体は、死の恐怖とはまったくもって無縁
ではあるが、だからといって痛苦の感覚が無いという訳ではない。寒さと空
腹のダブルパンチに見舞われながら身動き一つ取れないというこの状況に
は、いかな“悪魔”とて、かなり辛いものがある。

(パトラッ○ュ……じゃなくて鉄馬、俺もう疲れたよ……何だかとっても眠い
んだ……)

そういやあの教会でルーベンスの模写も見たよ……と、彼が現在死にかけ
ているこの地で、今から何十年か前、テレビで大人気を博した某感動TVア
ニメの少年主人公の如き呟きを、同地でこれまた数十年来の人気を博する
某劇画の主人公・極太眉毛がチャームポイント(?)の冷徹で寡黙な凄腕の
殺し屋にそっくりな使い魔が耳にすれば、「寝るな、寝たら死ぬぞ!」と、頬
骨が折れる勢いで両頬を叩いて起こしてくれること間違い無しなのだが、生
憎とその使い魔は正にこの自分──腑甲斐無い主人を救わんが為に現在、
己の傍を離れている。

(それにしても酷いよね……俺、契約内容に嘘なんかついてないし、ちゃ~
んと契約の前に何度も念押ししたし、一週間以内ならクーリング・オフもOK
だよって言ってあったのに……)

人間の魂で命を繋ぐ、世にも恐ろしい闇の生き物──と、呼ぶにはどうにも
迫力不足なこの悪魔、魔界では「キッド」と呼ばれる彼はしかし、天上界へ
の侵略にも地上の覇権にも興味は無く、ましてや飛び散る生物の血肉に快
感を覚えるようなスプラッタ趣味など、欠片も持ち合わせていなかった。

キッドはあくまでも日々の糧として人間の魂を求め、その代償に彼ら人間たち
の様々な願いを、天上界の目を引かぬ範囲内で叶えてやり(「世界征服」だと
か、「憎い相手を呪い殺してやりたい」といった物騒な依頼人の召喚には最初
から応じないか、「ごめんねぇ、そーゆーお願いはもっと高位の悪魔じゃないと
叶えられないんだよ」と、ぬけぬけと言い逃れてきた彼である)、そうして地上
の日陰で使い魔の鉄馬──魔道に詳しい者ならば、使い魔をいつも連れてい
るという時点で、キッドが、実はかなりの上級悪魔だということが分かるのだが
──と二匹、ひっそりと暮らしていた。

ところが──

「跡形も無く消え去るがいい、主に背きし忌まわしき地獄の蛇よ! その身
は煉獄の業火に燃え尽きて、栄光の日にも再び甦ることなかれ!」


正義感に燃えた熱血エクソシストの声が今も耳に残っている。間一髪のとこ
ろで鉄馬が体当たりをして、奴の気を逸らしてくれたお蔭で、追い込まれた
教会からほうほうの体で逃げ出し、命だけは何とか助かったものの──

(まったく、冗談じゃない……)

ご丁寧にも「御利用はよく考えた上で、計画的にネ☆★」と、人間の観賞眼
にも十分耐え得る、可愛らしいサボテンのモンスターが注意している契約書
には今や、“無効”の意味を表す天上界の印が押され、神々しくも無情な光
を放っていた。

(鉄馬にしたって、満身創痍のあの状態で、“あの家”まで助け呼びに行くな
んて、とてもじゃないけど……)

例え辿り着けたところで果たして、あの男が──何であるよりもまず、高貴
な貴族悪魔であろうとするあの、「父」という名の他人、自分にとっては「親」
と分類される怪物が、最早今となっては無価値の負け犬に、救いの手を差
し伸べてくれるものだろうか?
                       ・
                       ・
                       ・
人間界で言うところの18世紀から19世紀にかけて、欧州中部某国が誇る大
作家にして大詩人、尚且つ自然科学研究家でもあり、また政治家でもあった、
然る多芸多才の人物が著した有名な戯曲──願いのすべてを叶える代わり、
人生に十分に満足し、最早この世に未練は無しと思ってその旨を口にした時、
幸福に満ち足りたお前のその魂を貰うと、悪魔は一人の老学者と契約を結ぶ
も、相手は最後には昔の恋人に説き伏せられて敬虔さを取り戻し、教会で悔
い改めたことによって、天にまします父なる神に許され、神の御使いたちの祝
福を受けながら、天に昇っていったという、あの話だ──に、そっくりとまでは
ゆかずとも、よく似た展開によってキッドは現在、命の危機に瀕していた。

(あ、もしかしてこの間、図書館で借りてきたあの本がいけなかったのかも?)

神と人間の側からすればあれは、確かに感動的な結末なのだろう。キッドも、
読後感としては、「まあ、面白かったかな?」ぐらいには思っていた。けれども
いざ、己の身にそれが、現実として起こったとなれば、話は別である(加えて、
悪魔が人間界の図書館を使っていることに対しても、突っ込みは無しの方向
で一つ。ちなみに彼は税金をきちんと納めている、どういった方法でかは不明
だが[!])。

視点を変えてみよう。そもそも人の魂を食らわなければ生きていけない身体
を持って生まれたのは、自分のせいではない。悪魔とて、食べなければ死ん
でしまう。働かざる者食うべからずと、「ホントに悪魔かよ」と言いたくなるよう
な殊勝な心がけの下、キッドは真面目に働いた(それは領地収入等に代表
される既得権益だけで裕福に暮らす誰かに対する、ささやかな意地でもあっ
たのかもしれない)。仕事内容があくまでも、“悪魔”にしか出来ないことであ
ったとしても、である(not洒落)。

セールストークにも契約書にも虚偽は皆無、そもそも契約相手の人間の心を
魔法で誘惑するような卑怯な真似は一切していない(心のデリケートな部分
はちょびっとだけ、つっついたかもしれないが、多くの人間たちが営む“企業”
とやらの“営業活動”なるものを超える程の熱心さ、猛烈さには到底及ばない
ものであったとは、キッド自身も使い魔の鉄馬も依頼者たちも、すべてが認め
るところであった)。

