夜長姫と耳男

忌野清志郎を愛し、路上生活者支援NPO・TENOHASIの事務局長Sの日記

国立市中区3‐1(返事をおくれよ) by CHABO

2009年06月14日 | Weblog
 あの、あり得ないニュースからもうすぐ49日。どうやらあれはシャレでもイタズラでもないらしい。でも今でもふわふわとした夢の中にいるような気分。情報はみんなマスコミからのものだし、葬儀だって青山rock'n roll showとかで、紅白の幕の奥で清志郎が笑っていただけだった。
だから、これが本当のことかどうか
ついでにこれからどうしたらいいか
聞きに行った。
6月12日(金)、仲井戸麗市with梅津和時ライブ。この二人なら本当のことを言ってくれるだろうと思って。
とはいっても、kさんが、5月2日の夜にとってくれたチケット。

 2泊3日の移動教室をようやく終えて、朦朧としながら開場の18時半前に南青山MANDARAへ。さすがに青山だけあって、ステージもバーもおしゃれな雰囲気。猥雑な吉祥寺とは一味違う感じ。

 ほぼ予定通り、19時半過ぎに、CHABOが登場。
 1曲目は「ねぇ HISAKO」。6月にだけ歌うんだそうだ。

 2曲目、世界で一番かっこいいスキンヘッドだと常々思っている梅津和時が拍手と共にステージへ。MANDARAでの連続ライブの課題曲だという「BLUE MOON」。
”ああ月がとっても青いってただそれだけで、遠回りして帰るなんて~ちょっとステキ”
 とってもCHABOらしい曲。梅津さんのサックスが炸裂。そこにCHABOのギターがついて行く。す、すげえ早弾き。ユニゾンだから全くごまかしがきかない。こっちが緊張した。

 後ろにセットしたピアノにたつのすけが座って、3人のライブに。そこから先はよく覚えていない。しかし、他の人たちのブログを見て思い出したところでは・・・

Beatlesの「Honey Pie」
フライングキッズの浜崎貴司と演ったという「All My Loving」。
それから、Curtis Mayfieldのカバーで「Um, Um, Um, Um, Um, Um」。
アイリッシュな「Fiesta」。
Kinksの「Alcohol」。

この夜は、いろいろな人のカバーをやっていた。
 
そしてポエトリーリーディング。
CHABOのそれはいつも絶品で、そこにうめっちゃんのサックスが絡むから今日のは超絶だ。「これで全国回ろうか」とCHABOが言ったのも頷ける。
1つめ。こんな内容だった。
「空に穴が開いた。君がちょうど通れるくらいの穴。君の好きな人が、僕らの好きな人が、君のことを見ている。・・・涙を拭いて」
なんという詩だろう。どう聞いても、清志郎のことを歌っているとしか思えない。空に空いた穴の向こうでこっちを見ている清志郎の顔が見えた。

その後の詩にも、なんだか清志郎を思い起こさせるフレーズが耳について、そこばかり引っかかってしまう。

「世間知らずの・・」「よそ者」「・・・悲しみをぶっ飛ばせ」

「64年型タイプライター」だけ、タイトルがわかった。

そして、再びCHABOがギターを持つ。
「アルバムのためにもう一曲つくろうと言うことになって、清志郎とミラクルズをまねして一晩で作った曲です。」と紹介して「ハイウエイのお月様」・・・
清志郎のコーラスが脳内で勝手に再生されてしまう。

 そして、「とっても気持ちがいいんで、やります」みたいな(とにかくこの日は頭が朦朧として他ので、MCの正確さは期待しないでください)ことを叫んで、一気に「キモチE」。

この日は、梅津さんが達者なピアノを弾いたり、なんとボーカルをとったり(さすがサックスだけ合って、張りのある言い声だった)、いろいろ楽しませてくれた。

そして本編の終わりに「この曲は、どうしようかとおもったけど・・・・」と言いながら「ガルシアの風」。
”ガルシアの風に吹かれて 僕らは丘をわたってく

 君は自由の服に着替えて 冷たい川の水に足を浸す

 ああ、どうにもならぬことなど なにもなかったのです
 ああ、どうしようもないことなど なにひとつなかったのです”

