「……と、いう訳でだ。早めに潰せそうならそれに越したことは無いし、向
こうに外交と通商の意志が有るというのであれば今後、我が国が彼らに
対し、どのような姿勢で臨んでゆくのかということを決めるためにも、今回
の泥門行きは、慎重の上にも慎重を重ねて──」
ここは王城国、王立騎士団ホワイトナイツのための大聖堂。
評議場をも兼ねたそこへ、一同に会したホワイトナイツの面々は、興味津
々といった態で、騎士団長・高見伊知郎の話に耳を傾けていた。
「くりた……モガ、たひ、には、モゴモゴモゴ……ゲフッ! うむ、何として
も生きていてほしいもんじゃのう!」
戦場に於いては、泥門王国の栗田良寛に勝るとも劣らぬ怪力と、その巨
体には似つかわしくないほどの軽々とした走りで以って、目覚しい活躍を
し、進同様、“王城にその男在り”と言われるホワイトナイツの切り込み隊
長・大田原誠の、持ち込んだ山のような食料をガツガツと頬張りながらも、
いつに無く真面目な発言に、周囲の誰しもが一瞬、目を見張るも、彼らも
またすぐに、同意の首肯を互いに次々と交わしたのだった。
王城国を守ることこそが至上の使命であるホワイトナイツの一員としては、
侵略された友好国の成り行きに対し、幾ら私人としての良心並びに騎士
としての道徳感に呵責を感じたところで、王命及び議会の過半数承認に
よる援軍出陣命令が無い以上は、王臣にして公の僕として当然のことな
がら、勝手に救いの手を差し伸べる訳にはゆかなかった。
個人的には泥門王国──中でもとりわけ、尖り耳の皇太子を中心とした、
少々風変わりではあるが、なかなかに見所と骨の有る者たちの集まりに
対し、興味半分もあったが、決して悪い感情は抱いていなかった大部分の
ホワイトナイツ団員たち──その青春の日々の殆どを厳しい鍛錬と困難な
任務に費やす彼らにとって、毎年の泥門行きは半ば小旅行の如き、ささや
かな楽しみだった。
任務の一環として参加を義務付けられていた、泥門城内での国王主催に
よる諸々の堅苦しい儀式や催事が終わった後、団員たち数人ごとに順番
に与えられる自由行動日は、克己の精神で自らを厳しく律する騎士たちの、
修道僧にも似た禁欲的な人生の中に在って数少ない、色鮮やかな時間を
有する日々だったのである。
ゆえにこそ、進清十郎ほどではないにせよ、他のホワイトナイツ団員たち
の胸中とてまた、なかなかに複雑であった。
「お前たちの気持ちも分からなくはないが、それが素直に顔に出てしまう
ような者たちは、今回は連れて行けないな」
そんな部下たち全員の、口にこそ出さねどの顔を目にして苦笑しつつも、き
っちりと釘は刺す高見に、誰もが首を竦める。
「王城(うち)からの公式訪問、内実は偵察だってことは、向こうも当然すぐ
に察するだろうし、だからこそピリピリと神経を尖らせているだろうあちらに
はそういう訳で、ほんの数人しか連れて行けないからね。それも……武器
の携帯無しで」
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「!」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
「人員選抜は俺とショーグンで決める。任命にしても残留にしても、異議は
認めないから皆、そのつもりでいるように。以上!」
解散号令を受けて、殆どの団員達がガヤガヤと大聖堂を出て行く中、どう
したことか、席を動かぬ二人の騎士がいた。
「……だ、そうだよ、進? 連れてってもらいたかったらまずその眉間のさぁ、もんの凄い数の皺、
速攻で消す消す!
「む……」
同期たちに輪を掛けて規則正しい生活と厳しい体作りの実践ゆえに、不眠
とはまったくもって無縁である筈のこの男にしては、何と珍しいことだと、目
の下にうっすらと不吉な色の隈をこさえている親友の、それでも食い入るよ
うに泥門行きの詳細が記された羊皮紙を見つめている厳つい肩を、桜庭春
人はポンポンと、宥めるように叩きながら、小声で注意を促した──大聖堂
に入ってすぐ正面の巨大十字架の下では、今もまだ、高見とホワイトナイツ
の特別顧問である庄司軍平・通称「ショーグン」が、打ち合わせを続けてい
たからである。
「言われずとも……分かっている……」
だが、本人は極力抑えた口調のつもりでいても、その低い呟きの、目に見
えぬくらい微細な綻びの数々から、血膿のように滲み出る激情の欠片たち
に気付かないほど、桜庭は愚鈍な男ではなかった。
「すべては泥門に着いてからだよ。瀬那君本人がどういう考えなのかも
分かんないのに、お前一人がグルグルしてたってしょうがないだろ」
「そう……だな……」
けれど、今回ばかりは──事の有様と“彼”の心の有様の双方が、自分の
望むような形をしていなかった時、果たして己は相手を責むることなく、それ
を潔く受け入れることが出来るだろうか?
