冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

狼(男)なんか恐くない?

2006年11月26日 | 陸×瀬那
銀色に無地の、ありふれた家庭用調理ボウルでそのまま出されたのでな
ければ、洋菓子店から買ってきたのかと勘違いしていしまいそうになる程、
芳醇な味わいに満ちたパンプキン・プディング。繊細なデコレーションまで
はさすがに無理だったのか、泡立てた生クリームが別のボウルにこれまた
山と盛られ、キャラメルシロップが瓶入りのまま出された大雑把さは、男子
高校生ならではのご愛嬌と言ったところであろう。

プディングの濃厚で滑らかな舌触りを楽しみながらも、未だコーヒーが苦手
な甘党の自分のためには特製カフェ・オ・レ、そして彼自身が飲むブラック・
コーヒーを、それぞれ手際よく淹れてくれている陸の、無駄の無い、いっそ
洗練されていると言いたくなるような手の動きに、瀬那はただただ、溜め息
をつくばかりだった。

「僕、今日がハロウィンなんてことすっかり忘れてた。まさか陸がこんな用意
しといてくれるなんて思わなかったなぁ……覚えてたら、僕も何か手土産持
ってきたんだけど……。ごめんね、気を使わせちゃって?」
「気にすんな、俺が勝手にやりたいと思っただけだから。それよりどうだ、味
の方は?」
「すっっっごく美味しい!!!」

瀬那の、今にもとろけそうな、幸せ一杯の笑顔に、陸はここ毎晩、深夜まで
ネットの製菓サイト巡りをした甲斐があったと、畑違いの苦労がすべて報わ
れた気がした。人一倍プライドが高く、男としての体面を気にする彼のこと、
書店で菓子作りの本を買ったり、まもりに教えを乞う訳にはゆかなかったの
である。

「あ、そだ、ちょっと待ってろ」
二種類の飲み物をテーブルに置き、唐突に身を翻してキッチンを出ていった
陸。軽やかに階段を昇降する音がして、五分と経たず戻ってきた彼の手に
あったのは、片手に納まるほどの手頃な大きさをした、愛敬たっぷりのジャ
ック・オー・ランタンだった。

「ほい、やる」
「これも……陸が作ったの?」

目をまんまるくして、瀬那は相手を凝視した。刳り貫かれた装飾用カボチャの
中には、ご丁寧にも小さなキャンドルまで置かれている。自分の恋人はまあ、
何と器用で用意周到なことだろう!

キリリと引き締まった顔立ちに怜悧な頭脳。体つきは自分とそれほど変わら
ない筈なのに、そこからはち切れんばかりの闘志と、実力に裏付けられた矜
恃、そして何よりその自立心が陸を、彼の属する“フィールドの開拓者”集団
の猛者たちに少しも見劣りしない、立派な一人前の“男”に見せていた。

それだけでも十分に魅力的であるのに、加えてこの細やかで気の利いた心
配りに代表されるような、鈍い自分にも分かりやすいよう、言動にハッキリと
した形で、惜しみ無く示してくれる愛情……恋人志願の少女たちはさぞかし
多い筈だ。恋人への惚気と、彼を奪われはしまいかという不安の間で、瀬那
は胸を締め付けられるような思いに駆られた。

(いやいや、今は考えないようにしよう。こんな暗いことばっかり考えてるって
知られたら、きっと陸に嫌われちゃうよ……)

脳裏にちらつく不安を振り払おうと、瀬那は陸に気付かれぬ程度に頭をそっ
と、左右に振った。所有者とは正反対に自由奔放な髪の一房一房、一本一
本が音も無く揺れ、同時にシャンプーの仄かな香りが、彼の生来の体臭と
相俟って、テーブルの上の菓子や飲み物とはまた異なった、甘い誘惑を発
する。

その誘惑に酔い痴れることを楽しんですらいる銀髪の恋人が、瀬那のこの
甘やかな憂いを知れば、自分の陰日向無いアプローチがようやっと、他者
からの好意には相変わらずまるで疎い少年の、幼い心の蕾を開花させたか
と、嫌うどころか逆に、感極まって喜びの涙を流していただろう。そしてその
愛情はより一層深まること間違い無しなのだが、晩熟な瀬那にはそのよう
な、人間の微妙に過ぎる心情の機微など、知る由も無かった。

閑話休題(それはさておき)──

夕方近くになり、やや薄暗くなってきたのを機に、二人は早速キャンドルに
火を点じた。可愛らしかっただけのお化けカボチャの提灯に、ほんのちょっと
だけ、不気味さが加わる。ピクリと身じろぎをした瀬那にさり気なく身を寄せ
ると、陸はわざと淡々とした声で語り始めた。

「知ってるか、瀬那? 今でこそハロウィンはアメリカ流のが主流になって、
子ども向けの楽しいお祭りって風に日本でも解釈されてるけど、本来は古
代ケルト族の、日本で言うお盆と大晦日を一緒にしたような神聖な日だっ
たんだってさ。11月1日からはいよいよ厳しい冬、暗黒の季節の始まりって
ことで、その前日からもう暗い雰囲気に包まれちゃって……お盆っつっても
日本みたいに、ご先祖の霊魂を家の中にお迎えして祭る習慣は無いから、
死霊は単なる怖いものでしかなかったし、それ以外の闇の生き物たちも含
めて、ヤバイ奴らが家の中に入って来ないようにって、篝火焚いたり魔除け
の供え物したり……化け物の仮装すんのだって、そいつらに自分が、か弱
い生身の人間だってことがばれたら、取り殺されちゃうからなんだと。
そうそう、このジャック・オー・ランタンにも、永久に生死の境を彷徨わなきゃ
いけなくなった男の伝説が……」

瀬那の顔色が次第に蒼ざめてくる。計算通りと心の中でほくそ笑みながら、
陸はパッと、キッチンの蛍光灯のスイッチを入れ、アメフト以外では未だ臆
病なところが数多く残る愛しい恋人に、明るい笑みを向けた。

「あ~んしんしろって、瀬那!ここ日本だぜ?自分たちの国のお盆だって
忘れがちなのに、今じゃもう先祖の祟りとか別に聞かないだろ?」
「あ、安心って何さ……別に僕は怖がってなんか……」

ハッと口元を押さえる瀬那を、陸はテーブルに両手をついて上から意地悪
そうに覗き込んだ。彼の両目のエメラルドには、小さな子どもが悪戯に成功
した時の、愉快で得意そうな光がキラキラと躍っている。

