冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

珠玉 8

2007年07月15日 | 珠玉
瀬那は決して、蛭魔のように智謀をめぐらすことに長けている訳では無い。
その脳の働きはせいぜい十人並みだ。それでも、大切な人たちの顔が脳
裏に浮かぶと、その臆病な心が激しく鼓舞された。あの人たちにまで暗い
黄泉路を辿らせてはならない、と。そしてその中には当然、東の隣国の一
騎士の顔もあった。

昔、蛭魔が、野原の草の上に胡坐をかきながら、自分を背もたれ代わりに
して、政治に関する機密書類をペラペラと捲りながら呟いていた時、耳にし
た、当時の瀬那にはさっぱり意味の分からなかった蛭魔の、深遠に過ぎる
思考に彩られた、数々の独り言。仲間たちの生命と国の命運がかかった、
現在のこの危機に瀕して初めて、瀬那の中で、それらの耳学問の精華(の
ごく一部)が、鮮やかに花開いた。もっとも、そのことこそが、後々まで瀬那
を苦しめる主要な原因の一つになろうとは、この時はまだ、誰一人として知
る由も無かった。当の瀬那本人も含めて、である。

(あと少し、ほんの少しでいいんだ……今この瞬間にも、一秒でも長く時間
を稼いでおけば、まもり姉ちゃんやモン太たちは国外に脱出出来る……普
通の人たちはともかく、デビルバッツ部隊の皆は、絶対後で何か、理由こじ
つけられて、酷い目に遭わされるに決まってるもん。それに、この巨深の人
たちはいずれ必ず、西部や王城にも攻め込むんだろうけど、それに対しても
皆がそれぞれの国に行って西部と王城の同盟締結を提唱すれば、巨深族
を挟み撃ちに出来る……)

辛いことではあったが、今となってはもう、泥門王国自体は敗戦を受け入
れるしかなかった。繰り返しになるが、これ以上の長期戦は、兵力面から
言っても補給面から言っても、既に限界を通り越しているのである。

対する巨深はと言えば、“海”という、支配下にある国々すべてに繋がって
いる上に、大陸の三大国が傍観の姿勢を崩さぬ以上は誰にも断つことの
出来ない、広大な補給路を持っている。形勢不利と見た場合でも、一旦海
上なり己の勢力圏内なりに退いて、態勢を立て直せば良いだけのこと。子
分をどれほど増やしても、軍隊にだけは決して異民族を容れようとしなかっ
たため、大軍こそ擁していなかったが、彼ら巨深兵は精鋭揃いであり、しか
も、その兵力の少なさは、そのまま逆に、小回りがきき、カケイを中心とした
上層部の指令が、末端の一兵卒に到るまで迅速に、間違い無く伝わるとい
う利点でもあった。そして何より、一族の結束が半端無く強い。

それに対し泥門は、一般民衆と、貴族並びに一部富裕層との間で、物事
に対する意識の落差が以前から埋め難かったことに加えて、今回の巨深
族襲来に際しては、同じ義勇軍に身を置く者たち同士の間にさえ、しばし
ば意見の食い違いが生じた。純然たる指導者を欠いたまま戦いを始めて
しまった時点で、そもそも無理があったのだが、それでも初期の頃には何
とか上手くやっていたのだ。

しかし、巨深族との戦いが徐々に泥沼化してゆき、また、泥門王国の“高
貴なる愛国者たち”による物資買占め、そしてそれに続く売り惜しみも手伝
って、生活必需品や軍需品の欠乏、ひいては泥門王国の“上下間”に於け
る断絶が一段と顕著になるにつれ、アイシールド21の活躍を軸に、ようやく
真のまとまりを見せ始めたかのように思えた義勇軍は、諸々の焦燥に駆ら
れ、改めて、“寄せ集めの軍隊”という馬脚を露してしまった。そこへ件(くだ
ん)の愛国者たちの裏切りである。一溜まりも無かった。

蛭魔の所在も杳として摑めず、財政はすっからかん、指揮系統はもう、滅茶
苦茶である。そして隣の二大国から返ってくるのは相変わらず、冷ややかな
沈黙のみ。カケイの暗殺に失敗してしまった以上、泥門を完全なる滅亡から
救い、仲間たちを無事逃がすためには、最早、自分の首を取引に使うしかな
いと、瀬那は覚悟を決めたのだった。

「お前から自主的に首を差し出すというのは……確かに、悪くないな……」
「ええ、それに……」

深呼吸をして心を落ち着けると、瀬那は、これまでの己の見解に加え、以下
のように説明を始めた。
                       ・
                       ・
                       ・
長期的な視野から見て、また実際の戦場に立った者として、忌憚の無いとこ
ろを述べれば、泥門にとってこれ以上の抵抗は、百害あって一利なしである。
巨深は要するに、泥門を“支配”したいのであろう、ならばそうすれば良い。命
あっての物種。平和の享受も復讐も、生きていればこそ、可能となるのであり、
死んでしまえばそれで一巻の終わりである。よって現在、戦闘の続行が既に
絶望的である以上、泥門の民は、一時的に巨深族に膝を屈してでも、同胞の
命が無駄に散らされるのを防ぐことこそ、先決とすべきなのではないだろうか。

それに巨深とてまさか、人間の働き無くして、田畑から豊かな実りを得られる
とは考えていない筈。抵抗を続ける泥門の民を皆殺しにし、他の島々の人々
を強制移住させたところで、彼らがここの土地に馴染むまでには、しばしの時
間がかかるであろう。農民の友人に聞いた話だが、土地というのはその地質
を知り尽くし、その時々に応じて、そこに何が一番必要とされているのかをよく
心得ている、地元の人間に慈しませるのが、最も効率的なのだそうな。しかも
今年は戦いに明け暮れていたせいで、泥門各地の農村は荒れ放題。一度荒
れてしまった土地を復興させるには、荒れていた時間の数倍の時間を必要と
するという。来年以降の収穫がおぼつかないようでは、軍需品、とりわけ食糧
の徴発が出来ず、泥門は大国たる王城・西部攻略の足場となり得ないが、そ
れでも構わないのか? 現在でさえ心身共にボロボロであるこの国に、この上
飢饉までもたらされようものなら、今度は生き残った国民総出で、玉砕覚悟の
武力抵抗が起きるは必定。忘れないでほしい、泥門の怒りの種火はまだ、完
全に消えた訳ではないということを。

しかし、巨深の最高指導者の名に於いて、自分の先程の懇願を必ず実行に
移してくれるというなら、当座の平穏は保てよう。その後に関しては、成功す
るも失敗するも、そちらのやり方次第である。ただし、一つだけ警告しておく。
発布された公告に虚偽が発生すれば──アイシールド21の処刑後に、何ら
かの理由をこじつけて、やはり粛清の嵐を呼び起こそうとするならば──、巨
深族の支配は、ただでさえ少ない正当性を更に失い、加えて泥門の民の不
信の念を、ますます煽ることとなるだろう。たとえ秘密裏にこの自分を闇へと
葬ったところで、無駄である。己に最も近しかった仲間たちは必ずや、真実を
嗅ぎ付けよう。そのような万一の場合を想定してわざわざ、彼らが皆、寝静ま
るのを待って潜伏場所をこっそり抜け出してくる時、「泥門城へ、巨深族の中
で一番“力”がある人を、暗殺に行ってきます」という、簡潔な置き手紙をして
きたのだから。

つまり、この自分・アイシールド21の提案を飲まない限り、巨深は、“価値ある
豊かな泥門”を手にすることが出来ないということである。
                      ・
                      ・
                      ・
(う~……こんなに頭使いながら喋ったの初めてだから、つ、疲れたぁ……
蛭魔さんがよく、口は幾ら使ってもタダだって言ってたけど、こんな疲れるん
なら大赤字だよ……にしてもあの人、こんなこと殆ど毎日やってたんだから
やっぱ凄い……蛭魔さんさえいてくれたらな……あの人が旅に出ないでず
っとこの国にいてくれたなら、国王陛下がお亡くなりになった後の政局混乱
なんて起こらなかっただろうし、巨深族との戦いだって、泥門が勝ってすぐに
終わってた筈なんだ……蛭魔さん蛭魔さん蛭魔さん、どこにいるんですか?
お願いですから早く帰ってきて下さいよ……蛭魔さんならどうするだろうって、
昔のこと必死に思い出して真似してみて、とりあえずさっきの説明までは何
とかなったけど、もうこれ以上は無理……)

吊り上がった切れ長の金目が印象的な、“地獄のプリンス”の毒舌を、今日
ほど懐かしく思い、切実に求めたことは無かった。一か八かの大博打に、た
った独りで臨まねばならない、この心細さ。昔のように、蛭魔の傍らに立ち、
駆引きの傍観者に徹していられたのなら、どんなに良かったことだろう!