契約書にある直筆の署名と血判は、頑是無き子どもでもなければ悩める青少
年(名前は別に「ウェルテル」ではなかったが)でもなく、また健忘症の老人で
もない、男女問わず、独立した意思と確固たる思考力を持つ壮年の人間たちが、
熟慮を重ねた末に自ら望んで書き、押したものだ(そもそも、後腐れの無いよう
にとキッドは、依頼者をかーなーり、選り好みしていた)。

それなのに、遥か遠い昔、神聖不可侵の父なる創造主に対して謀叛を起こし、
天界を追放された堕天使たちの末裔だというだけで、その行動のすべてを問
答無用に“悪”とみなされ、労働の正当な成果を理不尽にも奪われた上、あま
つさえ餓死しそうになっても、地上の迷える仔羊たちのように、温かな救いの
手を差し伸べてはもらえないのだ。

(今になって考えてみりゃ今回の依頼者、契約書作成ん時、他のお人らと違っ
て手の震え、そういや止まってなかったねぇ……)

う~ん、最近Routine Worksばっかだったから観察眼鈍ってたのかねぇ……と、
迫り来る死を目前にしても未だ、キッドのボヤきは止まることを知らず、それ故
に彼の意識が、更に遠のきかけたその時だった。
                       ・
                       ・
                       ・
「ピット、ピット、可哀想に……痛かったよね? ……ごめん、ごめんね……」

自分まで胸を締め付けられるような、嗚咽交じりの呟きが、素晴らしく食欲をそ
そる蠱惑的な匂いと共に、キッドの脳中枢を刺激した。

(子ども……の、泣き声……?)

うっすらと瞼を明けたキッドの目に映ったのは、バスタオルでしっかりとくるまれ
た何かを強く抱き締め、大粒の涙をボロボロ流しながら歩いてくる一人の少年。
よく見ればそのセーターの繊維までが薄く、鮮血に染まっている。

(どうしたの? 何がそんなに哀しいのかな?)

少年は抱き締めている対象のことで頭が一杯なようで、まるで目の前が見えて
いないようだ。このままでは伸ばしたままの自分の脚に蹴躓いて、転んでしまう。

「っこらせ……っと……」

実際にはかなりしんどかったのだが、殆ど条件反射のようにキッドは、脚を引
いた(雪の中に倒れている自分を人間たちに見つけられては色々厄介だろう
と、彼は先程からずっと姿を透明化させていた)。するとどうやら、さすがの神
も、このお気遣いの紳士を憐れんでくれたらしい。

「えっ……あ……?」

ペタペタと小さな足音が、止まった。

一時だけ哀しみを忘れ、つぶらな瞳を更に真ん丸く見開く少年。白く曇る視界
に、今、身体を温めるためにキッドが最も欲している蒸留酒と同じ色をした、一
対の瞳に視線を合わせるのは、何故だか酷く心地が良かった。

「だだだ大丈夫ですか!?」
(え……何この子、俺の姿見えてんの……?)

まさか死体?と、ビクビク恐れの入り混じった、けれど相手の無事を願う優しい
小さな手が、キッドのかさついた頬にそっと触れる。

「!」

体中に電撃が走った。流れ込んでくる甘美な精気に力づけられて、思わずカッ
と両目を見開くと、キッドは少年の、折れそうに細い手首を掴んだ。

「ひっ……」
(こんな極上の魂、見たことねぇ……)

怯えて身を後じらせようとする少年の至極当然の反応に対し、キッドは掴んだ
腕から相手の精気を一心不乱に貪った。

「……」
「……」

二人の間をしばしの間、沈黙が支配した。危害を加えられる訳でもなく、むしろ
土気色をしていた相手の顔が、徐々に血色を取り戻してゆくことに少年──
那は、奇妙な安堵すら感じていた。

(変だけど、悪い人じゃなさそう???)

そしてまた、顔を上げた相手の顔の、何となくくたびれた印象とは不釣合いな、
けれど何故だかしっくりとくる、柔らかな薄紫の双眸──黄昏時の空より猶お
淡く、けれど夜の闇よりもっと深い、心を優しく押し包まれたが最後、二度と身
動きが取れなくなりそうな、不思議な色のそれの美しさに、ハッと息を呑んだ。

(あの花みたい、何だったっけ……んっと……)

アルバイト先の花屋で、屋外に置かれた商品とは異なり、店長が扱いにはくれ
ぐれも注意するようにと言っていた、店内のガラス製ショーケースに入れられた
高価な花々の中でも、その一番上に大切に置かれ、際立って優美な香りを放っ
ていた、薔薇に輪を掛けて高雅な印象を人に抱かせる蘭花を、彼は思い浮かべ
た。
                       ・
                       ・
                       ・
しかし、そんな雅やかなイメージをするのはする側の勝手だが、それをされた
側が実際に雅やかであらねばならないなどとは、人間界でも魔界でも決まっ
ていない訳で、事実、本“魔”好むところの表現・“買い被り”をされたキッドの
方はと言えば。

(た、助かった……)

肉体(超絶)疲労時の栄養補給を済ませ、生き返った心地の彼は、一息ついた
ところで、少年から向けられる困惑と好奇の視線に、ハタと今の状況を思い返し
た。雅とは180度かけ離れた、現況を。

(うっわ最悪。俺、これじゃ変質者じゃん……)

客観的事実と人間界の常識から言うと、まったくもってその通りなのだが、少年
が逃げようとも悲鳴を上げようとせず、その真ん丸な視線が先程からずっと、己
の“目”に固定されていることから察するに、自分はどうやら、食欲と美味への興
奮に引き摺られ、悪魔の本性をさらしかけていたらしいと、キッドは気付いた。

(あちゃー、失敗)