・
・
・
「王城から……使者?」
その日、カケイと瀬那がその緊急報告を受け取ったのは、その日のカケ
イの執務時間を疾うに過ぎ、夕餉も済ませた後、二人で雑談をしている
時だった。
雑談とは言ってもその内容は幅広く、しかしまがりなりにも“夫婦”とされ
る者同士の間で交わされるものとしては、まったくもって情緒に欠ける上、
ちっとも噛み合わない、ちぐはぐなものばかりだった。
どちらも、その日に自分が見聞きした事を話すという点では同じであった
が、カケイの側からは主に、その日に裁決したり、刷新した官たちに諮っ
ている最中の政事(まつりごと)に関する、硬い内容の一辺倒。
瀬那の側からは他愛も無い日常のささやかな出来事の数々──例えば
庭園に何とかの花が咲いた、瀑布に虹がかかっていた、書庫で本を取ろ
うとしたら、書架が老朽化していた上、目的の本が高い所にあり、無理を
せずに梯子を使えば良かったものを、それを取りに行くのを億劫がり、横
着しようとしたために本の雪崩が起きて大変だったとか、取るに足らない
ような話ばかり。
これでお互い、よく会話を続ける気になれるものだと周囲は思っていたが、
当の本人たちは大して気にする風でもなく、それは何故かと言えば──。
まずカケイの場合だが、彼の場合は要するに、話の内容そのものよりも、
“瀬那に話を聞いてもらう”という“行為”こそが、最も重要な意味を持
っていた。
諸々の案件について、実際にどのような結論が下るのかということに関し
ては、現在では国王という存在こそ消えてしまったが、巨深に降った泥門
の官たちを交え、彼らの醸し出す、かつての泥門王国の朝議の雰囲気が
次第に色濃くなりつつある、評定の場で決まることとなっている。
しかし、カケイが目指しているのは巨深族の指示の下、一糸乱れずに動
く軍事連邦であった。有用でさえあれば、どの民族の、誰の意見であろう
と、躊躇すること無く取り入れてゆくつもりではあったが、それはあくまで
も、巨深族が頂点に君臨するという前提の下に、他の諸民族が平等且つ
公平に扱われることを意味する。
“巨深に従う者には庇護を、逆らう者には死を”
共存はしても、他民族を同等であるとは見做さないという、この一点をどう
にか覆そうと、躍起になった泥門人たちが、どれほど周到な根回しと巧妙
な作戦を以って向かってきても、たとえ“つま”が泥門のアイシールド21で
あるという搦め手を攻められたところで、これに関してだけは、たとえその
“つま”自身が──今となっては何にも代え難い存在となった瀬那本人が
何かを言ってきたとしても、カケイは絶対に譲歩するつもりは無かった。
なまじ頭の良い男であるだけに、カケイ自身、大陸の進んだ知識・深遠な
思想・優れた文物などに対しては既に、大いに感銘を受けていたのだが、
同時にまた彼は、素朴な同胞たちが、かつての豊かさの名残が未だ息づ
く文化国家の残照に、易々と魅了されてゆく様を目の当たりにして、人口
の上では少数派の自分たちが徐々に牙を抜かれ、征服者としての現実と
は真逆に、精神的には取り込まれていってしまうのではないかという懸念
も抱いていた。
ちょっとでも気を抜けば、たちまち泥門式の物事のやり方に流れてしまい
そうになる自分自身への叱咤を始め、一族の者たちにも常日頃から意識
上の喚起を促さなければならないことに加え、巨深族の独自性及び同一
性を維持する必要にも日々、幾度となく駆られ──正直なところ、カケイの
苛立ちは日に日に増してゆくばかりであった。
かと言ってミズマチを始めとする気の置けない──置けなさ過ぎる巨深の
者たちでは、相談相手としてはまったくの役不足。論議の途中で話の腰を
折られて脱線なんぞというのは日常茶飯事、そして話はとんでもない方向
へと飛躍して──最悪、コバンザメを除いた騒ぎの元凶全員にカケイが鉄
拳を喰らわせ黙らせて、その日一日が終了といった、まったくもって不毛な
結果に終わりかねないのである。
頭と筆を用いる仕事に関して、同胞たちも彼らなりに努力しているとはカケ
イも認めるところであったが、如何せん、やはり彼らの魂は自由な大海原と、
風雲渦巻き血飛沫飛び散る戦場(いくさば)に属するものであり、その真価
もまた、其処に於いてこそ、最大限に発揮されるものであった。
先祖代々受け継がれてきた戦士としての勘と、これまでに生き抜いてきた
数多の激戦の中で培ってきた経験こそが最も重んじられ、一族の決断と命
運を左右する中に在って、感情(激情)に盲目的に従うこと無く、即物的思考
引いてはの即断即決の有利性に囚われること無く、必要とあれば時として
それらに抗い、同時にまたそれらを御し得る冷静且つ論理的な思考を持つ
カケイのような存在は、巨深族の中に在っては特殊なのである。
しかしその聡明さと向学心が仇となった結果として、カケイは独りで己の思
考を整理し、新たな考えを構築する時間を捻出しなければならなくなった。
独り言が多くなるということもあり、周りから奇異の目で見られぬよう、必然
的にそれは夜となる。だが、しばしば物事に深くのめり込み過ぎる性質(た
ち)である己のこと──何に対してでもという訳ではないが──、数多の考
えを重ねたところで結局、いつまで経っても思考の輪環に鋏を入れることが
出来ないまま、未決裁案件が執務室の卓上はおろか、床の上にまで小山
を成して、正に足の踏み場も無いといった状況を作り出してしまう可能性も
大いに有った。
ゆえにこそ、“つま”──「瀬那」という、己にとって最高の聞き手の存在は、
正しく天恵と呼べるものであり、現在のカケイにとっては最早、あらゆる意味
に於いて必要不可欠の存在となっていた。
「へぇ……」
「あ、何かそれ分かるかも」
「本当に?」
「どうして、だって○○○なんじゃないの?」
頭の切れる人間というのは往々にして、物事をすべて己の物差しでのみ計