それまでの落ち着いた態度はどこへやら、ブルブルと震える両手で、卓の上
に置かれた水差しの中身を茶碗に移し、瀬那が喉を湿しながら、相手の反応
をビクビクと窺う一方、対戦者たちの方はというと──

「「……」」

カケイの表情には驚愕の翳りが差し、ミズマチでさえ──知的な事柄とは
あまり縁の無い男だが、物事の本質を即座に見抜くその野生的勘の鋭さ
は、ある種の賢さと言えるだろう──緊張の面持ちを浮かべていた。アイ
シールド21が英雄と讃えられる所以は、その伝説的強さに限らないという
ことか。しかし──

「なかなかに興味深い意見を聞かせてもらった。が、こちらにはこちらの考
えが既にあるんでな」
「え……?」
「ミズマチ、こいつの世話を頼む」
「了~解、まっかせてーん☆★」

目配せだけでカケイとミズマチの間には即、計画が決められた。とりあえず
は休めと、ミズマチに再度、寝台へ押し戻されながらも、瀬那はあらん限り
の声を振り絞って問うという形で、カケイに追いすがった。一体、何をするつ
もりかと。

「これ以上、剣を赤く染めずとも、あんたが──アイシールド21が、俺たち巨
深の仲間になれば、すべて円く収まる」
「なっ……!」
                      ・
                      ・
                      ・
そして翌日、泥門城下に立てられた高札の内容、及び、地方と諸国を稲妻
のように駆け巡った情報に、驚かなかった者は一人として存在しなかった。
その内容を要約して曰く、

“か弱き女子の身でありながら、その柳の髪を短く断ち、兜でその細面を隠
し、手に銀の刃を煌めかせ、戦場に於いて獅子奮迅の活躍を見せたアイシ
ールド21なる侠女、単独で我ら巨深族の許へ罷り越し、己の首級と引替え
に救民を願い出んとす。その勇気、並びにかの者の絶代なる武技に我々は
敬意を表し、巨深族長コバンザメと軍総司令カケイの名に於いてここに、同
女の嘆願は聞き入れられ、今後汝ら泥門の民、我ら巨深族と志を共にする
限り、その生命と財産の安全は、間違い無く保障されるものとす。
泥門国王、乃至は皇太子の承認無く、泥門王国朝廷その独断によりて、国
璽の印無き降伏文書を提出、これによりて汝ら民衆義勇軍、多大なる屈辱
を被りしものなれど、汝ら自身は恥じるべきことこれ只の一つとして無く、我々
巨深族は等しく皆、汝らの勇戦に敬意を示すものなり。
なお、アイシールド21は後日、巨深軍総司令カケイと婚姻を結び、我らが同
胞と相成る予定、これ有り。”

アイシールド21の正体と真実を知る仲間たちの顔は、それを知らぬ人々とは
比べ物にならないほどの驚愕と、蒼白の色に染まった。

「「「「「「「「「「そんな……!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」
                     ・
                     ・
                     ・
東の隣国一の騎士と呼ばれる男も、また──その知らせを耳にした時、
丁度、斬馬刀の手入れをしていた彼は、思わず刃の部分を握り締めた。

泥門が敗北したという知らせを聞いた時は、まだ平静が保てた。だが今度は、
今度の知らせは──

思い詰めれば思い詰めるほど、刃を握る力は強くなっていった。心の奥に
眠らせていた、ありとあらゆる激情が、突如として一斉に目を覚まし、行き
場を求め、けれどそれをどこにも見つけられず、勢い余って皮膚を、赤く鉄
臭い体液の奔流に乗って突き破り、その噴出が激しくなれば激しくなるほ
ど、よく研がれた鋭い刃は、ますます深く、進の皮膚の内側へと食い込ん
でゆく。知らせを伝えに来てくれた親友がその傍らで悲鳴を上げたが、進
は彼の存在などもう、すっかり忘れ去っていた。

(小早川瀬那が、あの“少年”が、巨深族の男の“妻”になるだと……?
一体どういう……いや、俺はこの目で真実を確認し、彼の口からきちん
とした説明を聞くまでは、決して信じない……信じたくない、信じるものか、
信じてなるものか! たとえそれが“事実”であり“真実”であったとして
も、俺は、この進清十郎は、断じて認めん!!!)

この時の進にとってみれば、肉体の一部損傷など、些細なことであった。
かの少年とその祖国の窮状に対し、己の属する騎士団の規律と自らの
自律の下、固く耳を塞ぎ、自分の本心をも見て見ぬ振りをしてきたことに
対する──自分の選択は、客観的に見ても主観的に見ても間違っては
いなかったと、頭では理解し過ぎるほどに理解していたのだが──やり
場の無い怒りや、どうにも止められない自責の念といった心の傷は、肉
体が受けたそれよりも遥かに重傷で、もっと大きな苦痛を伴った。

何にも増して、己のこの苦痛を更に上回る痛みと苦しみが、彼があの小さ
な体と、それよりもずっと大きな優しさと勇気を兼ね備えた、白玉の如き心
を苛んでいるのではないかと思うと──

「……っ!」

居ても立っても居られなかった。
                      ・
                      ・
                      ・
“彼女”は、介添の目を盗んで素肌にこっそりと、手ずから結んだ白い佩玉
の無機質を、そっくり吸収したかのように、ひんやりと滑らかで、そして生気
の感じられない風情をしていた。全体的に小作りで、繊細華奢なその体付
きとも相俟って、精巧に作られた人形だと言われたら、多くの者がそれを真
に受けただろう。何とまあ、最近のカラクリ人形は、涙まで流せるようになっ
たのかと、驚きながらも。
                      
花嫁衣裳の赤は“彼女”に、吉慶などではなく、戦場で流し、流された血を、
嫌でも思い出させた。布地に織り出された、泥門王国の聖獣・蝙蝠が──
ビエンフゥ、福に変わるとはよくも言ったもの。自分の目には赤でなく、己の
心のそのまた深淵、そこに広がる闇より深い、罪の色をして見える翼手類。
その仔は母の乳を飲んで育つ、四つ足の獣でありながら、両の前肢に長く
伸びた五本と五本、計十本の指、それぞれとそれぞれの間に広がる飛膜を
使い、鳥のように空を飛ぶ。そのことから、所変われば品変わり、東の隣国
では、情勢に応じていとも簡単に変節する、裏切り者の代名詞でもある──
甲高い嗤い声を上げながら、軽やかに舞っている。忌わしい、血の海を。