慌てて頭を軽く左右に振り、頭上に積もった雪を払うふりをして、彼は両の瞳の
色を、こちらの世界ではありきたりなものに変えた。

(危ねぇ危ねぇ……)

洗いっ放しのボサボサ頭に無精髭、つい先程まで雪が積もっていたテンガロ
ンハットを始め、スカーフや腰のホルスターに挿されたピストルと弾丸(実は本
物だ)、革ブーツに洗い晒しのジーンズと、ウェスタン・スタイルで統一された
服装。一見、何の変哲も無い(?)西部劇マニアに見える現在の姿かたちに
は、路傍に積もった名も無き落ち葉──やがては雪によって地上からその姿
を残らず隠され、春の訪れまでには地中へ雪解け水と共に姿を消す、落魄の
枯色こそ似つかわしい。

温室育ちの過去は、本名と共に、疾うの昔に捨て去ったのだから。

「えっと……驚かしてごめんね? ところで君、どしたの?」

可哀相に、こんなに真っ赤に泣き腫らして……と、少々骨ばった長い指が瀬那
の目尻をそっと、優しく拭う。

「ピットが……」
「ピット?」

見知らぬ他人、しかも何やら曰く有り気な人物ではあったが、人をホッとさせる
その落ち着いた態度と穏やかな口調は不思議なことに、瀬那の心中の凍傷を、
治癒とまではゆかずとも、今以上に悪化することだけは、ピタリと止めてくれた。

「ピットが……僕の飼い猫が、帰宅途中の僕の姿を見て、飛びつこうとアパート
の二階から……いつもなら問題無かったんですけど、今日は雪が降ってて、ベ
ランダの手すりも湿ってツルツルしてて……この子、足を滑らせて着地に失敗し
ちゃったんです……運悪く地面も凍ってて……」

猫は首の骨を折ったとかで、快復の見込みはゼロと動物病院で診断されたら
しい。獣医には安楽死を勧められたそうだが、少年は、たとえ猫を必要以上に
苦しめると分かってはいても、決断を下すことが出来ず、自分勝手・自己満足
と分かってはいながら、それでも死ぬならせめて、自分たちの家でと、彼は愛
猫を抱き、動物病院からの帰路を力無くトボトボと辿っていたという訳だ。

                                     <後編へ続く>

キッド×瀬那パラレル後編─2008/3/9

2008年03月09日 | キッド×瀬那?
『In spring it is the dawn that is most beautiful.』
             (後編)
               ・
               ・
               ・

「僕が、窓をきちんと閉めてから出掛けてれば……ピット、外に出られる筈もな
かった、の、に……」

涙の海で溺死するのは免れ得ても、それだけはどうにも止められないらしい、
か細い嗚咽を再び始めた小柄な少年の、様々な方向へ、ツンツンとこれまた
猫の耳のように立った特徴的な髪型をした頭を優しく撫でると、キッドは年不
相応な(人間の年齢に換算すれば彼は、青春の真っ只中にある年頃なので
ある──実年齢の数字と、やけに老成した中身、並びに大人び“過ぎ”た外
見はともかくとして)無精髭で囲まれた口元を柔らかく綻ばせ、また、常に有
るか無しかの疲労を滲ませた目元を微かに細めた。

「うん、じゃあとりあえずまず、泣くのをやめよっか?」

少年の視線に自分のそれを、背筋の伸びを調整して合わせると、どこからか魔
法のように取り出した──ってか、ぶっちゃけ魔法を使って出現させた──ハン
カチで、驚きに硬直する少年の鼻先をフワリと覆い、幼児にしてやるようにチーン
と鼻をかませてやった。

「あ、ハンカチ、ご、ごめんなひゃい……ズズッ……でも、有難うごじゃいま、ズッ、
すっ……」
「どう致しまして。むしろ俺の方こそ、ご馳走様のお礼をしなきゃあね」

それにとにかく、死んでないんならまだ、俺の干渉する余地があるからと、よく
分からないことを呟きながら、邪気の無い、ヘラリとした笑顔を浮かべると男は、
瀬那の胸に抱かれたピットを覗き込んで様子を確かめた。そしてその上にヒョイ
と片手を翳し、もう片方の手を使ってジーンズのポケットからサバイバル・ナイフ
を取り出すと──

ツ……

躊躇うこと無く翳した方の手首へ静かに強く、それを押し当てたのである。

「なっ、何を……!?」
「シィ……」

黙ってと、キッドはナイフを手放した手の人差し指で、瀬那の薄桃色の小さな唇
が、驚愕によってOの字形に開花するのを防いだ。だが、蕾ませたままにおかれ
たことで声は抑えられても、瀬那の驚きまでは収まらない。何故なら、瀕死の愛
猫の体の上に、トロリと流れ落ちた男の血の色は──赤く、なかったからだ。

「え、え、えぇぇぇぇ!?」

しかし、瀬那が驚愕すると同時に、淡く、仄かな光がピットの、先程まではどん
どん温かさを失ってゆくばかりであった身体をポゥ……と包み込んだかと思うと
──

「……ニャ~?」
「え、ピット!?」

病院ではピクリとも動かなかった筈の頭と首をグルグル動かし、喉をゴロゴロ
鳴らしながら、瀬那の愛猫はその白黒斑の身体をギュウギュウと飼い主の胸
にすり寄せて、甘え始めた。

「ピットぉぉぉ!!!」

良かった、良かったと今度は嬉し涙に暮れる少年を微笑ましげに見やりながら、
では俺はこれでと、キッドが流れ者のガンマンよろしくクルリと踵を返し、立ち去
ろうとすると。

「有難うございました、悪魔さん!」

ポスンと軽いタックル(しかも猫ごと)、そして腰に回された細い両腕。もともと上
質の精気が、今は喜びの気配に満ち満ちて、究極さもなくば至高の美味の域に
まで達してしまっている。

(うわっ……)
「あの、もしご迷惑でなかったら家でお茶でも……」
(やめやめ止めて、理性の箍がぁぁぁ……!)