「♪♪♪~」
「……」

鼻歌を歌い始める陸に対し、口をへの字に曲げた瀬那。その膨れっ面すら
愛おしいと、上機嫌の陸は気付かなかったが、瀬那にだとて多少の自尊心
はあるのだ。しばしの沈黙を経て、彼は捨て身の反撃に打って出た。

「陸の馬鹿……もういいよ、僕、今日は進さんのとこ行く……新しい効果的
なトレーニング方法教えてくれるって言ってたから……それにあの人ならき
っと、相手が何でも関係無くやっつけてくれるだろうし……」

呟くが早いか、「ごちそうさまでしたっ!」と叫んで立ち上がると、瀬那は光
速の速さでキッチンを出て、靴に両足を突っ込むと、つむじ風のように、あっ
と言う間に甲斐谷家を出て行ってしまった。

「え……ちょ、瀬那!待てって……ゴメン俺が悪かったからっっっ……って、
フギャァァァア!!!」

事態の唐突さと、一瞬の後に気付いたその深刻さに、すぐ瀬那を追おうと
した甲斐谷陸少年16歳だったが──恋人に構いきりで、自分には一向に
“treat”してくれる気配の無い造物主に痺れを切らしたお化けカボチャの
“trick”か、キッチンと廊下の境目に足を取られ、当初の予定にあった柔
らかな桜色の唇とは、似ても似つかぬ硬いフローリングの廊下と接吻する
羽目に陥ってしまった。歯が折れたりして、“血染めのハロウィン”(どこの
ホラー映画だ)にならなかったのが、せめてもの救いか。

今宵はさぞかし美味なディナーにありつけようと、期待に胸ふくらませ、緑
の瞳を爛々と輝かせていた銀色の毛並みの人狼が、逃げてしまった愛く
るしい小動物を、果たして再びその腕に取り戻せたのか、それとも聖なる
騎士の、(白)銀の弾丸ならぬ三叉の槍に返り討ちにされてしまったのか。

答えはジャック・オー・ランタンと、月夜に飛び交っていた蝙蝠たちだけが
知っている……?

朱を奪う紫 (中編)

2006年11月19日 | 大奥(キッド×瀬那)
「わ、キレイ!キッドさん、これキッドさんが!?」
「おや、いらっしゃい」

白綾の料地にスラスラと絵筆を走らせていたキッドは、その日もいつもと
同じように、穏やかな微笑みで瀬那を迎えた。脇息に右半身を寄りかか
らせたままであるにもかかわらず、決して人にだらしのない印象を与えず、
端然と座っているよりも却って趣きのある姿に見せられるのは、大奥広し
と言えども、この紫苑の方ぐらいだろう。もっとも、一般には大奥に属さな
いと考えられている山里の丸の主が、正室である以上、その住居もまた
大奥であるとするなら、話は別だが。

本来ならばすぐさま脇に退いて上座を譲り、平伏してお迎えのご挨拶を
申し上げなければならない、“上様”の御成りなのだが、格式ばった遣り
取りは苦手だからと、当のご本人から既に頼まれている上、幕府の側か
ら乞うての大奥入りということもあって、蛭魔局も紫苑の方の言動にはそ
れほど目くじらを立てず、やかましくも言わない。

それをよいことにこの、“諦観”という概念を擬人化したような、どうにも掴
みどころの無い※お部屋様は、馴れ合いや増長とは違った意味で、幼将
軍に対し、日に日に打ち解けてゆかれ、近頃では無造作な態度はおろか、
その姿形──着物を除いては髭や髪の手入れすら、「何か堅苦しいよね」
の一言の下、しばしば怠ったままの姿で会うようになっていた。だが彼の
生来の気品故か、その寛いだ姿は何故か、他者にいささかの見苦しさも
感じさせない。実際、将軍は喜んで親しみの念を表される上、肩肘を張る
ことなく、しかしそれとはなしに十分に感じられる紫苑の方のお徳は、その
大奥入りして以来の名声を、本人の希望とは裏腹に、少しも衰えさせてい
なかった。

“矛盾”──異なった二つの呼び名を持つこの側室の魅力を言い表すの
に、最も相応しいのはこの言葉であった。

閑話休題(それはさておき)──
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「あれ? でもこの絵……紙じゃなくて布に描かれてる?」
「ああ、これ俺の新しい小袖。側室だから立ち働く必要は無いっつっても、
一日中ボ~っとしてんのも何かねぇ。ほら、俺一応、宮中で働いてた訳
じゃない? 何か手ぇ動かしてる方が落ち着くんだ。それに呉服の間は
いつも忙しそうで、俺のもんまで頼んだら悪いかなって。自分でやった方
が仮縫いとか、考えてたのと違うからやり直しみたいな、無駄な手間かか
んないし」

実はそれ以外にも、一度ちょっとした用があって呉服の間に直接足を運
んだ際、そこに働くお針子たちや、丁度その日そこに居合わせた大奥女
中たちに、何やら物凄い熱狂的な反応を示されてウンザリしてしまったと
いう経緯があったのだが、そちらの原因に関しては思い出したくもないの
で、キッドはそれに関しては口を噤んでいた。

「あっ、じゃあもしかしてキッドさんのお着物って皆……」
「うん、そう。織り以外は全部自分でやってんの」

何でもないことのように淡々と答えながらも、作業の手は休めないキッド。
その筆遣いは淀みというものが一切無い、非常に流麗なものだった。

キラキラとした瀬那の、無邪気な憧憬と称賛を含んだ眼差しはやけに気
恥ずかしく、何やらこそばゆい気がしないでもなかったが、(無駄に色々
習ってたのも無駄になんなかったのかね……?)と、あれほど忘れたが
っていた過去を、一瞬でも評価してしまった自分の意外な現金さに、内
心でキッドは苦笑を禁じ得なかった。

そして彼はゆっくりと体を起こして絵筆を置くと、無骨で見苦しいとまでは
ゆかないまでも、かつて宮中の貴人たちから乞われるままに酷使した結
果、さすがに今となっては昔のような、“白魚の如き”とは言い難い手を
瀬那に向け、ヒョイヒョイと手招きをした。