ってしまいがちだ。大多数の凡人を置いてけぼりにして行ってしまうその思
考は後にしばしば、争いの火種ともなる。
無知の知とでも言うのだろうか。詳細を何も知らない、凡庸な知性の持ち主
──それも庶民出身の──であれば、誰もが当然不可解に感じるであろう
疑問をカケイは、瀬那を通じて初めて知り、若しくは再認識し、そして何度も
盲点を突かれたのである。
だがそのお陰で、戦う以外の事柄に関してはお世辞にも呑み込みが速いと
は言えない部下たちへ、彼は、今後のことについての話をする際、以前にも
増して簡潔で分かりやすい説明と、根気良く何度も言い聞かせることを心掛
けるようになってゆき、結果としてそれは、同族たちのカケイに対する尊敬と
信頼の念を深めることとなった。
また、瀬那の視点、即ち被支配者たちの視点に着想を得てカケイが実施させ
た政策の数々が、民生面で目覚しい成果を挙げていったことは、新しく部下
となったかつての泥門王国の官たちを始め、泥門の人々の心中に今なお残
る蟠りや鬱屈の更なる融解に、大層役立った。巨深族と泥門人の軋轢は目
に見えて減ってゆき、新たな支配者たちの中心に在るカケイに対する巷での
風評もまた、未だ好意や尊崇とまではゆかぬものの、
「ふむ、流石アイシールド21を娶るなんぞと大それたことをやってのけただけ
のことはあるわい」
「そうだ、あのアイシールド21が、自分に相応しくない奴にいつまでも唯々諾
々と従っている訳が無い」
「城の女たちから流れてくる噂だと、それなりに仲睦まじくしているらしいぞ」
などといったように、“つま”を媒介として彼は徐々に、しかし着実に、多くの
人々と、新たな人間関係を構築しつつあった。
しかし、雨降ってようやく地固まりかけてきているそこへ──
・
・
・
「しかも文官たちじゃなくてホワイトナイツが……? それって宣戦布告の間
違いじゃねえのか?」
「いえ、王城国は思う所有って騎士団を派遣するとのことに御座います。しか
もこちらの懸念を見透かしてか、人数はホワイトナイツの中から十数人、それ
も丸腰で行かせると、わざわざ明言してきておりまして……」
「その上でまだ断るようなら、うちの側に友好心が無いってことにされて、俺
たちがまだ次の戦に進める状態じゃない内に開戦、か……」
「御意」
「素手でも十分強ぇ、一騎当千の斥候どもを受け入れたら受け入れたで、巨
深の心臓部として、今の泥門の復興はどの程度まで進んでんのか、戦端開
かれたら即、応戦出来そうな状態かどうか、隅から隅まで調べられて……く
そっ、しかも手の込んだこと考えやがるぜ……“丸腰の使者”って名目で来
られるんじゃ、陰でこっそり始末する訳にもいかねえし、それどころか五体満
足で王城に帰してやんなきゃ、“大陸と諸島の平和のために”野蛮で凶暴
な夷狄はやっぱ早めに潰しとけってか……! ったく、自分で言っててますま
す腹立ってきた……あぁっ、畜生!」
バンッ!
カケイの大きな右の拳が強く左の掌に打ち付けられる音に、瀬那は思わず、
ビクリと身を竦ませる。
「御明察の通りかと。加えてまた……」
「西部だろう? 泥門領内は緘口令で抑えられるとしても、ホワイトナイツの
特殊任務ってだけで、どこの国でも相当な話題になる。ましてやそいつらが
巨深に降った(くだった)ばかりの泥門から戻ってこなかったりしたら、尚更だ」
「……やはり、“単なる”使者を斬るような野蛮な民族の横暴は、自国の平
和の為にも捨て置けぬなどと、言いがかりを付けられるでしょうね……」
「あぁ、最悪それで王城と西部が手を組んで、挟み撃ちにされるって可能性
も否定出来ねぇ」
戦いに勝つ度、広がってゆく領土、増えてゆく財、強化される兵力。しかし勝
ち戦の潮に乗っているとは言え、その勢いだけで巨深が挑んでゆくには、王
城と西部はあまりに格が違い過ぎた。加えて海の民なら誰でも知っているこ
とだが、“潮”の動きに変化は付き物である。
よってカケイ自身、不本意極まり無いことではあったが、果たすべき真の目
的のためにも現在は、巨深族の事実上の指導者的立場に在る自らが率先
して隠忍自重し、また主戦派が大半を占める一族の者たちに対し、しばらく
の間は両隣の二大国家と穏便に付き合ってゆかねばならないという状況を、
どう説明すれば納得させられるかということについて、早速頭を回転させ始
めなければならなかった。何しろ武力だけでは太刀打ち出来ぬどころか、ま
ずその武力からして巨深は未だ、王城国と西部自由同盟──二国とも、伊
達に“あの”神龍寺と何百年にも渡って併存してきていない──、そのどち
らか片方の足元を揺るがすことさえ、覚束無いのである。
実際、カケイの危惧は、当たらずと言えども遠からずといったところであった。
・
・
・
「王城がわざわざ危険を冒して一番乗りしてくれるって話だから、俺たちも続
いてお邪魔させてもらおうかねぇ」
国中総出の復興作業でまだ色々バタバタしてるとこだろーし、“俺たちみた
いな”客が一度に来ると向こうさんも大変だろうからねぇと、中肉中背と長身
痩躯の間に分類されるであろう身体を、揺り椅子の上で大きな伸びをして解
すと、男は机の上に置いてあった投げ矢を一本取り、手の中でシュルリと器
用に回してみせた。
「お邪魔……ってキッドさん、どっか行くんですか?」
「うん、そろそろ泥門の様子見に行ってもいいかなって。もう戦は終わってる訳
だし、今ならちょっと強めに交渉しても、ドサクサに紛れて結構大きな要求して
も通るんじゃないかな~?って。ま、欲張り過ぎは禁物だけどね。あんま期待し
過ぎっとロクなことになんないから」
「何か……姑息で卑怯な感じがして、俺は好きじゃないですね、そうゆうの。だ
って結局それって、他人の弱みに付け込む訳でしょう?」
「うん、清廉潔白な行動だとは俺も全然思ってないよ」
「でもそれが政事なんですよね」
「……陸ってホント、物分りいいよねぇ」
カッ!