お体冷え切ってらっしゃるみたいですし……と、ニコニコ笑う少年の無邪気な笑
顔に、誘惑の意図は欠片も見当たらない。けれどキッドは心中で、必死に自己
抑制の呪文(?)を唱える。

(Honi soit qui mal y pense!!!)

思い邪まなる者に災いあれ、と。

その生業故に当然、どの国の人間とも意思の疎通が図れるキッドが今回用いた
この仏語の呪文。唱えることで、人間で言うところの心臓に当たる彼の体内器官
を、同呪文の書き込まれたロープが、古紙回収に出される新聞・古雑誌の如く、
ギュウギュウと括った(その活動が半ば停止することでようやく、キッドとしては
稀なほど強烈なその食欲は、暴走するのを抑えつけられた)。

(あ、危なかった……)

地上に於いてキッドが理性を保てなくなるとは即ち、彼が望むと望まざるとに関
わらず持って生まれた膨大な魔力が全開にされ、この街を跡形も無く消し去って
しまうことを意味していた。

(やれやれ、まったく因果なこった……この子を泣き止ませたのと同じ“血”の力
が、この子の笑顔を消しちまいそうになるなんてねぇ……)

心底ホッとして精神的余裕を取り戻すとキッドは、ようやく、己の好奇心即ち脳
(勿論、人間で言うところの、だ)が、自分に引っ付いている猫の柔らかな体毛と、
見た目に反した感触を持つ少年の猫毛にさっきから、くすぐられっ放しであること
にやっと気付いた。

「あー、どうして俺が悪魔だと?」

赤くない血ってだけならタコの精だとか甲殻類の精だとか昆虫人間だとか、あと
エイリアンの可能性だってある訳じゃない?と、帽子の鍔をちょいと上げ、キッド
は愉快そうに訊ねた。

「え……だって、神様はピットを助けて下さらなくて、その反対のことをしてくれた
貴方はじゃあ、悪魔なんだろうなぁって……」

もしかして違いました? 違ってたならごめんなさいと、少年は申し訳無さそうに
頭を掻いた。

「でも僕は貴方がどこのどなたでも構いません。ピットを助けてくれて本当に、本
当に、どうも有難う御座いました!」
「いやいや、君の方こそ俺の命の恩人だから」
「いえいえ、それなら貴方は僕とピットの“大”恩人ですから!……っと、あ、そう
だ、すみません、魂を差し上げるのは、ピットが安らかに老衰で死ぬ時まで待って
てもらえます?」
「へ?」
                        ・
                        ・
                        ・
改めて、「瀬那」と名乗ったこの少年は今、何語を話したのだろう? 人間の話す
言葉が理解出来なかったなどとは、キッドにとって初めての経験だった。

この世に、自分が未だ知らない未知の言語が残っていたのか?

キッドの困惑を他所に、瀬那は晴れやかに微笑みながら、息も切らず軽やかに
言の葉を紡ぎ続けた。曰く、毎朝毎晩欠かさずお祈りをして、食事の度に感謝の
言葉を口にし、質素な生活を何とか遣り繰りして時々は教会に献花か喜捨をし、
毎週日曜の礼拝にもきちんと参加して、けれど本当に救いを必要とした今日、い
つもの何倍もの真摯さをもって祈っても、神はピットの命を救っては下さらなかっ
た、打算を持って神を敬うのは神に対する冒涜なのであろうが、安らぎだけを求
めるのなら何も自分は神に頼らずとも、毎晩眠るだけで十分なのであるからして、
何の願望・期待も無しにどうして不確かな存在に対して無私の心で祈れよう、自
分のちっぽけで弱虫な心は気高くなどないのだから──と。

少年の瞳は、捧げられる限りの誠意を裏切られた哀しみと、それを上回る静謐な
怒りで一杯だった。

(あーあー、天界もホントお役所仕事ばっかで融通利かないんだから、幾ら寿命
っつってもさぁ……俺みたいなのに一々天使たち差し向ける暇あんなら、この子
の猫に特例認めたげるとかした方が、よ~っぽど人間たちの感謝と尊敬と信頼
得られるってのにねぇ……この子こんだけ極上の魂持ってんだから、ちょっとくら
い不思議なことあっても、みーんな納得してくれんだろうに、まったく……信じてく
れる存在がいなきゃ、実際には何の力も発揮出来ないのはお互い様だってのに、
ホント、悪魔の俺が言うのも何だけどさ、かなり分をわきまえてないよねぇ……ま、
でもそのお陰で……)

当分の間は、空腹や虚無と無縁でいられそうだ。

「じゃあ、少しだけお言葉に甘えようかな?」
「はい!」

いつの間にやら雪は止んでいた。あれほど濃かった周囲の闇も、完全に消え去
ってこそいないが、最早、少年の視界を惑わし、その歩みを阻むようなものでは
ない。

(成程ね、死にかけてて気付かなかったけど……)

いよいよ最後の審判始まんのかなってくらいに真っ暗だったのは、夜明けが近か
ったからだったんだねぇ?