「瀬那君もやってみる?」
「いいんですか!?」
「勿論」

嬉しそうにいそいそと寄ってきた瀬那を自分が座していた座布団の上に
座らせ、自らはその隣に腰を下ろす。そしてそれまで自分が描いていた
ものを畳の上によけると、キッドは下絵を描くのに使っていた半紙の残り
から、数枚を取り上げて、机の上に乗せた。

「何を描きたいの?」
「んっと……紅葉!」

ハイハイ、紅葉ね……と、キッドは瀬那のために緋や朱、臙脂(えんじ)
といった赤色系の絵の具を用意してやる。そしてふと思い出す。つい先
日行われた、観楓の宴でのこと。
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鮮やかな真紅の髪に黄金の簪を何本も挿し、シャラシャラと澄んだ音を
響かせていた麗人。秋の紅葉そのものといった、絢爛たる緋色の地の
金襴緞子に身を包んだ上、首から両肩、そして腰周りに白紗の※領巾
(ひれ)を優雅にまとい、生ける※竜田川と化していた華麗な御台所。
病み上がりと聞いていたが、大事を心配して暖を取るためとは言え、お
掻取の上に薄物とは、何とも奇妙な格好であったにもかかわらず、むし
ろそれが斬新で粋な着こなしと見えたのは、あの辺りを払うような美貌
を持つかの御方だからこそであって、他の人間がやったのであれば、気
でも触れたかと思われるのが関の山であったろう。

大奥入りしたばかりのこの自分、紫苑の方の歓迎会を主目的とした宴
であったらしいが、あの日の真の主役は決して、たかが知れた中流公
家出身の新入り側室などではなく、本来君臨すべき華やかな場所をい
ともあっさりと捨て、奥深い山里の丸での隠遁生活を選ばれた、やんご
となき宮家出身の“赤御台”その人であったと思う。

奢侈や軽佻浮薄を嫌い、その日も見事な※幸若(こうわか)を披露する
と、さっさと退出してしまった、白木綿の質素な小袖に、墨絵で雁(かり)
の群れを描いた※葛袴(くずばかま)の※進典侍(しんすけ)。
大輪の香り高い白菊を手に持ち、ピッタリと息の合った※青海波を舞っ
てみせた、※碧(へき)に銀箔摺り流水紋の、揃いの※直垂裃(ひたた
れかみしも)をまとうた二人の御手付き中臈、筧と水町。
このそれぞれに異なった個性的な美しさを持つ三人の側室たちが束に
なっても、鬼気迫るような“天下無双の佳人”の麗容の前には、やや霞
んで見えるほどだった。

だが、たった一人だけ──。地味な焦茶の絹地に、公孫樹(イチョウ)を
中心とした秋の落葉が舞う、遠目にはあまりパッとせぬお掻取。だが側
に寄ってよく見れば、生命の輝きを失った筈の枯れ葉たちが実は、琥珀、
※黄玉、縞瑪瑙、鼈甲、※柘榴石といった高価な宝石類を葉の形に似せ
て細工し、布地に縫い付けたものなのだということが分かった。

秋の陽射しを受けて煌びやかな光沢を放っていた髪は、後頭部でこれ
また簡単に、丸く引っ詰められていただけだったが、その髷の根元に
挿された繊細優美な純銀造の笄(こうがい)にあしらわれた、色・大きさ・
照り・巻き・形の五拍子が揃っている上、殆ど無疵の、大層見事な黒真
珠は、それだけで十分に人目を引き、また所有者の、かけた費用は別
として、単純であるが故に完全無欠を誇る、その装いの美しさを強調し
ていた。

その全身から漂うは、※沈香(じんこう)の中でも最上のものとされる伽羅
の薫香と、見る者の眼前に迫り来るような威厳。そして口元にだけ刻まれ
た、紅などの力を借りずとも十分に凄艶なその微笑には、一部を除き大多
数の者たちの頭を自然と垂れさせ、畏怖せしめる何かがあった。

江戸幕府の陰の、だが同時に真の支配者。大奥総取締──蛭魔局。

不仲とは聞いていたが、実際に目にした御台所とお取締の、視線が度々
バリバリと火花を散らす、本物の自然の色彩よりも鮮やかな、紅と黄金の
乱舞には実際、目が眩むかと思われた。夏は遠く過ぎ去ったにもかかわ
らず、御台所が、むせ返るような芳香を放つ白檀の扇をパタンパタンと弄
んでおられるのは、※秋扇(しゅうせん)の故事にかこつけた、蛭魔局さま
への当て擦りよと、当の本人たちよりもハラハラとしている周囲から、囁き
声が途切れることも宴の間中、一度として無かった。

(やーれやれ……どうやら当てが外れたどころか、とんでもない伏魔殿に
来ちゃったって感じ?)

紅炎に包まれた正室への対抗馬、また大奥に暮らす側室やその候補者
たちの誰か一人でも突出した力を持たぬよう、牽制役をも期待されている
らしい己の、今後の前途多難が思いやられ、本来の主役であった筈の新
しき御方は、素直に宴を楽しむことなど到底出来なかったのである。
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「キッドさん、キッドさん、どうかしました?」

先日の情景を反芻するうち、ついボンヤリと動きを止めてしまったキッドだっ
たが、瀬那の訝しげな声にハッと意識を取り戻すと、すぐさま何事も無かっ
たかのように、飄々たる表情を取り戻した。そして小さな上様に乞われるま
ま、まずは手本を描いてみせ、次には幼主の小さな利き手を取って、絵画
のコツを教えてやったのだった。
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「瀬那く~ん? もしも~し???」

苦笑混じりの呼びかけに、瀬那はハタと顔を上げた。そして今更に気付く、
夕闇迫る周囲の暗さに。瀬那の熱中ぶりたるや、普段のオドオドとした様
子からは想像もつかないほど熱心なもので、夕餉の時刻になっても中奥に
戻ろうとしない将軍に、紫苑の方付きの者たちはてっきり、上様は今宵こち
らに御寝あそばすものと喜び、いそいそと将軍の奥泊まりの準備を始めて
いた。

キッドにはもともと、こんなに遅くまで瀬那を引き止めるつもりは無かったの
だが、瀬那の熱意に水を差すのはどうにも忍びなく、声をかけそびれていた
のだ。それでもさすがにこれ以上は御体にも障ろうと思い……。自らの置か
れた状況に気付いた瀬那の顔が、ボンと音を立て、絵の具以外の何かで
赤く染まった時にはもう、臥所の準備はバッチリ整っていた。