乾いた音を立てて、投げ矢は見事、壁に掛けられた的のど真ん中に命中した。
すぐ傍に山と積まれた樽の一番上に、見事な水平感覚でもって座りながら、分
厚い書類の束を捲っていた銀髪の少年が、ヒュウと口笛を吹く。
「お見事」
「アリガト」
投げ矢を手放した、少し荒れてザラリとした掌をヒラヒラと振り、男は称賛に応
えた。
「あ、そんでその物分りのいい子は一緒に着いて行きますんで、宜しく」
「おや」
今の泥門に、この俊英な少年の興味を引くようなものが果たして残っていただ
ろうかと、男は無精髭の目立つ顎を軽く抓んで考え込む。
「巨深の軍事機密なんかはまだまだとても探れるような状況じゃないと思う
けど?」
「あ、いや、そういうことじゃなくてですね、ちょっと……その、昔の友達の安
否を……」
「お友達?」
「ん~……友達って言うか、弟分……みたいな? 最後に会ったのはもう、六
年以上も前になりますけど」
「へぇ……陸に弟分、ねぇ……こりゃ意外と言うか何と言うか」
「どーゆー意味っスか?」
「いやいや、気ィ悪くしたんならごめんよ。たださ、そんなに時間経っててもま
だ覚えてるなんて、よっぽど可愛い弟分だったんだろうなって」
「可愛いっつーか……何か、放っとけない奴だったんですよ。どうにも要領が
良くなくって、しょっちゅう悪ガキどもにいじめられてたりして……。そこで本人
がやり返しゃいいもんを、そいつの幼馴染たちがよってたかって庇うもんだか
ら……」
昔を思い出したのか、いつもはキリリと引き締まった口元に淡い苦笑を浮かべ
ると、年に似合わぬ賢さと胆力を湛え、硬質の輝きを放っていた緑の双眸もま
た、春の新緑の如き柔らかさを帯びる。
(あれまあ、そんな顔も出来たんだねぇ……でも昔の友情を懐かしんでるって
言うにはちょいと、情感が籠もり過ぎじゃないかい?)
日焼けによる傷みのせいで、本来の光沢はやや薄れ、銀と言うよりは白に近
い髪を持つ、目の前のこの利発な少年が、祐筆見習いとして己に付き従うよう
になってから、未だ半年ほど。それでも彼の語る“二週間だけの弟分”とよりは、
ずっと長い時間を共にしてきたと言えるだろうに、男が少年の年相応の表情を
目にしたのは、実に今日が初めてであった。
「うちの期待の新人君に、これからも皆の期待を裏切らずに大活躍してもらうた
めにも、その幼馴染君にはぜひ元気でいてもらいたんもんだねぇ……」
「……っ! キッドさん、それは……」
「ごめんよ、意地悪を言ってるつもりじゃあないんだ。けど、一応、覚悟はしとき
なよって話。俺の言いたいこと、分かるよね、陸?」
「分かって、ます……」
隣国の各地で繰り広げられたという激闘。老若男女問わずの夥しい数の犠牲
者の中に、件の弟分の少年が入っていないという確率は、入っているという確
率よりも、グンと低い。たとえ生きていたとしても、一生引き摺るような大怪我
をしているかもしれないし、今後の人生へ常に暗い影を落とすような、心の傷
を負ってしまった可能性だとて有る。
もしそんなところへ、かつての兄貴分が「よっ、元気か?」などと、気楽な風に
やって来たりしたら、特に政情に通じているとはとても思えないあの弟分の事、
何が兄貴分か、何が弟分か、何が友達だと、涙ながらに詰られるのは必至だ
ろう。
それでも生きて、生きてさえいてくれたなら、と、陸と呼ばれた少年は思うのだ。
彼が──瀬那が、生きてさえいてくれたならば、これからどんなことでもしてや
れるし、もう誰にも傷付けさせたりはしない。そうだ、いっそ西部に移住させよう。
(兄貴分としてのプライドにかけて、二度とあいつに……瀬那に、涙を流させる
ような真似はしない……ああ、今度こそ、絶対にだ!)