「ふふっ」
「どうかしましたか?」
「んにゃ、何でもないよ」

さあこっちですと、片腕に猫を抱き、片手で悪魔の手を引っ張る仔羊。幾ら美味
しそうでも、正式な契約を交わした訳ではない彼の魂を頂戴するつもりなど無か
ったキッド。お茶と数ヶ月程度の滞在で失礼するつもりだったこの悪魔が、今日
一日の疲れ(精神的なものも含む)がドッと出て、玄関先でフラリと倒れてしまっ
た仔羊を放っておけず、まめやかに彼の看病をしてやっていた間、ポツリポツリ
と交し合った言の葉の端々から、互いの存在が互いの心の隙間をパズルピース
の如くピタリと埋め得ると気付いた二人が、一緒の布団に生まれたままの姿で
眠るようになるのは、それから一週間後の話。
                        ・
                        ・
                        ・
「キッドさんキッドさん、起きて下さい、外が凄く綺麗です!」
「……ん~……瀬那君、早起きだねぇ……」

腕引かれるままに窓辺に立てば、遥か遠くの山々と接している辺りの空に、紫
がかった細長い雲が、フワリフワリとたなびいていた。日の光はこの時刻、まだ
それ程には苛烈でなく、闇の眷属たる自分にも比較的寛容だった。

「瀬那君はこの眺めが好き?」
「はい!」
「ずっと見ていたいと思う?」
「はい!」
「本当に?」
「キッドさんと一緒っていうのが大前提ですけどね」

幼さが僅かに残る、昼間の屈託無き笑顔とは違った、しっとりとして静かな瀬那
の微笑に対し、キッドは何十年、何百年、何千年振りかに──その常に乾いて
いた心の中に、“夢”を抱いた。

Fly High──俺にしてはすっごい大冒険、でもやっぱ分不相応な高望み?
Sky High──待ってんのは粉々の未来? それでも当たって砕けろって事?

「青い空はもう拝めなくなっちゃうよ?」
「僕にはいつも、眩し過ぎるって感じてたから、丁度いいです」
「……本当に、いいのかい?」
「キッドさんと一緒なら、どこへでも」
「こんな弱虫で半端者の悪魔と一緒に?」

バサッ……

魔界を出てくる時、自ら傷付けて飛べないようにした翼を、久方ぶりに広げてみる。

「飛べない翼、無意味な存在、瀬那君はそんなのと一緒にどこへ行けると思うん
だい?」

幾らこの子が綺麗に笑いかけてくれるからって、都合良く解釈しちゃ駄目だ。人間
じゃなくたって、夢見るとロクなことがねぇ。

キッドが小さく自嘲すると。

「足が有るじゃないですか」
「……へ?」
「飛べないのなら、歩いてけばいいんですよ」
「あ、し……?」

瀬那はスィ……とキッドの背後に回り、傷付いた黒い二枚の翼に触れるか触れ
ないかの口付けを落とした。そして初めて出会った日のように、キッドの腰に両
腕を回して囁く。

「もうこれ仕舞って下さい。これからは二人三脚になるから」
「本当に、本当に、一緒に来てくれるの?」
「いつまでも、どこへでも」

貴方と一緒なら。

「……有難う」

キッドは恐る恐る瀬那の両手に触れ、その確かな感触を確かめると──ゆっくり
と体を反転させた。

ポタリ……

彼がようやっと見つけた夢の欠片を含んだ熱い雫が、幾つも、幾つも滴り落ちて
きて、瀬那の髪や頬、首筋までをも濡らす。やがて、重力に引かれてそれらが床
に落ちる時には、いずれも、カツンカツンと軽快な音が響いた。

今のキッドの双眸と同じ色をした、2月の石英。けれど“夜”(よ)にも、そしてまた
“世”にも鮮やかな紫色が、所有者自身とその周囲を傷付ける心配はもう無いの
だと、今この瞬間は証明してくれている。

「あーあ、俺、ホントかっこ悪いよね」

泣き笑いしてるメフィストフェレスなんてさと、おどけた調子のボヤキを耳にして、
瀬那もまた、クスリと笑う。

「キッドさんはかっこいいですよ」
「御冗談」
「本当です、水も滴る何とやらですよ」
「塩水でもいいのかねぇ」
「僕的には有りだと思います」

でもまあ、後でカピカピになっちゃいますから、一応拭いときましょうかと、あの時
とは逆に今度は瀬那が、キッドの涙を拭った。
                        ・
                        ・
                        ・
その後しばらくして、“偶然”にもピットと瀬那の寿命が、“不幸”ではなく“幸運”
な事故により、さしたる苦痛も無く同時に尽きた後、二つの魂を大事に抱えた悪
魔が、居を常に仄暗く、薄紫の雲で覆われた魔界に移して、瀬那の生前と変わら
ず睦まじい暮らしを、周囲が常に騒がしいがために多少の努力は余儀無くされな
がらも、忠実で誠実な使い魔とその父のサポート、並びに実家への同居と必ず孫
を我が腕に抱かせてくれることを条件に(金持ちの発想がぶっ飛んでいるのは人
間界も魔界も同じであったが、魔界ではそれがあながちすべて不可能という訳で
もなかった。何しろ“神の摂理に背いた世界”であるからして!)家督相続など諸
々の面倒事に今後は一切関らなくて良しと言ってきた実父の妥協もあって(年の
せいか頑なさがやや薄れ、少々涙もろくなっていたことや、息子に娶わせようと考
えていた、家格の釣り合う同族の娘たちには決して望めない謙虚さを持つ可憐な
“嫁”が気に入ったことなど、原因は様々であったらしい)、何とか続けていけたの
はそれから──

永遠の話。  
                                            <終>

『Traumerei』のお供(?)にどうぞ♪

2007年08月23日 | キッド×瀬那?
『Träumerei』をお読みになられる際、もしよろしければ、以下のURLに“h”
を足して同時窓を開き、ピアノ曲MIDIファイル集の中の、シューマンの『トロ
イメライ』を聞きながら(その場合、最後の余韻までしっかり聞く事をお勧め
致します)、お読みになってみて下さい。

ttp://piano.s20.xrea.com/index.html
(↑“ピアノ概論”様)

Traumerei

2007年08月23日 | キッド×瀬那?
きれいな音、キレイな音、何て……綺麗な、音……。

この狭く、尚且つ様々な建物がゴチャゴチャと立ち並ぶ、都市計画が欠片
も考慮されていない日本国の首都に在って、広々としたグラウンドは勿論
のこと、学校部分の約三倍の広さを誇る放牧場まで併設し、人と馬とが仲
良く共存する、アメリカは西部開拓時代の雰囲気が強く漂う、此処は私立
西部高等学校。