そして、花嫁の宝冠・鳳冠(フォングアン)に惜しみ無くあしらわれ、また顎
の先端まで届く立襟で、未だ隆起の目立たぬ喉仏を隠された細い首から、
平坦に近い胸を通り、薄い腹までを飾る二連の長い首飾りの形も取り、そ
の上、赤地に色とりどりの糸で美しく刺繍がされた柔らかな布鞋・花鞋(ホ
アーシエー)ではなく、布製部分には小粒のものを幾つも縫い付けて吉祥
の図案を成し、ただでさえ厚い鞋底の裏には更に、白蝶貝を使った螺鈿細
工の施された、木製の高い台座まで据え付けられた、履き慣れぬ者にとっ
ては走ることはおろか、歩くのもやっとの花盆底(ホアーポンディー)にまで
見られる、まさしく花嫁の頭の天辺から足の爪先までを、赤と共に彩る、乳
白色の輝きも──これすべて皆、鮫人(こうじん)の涙の結晶である──
どれほど煌びやかであろうと、所詮は豪華な拘束具に他ならなかった。

自分の心身を雁字搦めにしている、鮮血の呪縛と真珠のくびき。自分一人
だけなら、簡単に逃げられる。けれど、それは即ち、清楚な光輝を放つ無数
の珠(たま)が──罪の穢れ無き、無辜の魂(たま)が、鮮血の色をした晴
れ着に含まれている以上の、“赤”で染められることを意味する。

(それだけは駄目だ、絶対に!)

仕上げに鳳冠の上から被せられた蓋頭紅(ガイトウホン)で、可憐な囚われ
人は、完全に視界を遮られた。“彼女”は最早、夫となる男の手を取らぬ限り、
どこへも行くことは出来ない。

(“僕たち”は負けた。巨深族の支配を受ける。でも、奴隷になった訳じゃない。
……この大きな人は、巨深の中で一番“力”があるし、誰からのものであって
も、優れた意見には素直に耳を傾けてくれる。少なくとも、半分は僕の提案を
受け入れてくれた。蛭魔さんが戻ってきてくれるか、この国を僕たち泥門人の
手に取り戻す方法を思い付くまでは、どんなことがあっても……どんなことをし
てでも、この人の心を、僕に繋ぎ止めておかなくちゃいけない……)

だが、どれほど強く決意を新たにしても、滂沱として流れ出てくる紅涙だけ
は如何にしても、止める術を、瀬那は持たなかった。滑らかな頬を伝い落ち、
服地を染み透ったそれは、白い佩玉までをも僅かに濡らした。

(進さん、他人から強制されたものではあるけど、それでも僕は、この道を
行くことにしました。そして、そう決めたことで初めて、貴方に対して抱いて
いる“想い”は、友情とも、走りの好敵手に対するものとも違うものなんだっ
て、自覚しました。ただ単に哀しいとか怖いとかで流れてるんじゃないって
自分でも分かってるこの涙が、その根拠です。けど、僕の恋の始まりは同
時にまた、そのおしまいでもあったみたいです。……でもたとえこの先、僕
と貴方の進む道が、二度と交差しなかったとしても、この想いが消えること
だけは、決して無いでしょう。唇を重ねるどころか、貴方に抱き締めてもらっ
たことすら無い、そもそも僕の一方的な片恋なんですけど……それでも、一
度はあの世に足を踏み入れそうになったあの瞬間まで一途に、進さん、貴
方を想い続けたことは、ちっぽけなこの僕が、出せる限りの大声で、足が他
の人たちよりちょっと速いってくらいのことなんかよりも、ずっとずっと、世界
中に向かって誇れるものだと、自分では思ってます。気付くのが遅くて、貴
方に伝えられなかったけど、だからこそこの想いは、瑕[きず]付くことも、穢
れることも無く、貴方が僕にくれたあの佩玉みたいに、綺麗なままでいられ
たんです。この想いこそ、僕の、これから生きてゆく上での原動力。さあ、笑
顔を作らなきゃ……)

過去、片手で数えられるほどしか見たことの無い、進の穏やかな笑顔を脳
裏に思い浮かべ、服の上から佩玉を結んだ辺りを素早くなぞり、自分を勇気
付ける。程無くして瀬那は、目的達成の第一段階に突入出来た。
                       ・
                       ・
                       ・
「哀しいんだろ? 何で笑う? おかしな奴だ」

涙で縞模様を描いた顔に、健気な笑みを小さく浮かべた瀬那を見つめなが
ら、カケイは、これまで生きてきた人生の中で、誰に対しても抱いたことの
無い、優しい気持ちが自分の中に湧き起こってくることに、大層戸惑ってい
た。

「変なのはお互い様ですよ、まったく、敵方の男をお嫁さんにするだなんて
……」

小首を傾げ、悪意は無いけれど、揶揄するような表情を閃かせ──己の意
志と選択に基づいて作り出された、もう、泣き人形のそれではない──、や
り返してきた瀬那の片頬の涙の筋を、カケイは長い指で拭ってみようとした。
すると、その指先を瀬那は、ギュッと摑み(小さな握り拳の中から、ニュッと、
カケイの長い指の先端部分と根元がはみ出ているのは、何とも滑稽な眺め
ではあったが)、そのまま強く自分の頬に押し当てた。

ドクン

また、だった。彼に手当てをしてもらった時のように、またもや左胸の鼓動が、
常よりも速く、強くなる。

アイシールド21との結婚など、泥門王国を巨深族にとって支配しやすくする
ための、単なる方便に過ぎない筈だった。自分と同じ“男”に対して欲情を
抱く趣味など、俺は持ち合わせていない──自分で自分に何度もそう言い
聞かせてきた筈だ。

(この“アイシールド21”の正体を知って、前よりももっとこいつのことばっか
考えるようになったのだって、こんな、ガキみたいに小さな奴だったってこと
が意外だったのと、倒し甲斐のある強敵に出会った時の、あの快い興奮、
しかもその中でも最高最大のやつを、どうせなら出来るだけ長くこの楽しみ
たいからだった筈だ。そりゃ……まあ、腕が立つって以外にも、結構面白い
こと色々言うし、喋ってる時の声聞いてると何か気持ち良くなってくるし、あ
と、あいつの目、何かこう、凄く惹きつけられるっていうか……って、何考え
てんだ、俺は)

挙式の後は、適当な場所に幽閉し、頃合を見はからって殺してしまうつもり
だった。

なのにどうして、この少年の唇が、こんなにも蠱惑的に見えるのだろう?

相手の装飾品をむしり取り、赤い晴れ着を乱暴に破る己の手の性急な動き
は、まるで、見知らぬ他人のそれのように感じられた。けれど向こうから差し
伸ばされて、掌の大きさも五指の長さも違い過ぎる手と手が絡み合わさった
時に感じられたものは、紛れも無い歓喜、そして快楽だった。
                      ・
                      ・
                      ・
こうして、需要と供給は一致した。だが、“真実”ではなく“現実”の上に成り
立つ均衡というのは、往々にして、僅かな刺激で容易く崩れるものである。
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珠玉 7

2007年07月15日 | 珠玉
「なあカケイカケイ~! 俺、今すっげー気分ワリーよ。またあんな奴ら来た
ら俺、ホントマジ頭おかしくなっちまうかも~!」
「お前の頭はこれ以上おかしくなりようが無いくらい、もう十分に吹っ飛んで
ると思ってたんだがな……まあいい。それならしばらく、休養に専念してろ。
この城のどこでも、好きな部屋を使え。次はいよいよ西部か王城との戦、完
璧な準備を整えるまでにはしばらく時間が必要だからな……オオヒラ、オオ
ニシ、他の奴らにも適当に部屋を選んで、次の指示が出るまでよく休んでお
くように伝えてきてくれるか?」 
「「ハイッ、喜んで~!!」」