こうに外交と通商の意志が有るというのであれば今後、我が国が彼らに
対し、どのような姿勢で臨んでゆくのかということを決めるためにも、今回
の泥門行きは、慎重の上にも慎重を重ねて──」
ここは王城国、王立騎士団ホワイトナイツのための大聖堂。
評議場をも兼ねたそこへ、一同に会したホワイトナイツの面々は、興味津
々といった態で、騎士団長・高見伊知郎の話に耳を傾けていた。
「くりた……モガ、たひ、には、モゴモゴモゴ……ゲフッ! うむ、何として
も生きていてほしいもんじゃのう!」
戦場に於いては、泥門王国の栗田良寛に勝るとも劣らぬ怪力と、その巨
体には似つかわしくないほどの軽々とした走りで以って、目覚しい活躍を
し、進同様、“王城にその男在り”と言われるホワイトナイツの切り込み隊
長・大田原誠の、持ち込んだ山のような食料をガツガツと頬張りながらも、
いつに無く真面目な発言に、周囲の誰しもが一瞬、目を見張るも、彼らも
またすぐに、同意の首肯を互いに次々と交わしたのだった。
王城国を守ることこそが至上の使命であるホワイトナイツの一員としては、
侵略された友好国の成り行きに対し、幾ら私人としての良心並びに騎士
としての道徳感に呵責を感じたところで、王命及び議会の過半数承認に
よる援軍出陣命令が無い以上は、王臣にして公の僕として当然のことな
がら、勝手に救いの手を差し伸べる訳にはゆかなかった。
個人的には泥門王国──中でもとりわけ、尖り耳の皇太子を中心とした、
少々風変わりではあるが、なかなかに見所と骨の有る者たちの集まりに
対し、興味半分もあったが、決して悪い感情は抱いていなかった大部分の
ホワイトナイツ団員たち──その青春の日々の殆どを厳しい鍛錬と困難な
任務に費やす彼らにとって、毎年の泥門行きは半ば小旅行の如き、ささや
かな楽しみだった。
任務の一環として参加を義務付けられていた、泥門城内での国王主催に
よる諸々の堅苦しい儀式や催事が終わった後、団員たち数人ごとに順番
に与えられる自由行動日は、克己の精神で自らを厳しく律する騎士たちの、
修道僧にも似た禁欲的な人生の中に在って数少ない、色鮮やかな時間を
有する日々だったのである。
ゆえにこそ、進清十郎ほどではないにせよ、他のホワイトナイツ団員たち
の胸中とてまた、なかなかに複雑であった。
「お前たちの気持ちも分からなくはないが、それが素直に顔に出てしまう
ような者たちは、今回は連れて行けないな」
そんな部下たち全員の、口にこそ出さねどの顔を目にして苦笑しつつも、き
っちりと釘は刺す高見に、誰もが首を竦める。
「王城(うち)からの公式訪問、内実は偵察だってことは、向こうも当然すぐ
に察するだろうし、だからこそピリピリと神経を尖らせているだろうあちらに
はそういう訳で、ほんの数人しか連れて行けないからね。それも……武器
の携帯無しで」
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「!」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
「人員選抜は俺とショーグンで決める。任命にしても残留にしても、異議は
認めないから皆、そのつもりでいるように。以上!」
解散号令を受けて、殆どの団員達がガヤガヤと大聖堂を出て行く中、どう
したことか、席を動かぬ二人の騎士がいた。
「……だ、そうだよ、進? 連れてってもらいたかったらまずその眉間のさぁ、もんの凄い数の皺、
速攻で消す消す!
「む……」
同期たちに輪を掛けて規則正しい生活と厳しい体作りの実践ゆえに、不眠
とはまったくもって無縁である筈のこの男にしては、何と珍しいことだと、目
の下にうっすらと不吉な色の隈をこさえている親友の、それでも食い入るよ
うに泥門行きの詳細が記された羊皮紙を見つめている厳つい肩を、桜庭春
人はポンポンと、宥めるように叩きながら、小声で注意を促した──大聖堂
に入ってすぐ正面の巨大十字架の下では、今もまだ、高見とホワイトナイツ
の特別顧問である庄司軍平・通称「ショーグン」が、打ち合わせを続けてい
たからである。
「言われずとも……分かっている……」
だが、本人は極力抑えた口調のつもりでいても、その低い呟きの、目に見
えぬくらい微細な綻びの数々から、血膿のように滲み出る激情の欠片たち
に気付かないほど、桜庭は愚鈍な男ではなかった。
「すべては泥門に着いてからだよ。瀬那君本人がどういう考えなのかも
分かんないのに、お前一人がグルグルしてたってしょうがないだろ」
「そう……だな……」
けれど、今回ばかりは──事の有様と“彼”の心の有様の双方が、自分の
望むような形をしていなかった時、果たして己は相手を責むることなく、それ
を潔く受け入れることが出来るだろうか?