Thanksgiving Dayに合わせて、他の高校よりもやや遅めに開催される、そ
の学園祭に、つい最近、六年ぶりの再会を果たし、また互いに情熱を同じ
く燃やすアメフトの試合でも激闘を交えた、銀髪緑眼の友人の招きにより、
遊びに来た瀬那は、その友人・甲斐谷陸が、祭りの目玉であるロデオコン
テストに出場すると聞いて、早速応援に駆けつけようとしていたのだが……。

「あちゃ~……またやっちゃった……」

金銀のモールや造花などで派手に装飾された道標や、地図付きポスター
が至る所に貼られている校内。いくらウッカリ者とはいえ、瀬那が迷子状
態を続けているのには、それなりの理由があった。

① 携帯電話の充電が切れてしまい、陸に連絡が取れない。
② たとえ連絡が取れたにせよ、今は陸の方も、コンテスト出場の最終調
    整で、てんてこまいであろうから、こんな些細なことで彼を煩わせたくな
  い(大体、この年で迷子って……)。

そして③。とりわけ、この三つ目の理由により現在、瀬那はまるで夢遊
者のようにフラフラと、学園祭の賑わいとは無縁の古びた木造の建物──
牧場施設の倉庫として使われている所で、実はロデオコンテストの会場は、
この建物の裏手にある植込みを突っ切れば、ほんの五分程度で到達出来
るのだが──の中を彷徨っているのだった。

では、その三つ目の理由とは何か?

③ 風に乗って、不思議に美しいピアノの音が聞こえてきたから。
                       ・
                       ・
                       ・
音源に近付くにつれ、音の幽艶さは深みを増していった。

瀬那の頭の中には最早、年季が入っていて渋いという感覚を通り越し、今
にも崩れ落ちそうな建物に入る時、最初に頭を掠めた、

(が、学校の怪談?)

などといった恐れは、微塵も残っていなかった。

ただ──この音を、もっと近くで聞いてみたいと思うだけだった。

そしてソロソロと忍び足で進む瀬那の足は、ある部屋の前で歩みを止めた。
もとは中の様子がハッキリと見て取れたのであろうガラス窓も、今となって
は塵と埃のせいで、曇りガラスと化している。

(う~ん……)

さすがに、ガラッと躊躇い無く戸を開けて中を確認する勇気は、彼には無か
った(だってもし誰もいなかったら?)。

なので、瀬那はしばらく廊下の壁に背をもたれさせながら、柔らかなピアノ
の旋律に、ウットリと聞き入ったのだった。

(……)

間近で接すると、その演奏の素晴らしさがよりよく分かった。

仮にこの場にいたのが瀬那でなく、きちんとしたクラシック音楽の専門家で
あったとしても、謎の人物(?)が奏でる、このピアノの音色の美しさを形容
するのに、およそ適当な表現は見つけられなかっただろう。

技術的にどうのこうの、芸術的に云々というレヴェルを遥かに飛び越え、そ
れはただただ──人の心に、深く染み入る音色だったのである。

だが奇妙なのは、この不思議な演奏者には、ピアノを弾いている自覚がま
ったく無いということが、こと音楽に関してはずぶの素人である瀬那にさえ、
ハッキリと感じ取れたことだった。

(……どうして?)

この演奏は、誰をも──演奏者本人をも──意識しておらず、従って表現し
たいものも、“何も無い”。

自分の心を捕らえ、この身をこの場から一歩も離れさせず、狂おしいほど惹
かれる音でありながら──同時にまた、空っぽ、なのだ。

(甘くて、優しくて、柔らかくて、でも……何て冷たい、何て哀しい……)

一つ一つの音が鳴り終わった後の余韻すら、曲を構成する一部分となる鍵
盤楽器は、何かに──瀬那にはそれが、演奏者の“過去”に思えたのだが
──思いを馳せるための、いわば道具に過ぎず、それで緩やかな楽曲を奏
でるのは趣味でも何でもなく、単なる追憶の一手段でしかないようだった。

この妙なる調べを紡ぎだしている者の両手指は、ピアノを弾こう、ピアノを弾
きたいという意志を、まったく持っていないのである。

(指が……ただ、漠然と……走らされているだけ……?)
                       
ほどなくして曲は終わった。夢現の心地だった瀬那は、ハッと意識を取り
戻すと、好奇心に耐え切れず、恐る恐る部屋の引き戸を、極力音を立てな
いようにして、僅かに開いた。
                       ・
                       ・
                       ・
引き戸の隙間から垣間見えたのは、長い足が爪先まできちんと存在して
いる、青年らしき人物だった。建物同様、これまた古びて埃にまみれたピ
アノの前に、姿勢良く腰掛けている。

パチパチパチパチパチ……

瀬那はもう、いてもたってもいられなかった。相手が“何”であろうと、彼(?)
が奏でていた美しい音楽に、ただ賛辞を送りたかったのだ。

「!」

突然聞こえてきた拍手の音に、青年(?)はビクリと身じろぎすると、ゆっくり
と後ろを振り向いた。

細く形の良い顎の辺りで、綺麗に切り揃えられた烏羽色(からすばいろ)
の髪が、サラリと揺れる。艶やかに青光りするそれに縁取られた、青年
の白皙の顔の造作はとても品良く、端正なもので、当然のことながら瀬
那の見知らぬものではあったけれど、同時にまた、どこかで会ったことが
あるような既視感をも、彼に覚えさせた。

(制服着てるし、西部高校の人……だよね? でもアメフト部とチアの一部
の人達以外では僕、この学校に知り合いなんていない筈なんだけど……
この人……どこかで会ったこと……?)