物凄い勢いで駆け出してゆく二人を見送り、「俺ここにするわ~」と適当な
部屋を選んだミズマチとも別れ、カケイは広い城内を隈無く探索し続けた。
主だった奸物どもは先程その殆どを斬り捨てさせたつもりだが、まだ城内
に運の良い馬鹿が潜んでいないとも限らない。

(狸爺なんかじゃなくて、アイシールド21でも隠れてねぇかな……)

これまでと同様に伝書鳩を放ち、巨深族の本拠である細長く狭い列島(と、
呼べる程の数ではないのだが、まがりなりにも小さな島々が連なっている
ので)と、これまで獲得してきた新領土の、戦略上・軍政上の要所要所に、
押さえとして置いてきた同胞たちに勝利を知らせ、また、新たな人的・物的
資源の補給を乞うた。これまでに手中に収めてきた島々と比べれば、大陸
の中では小国とはいえ、泥門はそれなりに大きな──“国”である。自分た
ち巨深族の威令が国土の隅々にまで行き渡る、従順な占領地且つ今後の
対王城、乃至は西部への侵攻作戦に於ける補給基地として、きちんと機能
するようにするまでは、しばしの時間を要するであろう。自分もしばらくの間
はこの城に腰を据え、武器の代わりに筆を手に取っての執務室籠りを覚悟
している。

次に攻めるのは王城か西部か、どちらにしても勝つためには時間をたっぷり
とかけて周到な作戦を練り、万全の態勢を期しておかなければならない。兵
卒たちに、無益な殺戮や婦女子への暴行は厳禁した上で、泥門城を取り巻
く貴族たちの壮麗な屋敷群に於いて、三日間に限定した略奪を許したのも、
布石の一つだった。無駄に広く、不必要なまでに豪奢なそれらの建物は、そ
のまま彼らの宿舎となる予定でもある。

国民の大半が農民である大陸や、海上に無数に点在する島々の内地に於
いて農業に従事する人々──その多くは先祖代々の農耕民族である──
には迷惑千万、決して理解出来ない(したくもない)理(ことわり)だが、巨深
族にとって略奪とは、農業・狩猟・漁業などと同じく、日々の糧を得るための、
立派な“労働”の一種だった。それも、強い抵抗に遭う確率が高く、一歩間違
えれば落命するのは自分たちという、極めて危険な。

そもそも、今回の略奪は客観的、或いは泥門の側から見ても、非難される
ようなものではないということを、カケイは既に知っていた。略奪の対象とな
った旧勢力の資産の殆どは、まっとうな手段で得たものよりも、そうでない
ものの方が圧倒的に多いのだと、彼らの下で働いていた中・下級官吏たち
の口より直接、耳にしていたからである。
                      ・
                      ・
                      ・
巨深族の泥門城入城後に捕虜とされた彼らは、最上層部の人間たちが虫
ケラのように殺されてゆくのを目の当たりにすると、王国の心臓部たる泥門
城をあっさり放棄して即、逃げ出した、門閥出身の上司たちとは対照的に、
へっぴり腰なのは否めなかったにしても、文房四宝以上に重いものは持った
ことの無さそうなひょろひょろとした両腕に、持ち慣れない武器をしっかと握り
締め、巨深のつわものたちに必死の抵抗を試みた者たちだった。

泥門攻略の最大の壁であった義勇軍を敗走させた後は、無血開城を目指
していた巨深族も、剣を持って決死の覚悟で向かってこられれば、軽くいな
そうにも上手くゆかず、再び、多少の血が流れざるを得なかった。それでも
何とか苦労して、勇気ある抵抗者たちを捕縛すると、カケイは彼らを謁見の
間に集め、朗々たる声で告げた。

「確かに、今後この国を支配するのは俺たち巨深の者だ。遊んで暮らして
いたくせに暴利を貪っていた能無しどもの行く末は、さっきお前たちも見て
の通りだ。だが、命をかけて己の責任と職務を最後まで全うしようとしたお
前たちに関しては、無慈悲な扱いをするつもりは毛頭無い。以後、我々の
ために尽くしてくれるというのであれば厚遇するし、職を辞する者に対して
も、無理に引き止めたりはしない。さしあたっての生活に十分な金子、また
は物資を用意しよう。三日間の猶予を与えるから、よく考えてみてほしい」

これを聞いて、捕らえられた者たちの心中には驚きと共に、複雑な思いが
渦巻いた。我々の上に君臨していた者たちすべてを掻き集めたところで、
今この目の前に屹立する巨深族の美丈夫一人の、数分の一の価値にも
ならないだろう、と。

なるほど、確かに彼ら巨深族は侵略者であり、彼らのせいで多くの血が流
れたというのは、疑いようの無い事実だ。だが彼らの、相当に荒っぽくはあ
るが、同時にまた公平で、信義を重んずる清新な気風は、自分たちの旧主
たちには、まったくと言ってよいほど見られないものだった。
                      ・
                      ・
                      ・
(下の奴らの“収獲”、一定の分だけは軍備強化とかで必要だから上納させ
るとしても、半分以上はあいつらに褒賞として分配してやれるな……ほんの
少し民生に回しとけば、泥門の奴らももっとおとなしくなるだろ。軍営も簡単
に手に入れられたし、経過はともかく結果だけ見りゃ、やっぱ今回の遠征も
成功だな……)

カケイの、精力的で疲れを知らぬ、怜悧な頭脳は、高速回転を続けていた。

とりあえず、一族の中でも上の方にいる重要人物たちは、泥門城内にある、
多くの御殿に分けて住まわせる──泥門城は“城”と一口に言っても、実際
には広大な敷地内に、国王が国事行為や、謁見式などを執り行うための正
殿を中心として、各政庁及び諸機関、また、国王とその后妃、子女たちを始
めとする王族たちの住まい、即ち宮御殿、加えて使用人たちの宿舎や、よく
手入れされた庭園などが幾つも点在する上に人工の瀑布、湖、小川まで擁
する、事実上の一つの大きな街だった──。そして下っ端の者たちは、堅固
で長い城壁を挟み、これまた泥門城の周囲を満遍無く取り巻くように点在する、
かつての貴族たちの屋敷に、大隊か中隊ごとに放り込む。

住処を追われた者たちとて命さえあれば、本人たちの才覚と努力次第で
これからまた、幾らでも裕福になれよう。彼らの家長たちはその犯した罪
に相応しく、見せしめの意味も込めて、処刑されなければならなかったが、
その係累たちにまで咎を科すのは、時間と労力の無駄というもの。よって
彼らの未来は、彼ら自身の手に委ねることにする。自分には、もっと他に
なすべきことが、山ほどあるのだ。

地方ならともかく、城下に空き地は少なく、またそれらを正統の所有者たち
から強制的に取り上げてまで、巨深族のための新たな建物を建てさせるの
は時間と建材の無駄使いであり、庶民の家々を接収しようとすることと同じ
く、要らぬ反発を余計に招く愚行である。ただし、彼らと同じ無位無官でも、
朝廷の御用商人たちなど、貴族や高官たちと結託して不正投機を行ってい
たような一部富裕層は、上流階級同様、今まで散々良い思いをしてきたの
だし、地方に別荘を所有している者が殆どだから、各々の家から強制立退
きを命じても差し支え無いだろう。奴らの場合、文無しになって路頭に迷うく
らいで丁度、人生の差引きがとんとんになる。