・
・
・
「王城から……使者?」
その日、カケイと瀬那がその緊急報告を受け取ったのは、その日のカケ
イの執務時間を疾うに過ぎ、夕餉も済ませた後、二人で雑談をしている
時だった。
雑談とは言ってもその内容は幅広く、しかしまがりなりにも“夫婦”とされ
る者同士の間で交わされるものとしては、まったくもって情緒に欠ける上、
ちっとも噛み合わない、ちぐはぐなものばかりだった。
どちらも、その日に自分が見聞きした事を話すという点では同じであった
が、カケイの側からは主に、その日に裁決したり、刷新した官たちに諮っ
ている最中の政事(まつりごと)に関する、硬い内容の一辺倒。
瀬那の側からは他愛も無い日常のささやかな出来事の数々──例えば
庭園に何とかの花が咲いた、瀑布に虹がかかっていた、書庫で本を取ろ
うとしたら、書架が老朽化していた上、目的の本が高い所にあり、無理を
せずに梯子を使えば良かったものを、それを取りに行くのを億劫がり、横
着しようとしたために本の雪崩が起きて大変だったとか、取るに足らない
ような話ばかり。
これでお互い、よく会話を続ける気になれるものだと周囲は思っていたが、
当の本人たちは大して気にする風でもなく、それは何故かと言えば──。
まずカケイの場合だが、彼の場合は要するに、話の内容そのものよりも、
“瀬那に話を聞いてもらう”という“行為”こそが、最も重要な意味を持
っていた。
諸々の案件について、実際にどのような結論が下るのかということに関し
ては、現在では国王という存在こそ消えてしまったが、巨深に降った泥門
の官たちを交え、彼らの醸し出す、かつての泥門王国の朝議の雰囲気が
次第に色濃くなりつつある、評定の場で決まることとなっている。
しかし、カケイが目指しているのは巨深族の指示の下、一糸乱れずに動
く軍事連邦であった。有用でさえあれば、どの民族の、誰の意見であろう
と、躊躇すること無く取り入れてゆくつもりではあったが、それはあくまで
も、巨深族が頂点に君臨するという前提の下に、他の諸民族が平等且つ
公平に扱われることを意味する。
“巨深に従う者には庇護を、逆らう者には死を”
共存はしても、他民族を同等であるとは見做さないという、この一点をどう
にか覆そうと、躍起になった泥門人たちが、どれほど周到な根回しと巧妙
な作戦を以って向かってきても、たとえ“つま”が泥門のアイシールド21で
あるという搦め手を攻められたところで、これに関してだけは、たとえその
“つま”自身が──今となっては何にも代え難い存在となった瀬那本人が
何かを言ってきたとしても、カケイは絶対に譲歩するつもりは無かった。
なまじ頭の良い男であるだけに、カケイ自身、大陸の進んだ知識・深遠な
思想・優れた文物などに対しては既に、大いに感銘を受けていたのだが、
同時にまた彼は、素朴な同胞たちが、かつての豊かさの名残が未だ息づ
く文化国家の残照に、易々と魅了されてゆく様を目の当たりにして、人口
の上では少数派の自分たちが徐々に牙を抜かれ、征服者としての現実と
は真逆に、精神的には取り込まれていってしまうのではないかという懸念
も抱いていた。
ちょっとでも気を抜けば、たちまち泥門式の物事のやり方に流れてしまい
そうになる自分自身への叱咤を始め、一族の者たちにも常日頃から意識
上の喚起を促さなければならないことに加え、巨深族の独自性及び同一
性を維持する必要にも日々、幾度となく駆られ──正直なところ、カケイの
苛立ちは日に日に増してゆくばかりであった。
かと言ってミズマチを始めとする気の置けない──置けなさ過ぎる巨深の
者たちでは、相談相手としてはまったくの役不足。論議の途中で話の腰を
折られて脱線なんぞというのは日常茶飯事、そして話はとんでもない方向
へと飛躍して──最悪、コバンザメを除いた騒ぎの元凶全員にカケイが鉄
拳を喰らわせ黙らせて、その日一日が終了といった、まったくもって不毛な
結果に終わりかねないのである。
頭と筆を用いる仕事に関して、同胞たちも彼らなりに努力しているとはカケ
イも認めるところであったが、如何せん、やはり彼らの魂は自由な大海原と、
風雲渦巻き血飛沫飛び散る戦場(いくさば)に属するものであり、その真価
もまた、其処に於いてこそ、最大限に発揮されるものであった。
先祖代々受け継がれてきた戦士としての勘と、これまでに生き抜いてきた
数多の激戦の中で培ってきた経験こそが最も重んじられ、一族の決断と命
運を左右する中に在って、感情(激情)に盲目的に従うこと無く、即物的思考
引いてはの即断即決の有利性に囚われること無く、必要とあれば時として
それらに抗い、同時にまたそれらを御し得る冷静且つ論理的な思考を持つ
カケイのような存在は、巨深族の中に在っては特殊なのである。
しかしその聡明さと向学心が仇となった結果として、カケイは独りで己の思
考を整理し、新たな考えを構築する時間を捻出しなければならなくなった。
独り言が多くなるということもあり、周りから奇異の目で見られぬよう、必然
的にそれは夜となる。だが、しばしば物事に深くのめり込み過ぎる性質(た
ち)である己のこと──何に対してでもという訳ではないが──、数多の考
えを重ねたところで結局、いつまで経っても思考の輪環に鋏を入れることが
出来ないまま、未決裁案件が執務室の卓上はおろか、床の上にまで小山
を成して、正に足の踏み場も無いといった状況を作り出してしまう可能性も
大いに有った。
ゆえにこそ、“つま”──「瀬那」という、己にとって最高の聞き手の存在は、
正しく天恵と呼べるものであり、現在のカケイにとっては最早、あらゆる意味
に於いて必要不可欠の存在となっていた。
「へぇ……」
「あ、何かそれ分かるかも」
「本当に?」
「どうして、だって○○○なんじゃないの?」
頭の切れる人間というのは往々にして、物事をすべて己の物差しでのみ計