将軍が夜を大奥で過ごす場合、寝所にはそのお相手以外に、屏風を隔て
て※お清(おきよ)の中臈と、将軍の寝所で雑用に勤めるお伽坊主なる者
が一人ずつ、分を弁えぬ愚か者のおねだりを阻止するため、監視役として
布団を敷き、その上に横たわって控えていることになっている。民間から見
ればとんでもなく異常な風習ではあったが、過去の数多の弊害を考えれば、
大奥に暮らす者たちにとってそれは当然のことだった。

しかし、自分もそのような状況下で生まれたと分かってはいても、第三者
が聞き耳を立てていると分かっている中で“その行為”に及ぶのは、瀬那
としてはいつも非常に気恥ずかしく、甚だ不本意なことであった。だが、ま
さか一晩中絵を描いている訳にもゆかず、とりあえず瀬那はキッドの部屋
の湯殿を借り、寝間着に着替えたのだった。
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同じ臥所に横たわっていながら何もしなければ、控え役たちは翌朝、昨晩
のお閨の様子を逐一、蛭魔局に報告することになっているので、結果とし
てキッドに大恥をかかせてしまうことになる。彼の物柔らかな視線は暗に、
(中奥に帰ってもいいんだよ?)と言ってくれていたが──こんな、地位を
除いては何一つ取柄の無い自分を、何も言わずあるがまま受け入れてく
れる、御台所に抱く想いとは異なれど、それでも大好きな優しいキッドの顔
をつぶすのは、瀬那の望むところではなかった。

(“これ”さえしなくて済むんなら、進さんとも筧君とも水町君とも、何のこだ
わりも無い、いい友達でいられるのにな……)

憂い顔で溜め息をつきながらも、覚悟を決める瀬那。もう一方のキッドはキ
ッドで、色々と苦悩しているらしい瀬那を可哀想に思いながらも、自分もまた
“側室”として大奥に身を置いている以上、“上様”がそう望まれるのならば
“お勤め”は果たさねばならず、瀬那には見えない方向を向くと、ほろ苦い表
情を顔に浮かべた。

既に幾度か閨を共にしたことのある二人だったが、回をどれほど重ねても、
瀬那の生娘(?)のように初心な風情は消えることが無い。

(俺よかずっと経験豊富な筈だけどねぇ?)

それを考えると何やら微妙な気持ちがしないでもなかったが、瀬那の初々
しさは、キッドにとって決して不快なものではなかった。そして両手を両膝
の上で固く握り締めたまま、カタカタと震える瀬那の痛々しい様子を見るに
つけ、キッドはいつも思うのだ。この少年に、快楽とまではゆかないまでも
せめて、あまり苦しい思いはさせたくないと。自分もまた複雑な溜め息を一
つこぼしたが、諸々の思いをとりあえずは一旦、胸にしまい、キッドは壊れ
物を扱うようにそっと、主の小柄な体を優しく抱きしめる。

いつもそうなのだが、直前までの葛藤とは裏腹に、いざ抱き締められると
不思議なことに、キッドの抱擁には何かしら、瀬那を落ち着かせるものが
あった。

どれほど恋い慕おうとも、正体を偽っていた以上、京紅あでやかに麗しい
御台所の腕の中に身を委ねることは、御台所自身がどう思っていたかは
ともかくとして、瀬那にとっては憚り多いことであり、肩口に頭をほんの少
しもたれかけさせてもらうのが、精一杯であった。

進の抱き方は“忠実”そのもので、礼儀正しく且つ真摯だが、武芸を教え
てもらっている時のような高揚感は、あまり感じなかった。筧のそれは激
情に過ぎて肉体にかかる負担があまりにも大きく、翌朝が時折起き上が
れないほど辛いものになるし、水町とだと強烈を通り越して苦痛にすら感
じられる快感に、自我を忘れてしまうほど狂わされ、羞恥心の強い瀬那は
その都度、後で必ず自己嫌悪の念に苛まれた。

だがキッドの、貧相と言うほどではないが、どちらかと言えば痩せ気味の
体から仄かに香る※“侍従”の、押し付けがましくない優しさ、そして遠い
昔、まだこの世のありとあらゆる苦しみや悲しみを何も知らなかった赤子
の頃、母の胸に抱かれていた時のような懐かしいような匂いに包まれる
と、瀬那の張り詰めていた心は柔らかく解きほぐされ、ともすればその苦
しい心の内をすべて曝け出して、いっそさめざめと泣き伏したい衝動に駆
られるほどであった。

その夜も、さすがに号泣こそしなかったが、目頭が半端な熱を持ち、鼻の
奥がツンとするのを感じると、瀬那はそのままキッドの膝に乗り上げて、
彼の太くも細くもない首回りに両手首を絡めると、首筋に顔を埋めるという
よりは、甘えるように頬をすり寄せた。

(あれあれ、今日はまた珍しく随分と積極的だねえ……俺んとこ来る前に
何か悲しいことでもあったのかな? それとも蛭魔にまた叱られた?)

しばらくの間、左手で瀬那の腰を抱え、右手でポンポンと軽く、あやすよう
に瀬那の背中を叩きながらキッドは、瀬那の呼吸と小刻みに震える両肩
が、完全に落ち着くのを待った。そうして小さな主がようやっと夢現の状態
に入ったことを確かめると、それから起きたことはすべて夢の中での出来
事と思わせるのに何の不都合も無い、そよ風のように優しい動きで、キッ
ドは瀬那に意識させることもなく、右手をそっと、彼の寝間着の胸元に滑り
込ませ、その左手は音も無く、キッドのそれより短い、寝間着の帯を解い
たのだった。

仄暗い寝間に飾られたお掻取の紫色は、辺りの空気までをも妖冶に染め
上げ、大地に根差さぬススキの波が、隙間という隙間をすべて無くして重
なり合った、二つの人影が立てる微風にそよいだ。
                                    (後編へ続く)

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※注釈

お部屋様…
もとは貴人の妾の尊敬語。江戸時代の大奥では、正室以外で将軍
の子を生し、その功によって個室を与えられ(貴婦人の部屋=御方
という事で、以後名前の下に“方”が付くようになる)、正式に側室と
して認知された女性(特に第一子の母)が、この尊称で呼ばれたら
しい。紫苑の方が何故、現時点で既にお部屋様なのかという事につ
いては、後編で説明します。