しかし、一般の民衆との衝突はやはり避けたかった。確かに、今後彼らは
自分たち巨深族の支配下に置かれる訳だが、だからと言って虐政を強いる
つもりはまったく無い。その存在だけでも貴重な労働力となり得る上、斥候
たちの報告にあった、農村・漁村に於いてさえ驚異的な高さを誇る識字率
は、皇太子の提案に今は亡き先王が賛同して、潤沢な援助金が下賜され
たことで市井に数多く建てられた、無料で学べる学舎(しかも質素な献立な
がら給食付き)によるものらしく、腕っ節はともかく頭脳労働はからきし駄目
なうちの若い奴ら(特にミズマチとかオオヒラとかオオニシとか……)が、泥
門の民から学ぶことは多いだろう。

(もっとも、寛大に扱ってやれんのは、俺たちに楯突かない限りは、って条
件付きだけどな……)

この辺りは微妙なところだが、疲れ切った民衆には、しばらくの間は武力
による抵抗は不可能だろう。貴族などの富裕層にしても、その中心となり
得そうな人間たちの殆どは最早、この国を去ったか、若しくはこの世を去っ
ている。残された者たちの大部分は、かつての既得権益を失ったことを嘆
くばかりで、その怨恨を何としてでも晴らそうとする気力を持つ、積極的且
つ実行力のある人間は、皆無に等しいと思われる(そのような者がいたの
なら、現在のようなことにはなっていなかった筈だ)。加えて奴らには最早、
手駒も、新たなそれを雇う金も無い。

この際だから、巨深族の者たちは皆、支配層にするとして、それ以外の民
族はすべて、巨深連合の民草として平等に遇するようにし、己の有用性を
積極的に売り込む者たちについては、役に立つと分かった場合には、どの
ような民族・階級の出身であっても、たっぷりと優遇してやることとしよう。

(先王は貴族たちに毒殺されたってことにしておこう。死人に口無しだ。
で、ある時真相を知って、その卑劣さに憤慨した俺たち巨深が仇を討っ
て……と、よし、支配の正当性、半分くらいまで確立。適当な奴に金握
らせて情報源に仕立てておかないとな。あと先王の国葬、国庫の金足
りなくて出来なかったって話だから、寄生虫どもの財産で盛大にやって
やろう。暗君って訳じゃなかったから、個人的にも少し、追悼しておきた
い気持ち有るしな)

それに、恐らくさっきの説得で、少なくとも、三分の一くらいの官吏たち
は残ってくれる筈である。何しろ今は、泥門王国そのものが、半死人の
ようなものなのだ。これまで筆で口を糊してきた彼らが、そうそう似たよ
うな次の仕事を見つけられる訳は無いだろうし、あの細腕では、肉体労
働者として役に立つとはとても思えない。

自分たちを卑下するつもりは無いが、巨深族に文人が少ないということ
は目下、大きな問題となっている。領土が広がれば広がるほど、其所
此所に合わせて様々な施策を考え出してゆかなければならず、そのよ
うな複雑な作業はハッキリ言って、その殆どが武人である巨深族には、
向いていないのである。だからこそ、泥門王国の有能で気骨ある官吏
たちには、ぜひとも自分たちの傘下に入ってほしかった。そうなれば巨
深連合の外征と内政は綺麗に分業され、物事がすべて円滑に進むよう
になれば、巨深族の野望はまた大きく一歩、実現に向けて近付くことと
なる。

(しかし民衆は……それも最前線で戦ってたような奴らは、牙を抜くのに
相当てこずるだろうな……奴らをおとなしくさせるには、やっぱりアイシー
ルド21を……)

ゴン!

ひたすら考え事に熱中していたカケイは、行き止まりの壁に気付かなかっ
た。勢い良く額をぶつけ、蹲った彼の目の前に、火花と星々がチカチカと瞬
く。

「……っっっ………!!!」
「あの、大丈夫ですか……?」

オドオドと少し怯えた様子ではあったが、頭上から聞こえてくる心配そ
うな声。

(子ども……?)

まだ声変わりのしていない、少年の声だった。逃げ遅れた城の下働きでも、
隠れていたのだろうか? 少し痛みの治まったカケイが、ゆっくりと上を見上
げると、そこにあったのは──

“あの時”、自分が捕らえ損ねた小さな小さな小鳥の、琥珀色の双眸。
カケイが、何とかしてもう一度間近で、そして今度こそはこの自分だけ
を映したものを見たいと、切実に願ったあの、愁いに曇りながらも穢れ
てはいない、清幽で優しい瞳だった。
                      ・
                      ・
                      ・
「お前……」

そっと手を伸ばそうとすると、弾かれたように彼は後ずさった。すると、カ
シャーンと何か、金属の落ちる冷たい音が、床に木霊した。

短剣、だった。あの日の戦場で、己の鎧を切り裂いた、アイシールド21の
凶器。カケイは思わず息を呑む。

「お前っっ……!」

少年は咄嗟に短剣に飛びつくと、目にも留まらぬ速さでそれを拾い上げ、
カケイの懐に飛び込んだ。圧倒的な体格の差。少年の細腕は、すぐにカ
ケイの屈強な手で捻り上げられる筈であり、事実、カケイもそうするつもり
だった。しかし、本能的に動こうとしたカケイの手は、寸でのところでその
動きを急停止させた。急停止させざるを得なかった。彼の左胸には既に、
アイシールド21の短剣の鋭利な切っ先が、軽く触れていたのだ。

「アイシールド……21……」
「お願いです、どうか……どうか、この国から、泥門から、出ていって下さ
い……」

戦場で対峙した時の、無言の勇猛果敢さは露ほども感じられない、哀願
の痛々しい響きに、カケイは現在進行形で殺されかけていることも忘れ、
何とも形容し難い罪悪感に苛まれた。

「大陸を除いた国々の既に半分を、貴方たちは手にしたと聞いてます。もう、
十分じゃないですか」
「……いいや、まだだ。まだ、足りない」

それでも小さく息を吸い込むと、冷淡な声を絞り出して(多少の努力が必
要だったが)、小さな暗殺者の懇願を拒絶するとカケイは、剣胼胝で皮の
厚くなった大きな掌で、グッと短剣を握り締めた。

「ひっ……!」

相手は明らかに動揺した。カケイは顔色一つ変えず、血塗れの手でもって
グググ……と、凶器を少年の手から抜き取り、そして己の背後に放り投げ
た。

「あ、貴方、手が……あ、あ、あぁぁぁぁぁっ!!!」

少年の瞳に、今回は前回のように不明瞭なものではない、ハッキリとした
恐怖と哀しみの嵐が巻き起こった。戦場に於いて敵味方関係無く、己の
目の前で息絶えていった者たちの、血と汗と泥で汚れ切った無念の表情
の数々が、彼の脳裏を走馬灯のように駆け巡る。

「お、おい、このくらいの傷、大したことねえよ……お前の方こそ、大丈夫
なのか?」

宿敵に「大丈夫か?」など、間が抜けているとしか言いようが無いが、それ
でもカケイは、この小さな暗殺者を気遣わずにはいられなかった。

落ち着いて眺めれば彼は、やはりどう考えても、せいぜい12歳前後の子
どもにしか見えなかった(もっともこれは、発育の速度が速く、長身の多い
巨深族の基準に照らし合わせての判断だったが)。

(子どもには確かに刺激の強すぎる光景だよな……って、こいつアイシー
ルド21だぞ、俺? こいつにどんだけうちの仲間がやられてきたか……)

首を振り振り、改めて宿敵・アイシールド21と見なそうとするも、顔を真っ
青にしたその少年の、小さな──あまりにも小さな、自分のこの片手だけ
でスッポリと押し包めそうな、そして自分が僅かに力を入れただけで粉々
に砕け散ってしまいそうな、如何にも脆そうな両の掌に、己の、無骨な上
に無残な傷が刻まれた手を取り上げられると、カケイの胸の鼓動は、訳も
無く速まった。