目の前の相手を再確認するため、一度ゆっくりと瞬きをした後、瀬那の目に
再び映ったのは──

「やあ、瀬那君か」
「キッドさん……?」

その飄々とした雰囲気や、穏やかな口調、そして物腰からは想像もつかな
いが、あの蛭魔をすら凌駕するかもしれない知性と、神速の“早撃ち”投球
術を持つ、西部ワイルドガンマンズのQBだった。

その無精髭や、不揃いで揉上げ付きの散切り髪、それなりに日焼けしてい
る肌の色や、少し疲れているような、年齢にそぐわぬ微かな皺が刻まれた
目元を中心に広がる、自嘲気味の苦笑、そして仮装一歩手前のウェスタン
・カウボーイ・スタイル。

試合以外の時によく見られる、いつも通りのキッドの姿に、それでも何故だ
か、先程の、日本の雛人形と西洋の磁器人形それぞれの最も良い部分だ
けを抽出したかの如く、高貴に整った面差しを持っていた、不思議な青年の
面影が重なり、瀬那は首を傾げた。

(あれ、何だったんだろ……?)

瀬那の凝視の視線を勘違いしたのか、ワシワシと頭を掻きながらキッドは、
傍に脱いであったテンガロンハットを照れ臭そうに、目深に被った。

「らしくもないトコ見せちゃったねぇ……」

あまり埃を立てないよう、ゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋を閉めようとす
るキッドの手に気付くと、瀬那は光速で駆け寄ってその行動を遮った。

弾みに、二つの異なる大きさの手が重なる。

「っと……、どしたの、瀬那君?」
「あ、あの……キッドさん、今の曲、出来たらもう一回……弾いてもらえま
せんか?」
「?」

怪訝そうなキッドの視線を受け、瀬那は自分の思い切った行動に今更なが
ら赤面する思いだったが、願望は羞恥心に勝った。

「僕……こんな綺麗なピアノ、初めて聞きました……」

一瞬瞠目するも、キッドはすぐ、無精髭で覆われたその口元をほろ苦く歪め、
その苦笑をますます気まずげに深めた。

(ん~……困ったね、こりゃ……)
                       ・
                       ・
                       ・
キッドが今日、ここでピアノを弾いていたのは、ほんの気紛れだった。

学園祭の喧騒に──と、言うよりも、アメフトの試合を除いては、あまり賑や
か過ぎる人混みというのは本来、苦手な彼なのである。故に学園祭の準備
を前日まで極力手伝うようにし、その代わり今日一日は殆ど校舎内にいなく
ても済むようにしていたのだが(ちなみに、いつも影の如く一緒にいてくれる、
寡黙だが誠実な人柄の親友は、どうしてもと頼まれた幾つかの力仕事のた
め、学園祭会場の方にいた)──

いざ自由時間となると、昼寝をするほど疲れてもいなければ、本や雑誌など
も持ち合わせておらず、校内でも今日は人通りの少ない所を選んで、何とな
く手持ち無沙汰に散歩をしていた時、気紛れに入り込んだ倉庫。そして偶然
目に付いたピアノの蓋を、戯れに開けてみたという次第である。

「そんな、人様に褒めてもらうような腕前じゃ……」
「上手なのかどうかとか、難しいことは僕、よく分かりません。ただ、僕はキッ
ドさんのピアノの音、凄く好き……」

恐らくは無意識に口にしたのであろう、瀬那の言葉に、キッドはテンガロンハ
ットを更に深く被り、表情を隠そうとした。

(おいおい、そんな買い被んないでよ……)

そんな彼の心情など露知らぬ瀬那は、ピアノに視線を固定したまま、そっと、
黄ばんだ鍵盤の一つを押してみる。

ポイ~ン……#

だが出たのは、先程までの夢幻のように美しい音色には程遠い、酷く耳障
りな、狂った音。

「な、何これ!?」

彼は困惑顔をキッドに向けた。

「あ~……このピアノねぇ、何年も調律されてなかった上に、壊れる前から
もう、随分と誰も弾いてなかったみたいなんだよ。俺がさっき弾いてたのは
……辛うじて壊れてないキーや、狂ってて、もともとのとは違う音を出しちゃ
うキーを組み合わせた、要するに、継ぎはぎ演奏だったの」

あの黄金造りの牢獄でやらされた稽古事は、ピストル射撃に限らなかった。
決して才能が有った訳ではなく、また自分でもそれほど打ち込んだつもりは
無かったのだが、金に飽かせて用意された一流の教師陣と、先代だか先々
代だかの頃に、オーストリアからわざわざ取り寄せたと聞く名器・ベーゼンド
ルファーのおかげか、そこそこの域にまでは達し、今でもまだこんな、自慢に
もならぬ奇妙な芸当が出来た。

だが、この鍵盤楽器の典雅な音色は──よく見られる国内メーカーの、一
般に広く普及した種類のものですら──、銃器以上に、“あの”過去を強く
思い出させる。それ故にキッドはこれまで、自校の射撃部に時折遊びに行
くことはあっても、ピアノには決して、学校の音楽室や体育館のものにすら、
手を触れようとはしてこなかった。

なのに、今日の気紛れは一体どうしたことかと、今更ながら舌打ちする思い
で、いささか憮然としていたキッドが、しかし、負けん気が強く前途有望なあ
の後輩が密かに想いを寄せている、その幼馴染でもあると聞く、他校アメフ
ト部の小柄なエースの口から、続いて耳にしたのは──滅多に物事に動じ
ない彼に、再び目を見張らせるに十分なほど、意外な言葉だった。
                        ・
                        ・
                        ・
「ピアノが……喜んでます」

愛らしい小動物を思わせる、つぶらな琥珀の瞳は優しく、古ぼけたピアノに
向けられたままだった。そして、まがりなりにもアメフトを嗜む者の手として、
それなりの傷や肉刺はあるにせよ、己のそれと比べれば遥かに小さく、華
奢な手指が、愛おしげに鍵盤を撫でる。