ってしまいがちだ。大多数の凡人を置いてけぼりにして行ってしまうその思
考は後にしばしば、争いの火種ともなる。
無知の知とでも言うのだろうか。詳細を何も知らない、凡庸な知性の持ち主
──それも庶民出身の──であれば、誰もが当然不可解に感じるであろう
疑問をカケイは、瀬那を通じて初めて知り、若しくは再認識し、そして何度も
盲点を突かれたのである。
だがそのお陰で、戦う以外の事柄に関してはお世辞にも呑み込みが速いと
は言えない部下たちへ、彼は、今後のことについての話をする際、以前にも
増して簡潔で分かりやすい説明と、根気良く何度も言い聞かせることを心掛
けるようになってゆき、結果としてそれは、同族たちのカケイに対する尊敬と
信頼の念を深めることとなった。
また、瀬那の視点、即ち被支配者たちの視点に着想を得てカケイが実施させ
た政策の数々が、民生面で目覚しい成果を挙げていったことは、新しく部下
となったかつての泥門王国の官たちを始め、泥門の人々の心中に今なお残
る蟠りや鬱屈の更なる融解に、大層役立った。巨深族と泥門人の軋轢は目
に見えて減ってゆき、新たな支配者たちの中心に在るカケイに対する巷での
風評もまた、未だ好意や尊崇とまではゆかぬものの、
「ふむ、流石アイシールド21を娶るなんぞと大それたことをやってのけただけ
のことはあるわい」
「そうだ、あのアイシールド21が、自分に相応しくない奴にいつまでも唯々諾
々と従っている訳が無い」
「城の女たちから流れてくる噂だと、それなりに仲睦まじくしているらしいぞ」
などといったように、“つま”を媒介として彼は徐々に、しかし着実に、多くの
人々と、新たな人間関係を構築しつつあった。
しかし、雨降ってようやく地固まりかけてきているそこへ──
・
・
・
「しかも文官たちじゃなくてホワイトナイツが……? それって宣戦布告の間
違いじゃねえのか?」
「いえ、王城国は思う所有って騎士団を派遣するとのことに御座います。しか
もこちらの懸念を見透かしてか、人数はホワイトナイツの中から十数人、それ
も丸腰で行かせると、わざわざ明言してきておりまして……」
「その上でまだ断るようなら、うちの側に友好心が無いってことにされて、俺
たちがまだ次の戦に進める状態じゃない内に開戦、か……」
「御意」
「素手でも十分強ぇ、一騎当千の斥候どもを受け入れたら受け入れたで、巨
深の心臓部として、今の泥門の復興はどの程度まで進んでんのか、戦端開
かれたら即、応戦出来そうな状態かどうか、隅から隅まで調べられて……く
そっ、しかも手の込んだこと考えやがるぜ……“丸腰の使者”って名目で来
られるんじゃ、陰でこっそり始末する訳にもいかねえし、それどころか五体満
足で王城に帰してやんなきゃ、“大陸と諸島の平和のために”野蛮で凶暴
な夷狄はやっぱ早めに潰しとけってか……! ったく、自分で言っててますま
す腹立ってきた……あぁっ、畜生!」
バンッ!
カケイの大きな右の拳が強く左の掌に打ち付けられる音に、瀬那は思わず、
ビクリと身を竦ませる。
「御明察の通りかと。加えてまた……」
「西部だろう? 泥門領内は緘口令で抑えられるとしても、ホワイトナイツの
特殊任務ってだけで、どこの国でも相当な話題になる。ましてやそいつらが
巨深に降った(くだった)ばかりの泥門から戻ってこなかったりしたら、尚更だ」
「……やはり、“単なる”使者を斬るような野蛮な民族の横暴は、自国の平
和の為にも捨て置けぬなどと、言いがかりを付けられるでしょうね……」
「あぁ、最悪それで王城と西部が手を組んで、挟み撃ちにされるって可能性
も否定出来ねぇ」
戦いに勝つ度、広がってゆく領土、増えてゆく財、強化される兵力。しかし勝
ち戦の潮に乗っているとは言え、その勢いだけで巨深が挑んでゆくには、王
城と西部はあまりに格が違い過ぎた。加えて海の民なら誰でも知っているこ
とだが、“潮”の動きに変化は付き物である。
よってカケイ自身、不本意極まり無いことではあったが、果たすべき真の目
的のためにも現在は、巨深族の事実上の指導者的立場に在る自らが率先
して隠忍自重し、また主戦派が大半を占める一族の者たちに対し、しばらく
の間は両隣の二大国家と穏便に付き合ってゆかねばならないという状況を、
どう説明すれば納得させられるかということについて、早速頭を回転させ始
めなければならなかった。何しろ武力だけでは太刀打ち出来ぬどころか、ま
ずその武力からして巨深は未だ、王城国と西部自由同盟──二国とも、伊
達に“あの”神龍寺と何百年にも渡って併存してきていない──、そのどち
らか片方の足元を揺るがすことさえ、覚束無いのである。
実際、カケイの危惧は、当たらずと言えども遠からずといったところであった。
・
・
・
「王城がわざわざ危険を冒して一番乗りしてくれるって話だから、俺たちも続
いてお邪魔させてもらおうかねぇ」
国中総出の復興作業でまだ色々バタバタしてるとこだろーし、“俺たちみた
いな”客が一度に来ると向こうさんも大変だろうからねぇと、中肉中背と長身
痩躯の間に分類されるであろう身体を、揺り椅子の上で大きな伸びをして解
すと、男は机の上に置いてあった投げ矢を一本取り、手の中でシュルリと器
用に回してみせた。
「お邪魔……ってキッドさん、どっか行くんですか?」
「うん、そろそろ泥門の様子見に行ってもいいかなって。もう戦は終わってる訳
だし、今ならちょっと強めに交渉しても、ドサクサに紛れて結構大きな要求して
も通るんじゃないかな~?って。ま、欲張り過ぎは禁物だけどね。あんま期待し
過ぎっとロクなことになんないから」
「何か……姑息で卑怯な感じがして、俺は好きじゃないですね、そうゆうの。だ
って結局それって、他人の弱みに付け込む訳でしょう?」
「うん、清廉潔白な行動だとは俺も全然思ってないよ」
「でもそれが政事なんですよね」
「……陸ってホント、物分りいいよねぇ」
カッ!