「し、止血……止血しなくちゃ……包帯、ああもう僕の服の切れ端でいい
や、後でしっかり消毒してもらうとして……」
「おいお前、俺のこと殺しに来たんじゃ……」

ねえのか、と、言い終わらぬ内にもう、カケイの手はアイシールド21の粗
末な服地でグルグル巻きにされていた。

「これ、で、よ、し……」

ホッと安心すると同時に、瀬那は至近距離で接してしまった傷口の生々
しさと、むせ返るような血腥ささに、今更ながらこみ上げてくる嘔吐感で、
思わずフラリとよろめいた。

後ろ向きに倒れてゆく最中、背中に、進のように力強い腕を感じていた
瀬那の、グルグルと回る視界に最後に映ったのは、蒼い、蒼い──
                      ・
                      ・
                      ・
「ンハッ♪ 気がついたぁ?」

眼前一杯に広がる、浅黒く精悍だが、とても人懐っこそうな顔。先程から
やけにくすぐったいと感じていたのはどうやら、この男の髪のせいらしい。
日に焼けてかなり傷んではいるものの、動く度にサラサラと快い音を立て
る金髪は、かつて蛭魔の遠乗りに、己の脚をもってお供した都度、目にし
た、黄金色に眩しく輝く麦畑や水田の、秋の豊かな実りを思い出させた。

ほんわかとした心で瀬那は無意識に、見知らぬ相手に対し、ニッコリと微
笑んだ。その笑みの無邪気な愛くるしさにつられ、ミズマチも二カッと明る
く笑い返す。

「ここは……」

見知らぬ金髪の大男に支えてもらいながら、ゆっくりと体を起こした瀬那は、
見覚えのある周囲の風景に、ハタと自分の置かれた状況を思い出した。

ここは泥門城内の客室の一つ。そしてこの男の容貌も、思い出した、戦場
で何度か目にした記憶がある──

「!」

慌てて逃げ出そうとするも、自分の体をガッチリと抱え込んでいる逞しい腕
の力を痛いほどに感じ、瀬那の顔は再び青ざめた。

「い、嫌……放し……」
「ダ~メvv」

金髪の大男は瀬那を抱き締めた腕に更に力を加えると、大きな犬がじゃ
れつくように、瀬那のツンツンと逆立った黒褐色の髪に頬擦りした。実際、
その時のミズマチの気持ちは、飼い主に愛嬌を振り撒く飼い犬のそれと、
何ら違わなかった。アイシールド21の正体、武装を解いたその本来の姿
の、あまりの稚さに驚いたことと、カケイから聞いた話──敵ながら天晴
れな勇気──に感心したこと、何より、泥門はとにもかくにも自分たちの
制圧下に入ったという安心感と精神的余裕が、彼のアイシールド21に対
する敵意を、大分に和らげたのである。

しかし、そんなことは瀬那には分からない。彼に分かっていたのは唯一つ、
自分は今、“あの時”のように、屈強な肉体の檻に閉じ込められており、そ
の頑丈な格子はいつでも自分を絞め殺すことが可能なのだということだけ
だった。

ガチャリ……ギィィ~……

突然、部屋の重厚な扉が開いた。右手に水差し、左手に茶碗を持った、
これまた立派な体躯に、紺碧の髪を持った男が客室内に入ってくる。よ
く見れば、つい先程まで対峙していた巨深族の戦士だった。

「ミズマチ、放してやれ……怯えてんじゃねえか」
「だってすっげぇ可愛いんだも~ん」

ミズマチと呼ばれた金髪の方は不満そうに唇をすぼめたが、仲間の男の
更に険しくなった眼光に、しぶしぶながらも自分を解放してくれた。

「水は飲めるか? 何なら気鎮めの薬湯を用意させてもいいが……」
「どうして……」
「「ん?」」
「どうして、僕を殺さなかったんですか? それとも、すぐには殺さないで、
見せしめのために、城下の広場で惨殺……する、つもり、ですか……?」

恐る恐る、下から見上げるようにして瀬那は、二人の巨深族の巨漢に問
うた。

「……初めはそのつもりだったんだが……」
「や、やっぱり……」

瀬那の体が目に見えてビクビクし始める。

「おいカケイ~、お前の方こそこの子のこと超ビビらせてんじゃんかよ~」

ミズマチは、ブゥブゥとあからさまにカケイを非難した。そして瀬那の頭を
優しく撫でながら、「大丈夫でちゅからね~」と、幼児語で語りかけてくる。
いつもなら即、ミズマチの頭上に鉄拳制裁を喰らわせて、黙らせるカケイ
も、今日はさすが、ばつの悪そうな顔をしていた。

「常識的に考えれば、“アイシールド21”は問答無用で処刑したいし、しな
ければならない。あんたに受けた被害は俺たちが今まで戦ってきた中で、
一番酷いもんだったからな。各地に潜んでるあんたのお仲間たちの闘志
を完全に殺ぐ必要もあるし。けど、激情のままにあんたを殺したりしたら、
売国奴どもの裏切りで苦杯を飲まされた上に、この城を落とされたことで
ようやっと意気消沈してくれたこの国全体が、義憤に駆られて再度、暴発
する可能性が高い。それに何より……」

カケイは心底困ったといった感じで、言い淀んだ。

「ハイハイ、恥ずかしがり屋のカケイちゃんの代わりに俺が言ってあげまぁ
す♪ あんね、幾らちっちゃいっつったって、まさかあのアイシールド21が、
お前みてぇな子どもだとはまさか俺ら、全然思ってなかったのねん。んだか
らさ、殺したりしたら何か、後味がめちゃめちゃ悪くなりそうじゃん?」
「まあ……そんなところだ」

困惑したような表情は相変わらずだったが、二人の言葉にジッと聞き入っ
ていた瀬那は、不意に口を開いて、ポツポツと語り始めた。

「まず一つ訂正させてもらいますけど、僕、もう子どもじゃありません。こう
見えてももう、16です……」
「「は? 嘘だろ?」」
「……まあ、信じる信じないはお任せしますけど。それで、本題ですけど、
僕としては、僕の首を差し出すことで、今生きている泥門の人たちを全員
──前線で戦った人たちや協力者の人たちも、全部ひっくるめてですよ?
彼らを全員、絶対に殺さない、傷つけたり罰したりしないって、約束しても
らえるのなら──貴方たちの中で一番偉い人の名前で保証して、高札を
立ててくれますか? そう確約してもらえるのなら、僕は、黙って殺されて
差し上げます。……ホントは、凄く、怖い、けど……あ、あの、出来れば一
息で楽に死ねる方法でお願いしたいんですけど……駄目ですか? ……
って、ああああお願いばっかりでごめんなさいぃぃぃ……!」

殴られるのではないかと咄嗟に頭を両手で覆い、縮こまった瀬那ではあっ
たが、その脳内では今、恐らくは生まれて初めてはたらかせたのであろう、
打算が、恐ろしいほどの勢いで回転を始めていた。
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珠玉 6

2007年07月15日 | 珠玉
「進、進、聞いたか!? 泥門、降伏したって……!!!」
「……知っている」

いつもと変わらぬ静かな表情、そして落ち着いた低い声音。今や名実共に、
ホワイトナイツ随一の騎士にして、王城最強を謳われる身となった進清十郎
ではあったが、当の本人はといえば、「自分は未だそのような栄誉に相応し
い人間ではない」と、頑なに事実を否定し続けていた。

そして実力に裏打ちされた自身の名声に驕ることなく、彼はその日もホワイ
トナイツの鍛錬場に一人残り──本日の全体演習は既に終了、また騎士団
員の各自の特質に合わせて課せられる、個人鍛練の時間帯も疾うに過ぎた
この時刻、役目のある者たちを除いては、大部分の騎士たちは皆、大抵、自
由時間を過ごしているのだが──、黙々と愛用の斬馬刀で素振りをしていた。