 そう、その頃にはどうにもならぬことなどなにもなかったんだろう。
 すべては未来につながっていた。
 いまは、どうしようもないこともある、とわかる。

一度メンバーが退場。

アンコールというか、第2部というか、とにかくそれが始まった。
たしか「働き蜂」。
その後にRCメドレー。
「いいことばかりはありゃしない」
元々好きな曲だが、完全復活祭での伸ちゃんとCHABOの演奏でますます好きになった。そして、今、CHABOが、僕の目の前3mで歌ってる。清志郎の姿が見える気がする。
 そういえば”最終電車で国立に着いた”が、CDでは”この街に着いた”になってるよな。新宿・吉祥寺と固有地名が続くのに、なぜ国立だけ避けたんだろう? ファンには常識?
”何も変わっちゃいないことに気がついて 坂の途中で立ち止まる”
先週訪れた多摩蘭坂の景色が目に浮かんだ。

続いて、なんと「国立市中区3‐1(返事をおくれよ)」
この住所は、CHABOの母校だとこの前多摩蘭坂の管理人さんに聞いたばかりだ。国立シリーズか? 

その一節、
”僕の手紙の漢字の間違いなど 気にすることはないさ 読めるだろう”

フライデーの最新号に、高校時代の彼女の話が載っていた。交換日記の漢字の間違いをたしなめた彼女に、清志郎は「でも、航海先に立たず、ですね」とわざと誤字を使って反撃したそうだ。

そして、その次に「こんな、半端な、ボーカリストでもないのに歌うのはどうかと思うけど、今日は梅津がいるんで、やらせてもらいます」と言って、あのピアノのイントロが流れた。国立シリーズ第三弾。
「スローバラード」

素晴らしすぎてコメントできません・・・

清志郎が憑依したようなCHABOのボーカル。

でもそれ以上に圧巻だったのが、梅津さんのサックス。
こんなに力強く切なく悲しいサックスは聞いたことがないと思った。
これは梅津さんの、追悼曲だったとおもう。
終わった後、あのいつもしれっとして人を食ったような梅津さんが、目をはらして目頭を押さえていた。
たくさんの観客が、同じ仕草をしていた。
鳴りやまぬ拍手。

そして、「嵐が去った後に」
”君に会いたい・・・
 話があるんだ・・・”

これが、CHABOの追悼。

最後に、梅津さんとの共作「祈り」


終わって、CHABOが、共演してくれた仲間やスタッフを紹介しながら拍手。
まず、梅津さんに。
そして、たつのすけさんに。

そして、最後に、ああ、あろうことか、天を差して、拍手・・・・。

「清志郎、ありがとう。今夜も聞いてくれたかい? 
 わかってる、歌い続けること、だよな。
 しっかりやるぜ。」

そう言っている声が聞こえた気がした。
清志郎はあそこにいる、とCHABOが教えてくれた。

今日は泣かないつもりでいたのに、勝手に目から水分が出てくる。

この夜は、CHABOの覚悟の程を示した夜だったと思う。

「CHABOもまだ苦しいだろうけど、無理してでも明るく元気に振る舞ってた」とは、ライブが終わった後にようやく合流できたKさんの感想。

眠たかった頭がすっかり活性化してしまい、
感想を語り合いながら吉祥寺で飲んで、
ゲロは吐かず、
井の頭公園のボート池の畔で夜明けを迎えるまで話して、
始発で帰って
ちょっと仮眠して
そのまま炊き出しに出て、
夜のTENOHASI総会を仕切って
翌日は爆睡した。
コメント (3)
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多摩蘭坂