「喜んでるって……瀬那君は面白いこと言うね。どういう意味?」

キッドのからかうような問いに、瀬那は仄かに顔を赤らめながらも、相手の
質問に対し、正直に思うままを述べる。

「だって……ピアノは誰かに弾いてもらって、その音でまた誰かをいい気分
にするために作られるんでしょう? たとえ壊れてても、弾く人が弾けば、あ
れだけ綺麗な音が出せるのに、ずっとこんな生殺しみたいな……でも今日、
ここにキッドさんが来て、上手に弾いてくれたおかげで、このピアノはもう一
度、自分の存在理由を確認出来た。自分の音を好きだって言ってくれる人
間も来たし……あ、でも僕みたいなのに褒められてもしょうがないか……」

アハハ……と照れ笑いをする彼の、その純粋さが眩しかった。

そしてこのボロボロのピアノの思いがけない幸せに引き比べ、ふと考える。

あの煌めく檻の中に置かれていた“ピアノの皇帝”にして“皇帝のピアノ”は、
今頃、一体どうしているだろうか、と。

瀬那の言によれば、どのピアノも誰かを楽しませるために存在している筈
なのに、昔はただ、義務として淡々と弾くガキんちょの練習用。そして今は、
状態こそ完璧に保たれていようが、“あれ”を弾く者も、その演奏を聞いて
楽しむ者も、誰一人としておらず、優美な室内装飾の一つとしてしか存在
していないであろう、あのベーゼンドルファーは?

「……」
「……あの、キッドさん?」

再び遠い日の記憶に意識を引きずられそうになるも、目の前の小さな少年
の呼びかけに、キッドはあと一歩の所で踏み止まった。

過去との完全なる決別も
未来に待つであろう決着も
今だけは忘れよう

今だけは、この小さな“彼”がもたらしてくれた、羽毛のように柔らかく優しい
”に、静かに微睡んでいたい……。
                       ・
                       ・
                       ・
ポーン……♪

「ピアノも……瀬那君にそう言ってもらって、嬉しがってるみたい。何か、もう
少し弾いてよって今、言われたような気がするからねぇ……」
「わ、やったvvv」

カウボーイの被る大きな帽子の下から瀬那に向けられたのは、キッドにして
は珍しい、純然たる好意だけで構成された、明るい微笑だった。

ポポーン……♪

ウィンクを一つ投げかけ、再び鍵盤の上に両手を置くと──古びて黄ばんだ
部分すら、心持ち一つで象牙製のように感じられるのだから、ますますもって
不思議なものだ──、傍らに寄り添う瀬那の琥珀色の双眸が、喜びと嬉しさ
と期待で、パァァと、更に輝きを増した。

(大曲の……複雑な動きはもう、出来ねぇこの両手両足だけど……今日は
君のために、生まれて初めて、俺は……心を込めて、ピアノを弾くよ……い
や、弾かせてもらいたいんだ)

淡い夕陽が差し込み始めた中、柔らかな和音の旋律がゆっくりと、再び流れ
出す。演奏者一人、観客一人、たった二人だけでも互いに充分、心満ち足り
て“夢見心地”の演奏会が今、再び幕を上げた。


                                  ★☆おしまい☆★

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


トロイメライ(Träumerei)、ドイツ語のトラウム(traum/英語で言うdreamなの
ではないかと)から派生した言葉で、夢見心地、或いは夢想や空想(に耽る
事)といった意味らしいです。
シューマンの“Kinderszenen”(『子どもの情景』)と言うシリーズ?(音楽詳し
くないんで、適当な表現が思い付かないっス……orz)の中の一つとして、日
本でも有名ですよね。ちなみにこのシリーズ?は、作曲者本人の語ったとこ
ろによれば、「子ども心を描いた、大人のための作品」なのだそうです。

色々なサイトさんで試聴してみたのですが、“ピアノ概論”様のMIDIが、一番、
香夜さんの想像するキッドさんの演奏に近く感じられたので、それを聞きなが
らお読みになられては如何でしょうと、お勧めさせて頂いた次第です(直リン
はもっての外ですし、フリーウェアとはあっても、拙ブログのような所で使わせ
て頂くのは畏れ多くて。何より、ブログに於ける音曲のUP方法が分からなか
ったので/苦笑)。

武者小路家のピアノ、ベヒシュタインとベーゼンドルファー、どっちにするかで
すっごく迷いました。スタインウェイも有名ですが、これはちょっと違うかなと、
最初から除外(でもあれもとっても良いピアノなのだそうですね)。結果として
は、年間限定生産(技術等の関係上、決まった台数しか作れないようです)
と皇帝云々の謳い文句、そして何より、“弾く人間を、ピアノが選ぶ”という表
現に惹かれ、ベーゼンに決定。正直、『トロイメライ』を弾くのに適した音や性
質なのかどうかは微妙なところですが、まあその辺はDon't think, feel......!
の方向でお願い致します(笑)。

キッドさんの両手脚がどうのこうのというのは、単に、弾かなくなって結構経
つから、ショパンの革命のエチュードみたいなのはもう、無理無理絶対無理
というような意味であって、断じてWJ今週号の影響では御座いません。だっ
てこの話、書いたのも初UPも去年だもん!(思い出し号泣)

更新②(拍手レスとブログコメントへのお返事のやつです)にも書きましたが、
諸事情により、いつもより推敲の時間と機会が少なく、しかも今回の更新は
激情に駆られるままUPしたものなので、所々に誤字脱字があったり、改行
や段落分けすべき所が間違ってたり、全体的に粗削りな仕上がりになって
いるんだろーなーと、自分でも分かってはいるのですが、出来る時に出来る
だけやっとかないと、ホント今、色々とアレなんで……ハイ。や、キッドさんの
事以外は皆、瑣事ばかりなんですけどね、重なるとちょっとめんどいって言う
か……。

とりあえず、キッドさんの御無事と西部の逆襲を願って、UPしときます。原作
の方が理想的な展開になってくれた場合には一旦下げて、完璧な状態で再
々度UPしたいニャ~。