領巾…
奈良時代から平安時代初期にかけて、主に上流階級の女性が身に
つけていた、羽衣のようなもの。現代で言えばストールやショールに
近い。

竜田川…
流水に紅葉が散った文様。即ち御台所の金襴緞子の金色と緋色の
模様を紅葉に見立て、白紗を川の流れとしている。

幸若…
幸若舞(こうわかまい)の略称。室町時代後期、幼名を幸若丸と称し
た桃井直詮によって創始された中世芸能の一つで、烏帽子・直垂を
着用し、鼓に合わせて武士の世界を素材とした物語を謡うもの。メイ
ンはあくまでも謡だが、合戦などのアクション・シーンでは、謡い手が
舞うこともある。例によって衣装の決まり事は無視(笑)。

葛袴…
緯糸に葛の蔓(つる)の繊維を使った布、葛布(くずふ)で作った袴。
葛は秋の七草の一つであり、雁の群れもまた秋の風物詩。

直垂裃…直垂と袴の上下が同じ生地で作られているもの。

黄玉…黄色のトパーズ。

柘榴石…ガーネットの和名。

青海波…
雅楽の一つで、管弦(管・弦・打楽器による合奏だけの演出法)に
も舞楽(器楽合奏を伴奏に舞う演出法)にも使われる。『源氏物語』
の「紅葉賀」の巻で、源氏の君と頭中将が舞ったものが有名。舞う
時に着用する衣装には正式に定められたものがあるのだが、今回
は無視。

典侍…
本来は天皇に常侍し、その雑用から政務に於ける秘書的な仕事、
また後宮の諸事務や礼式まで様々に司っていた内侍司(ないしの
つかさ)の次官職の名称。江戸時代、宮仕えの経験のある京都出
身者が大奥入りした場合、前職のちなみからこの名称を局名に用
いることがあった。後には禁裏風の優雅な響きに憧れ、京都出身
でなくともそれを名乗る側室もいたらしい? 徳川綱吉(五代)には
大典侍(おおすけ)、徳川家宣(六代)には新典侍(しんすけ)という
側室がいたと伝えられている。今回の進の局名は新典侍を真似し
ました。

碧(へき)に銀箔摺り流水紋…
青緑色の生地に糊で銀箔を貼り付け、流水の模様を表現したもの。

沈香…
ジンチョウゲ科の常緑高木から採取され、土中に埋めて発酵させる
か、自然に腐敗させるかによって得られる天然の香料。水に沈む事
から“沈水香”(じんすいこう)とも言う。

秋扇の故事…
前漢は成帝の時代、その妃・班婕(ハンしょうよ/“しょうよ”は妃
嬪の称号の一つ)が皇帝の寵愛を失った時、自分の身を、使われる
べき季節(繁栄の夏)が過ぎ去って涼しい秋、寒い冬(いずれもやや
物悲しい季節)には用無しとなってしまった扇子に例えた、「怨歌行」
という詩から、君寵の衰えた女を意味する。

お清…
将軍の閨に侍らない、或いはまだ御手の付いていない大奥女中。

侍従…
練香の一種で、秋から冬にかけての香りとされる。沈香・丁子香・
貝香・甘松・占唐を合わせたもの。“侍従。秋風蕭颯たる夕。心に
くきおりふしものあはれにて。むかし覚ゆる匂によそへたり”と評さ
れる(『後伏見院辰翰薫物方』)。秋風をイメージした、落ち着いて
いて上品、控えめで静か、そして人を懐旧に浸らせる香り。

朱を奪う紫 (前編)

2006年11月13日 | 大奥(キッド×瀬那)
春心 花と共に発く(ひらく)を争うこと莫かれ(なかれ)
(恋心は花と競ってまで咲かせてはならない)
一寸の相思 一寸の灰
(一時の熱情は、燃え尽きれば後に虚しい灰を残すだけだから)

幼子のように無邪気な寝顔をした主の、普段こそ四方八方にツンツンと
逆立っているが、今は汗ばんでクッタリと、やや湿り気を帯びている髪を
優しく手櫛で梳きながら、西の都から来た新しい側室は、まるで子守唄
を歌うかのように、低く柔らかな声で漢詩を吟じていた。

秋の夜長の冷涼さは時として身体に毒になるというのに、先程まで営ま
れていた淫靡な行為のせいで、少年が数刻前まではきちんと帯を締め
ていた白羽二重の寝間着も今はもう、その存在意義を完全に失っていた。

少年の剥き出しになっているきめ細かな、象牙の色とその滑らかな質感
を併せ持つ肌に、※秋桜の薄紅色をした花弁を散らした下手人として罪
を償おうと、気だるさと穏やかさとが渾然と混じり合った、何とも言えない
不思議な雰囲気を身にまとう痩躯の青年は、部屋飾りとして衣桁に掛け
ておいた、表が紫、裏地が薄紫の※萩襲(はぎがさね)に、自らの手で、
程好い量のススキを絞り染めで表現した手製のお掻取を、少年の、男と
してはまだまだ未完成な細い体にふわりと優しくかけてやり、改めて掛け
布団を引き上げてやるのだった。

「人間、欲張るとロクなことがねえ……って分かっちゃいるんだが……」

かなり小さくなってしまった蝋燭の柔らかな光が照らし出す、※元結(も
とゆい)を解いて垂らすに任せた中途半端な長さの髪や、深夜を回った
ことでうっすらと目立ち始めてきた髭。何ともしどけない姿であることこの
上無い。しかし彼──紫苑の方ことキッドの寝間姿には、奇妙にしっとり
と落ち着いた気品が漂っていた。優しく細められたその、もともと僅かに
垂れ気味の両目に、官能や情熱の残り火を見出すことは難しい。そこに
あるのはただ、親が子どもを、または兄が弟を慈しむような、温かで穏や
かな、優しい光だけだった。
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政治の実権を武家勢力に奪われて早幾年。位階に於ける上位のみを辛
うじて許された、“朝廷”──君主の執政の場とは、名ばかりの存在にな
ってしまった京の宮廷。もっとも、血腥い争いが無くなり、良く言えば鷹揚、
悪く言えば危機管理意識に欠ける都の公家衆よりも、遥かにきびきびと
して、勤労意欲に富んだ有能な※東夷(あずまえびす)たちのおかげで、
古式ゆかしい儀式を除いては、散文的な政(まつりごと)の実務に心を煩
わせる必要が無くなった結果、※堂上族たちの美しく風流な物事に対す
る探究心は、平安の栄華にこそ及ばずとも、なかなかに深い造詣を誇る
ようになっていた。

