もう10日前にありますが、8月15日に放送されたNHK総合の討論番組「日本の、これから」に出演しました。テーマは「核」でした。
ご覧頂いた方は皆さんお感じになったと思いますが、番組は大事なポイントをいくつも落として、感情的な「議論」の応酬のような形になってしまい、あまり良い討論だったとは言えないと思います。
ですが、ある意味では今回の討論は、「北東アジアの非核化」のために今私たちに何が必要とされているのかを考えることのできるものでもありました。
ここでは、私が今回の出演を通じて感じたことを書いてみたいと思います。
■「日本の、これから」の問題点
番組自体は、「北朝鮮の脅威」にどう向き合うか、というところから始まって、「非核三原則」と「核の傘」、そして日本の「核武装」をどう考えるか、という論点へ展開するように企画・構成されていました。
私にはこうした構成自体に疑問がありました。こうしたつくり方をしてしまうと、議論は「北朝鮮の脅威」の存在を前提として「それをどう封じ込めるか」といった話に容易になってしまうからであり、実際の討論もそのように展開していきました。「北朝鮮の脅威」から日本を守るには「核武装」なのか、アメリカの「核の傘」への依存なのか、という議論になり、中でも「核武装」論の主張がかなり強くなされていたため、ゲストも含め、より冷静に考えると「核の傘」が現実的である、という「結論」のようなものへと落ち着いていきました。
こうした議論と番組の展開は、いくつもの重要なポイントを落としたものでした。
まず何よりも、「核兵器とは何なのか」「被爆とはいかに惨い経験であったか」といった点、つまり「核兵器の非人道性」への認識が議論の前提からすっぽり抜け落ちていました。被爆者の方がお二人出演されていましたが、お二人ともこのことに心から憤っておられました。当然だと思います。この観点が出発点になければ、「核兵器のない世界」はいかにして可能なのか、を考えることはできないからです。なぜ核兵器を廃絶しようとするのか、それは核兵器とは究極の「非人道兵器」だからであり、それに頼って安全保障を確保しようとするのは道義的に許されないからではないでしょうか。
次に、「北朝鮮の脅威」が自明の前提とされている点です。これをもう少し詳しく言えば、「脅威」にどう対処するのかという議論は番組でもなされましたが、そもそも「脅威」が現れるにいたった原因を考察しようという発想がなかった、ということです。しかしそれでは本当の意味で「脅威」を解決することにはならないはずです。
番組冒頭で流されたVTRは、「北朝鮮の核開発」について90年代以降の流れをまとめていましたが、北朝鮮が「瀬戸際外交」で核開発を繰り返し、アメリカなどの譲歩を引き出すという「成果」を挙げてきた、という点のみを強調して単純化したものでした。しかし、このまとめ方は不正確であり、誤解を招くものでした。クリントン政権時代にかなり進展していた米朝交渉の成果を先に反故にし、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指したのはブッシュ政権でした。その後、ブッシュ政権は核兵器の先制使用政策を採用し、アフガンやイラクへの攻撃に進むなど、国際的な問題を武力で「解決」しようとする傾きを強めていきました。
これらは一例ですが、こうした点を含めて説明しなければ、現在の北東アジアの対立と緊張関係の責任を一方的に北朝鮮にだけ押し付けることにしかならず、アメリカや日本側の外交的問題などを含めて構造的にどのように対立と緊張が作り出されてきたのかはまったく分からなくなってしまいます。
さらに言えば、北東アジア地域の相互不信と対立の歴史は、日本による植民地支配と侵略戦争、朝鮮戦争と東アジア冷戦構造の成立、その下での日本や韓国を中心とした米軍の展開や各国の軍事化といった要素を含む、この地域の近代史全体に深く根ざしたものであることが踏まえられなければなりません。そこでは当然、近代日本が大きな歴史的責任を負っていることもまた問われざるをえず、それも含めた形で北東アジア地域での信頼醸成と共生関係の構築が目指されなければならないはずです。
これらの点を棚上げしたまま展開された「核武装」か「核の傘」かの議論は、(「核武装」が現在の日本が置かれた国際政治や経済関係の中であまりに非現実的な議論であるが故に)結局、消極的な現状追認を結論とする非生産的なものにならざるをえません。
■「北朝鮮の脅威」を解決するには?
この「北朝鮮の脅威」を自明視するという発想はしかし、今回の番組だけでなく日本社会に広くいきわたった発想だと思います(番組の構成がこのようになったのも、ある意味では社会の一般的な認識に合わせた結果なのかもしれません)。
この点は「北東アジアの非核化」を支持する世論をいかに創り出していくのかを考える際に、非常に重要だと思います。たしかに北朝鮮の現在の行動が日本社会に脅威感を与えていることは事実です。その意味でこの発想はまったく根拠が無いわけではないのです。しかしそうだからといって、「脅威」は武力で封じ込めるしかない、そのためには日本はアメリカの「核の傘」に頼るしかないのだ、と考えることが無条件に正しいとは言えません。
大事なことは、まさにこの点に立ち止まって思考することができるかどうかだと思います。つまり、「北朝鮮の脅威」は本当に武力による威嚇で解決するのだろうか、それは一時的に相手を「抑え込む」ことはできても本当に「解決する」ことはできないのではないか、ではどうしたら本当に解決することができるのだろうか、という点について、この社会の一人ひとりがきちんと考える力をもてるかどうかだと思うのです。
こうしたことを考えるということは、武力で相手に対することが結果としてどういった事態を招くのか、相手が脅威だという前提に立ってこちらがそれを上回る武力で相手を威嚇すれば相手はどう受け取るのか、もう少し具体的に言えば、北朝鮮に核開発を放棄せよと迫る一方で、アメリカの何千発もの核兵器を問題視せずにむしろそれに依存しようとする政策選択が相手から見て果たして道理の通ったものに見えるだろうか、といった問いに、安易な「現実主義」を対置するのではなく、真剣に向き合うことにつながります。そしてそれはやがて、武力と武力の対抗で安全保障を確保しようとする発想、「核の脅威」に「核の傘」を対置する発想そのものをも問い直すことになるでしょう。
「北東アジアの非核化」を支持することのできる世論を創り出すということは、「北朝鮮の脅威」を自明の前提とするのでもなく、また「脅威」など存在しないのだと頭ごなしに否定するのでもなく、まさに北朝鮮問題に象徴的に現れているこの地域の相互不信と対立の構造をいかに解きほぐしていくことが出来るのか、そのために私たちに必要とされている発想の転換とは何なのかを思考する力を持つ人を増やしていくということに他ならないでしょう。
■まとめ
「北東アジアの非核化」を支持する世論を日本社会の中に創り出していくためには、「北朝鮮の脅威」とそれを力で封じ込めることを自明の前提として日本と北東アジアの平和や安全保障を思考してしまう、この社会に支配的な思考からの脱却を可能にする「平和教育」、言うなれば「〈北東アジア非核化〉教育」の実践的なプログラムが本当に必要とされていると思います。
「核武装」でも「核の傘」でもない「第三の道」の具体的なビジョンとして、セイピースプロジェクトでは「北東アジア非核兵器地帯」を実現しようという構想を支持し、これを推進する「北東アジア非核化プロジェクト」を展開しています。このプロジェクトのもっとも基本となる取り組みは、参加型ワークショップを通して日本と北東アジアの核兵器を巡る問題を考える核軍縮教育プログラムです(高校や大学のゼミなどに出張して授業を行っていきます)。今後プログラムのよりいっそうの改良を進めて、「北東アジアの非核化」を求める世論作りに貢献していけたらと考えています。
(吉田 遼)