両手で一振り、片手で一振り、鋭い一閃が繰り返される度、ヴォォン!と凄ま
じい豪風が起こる。その音はまるで、多大な雑念を必死で振り払おうとする人
間が、腹の底から出す、苦痛の唸り声のようにも聞こえた。

「おっまえ、心配じゃないのかよ!? 瀬那君もいるんだよ!?」

桜庭春人は、温和な性格の彼にしては珍しく、声を荒げた。自分たちホワイト
ナイツとの顔見知りも含まれる、隣国の良き友人たちが現在置かれている危
機的状況に対して、落ち着きを通り越し、冷淡とすら言えるこの進の反応は一
体、どうしたことか。冷徹ではあっても、冷酷無情な男ではなかった筈なのに。

(どうしたってんだよ、いつもあんなに瀬那君のこと気にかけてたじゃん)

紆余曲折を経て、ようやく本当の親友になれたと思っていたのに、そう思って
いたのは自分だけだったのか。親友の中に未だ残されていた未知の領域が、
桜庭には手酷い裏切りに感じられた。友ならば、互いの内心のすべてを相手
に曝け出すべきだなどというのは、単なる理想主義であり、そして今、それを
進に対して求めるのは自分の傲慢に過ぎないと分かってはいるのだが、それ
でも目の前の寡黙な“親友”に対し、桜庭はこれまで彼と一緒に過ごしてきた
中で、初めての失望を感じていた。

確かに、騎士見習いの頃より育まれてきた友情はしかし時として、危うい橋
を渡りかけたこともあった。主に桜庭が一方的に、進のその圧倒的なまでの
強さ──精神的なものも含めた、本当の意味に於いてのそれ──に対して、
羨望や嫉妬が複雑に混ざり合った微妙な感情を向け続けた結果だったのだ
が、最終的にはそれを向上心、克己心といったものに昇華した彼は、自分を
成長させる起爆剤となってくれた進を、今では、以前にも増して、かけがえの
無い友と見なすようになっていた。

進の方はといえば、桜庭に対して特にこれといった蟠りを抱いたことは一度
も無く、二人の仲がぎごちなくなった時でさえ、進の態度は、それまでと何ら
変わるところは無かった。それどころかむしろ、己を理解してくれる数少ない
貴重な友人たちの中にあっては、隣国泥門のある俊足の少年を別とすれば
──彼に対する感情は、“友情”と呼ぶにはどこか、違和感を覚えるものだっ
──、進は桜庭を、他より一等抜きん出た所に位置付けていたくらいであ
る。人付合いの苦手な自分が、先述の少年とどうにか交流を深められるよう
になったのは、桜庭の助言に負う所が多く、脚が速いという共通点だけでは
どうにもならなかっただろうと、今でも感謝しているくらいである。

多少、神経の細い所はあったが、“国一番の美男子”として数多の女性(にょ
しょう)に持て囃されていた頃から、決して驕り高ぶること無く、それどころか、
己がホワイトナイツに入団出来たのは自身の努力に非ず、容貌による名声ゆ
えかと、絶えず気に病んでいた彼(顔の造作なんぞ、戦いの場では何の意味
も持たぬであろうし、第一そんなものを入団条件にしていたのなら、俺は矛盾
した存在であり、そもそも、ホワイトナイツの勇名の長きに渡る存続が難しくな
っていたと思うのだが)。

だが、その懊悩も、何がきっかけとなったのかは知らないが、ある時を境に
吹っ切れたようで、それからの桜庭はひたむきに騎士としての修行に励んで、
メキメキと頭角を現すようになり、その実力は努力にどんどん正比例していっ
た(俺も、もっともっと精進しなければ)。しかしだからといって、彼のその人当
たりの良さが失われることはなく、良識家なのも相変わらずであった。

長きに渡り苦楽を共にしてきたホワイトナイツの仲間として、また、世事に疎く、
細かい物事を大の苦手とする進の、常識指南役兼歯止め役として、桜庭春人
が進清十郎の人生に欠かせぬ人物であるとは、進自身も含めて、誰しもが認
めるところであった。しかし──

「まったく……今度という今度こそは、お前って人間が本当に分からなくなっ
たよ!」

生来の優しげな雰囲気も、常日頃の朗らかな笑顔──特に小さき者たちに
向けられていることが多い──も、今の桜庭からはその片鱗すら見出すこと
は出来なかった。

「……お前は王城ホワイトナイツの騎士なのか、それとも泥門の民なのか?
政事(まつりごと)は我々武人がとやかく口を出すべきものではない、まして
──

ましてや、己が属する国のことでなければ、尚更だ。

淡々としていながらも、最後の方で微かに感じ取れた苦渋と痛切の響きに、
ようやく桜庭も落ち着きを取り戻す。

──ごめん、キツイ言い方して悪かったよ」
「気にしていない」

そうして二人の間に沈黙が流れる。周囲の物音の大部分は桜庭の意識から
自動的に遮断され、彼には進の荒い呼吸と素振りの音だけが、やけに大きく
聞こえた。

(……俺、馬鹿? そりゃ確かに進は時々、石像か何かと勘違いしたくなるよ
うな朴念仁だけど──“あの子”に向けられてたあいつの視線は、いつだって、
あれ以上は絶対に無いだろうってくらい、優しくて、愛おしげで、人間味に溢れ
たものだったのに。進の内面は俺なんかよりもずっとずっと、グチャグチャに混
乱してるんだ。王城の騎士としての誇りと立場、そして、瀬那君への想いの間
[はざま]で……)

“Glory on the kingdom!”

国を統べる国王は確かに存在するが、ホワイトナイツの騎士たちが忠誠を誓う
のは、王城国という“国家”と、その国民に対してのみである。国土と民、双方
の繁栄と幸福を死守するという義務を負う彼らは、決して私情に流されてはな
らない。何よりもまず、その責務を全うすることが求められるのだ。一度入団す
れば死ぬまで脱退は認められず、所帯を持つことも許されないのは、彼らの責
任の重大さを象徴する一端であった。
                       ・
                       ・
                       ・
民衆を中心として構成された義勇軍の、予想外の善戦により、一時は巨深
族の侵攻を撃退出来るかと思われた泥門王国。その戦いの行方は、既に
巨深の猛攻の前に屈して、彼らの支配を受け入れた国々に於いても、いず
れ自国が同様の道を辿るのも時間の問題かと、戦々恐々としていた残り少
ない国々に於いても(何しろ、自分たちの住む島々を取り囲む“海”を、一番
よく知っているのは彼ら、巨深族なのだから!)、厳重な鎖国体制によって、
情報の伝わってこない神龍寺を除いては、大国の西部と王城ですら、興味
津々に噂されていた。だが、噂の的であった泥門の、国家的規模且つ民衆
水準での奮戦はしかし、最終的には報われることなく──その決着は、双
方の勇猛果敢な戦士たちの命を賭した戦いの勝敗に非ず、人の心の闇より
生まれ出でた謀略によって、つけられたのだった。

(友好を求める巨深使節団に対し、私利私欲を貪らんと、朝廷の許可無く刃
を向け、王国を揺るがせし叛徒どもに告ぐ! 即刻武器を捨て、潔く法の裁
きを受けるべし! 盟友たる巨深軍の諸君らはこれなる賊軍を討ち果せし後、
泥門城への御出でを願う!)


泥門王国の国旗と、降伏と同意義の白い休戦旗を左右に靡かせて、金ぴか
の衣装に身を包んだ、大層血色の良い、肥満気味の男が一人、突如として、
甲高く耳障りな叫び声を上げながら戦場を駆け抜けていった──つやつやと
した毛並みの上に見事な馬具を付けた、義勇軍の厩舎では絶対にお目にか
かれないような、元気の良い馬に跨って。

ヴワァァァ──!!!