中でも特に“もののあはれ”を解することで有名な、武者小路権大納言家
の当代には、これまた大層評判の一人息子がいた。名を“紫苑”というそ
の子息は、端正で品の良い容貌に加え、漢学・国学・歴史・詩歌といった
公家の若君としての一般教養はもとより、書画に囲碁、茶の湯に雅楽、華
道、香道といった雅な嗜みすべてに於いて、いずれも非凡な才能と実力を
示し、尚且つ穏和な人柄と洗練された言動で、誰からも好意を持たれた。

これが平安の昔であれば、位人臣を極めたこと間違い無しであったろうに
と、父権大納言は宮廷貴族として、財力を伴った真の意味での立身出世
は最早望めぬ、武士(もののふ)を頂点とした昨今の太平の御世を少々残
念に思った。自慢の息子の才華を、何とか余すところ無く天下に示せぬも
のか。引いてはこの武者小路家の家格を更に高めるためにも……。

熟慮の末に辿り着いた結論は、やはり宮仕え。ただし紫苑少年が送り込
まれたのは、帝の主な御座所たる常御殿(つねごてん)や、諸儀式が行わ
れる清涼殿、紫宸殿(ししんでん)ではなかった。一般の堂上家の子弟が
行儀作法見習いを兼ねて務める殿上童(てんじょうわらわ)などでは、権大
納言の上には※大臣家、※清華家(せいがけ)、※五摂家、そして皇族の
お歴々──諸宮家のいとやんごと無き方々が数多おわす以上その先、高
が知れているからである。彼の初就職先は常寧殿(じょうねいでん)──
即ち、後宮だった。

もっとも、多少そのような知恵をめぐらしたところで所詮、武者小路家が中
流貴族の家柄であることに変わりは無かった。食うに事欠くほどではなか
ったが、女御として華々しい入内などは望むべくもなく、また女性(にょしょ
う)でないが故に、更衣にすら成り得ない紫苑が配置されたのは、後宮の
※御方々(おんかたがた)の服飾に関する一切を司る、※后町(きさいまち)
北面の※御匣殿(みくしげどの)だった。その芸術的才能を評価されての人
事であったらしい。

紫苑のみずみずしい感性と繊細な手から紡ぎ出される芸術品の数々は、
後宮の妃嬪・女房方のみならず、時の帝からも直々にお褒めの言葉を賜り
──そして父の期待と大方の予想通り、その豊かな知性と柔和な情緒を
兼ね備えた心身は、※宸襟(しんきん)の欲されるところとなったのである。

だが実質的な“力”というものを失って以来、必要以上に身分──今となっ
ては質素な生活を余儀無くされている大多数の堂上族にとって、古より伝
わる優雅な文化習慣を除いてはそれだけが、かつての栄光を思い出させ
る縁(よすが)だった──に執着するようになっていた人々で構成された宮
中に於いて、暴力こそ姿を消したとはいえ、“実”の伴わない“名”を巡る争
いは代わってその陰湿さ・厭らしさが、ねっとりとした都貴族独特の気質も
相俟って、むしろ目立つようになっていた。

そしてそれは表御殿に限らず、後宮とて同じこと。多感な少年期に、妍を
競うなどといった生易しいものではない暗い戦いを、各御殿の衣装争い
などからも嫌というほど見せつけられていた紫苑は、父の期待も宮廷中
からの熱い視線も、そして今後更に加わるであろう妬心の刃も、およそ情
というものすべてをほとほと煩わしく、また疎ましいものと感じるようになっ
てしまった。だがいやしくも帝からの直々のご所望、しかも父は大乗り気で、
さてどうしたものかと思案に暮れていた、そんな時だった。

──江戸幕府の西の出先機関たる京都所司代からの使者が、大奥入り
の話を持ってきたのは。
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父権大納言を始め、猛反対する一族の者たちと一年以上に渡り、揉めに
揉めた末、紫苑は生まれて初めて自分の意志を貫いた。行動に移した方
が勝ちと言わんばかりに、乳兄弟の鉄馬を始めとするごく少数の者たちだ
けを共として、半ば出奔の形で京を出たのである。

赤羽宮家より降嫁の、あの噂に名高い“赤御台”(あかみだい)に加え、そ
のそれぞれに際立った個性的な魅力、禁裏にまで伝わる三人の側室が既
に存在する以上、江戸城大奥でならば、自分のように興趣乏しい者などは
(これは紫苑一人がそう思い込みたがっているだけなのだが)、すぐにお見
限りの気楽な立場になれよう。紫苑はそうなることを切に期待(?)していた
のだが──

彼の期待は呆気無く裏切られ、総取締・蛭魔局の肝煎りでやってきた紫苑
の方さま──大奥では誰しもが皆、本名ではなく、局名(つぼねな)という、
一種の源氏名を名乗るのだが、紫苑が手ずから、下に下りてゆくにつれて
徐々に紫色が濃くなってゆく紫裾濃(むらさきすそご)に染めた※練貫地(ね
りぬきじ)に、白い桔梗の花を数輪、やはり裾の方にだけ慎ましやかに、こ
れもまた紫苑自らが針を手に取って刺繍した、ごく地味ではあるが、しかし
丁寧な仕立てのお掻取の、控えめであるにもかかわらず落ち着いて上品な
美しさは、宮中に於いては禁色の一つでもある、高貴な色名を持つ彼の本
名を、奇跡的に生き残らせた──の、上様に最も近い御方々のような強烈
な印象こそ残さないが、芒洋とした中にも、仔細に見れば思わずハッとさせ
られるほどよく整った清雅な顔立ちや、あまりにも自然過ぎて誰もが最初は
まったく気付かない典雅な挙措、そして不思議と人をホッとさせる穏やかな
声音などは、たちまちに評判となって大奥中を駆け巡った。

紫苑の方の、首筋を覆うか覆わないかの長さで、一つに束ねるのがやっと
の髪もまた、質素な白い※紙縒(こより)の元結が結ばれただけで、趣向を
凝らした髪型や精美な細工の髪飾りを好む者の多い大奥の中にあっては、
いかにも見栄えせぬ筈であるのに、その飾り気の無さは何故か、彼の涼や
かな眉目を却ってより一層、際立たせていた。大奥女中の中には、手入れも
楽に済みそうなその髪形に魅了され、射干玉(ぬばたま)の色をした女の命
をバッサリと断とうとする者さえいた。

