皆様、オヤジの49歳にたくさんのお祝いメールありがとうございました。
(去年と違って、催促しなくてもたくさん来ました。あはは)
しかし、誕生日=9月28日の朝、我が家は大荒れだった。
その前夜、連れ合いと半分ずつ食べる約束だったお焼き(野沢菜入り)を全部食べられちゃったので、僕はすごーーーく頭に来て怒りまった(子供か?)。
そして誕生日の朝、連れ合いに「何か言うことは?」と催促。
寝ぼけ顔の奥様「おはよう」
「ほかには」
「何かあった?」
「何かじゃないだろ!今日は何の日?」
「えーと、ゴミの日?」
みたいなやりとりで、僕がブチッと切れた。
「何で誕生日を覚えてないんだ!去年もそうだろ!」
怒鳴られた連れ合いも逆ギレ
「日付の感覚がなかったんだからしょうがないじゃない!
その程度のことでごちゃごちゃ言うな!」
久しぶりの大喧嘩。
くそー・まったく・ひどい・くやしい・離婚だ~~、
ぶんぶん怒りながら職場に向かったのでした。
まあ、昨日のお焼きの恨みを引きずっていたというのもあるが、
それにしても、どうしてこんなに頭に来るのか、自分でも不思議。
授業の合間に考えた。
若い頃は、自分の誕生日なんてどうでも良かった。
1年たてば必ずその日がやってくるわけで、どうして「おめでとう」なんだ?
それなのに祝ってもらうなんて、なんだか気恥ずかしい・・・
もちろん、他人の誕生日を祝う気持ちは大いにある。
あなたがめでたいと思っているんなら、きっとめでたいんだろう。
OKだぜ。ハッピーバースデー!!!
でも、全くたいしたことない自分が、別にめでたいとも思っていない誕生日を祝ってもらうなんて、とっても気恥ずかしい。
家族はまあお互い様だから仕方ないとして、例えば、同僚とかTENOHASIの仲間とかにお祝いされるのは勘弁、と思っていた。
誕生日を聞かれたら「9月31日」と答えていた。
でも、去年くらいから、感じ方が変わってきた。
無事に誕生日を迎えられたというのは、かなりめでたいことではないのか、と。
何しろ、もうすぐ50だ。
この1年、衰えてゆく体力と、死滅してゆく脳細胞を抱えながら、
仕事、家事、レジャー、押し寄せてくるトラブルに
経験から来る若干の知識と知恵だけを頼りに対処してきたのだ。
息も絶え絶えになりながら。
そんな中、満49歳の日を迎えた。
49年も生ききった。
ついに50年目に突入だ。
よくぞここまでがんばったなあ。
おめでとう、自分!
こりゃめでたい!
産んでくれたお袋もさぞ喜んでいるに違いない。
ということで、いつの間にか、自分で自分の誕生日を祝う気満々だった。
それに、人生も後半戦、しかも終了時間未定のゲームだから、
あと何回誕生日を迎えられるかわからない。
(清志郎は、この時点でのこり一ケタだった)
祝ってくれてもいいだろ?
だから、連れ合いが寝ぼけて誕生日を忘れていたことに震えるほど頭に来たんだな。
それがわかったので、その夜は自分でケーキを買って、帰ってきた息子を呼んでお祝いした。
でも、もし1人だったとしても、ちっともさびしくない。
何しろこんなにめでたいんだから。よかったなあ、S。
ちなみに、その夜は仕事で泊まりだった連れ合いからは、あとで、謝りの電話とおわびのお焼きがきました。
というわけで、
これからは歳を取ればとる程めでたいので、ますます盛大にお祝いすることにします。
あ、そのまえに親のお祝いをしなくちゃね。
今の心境そのものずばりのタイトルは、ニーサンズの最初のアルバム”GOGO2・3’S”より。
2・3’Sってとっても好きなんだけど、ファンの間で評価は低いらしい。
この曲は、このアルバムで唯一、ギターの山川のりをの作詞作曲。
若々しいボーカルで、けっこう好きな曲
”一番はじめに息を吸った日
それが今日 おめでとう
一番はじめに喉を震わせた
光も少し感じた
今はもうお父さんや
お母さんにもうんざり
でもこれだけは動かない事実
君はふたりのセックスによって生まれた!!