もともと巨深軍が押していたこともあって、それを機に、彼らはなだれを打つか
のような勢いで泥門軍の掃討を開始した。予想外の出来事に総崩れとなって
しまった泥門義勇軍の約半数近くは、そうして討ち取られるか、或いは空隙を
ついて捕虜とされてしまい、英雄“アイシールド21”を始め、命からがら落ち延
びることの出来た者たちとて、その心身に負った傷の大きさ、深さ、そして量は、
計り知れないほどのものだった。
                        ・
                        ・
                        ・
「終わっちゃったね……」
「ああ、終わっちまった……」
「グス、グス……終わっちゃったぁぁぁ……」
「フゴォォォ……」
「「「ハァァァ……」」」
「アリエナィィィ……」

似たような慨嘆、哀号が各処から、途切れること無く細波のようになく聞こえ
てくる。初めの頃には怒涛のように叫ばれていた激しい憤怒も、やがては深
い疲労のせいもあり、徐々に消えていった。

命を賭して戦い、多大な犠牲を払い続けながら、愛する祖国と愛する者たち
を守ろうと奮戦した結果、“叛徒”、“賊軍”、“ならず者の集団”などと言う汚
名を着せられようとは! 

義勇軍の兵力も補給物資も既に底を突いており、何より彼らは、国の行く末
に対し、自分たちよりも遥かに重大な責任を負っていた筈の上つ方によって
“売られた”という屈辱、憤激、絶望のあまり、戦意はおろか、生きようとする
気力さえ失いかけていた。

重く沈みきった空気の中、嘆いても最早どうにもならぬことと分かってはいて
も、瀬那は思い返しては、後悔せずにいられなかった。

(あの時、もし僕が……あの大きな巨深の人を、討ち取れていたら……)

あの時、一度は確かに死を覚悟した瀬那だった。大鎌の代わりに剣を振り翳
した蒼い死神の、冬の海の色をした冷たい瞳が、最後の最後に放った光には
多少、不可解なものがあったが、死ねば何もかも意味を成さなくなると思考を
放棄し、せめて最期はと、白亜の騎士に再び想いを馳せたあの時──
                      ・
                      ・
                      ・
終戦と事実上の降伏を叫びながら、尚且つ抜け目無く新たな支配者たちに
媚を売る耳障りな声と、早馬の嘶き、そして蹄が地面を蹴りつける激しい音
はだがしかし、あの時の自分の“心”はさておき、この世を離れる寸前の状
況にあった肉体にとっては、確かに救いとなった。

突然の異常事態に、戦場に流れていた時間が等しく止まった一瞬から、刹
那の差ではあったが、いち早く意識を取り戻したのは瀬那だった。彼に覆い
かぶさっていた──見ようによっては瀬那を、この日の雨だけでなく、あらゆ
る意味で“冷たい”、過酷な現世から保護しているようにも見えたかもしれな
──、“死”の蒼き化身すら、一体全体、何が起きたのかと混乱したようで、
瀬那の小柄な身体を地面に縫い付けていたその屈強な力が一瞬、緩んだ。
瀬那にとっては、その一瞬だけで十分だった。

ガッッ!

「!?」

巨深の戦士たちが身に着ける鎧は、機動性を重視して作られた軽装備のも
のが殆どである。彼らは、自分たちの巨躯の頑強さに自信を持っているから
だ。しかし今日この日のカケイにとっては、それが逆に裏目に出てしまった。
瀬那は普段こそ、無駄に痛めてはならじと使わないが、光速の速さを持つ両
脚の筋力はその実、腕力の非力さを補って余りあるものなのである。膝蹴り
を食らった鳩尾の痛みに、カケイが顔を顰めた時にはもう既に、小鳥はカケイ
という名の鳥籠から飛び立っていた。

「待っ……」

戦士としての本能と経験から、あの速さには追いつけないと分かってはいた
が、カケイがそれでもなお、手を必死になって伸ばしたのは、相手の首級を
求めてのことではなく、先程の琥珀色の瞳の中に垣間見えた哀しみの理由
に、ひどく興味をそそられたからだった。

太古の動植物でも昆虫でもない、その内包物──瞳の奥にあった不鮮明な、
自分ではなかった人影。あれは一体、誰だったのだろう? 

アイシールド21の生殺与奪の権を己の手中に収めていたあの一時、奴の全
世界は当然、この自分一人だけであるべきだったのに。

実質上の、嫉妬だった。
                       ・
                       ・
                       ・
「さささ、巨深の皆々様は上座へ、上座へ……」
「すぐに戦勝を寿ぐ祝い酒をお持ち致します故……これ、女官ども、早う
せぬか!」
「いやいや、近頃国内を荒らし回っておった盗賊ども、何しろ人数が多過
ぎる上に、下賤の者どもが何を勘違いしおったか、“救国の軍隊”なんぞ
と抜かしよりましてな……」
「賊に協力する輩が後を絶たず、ほんに手を焼いておったのです」
「なれど、巨深の勇者さま方が……」
「こうして再び、平和をもたらして下さった」
「実に有難いことで御座いますなあ」
「丁度、我が国は先王崩御から間も無く、加えて暴れ者の皇太子はまた
もや流浪の旅路にあり……」
「あの皇太子が戻ってきたところで、国は再び乱れるだけじゃろうて」
「如何であろう、巨深族にこの国を治めてもらうというのは?」
「おお、それは良い!」
「妙案じゃ!」
「はて、一族を統べておられる御方はどなたか……」
「我ら忠君愛国の人士たち、粉骨砕身の覚悟でお仕え致しましょうぞ……」

権力と贅沢の腐臭にまみれた、阿諛追従の嵐。ようやく泥門城を手にした
カケイを始め、巨深族の面々ではあったが、彼らは自力で得た訳ではない
勝利の喜びなど、露ほども感じていなかった。むしろ攻略に苦労し、汗と血
と泥にまみれながらも、無限の可能性を秘めた未来を目指し、脇目も振らず
に邁進していた頃の方が、彼らにとっては遥かに充実して時間だっただろう。

高い身分と、それに相応しい待遇を与えられていたにもかかわらず、長きに
渡って地位に伴う責任を放棄し続けてきたばかりか、今度は自国民を敵方
の自分たちに売り渡してまで、甘い汁を吸い続けようとする、羞恥心の欠片
も無い“貴顕”たちの厚顔無恥な態度には、巨深の誰しもが吐き気を催して
いた。人の好いあのコバンザメですら両眉を急角度に吊り上げ、顔を顰めて
いる。彼の智略と武勇の程はさておき、一族の中心であるという自覚と、責
任感に関しては、コバンザメはそれなりにしっかりしたものを持っており、だか
らこそ一族の誰からも慕われているのだ。

(((((((気色悪い……)))))))

下卑た愛想笑いを浮かべ、揉み手をしながら、「何か役に立てることは無い
か(新たな地位と役得をくれ)」と、彼ら“だけ”が誇る由緒正しい血統とやら
いうもの以外には──それですら特に有用な使い道がある訳ではなかった
──、何の取り得も無いくせに、せわしなく自分たちを売り込んでくる売国・
棄民の恥知らずどもに対し、カケイは窓の外を見遣りながら、氷よりも冷たく、
だが内心には炎よりも熱い怒りを燃やしながら、「では早速一つ、頼みたい
ことがある」と言った。

「はは、何なりと……」
「目障りだ、滅えてくれ(きえてくれ)」

カケイの言葉が終わるか終わらぬかの内に、察しの良い巨深のつわものた
ちの、それぞれの得物が唸りを上げた。
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