ラサ サヤン

洋服作りといろいろ作り、好奇心旺盛の毎日

マレーシアで1番長い1日

2006-02-20 23:29:27 | マレーシア
今日、お風呂に入りながら今まで全く思い出したことがなかった、
私にとって、きっとマレーシアで1番長い1日が蘇ってきました



マレーシアに行って、村で1人暮らしを始めて間もない頃、
クアラルンプール(KL)で手芸関係の隊員の集まりがありました
当然、初めて1人でKLに行き、1人で村まで帰ったのですが、
私の住んでいた村は、マレー半島の最南端の街、
ジョホールバル(JB)から、更に100Kmほど離れた小さな村です

約400Km離れているKLーJBの交通手段としては、
飛行機、長距離バス、マレー鉄道、乗り合いタクシーなどがあります
その日私はマレー鉄道でKLからJBまで帰ることにしました
お昼頃の列車に乗って、6時ごろにJBに着き、
家には8時に着く予定だったと思います
ところが、KLの駅でいくら待っても列車はやってこないのです
駅員に聞いても、もう少しで来ると言うだけで、
何時に着くのかも教えてくれません。
待っている人々もおそいね~とニコニコ、
私のようにイライラ切羽詰った顔をしている人は1人もいません
『アーこれがうわさのマレーシア時間か・・・』と思いながらも、
イラつかずにいられる時間ではありません
1時間半も遅れて到着したのです
(今はそんなことないと思いますが1988年の話です)
約400Kmで途中止まる駅は2,3つしかありません。
遅れを取り戻すべく、列車は走る!
と信じていたのに、その列車の走りの遅い事遅い事・・・
いくら私でも、新幹線を想像していたわけではありません
が、時速何Kmだったのでしょう・・?
景色は行けども行けどもオイルパームばかりで
何の変化もないせいか、ずっと時計とにらめっこ
このセイコーの時計壊れているかも・・・と思ったり
日が傾いていくほど心細くなっていきました・・・
JBに着くころは列車は更に遅れ、約2時間遅れで到着。
もう家に着いているはずの時間です
辺りはもうすっかり暗くなっていましたが、
JBで泊まるつもりはありません
どこにどんなホテルがあるのかもわからないのですから

JB駅前のタクシーに『アデラ村まで』
と言っても、誰もが首を横に振ります
『長距離タクシーはここじゃない』
と言われました でも長距離タクシー乗り場がどこかもわかりません
その時1人のタクシーの運転手が手を上げて、
『OK、50リンギ(マレードル)でいいよ』と言われました
私の予定では、途中の町、コタティンギまで乗り合いタクシーで行って、
コタティンギからタクシーを乗り換えるつもりでいたので、
JBからアデラまで直接帰る値段も全くわからず、
言われるままにOKしてタクシーに乗り込みました
ところが、そのタクシーはどうも幹線道路から外れていて、
コタティンギに向かっているとも思えないのです
怖くなって『何処に行くの?コタティンギ?』と聞くと、
『ちょっと、家に寄る』
と、答えるのです
『えっ?家に?・・・・』 
もう、私の頭の中はパニックです 
優しそうな顔して、私をどうするつもり 
どこかに売られたら?パスポート盗られたら?家に怖い人がいたら????
もう終わりかも・・・
家に着いて、運転手は降りました
ここで、私は逃げた方がいいのか、逃げても何処に逃げたら・・・・
と思っていたら、彼は奥さんをつれて戻ってきたのです
『遅いから・・・』と、奥さんを助手席に乗せて
私の家まできちんと送ってくれました
イスラム教では夜遅くに夫婦でない男女が一緒にいてはいけません
宗教警察に捕まる可能性もあるのです

マレーシアでの、ドキドキ体験は数えられないほどあると思いますが、
ラッキーなことに、悪い人には会ったことがありません
でも、この日ほど長い1日もなかったと思います

青年海外協力隊 2

2006-02-10 23:00:58 | マレーシア
マレーシアには何しに行ったのでしょう 職種は、婦人子供服
オイルパームプランテーションの村の婦人たちの副収入源になるように、
Adelaという村で小さな縫製工場を開いてこの村や他の村の、
幼稚園、小学校の制服を作るというFELDA(マレーシアの土地開発公社?)
のプロジェクトのお手伝いに行きました

その小さな縫製工場がここです。


中にはミシンが何台か置いてあって、裁断係が裁断して、



縫製係が縫います。
朝早く来て、ミシンの場所取り。
あいたミシンがなくなれば、生地を家に持ち帰って縫ってきます。

制服はバジュクーロンというマレーシアの民族衣装。
婦人達はみな、カラフルなバジュクーロンを着ています。
制服のサイズごとの型紙を作り、縫製のチェックの仕事をしたり・・・

制服がいっぱい出来上がったら、ひらひらでかわいいカーテンや
やっぱりひらひらのベッドカバーを縫ったり・・・・
マレーシアの人たちは、ひらひらでかわいいのが大好きです。



それ以外には、
洋裁や手芸の講習会をするのが私の仕事でした。



当時、ほとんどの婦人達が自分や家族のバジュクーロンを作っていました。
伝統的なバジュは型紙がなくても作れます。
私は、子供用のワンピースや、子どもや紳士用シャツカラーの型紙の作り方、
縫い方を講習したりしました。




私が任期終了して帰国してから、
つちともさんが、同じ村でその仕事を引き継ぎ、
発展させてくださったんです。ねー!
私は2年間どっぷり村で過ごしましたが、
つちともさんは、この村だけでなく、
FELDAのジョホール州事務所や、クアラルンプール本部まで仕事を進めて・・・

青年海外協力隊

2006-02-09 00:26:06 | マレーシア
つちともさんのコメントと写真を見せていただいたら、
昔の事がドドーンと押し寄せてきてしまって、
色付き始めた 協力隊時代、マレーシアの写真を見入ってしまいました
   
私は、1988年から1990年まで2年間をマレーシアの南端、
オイルパームのプランテーションをしている村でマレーシア人達と過ごしました。
最も近い隊員とも、100Km位離れていました。

この写真は村の中でも、集落になってないところです。
遠く向こう側に建物が見えます。
家は比較的なだらかなところに集落を作って建っていました。
広い土地に小さな村 4つ合わせて2000世帯位だったと思います。


私が住んでいた家。高床式で入ったところが一応リビングスペース。
緑色の網戸というか、網が張った窓の部屋はベッドルーム左右1部屋ずつ。
その奥 コンクリートの階段を下りると、
キッチンと、水を手桶で汲むだけのシャワールーム
水道からは煮沸すれば飲める水が出ていて、
電気は村の中で自家発電。
しょっちゅう停電するので、ろうそくや懐中電灯は常備してました。
あとは、プロパンガスのガスコンロがあります。

屋根裏では、いつもねずみが走り回っていました。

家の横にはグァバの木、家の裏にはジャックフルーツの木があって、
それらはいつでも食べ放題。


家の周りはいつも子供たちが遊びまわっていました。



ラサ サヤン のマスコットのヤモリは、
マレーシアでの2年間、私の同居人  ヤモリのチチャです。
チチャはどこの家にもリゾートホテルにも住んでいて、
マレーシアに住んでいたら、チチャから逃げる事はできません・・・・

マレーシアのこと知りたい方はこちらを見てね