乾いた音を立てて、投げ矢は見事、壁に掛けられた的のど真ん中に命中した。
すぐ傍に山と積まれた樽の一番上に、見事な水平感覚でもって座りながら、分
厚い書類の束を捲っていた銀髪の少年が、ヒュウと口笛を吹く。
「お見事」
「アリガト」
投げ矢を手放した、少し荒れてザラリとした掌をヒラヒラと振り、男は称賛に応
えた。
「あ、そんでその物分りのいい子は一緒に着いて行きますんで、宜しく」
「おや」
今の泥門に、この俊英な少年の興味を引くようなものが果たして残っていただ
ろうかと、男は無精髭の目立つ顎を軽く抓んで考え込む。
「巨深の軍事機密なんかはまだまだとても探れるような状況じゃないと思う
けど?」
「あ、いや、そういうことじゃなくてですね、ちょっと……その、昔の友達の安
否を……」
「お友達?」
「ん~……友達って言うか、弟分……みたいな? 最後に会ったのはもう、六
年以上も前になりますけど」
「へぇ……陸に弟分、ねぇ……こりゃ意外と言うか何と言うか」
「どーゆー意味っスか?」
「いやいや、気ィ悪くしたんならごめんよ。たださ、そんなに時間経っててもま
だ覚えてるなんて、よっぽど可愛い弟分だったんだろうなって」
「可愛いっつーか……何か、放っとけない奴だったんですよ。どうにも要領が
良くなくって、しょっちゅう悪ガキどもにいじめられてたりして……。そこで本人
がやり返しゃいいもんを、そいつの幼馴染たちがよってたかって庇うもんだか
ら……」
昔を思い出したのか、いつもはキリリと引き締まった口元に淡い苦笑を浮かべ
ると、年に似合わぬ賢さと胆力を湛え、硬質の輝きを放っていた緑の双眸もま
た、春の新緑の如き柔らかさを帯びる。
(あれまあ、そんな顔も出来たんだねぇ……でも昔の友情を懐かしんでるって
言うにはちょいと、情感が籠もり過ぎじゃないかい?)
日焼けによる傷みのせいで、本来の光沢はやや薄れ、銀と言うよりは白に近
い髪を持つ、目の前のこの利発な少年が、祐筆見習いとして己に付き従うよう
になってから、未だ半年ほど。それでも彼の語る“二週間だけの弟分”とよりは、
ずっと長い時間を共にしてきたと言えるだろうに、男が少年の年相応の表情を
目にしたのは、実に今日が初めてであった。
「うちの期待の新人君に、これからも皆の期待を裏切らずに大活躍してもらうた
めにも、その幼馴染君にはぜひ元気でいてもらいたんもんだねぇ……」
「……っ! キッドさん、それは……」
「ごめんよ、意地悪を言ってるつもりじゃあないんだ。けど、一応、覚悟はしとき
なよって話。俺の言いたいこと、分かるよね、陸?」
「分かって、ます……」
隣国の各地で繰り広げられたという激闘。老若男女問わずの夥しい数の犠牲
者の中に、件の弟分の少年が入っていないという確率は、入っているという確
率よりも、グンと低い。たとえ生きていたとしても、一生引き摺るような大怪我
をしているかもしれないし、今後の人生へ常に暗い影を落とすような、心の傷
を負ってしまった可能性だとて有る。
もしそんなところへ、かつての兄貴分が「よっ、元気か?」などと、気楽な風に
やって来たりしたら、特に政情に通じているとはとても思えないあの弟分の事、
何が兄貴分か、何が弟分か、何が友達だと、涙ながらに詰られるのは必至だ
ろう。
それでも生きて、生きてさえいてくれたなら、と、陸と呼ばれた少年は思うのだ。
彼が──瀬那が、生きてさえいてくれたならば、これからどんなことでもしてや
れるし、もう誰にも傷付けさせたりはしない。そうだ、いっそ西部に移住させよう。
(兄貴分としてのプライドにかけて、二度とあいつに……瀬那に、涙を流させる
ような真似はしない……ああ、今度こそ、絶対にだ!)