他の者たちの手本となるよう、質素倹約を旨としていなければならないお取
締役からして、独特過ぎる美貌や服飾の御趣味により、華やかな色彩が百
花繚乱の相を呈するこの大奥にあって、武者小路権大納言家より来られた
新しき御方のこういった、至極あっさりとしたお好みは逆に、目新しいものと
して大層もてはやされるようになり、紫苑自身にとっては不本意極まり無い
ことではあったが、彼はたちまちにして大奥の一大明星に祭り上げられてし
まった。紫苑の方さまが何か新しいものを身に付けられる度、その翌日には
呉服の間や、※長局(ながつぼね)の出入り口脇に常設された大奥御用商
人たちの出店に、同じものを求める者たちが殺到して長い列を作り、それぞ
れの場に従事する者たちは、嬉しい悲鳴が止まらなかったという。
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そんなこんなで当てが外れ、ややゲンナリとしていた紫苑にとって、こちらは
良い意味での予想外。新たな主となった少年に彼は、自分でも驚くほどの好
意を抱くようになったのである。

初めて彼を意識したのは、公式のお目見えとは別に、初めて個人的にご機
嫌伺いをしたある日の午後のこと。その日の幼将軍は独り、※投扇(とうせん)
に興じていた。

「上様に於かれましてはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じ奉ります……」
畳に三つ指をつき、しなやかに半身を折って平伏しようとする新しい側室を
見て、実年齢よりも幼い容貌の将軍は、「あ、いえ、どうもこちらこそ……」
と、自分の方が恐縮したように慌て、何と目下の紫苑よりも先に、ペコリと
頭を下げてしまったのである。呆気に取られた紫苑が、らしくもなくポカンと
していると、目の前の、世にその御威光並ぶもの無き筈であらせられる上
様はのたもうた。首を傾げ、何とも愛らしく上目遣いに。

「あ、あの、今は自由時間なんで……。僕、これが地なんです。人にヘコヘ
コしてた時間の方が長いくらいで、まだ“上様”って呼ばれんのにも慣れな
いし、そもそも誰かに傅かれんの苦手で……出来たらしえん?さん?にも、
友達みたいな感じで接してもらえると助かるんですけど……駄目ですか?」

地位だけで言えば、この世で一番貴い御方にもかなり間近で接したことの
ある紫苑は、(何ともまあ、おかしな※上さんだ)と訝りつつも、その口元が
自然と綻ぶのはどうにも抑え切れなかった。幼将軍もつられて、はにかむ
ような笑顔を見せる。控えていた将軍付き小姓たちも、自分付きの者たち
も何も言わないということは、あの蛭魔局も公の場でさえなければ、将軍が
ありのままの言動で過ごすことを黙認しているということだろう。

俺の新しいご主人様、擦れたマセガキとかだったらちょっと嫌かも……と思
っていただけに、紫苑は心中、密かに安堵の溜め息を洩らしたのだった。

「ん~……友達みたいに気安く打ち解けて、ですか……まあ、上さん御自
身がそう仰るんなら、俺の方に異存はありませんけど? あ、そんじゃ俺の
ことも“キッド”って呼んでもらえます? 自分で付けた字(あざな)なんです
けど……」
「はい、分かりました。じゃあ二人だけの時は、き……ど?さんも僕のこと、
“瀬那”って呼んで下さい」

今度は破顔一笑。慣れぬ異国の言葉の発音に苦労しながら、あどけない
仕種で頭を掻いた“上様”に、キッドはますます微笑ましさと親愛感を感じ、
何年かぶりに彼は、本心からの微笑を浮かべたのだった。

それから上様──もとい瀬那は、ちょっと考え込むようにすると、自分に扇
子を差し出してきた。何かと目線だけで問えば、「キッドさんは投げ扇の心
得はありますか?」と、いかにも無邪気な様子でご下問遊ばす。

しばし逡巡したが、昔の記憶を掘り起こし、脳内模擬練習を二、三度行っ
て当時の感覚を思い出すと、キッドはしずしずと※膝行(しっこう)し、瀬那
の両膝と触れ合うほど近くにまでいざり寄った。そして扇を受け取り、それ
をパタパタ……とゆっくり開いて、要の部分を人差し指と親指でつまんだか
と思うと、目にも留まらぬ早業で、扇を見事、枕(台)の上の的に命中させ
たのである。

目をこれ以上無いほどに真ん丸く見開いた瀬那が、慌てて落ちた扇と的の
側に寄ると、それらが枕と共に形成していたのは、書物の中に伝わる以外、
誰も見たことが無いと言われる幻の形──最高難度と最高得点を謳われ
る、“夢の浮橋”だった。

「す、すごい!キッドさん、すごい!どうやったらそんな上手に!?」
もう一回見せて、もう一回……と、瀬那にせがまれるまま、扇を何度も投げ
てやるキッド。

(こんな風になぁんも難しいこと考えないで鉄馬たちと遊んだのって、もう何
年前になるっけねぇ……?)

あまりにも遠く、儚く、けれど決して忘れたことは無い、昔々の大切な思い
出。大奥入りを果たした後、戯れに手にした異国の書の翻訳本に載って
いた言葉を自嘲気味に字とした現在の自分と、思い出の中の、何一つ自
分では決められなかった公家の若君は、それこそ、天と地ほどに隔たった
思考を持つ、別の人間同士になってしまった筈なのに。今この瞬間、彼の
胸の中に生まれたほのぼのとした気持ちだけは、昔と何一つと変わらぬ、
優しく快いものであった。目の前で嬉しそうに手を叩いてはしゃぐ、小さな
天下人がもたらしてくれた、温かな思いの細波が、キッドの心の中にゆっ
くりと広がってゆく──
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投扇の遊びが一段落すると八つ時ということで、キッドは特別に、瀬那の
おやつのご相伴に与った。

「“キッド”って蘭語ですか?」
「んにゃ、エゲレス語らしいよ」
「どういう意味なんでしょうね?」
「小童(こわっぱ)、それと……※人目を紛らすごまかし」
「……」

キッドのどこか遠くを見るような目を前にして、琥珀色をしたつぶらな双眸
が、何やらもの言いたげに揺らめいた。見る者が誰であっても思わずたじ
ろぐような、深遠な光を宿して。