2009年06月14日 | Weblog
 よく晴れていた先週の日曜日。多摩蘭坂に行ってきた。

 午前中は掃除とTENOHASI総会の議案書作り。
 ようやく終わったのが午後4時。

 TO88シャツ(昨年の清志郎完全復活祭で、88人が参加したファンの打ち上げ祝賀会を記念した清志郎直筆サインの入ったシャツ)を着て自転車で西荻駅へ。「ぼんしいく」に自転車を置いて国立へむかう。
 国立駅は中央線の高架工事中で、昔の愛らしい木造の駅舎は撤去されていた。部材は保存してあるそうで、いつか復活させるらしい。そこに清志郎の記念碑が建つのだろうか。
 駅の発車ベルを多摩蘭坂にしようという運動もあるらしい。隣の西立川駅にユーミンの「雨のステーション」の歌碑があり、僕の地元の大泉学園駅は発車メロディーが地元に住む松本零二の「銀河鉄道999」だから案外実現するのかも知れない。いいかどうかは別だが。

 15歳から20歳までの5年間、多摩蘭坂にほど近いところにすんでいた。多摩蘭坂は、国立の本屋に行くときに自転車で通った道。清志郎とも1回くらいすれ違っていたかも知れない。RCの「BLUE」で「多摩蘭坂」という曲が出たことを知ったのは20の時だった。考古学を専攻していた僕は、当時はRCよりも、多摩蘭坂遺跡の発掘報告書を買うかどうかを迷っていたことが思い出に残っている。

 途中に花屋があった。花を供えたりしたら地元に迷惑かもしれないと思ったが、だめなら持ち帰ろうとひまわりを買った。ブーケを作ってもらっているカップル。年格好からしてこの人たちもそうかなと思ったら、案の定多摩蘭坂で再会した。
 なんだか花を抱えて清志郎tシャツを着ているのが恥ずかしくて、裏通りを歩いて多摩蘭坂へ。
 国分寺市との境目の手前、坂を上がっていく途中、不意を突く感じでそのスポットがあった。道の脇に「たまらん坂」の表中とその説明版。その奥にちょっとしたスペースがあって、そこにたくさんの花やビール・水・コーヒーなどが備えられていた。何となく恥ずかしい思いをしながら花を供え、壁面に貼られたたくさんのメッセージを読んだ。だんだん人が集まってきて、6,7人くらいになった。寄せ書きノートに書いた。先週来たkさんが1ページ全部書いていた。
 元気でおしゃれな女性が話しかけてくれた。聞いたらここの管理人さんだった。「この近くに住んでいる1ファン」なんだそうで、清志郎がいたアパートはこのすぐ近くにあったこと、清志郎の49日までこのままにしてもらうことは地元にも市長にも言ってあること、国立中区・・の曲はチャボの桐朋学園の住所、昔は国立駅からここに来る途中のコンビニに「清志郎の家」という矢印が貼ってあって、ファンが押しかけて大変だったとか、いろいろな話を聞かせてくれた。
 5月3日から、たくさんのファンがここにきて、その中にはちょっと迷惑な行為もあったが、この人がずっとフォローしてくれてそうだ。雨に打たれたファンのメッセージカードも、乾かしてビニールをかけて張ってくれたそう。
 僕のように他から来てすぐ去っていくヤツはいざ知らず、これからも地元に住んでいかなくてはいけないのに、かつてここに住んでいた得体の知れないシンガーを慕ってやってくる得体の知れない中年男女(若い人もいるけど、60代とおぼしき人もいた)のために毎日ここに来てくれるこの人は本当に偉いもんだと思う。そういえば、尾崎豊が死の前に倒れていた家は、一室を尾崎ハウスとしてファンの持ち寄ってきたグッズを陳列してくれているらしい。
 他にも、いろいろな話を聞いて、ここに来る人に呼びかけたいと思うことも多かったけれど、「管理人がうるさいと言われるのはいやだから、書かないでね」といわれたので、書かないことにする。「おもいの表し方はいろいろだから・・」とおっしゃっていた。
 清志郎の歌を口ずさみながら夕暮れの多摩蘭坂を登り切り、西国分寺駅まで歩く。西荻窪駅に戻って、「ぼんしいく」へ。オトノワ+コトノハのライブ2800円。冴理(ピアノボーカル)の子どもへの思いを、ありが薫が脚本にして、子供役のめめと演じた。なかなかステキだったし、後半のライブも2人が天女になったりキャバレーのダンサー(妙なくらいセクシー)とサービス旺盛でよかったが、飲んだら眠くなってしまった。
 23時半就寝。
コメント (3)
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