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【書評】高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社、2012年)

2012年08月31日 | 書評

 東日本大震災に伴う福島第一原発の事故から1年と5カ月が過ぎました。事故がもたらした放射能汚染の影響で、いまも十数万人が避難生活を送っています。福島第一原発は廃炉に向けては30~40年かかるとされ、事故の収束の目処は未だに立っていません。原発事故の処理や放射能汚染への対応、避難者の生活支援が求められる一方、沖縄県宜野湾市に位置する米軍普天間基地では、9月中旬にもMV22オスプレイが配備されようとしています。安全性の懸念から、沖縄県知事だけでなく県内全市町村がオスプレイ配備に対する反対を表明している中で、強行的に配備を進めようとする日米両政府の対応に、沖縄からは「(構造的)差別だ」という批判の声が挙がっています。

 原発事故が起きて以降、新聞等のメディアによって、原発の抱える問題と在日米軍基地の問題とが様々な点で類似していることが言及されるようになりました。『犠牲のシステム 福島・沖縄』は、「犠牲」という観点から、福島(福島県を含む原発立地自治体)と沖縄の抱える問題を「犠牲のシステム」として捉えることで、これらの問題について考察しています。
 
 本書は5章構成で書かれており、前半の1・2・3章は福島第一原発事故によって明らかにされた「原発という犠牲のシステム」について述べられています。後半の4章では沖縄の犠牲のシステム、そして5章では福島と沖縄の犠牲のシステムの類似点や相違点などについて整理されています。
 
 なお、「犠牲のシステム」について、著者は以下のように表現しています。
 「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。」
 
 この定式を福島と沖縄に当てはめて考えると、企業や国家などの一部のものの利益のために、原発や米軍基地といった危険なものが都市部から離れた地方に押し付けられ、周辺の自然環境を破壊し、人々の命や生活が犠牲にされているという構造が見えてきます。さらに、原発の建設や基地の押しつけは交付金などの経済振興策と結びつけて行われることや、実際は経済的にはマイナスになること、こうした構造を隠すためにマスメディアも巻き込んだキャンペーンが張られることなども共通しています。このように、沖縄を犠牲にした日米安保体制や、地方の過疎地域に原発という犠牲のシステムを押しつけることは、戦後日本における植民地主義ではないかと著者は指摘しています。

 しかし、福島と沖縄で決定的に違う点は、沖縄の人々は米軍基地を誘致などしていないということです。在沖米軍基地は米軍が「銃剣とブルドーザー」によって住民から強制的に土地を奪ってつくったものであり、暴力的に押しつけられたものであるからです。一方、原発に関しては自治体の誘致が前提となって、ある意味民主的に建設されるものです。ただ、日本の近代化のプロセスで経済的弱者の位置に置かれた地域で、原発を誘致しなければならなくなる状況が生まれていることを踏まえると、そうした状況が生み出されること自体も植民地主義なのではないかと考えられます。「植民地」とされた沖縄や福島は質的な違いはあるにせよ、著者は「植民地主義」という言葉を使うことで、戦前から続く日本国家の植民地主義的性格の根深さを強調しています。

 本書は、福島第一原発事故や原発に関する問題点や、今回の原発事故に対する責任、さらに、在沖縄米軍基地の問題について、基礎的な事柄を整理しつつ、これらの問題を「犠牲のシステム」、すなわち植民地主義という視点をもって問い直しています。福島や沖縄に犠牲を強い続ける日本政府、それを支えている日本社会の一員である私たちは、犠牲のシステムの中で「犠牲を強いる者」という立場にあるといえます。だからこそ、これらの問題に向き合っていく責任があるのではないでしょうか。原発と米軍基地の問題を地続きのものとして捉えるためにも、入門書としてぜひ本書を参考にしてもらいたいと思います。

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