「瀬那君? どうか……したかい?」
「キッドさんは……」
「?」
「この世から、人知れず消えてしまいたいと思ったことがありますか?」

瀬那の呟きは、鈍器で頭を強く殴られたような衝撃だった。つい先程まで
のキッドなら、たとえ好ましく思いはしても、彼はこの幼将軍をただ、無邪
気に可愛らしいだけの存在として認識し、お召しがかからぬ限りは思い出
そうともしなかっただろう。ある憂い故に彼は、基本的には他人との深い
付き合いを望まないからだ。

だが、思いもかけなかった瀬那の、独り言のように謎めいた、けれど自分
には彼が何を言わんとしているのか、痛いほどによく分かる問い。

(この子は……)

キッドの心はかつて無いほど千々に乱れた。しかし長年の習慣で、それが
態度や表情に表れることは決して無い。彼は声に出して瀬那の問いに答え
ようとはせず、黙って懐紙を取り出し、相手の口元に付いた食べカスを拭い
取ってやった。優しい手つきだけに現れたキッドの肯定を、瀬那もまた無言
で受け入れる。底知れぬ深い憂愁を琥珀の瞳に秘めて──
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以来、微笑した顔を除いてはいつもどこか疲れたような表情で、年にそぐわ
ぬ老成した印象を人に与える新入り側室と、この世の栄耀栄華を一身に享
受しているにもかかわらず、何故か淋しげな面持ちをした幼将軍の仲は、見
えない何かによって強く結ばれたようであった。

今では毎日午前中、蛭魔局が既に実務処理を済ませた政治上の、各書類
に裁可の御墨付を与えるだけの政務を終え、やはり蛭魔から事細かに指示
されている午後の日課──即ち武芸・乗馬の稽古、または一般教養の学問
を、その聡明さと抜きん出た武芸の腕前が音に聞こえ、“謹厳実直”という言
葉を具現化したように凛々しい面構えと、重厚な物腰を持つ、最古参の側室
に見てもらうか、或いは見上げるほどの長身に鋭利な光を放つ蒼海の瞳、す
っきりと通った鼻梁の線が特徴的な、硬質の美貌を有する元・御右筆、現・中
臈との手習いと、彼による洋書講釈聴講(この中臈は幕府お抱えの蘭学者の
家の生まれであった)、若しくは脆弱な体を鍛えるため、陽光を細く細く紡いで
糸にしたような眩い黄金の髪を持つ、これまた大柄で、けれど仔犬のように明
るく人懐こい性格の、お半下から異例の大出世を遂げた中臈と、水練や走り
込みといった身体鍛練を終えると、瀬那は時間の許す限り、紫苑の方ことキッ
ドの部屋を訪れるようになっていた。

もっとも、周囲が期待するような艶めいた目的では、ついぞ無かったのだが。

                                     (中編へ続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※注釈

朱(あけ)を奪う紫…
ラストを読んでからの方が納得出来ると思われますので、この言葉
だけは反転文字とさせて頂きます。勿論、強制では御座いませんの
で(苦笑)、「今知りたい!」と仰る方はどうぞ↓。
『論語(陽貨)』より。直接の意味としては、間色である紫色が正色で
ある朱色(赤色)よりも人目を引き、もてはやされる事。悪が善に勝る
事が時としてある、世の中の不合理を指す。或いは、似てはいるがま
ったく違う事。“紫の朱を奪う”とも言う。


春心 花と共に…
晩唐の詩人・李商隠の作品『無題』より一部抜粋。訳、解釈は様々に
ある。

秋桜…コスモス。

萩襲…
平安時代に確立された、装束や調度の色の組合せ“襲(かさね)の色
目(いろめ)”の一つで、秋のもの。単衣や袿一枚だけでも、表と裏地
の組合せで使われる。江戸時代以降の所謂“着物”、即ち小袖や打掛
にこれが使われていたのかどうか、詳しくは知りませんが、まあ、パラ
レルという事で一つ(笑)。

元結…髪を束ねる紐や糸。

東夷…
京都の人間が東国の人間、特に東国武士を嘲って言う言葉。

堂上…昇殿を許された公家。

大臣家…
正親町三条、三条西、中院の三大臣家。内大臣から太政大臣までの
各大臣になれるが、大将を兼任することは出来ない。

清華家…
大臣・大将を兼ね、太政大臣にまでなれる公卿の家格。転法輪三条・
今出川・大炊御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我・醍醐・広幡の九家。

五摂家…
摂関家である藤原北家から分かれた近衛・九条・二条・一条・鷹司の五
家。鎌倉時代以降の関白職は一部例外を除き、大抵はこの五家から輩
出された。

御方々…
“御方”は貴人の尊敬語。特に女性を指す事が多い。今回は複数形。

御匣殿…
妃嬪ではなく女官であっても、天皇の寝所に侍る事は可能。『源氏物
語』中の朧月夜の君、もとはその目的で入内を促された玉鬘など。徳
川家茂(14代)に降嫁した和宮の母も仁孝天皇の典侍(後述)であっ
た。

后町…常寧殿の別名。

宸襟…天子の御心。

練貫…経糸(たていと)に生糸、緯糸(よこいと)に練糸を使った絹織物。

紙縒…細長く切った和紙、或いはそれを糸のように細く撚ったもの。

長局…
宮中や大奥で、複数の女性達が暮らしている、どちらかと言えば横に長
い一棟の建物。

投扇…
投扇興(とうせんきょう)、投げ扇(なげおうぎ)、扇落(おうぎおとし)とも。
枕と呼ぶ台の上にイチョウ型の的(蝶と言う)を立て、1mほど離れた所
から、正座の状態で開いた扇子を投げる。落ちた扇子と枕、場合によっ
ては命中して倒れている的の三つが構成する形を、『源氏物語』の各巻
名が付いた図式と照合して採点。得点の高低を競う。

上さん…
“さん”は御所言葉に於ける“様”。同様の使い方で後に出てくる“御台さ
ん”がある。

膝行…歩くのではなく、膝頭をすりながら進むこと。磨り膝。

人目を紛らすごまかし…
現代英語“kid”にある、俗語としての意味。“You're kidding!”(冗談だろ、
まさか!)や、“Just only kidding.”(嘘に決まってんじゃん)など、動詞と
して考えると分かりやすい。