ハッピーバースデー トゥーユー”
なんと言うことはない曲だけど、とっても歯切れがいい。
久しぶりにギターパンダのライブに行こうか。
(去年と違って、催促しなくてもたくさん来ました。あはは)
しかし、誕生日=9月28日の朝、我が家は大荒れだった。
その前夜、連れ合いと半分ずつ食べる約束だったお焼き(野沢菜入り)を全部食べられちゃったので、僕はすごーーーく頭に来て怒りまった(子供か?)。
そして誕生日の朝、連れ合いに「何か言うことは?」と催促。
寝ぼけ顔の奥様「おはよう」
「ほかには」
「何かあった?」
「何かじゃないだろ!今日は何の日?」
「えーと、ゴミの日?」
みたいなやりとりで、僕がブチッと切れた。
「何で誕生日を覚えてないんだ!去年もそうだろ!」
怒鳴られた連れ合いも逆ギレ
「日付の感覚がなかったんだからしょうがないじゃない!
その程度のことでごちゃごちゃ言うな!」
久しぶりの大喧嘩。
くそー・まったく・ひどい・くやしい・離婚だ~~、
ぶんぶん怒りながら職場に向かったのでした。
まあ、昨日のお焼きの恨みを引きずっていたというのもあるが、
それにしても、どうしてこんなに頭に来るのか、自分でも不思議。
授業の合間に考えた。
若い頃は、自分の誕生日なんてどうでも良かった。
1年たてば必ずその日がやってくるわけで、どうして「おめでとう」なんだ?
それなのに祝ってもらうなんて、なんだか気恥ずかしい・・・
もちろん、他人の誕生日を祝う気持ちは大いにある。
あなたがめでたいと思っているんなら、きっとめでたいんだろう。
OKだぜ。ハッピーバースデー!!!
でも、全くたいしたことない自分が、別にめでたいとも思っていない誕生日を祝ってもらうなんて、とっても気恥ずかしい。
家族はまあお互い様だから仕方ないとして、例えば、同僚とかTENOHASIの仲間とかにお祝いされるのは勘弁、と思っていた。
誕生日を聞かれたら「9月31日」と答えていた。
でも、去年くらいから、感じ方が変わってきた。
無事に誕生日を迎えられたというのは、かなりめでたいことではないのか、と。
何しろ、もうすぐ50だ。
この1年、衰えてゆく体力と、死滅してゆく脳細胞を抱えながら、
仕事、家事、レジャー、押し寄せてくるトラブルに
経験から来る若干の知識と知恵だけを頼りに対処してきたのだ。
息も絶え絶えになりながら。
そんな中、満49歳の日を迎えた。
49年も生ききった。
ついに50年目に突入だ。
よくぞここまでがんばったなあ。
おめでとう、自分!
こりゃめでたい!
産んでくれたお袋もさぞ喜んでいるに違いない。
ということで、いつの間にか、自分で自分の誕生日を祝う気満々だった。
それに、人生も後半戦、しかも終了時間未定のゲームだから、
あと何回誕生日を迎えられるかわからない。
(清志郎は、この時点でのこり一ケタだった)
祝ってくれてもいいだろ?
だから、連れ合いが寝ぼけて誕生日を忘れていたことに震えるほど頭に来たんだな。
それがわかったので、その夜は自分でケーキを買って、帰ってきた息子を呼んでお祝いした。
でも、もし1人だったとしても、ちっともさびしくない。
何しろこんなにめでたいんだから。よかったなあ、S。
ちなみに、その夜は仕事で泊まりだった連れ合いからは、あとで、謝りの電話とおわびのお焼きがきました。
というわけで、
これからは歳を取ればとる程めでたいので、ますます盛大にお祝いすることにします。
あ、そのまえに親のお祝いをしなくちゃね。
今の心境そのものずばりのタイトルは、ニーサンズの最初のアルバム”GOGO2・3’S”より。
2・3’Sってとっても好きなんだけど、ファンの間で評価は低いらしい。
この曲は、このアルバムで唯一、ギターの山川のりをの作詞作曲。
若々しいボーカルで、けっこう好きな曲
”一番はじめに息を吸った日
それが今日 おめでとう
一番はじめに喉を震わせた
光も少し感じた
今はもうお父さんや
お母さんにもうんざり
でもこれだけは動かない事実
君はふたりのセックスによって生まれた!!
ハッピーバースデー トゥーユー”
なんと言うことはない曲だけど、とっても歯切れがいい。
久しぶりにギターパンダのライブに行こうか。