【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-128 田中河内介・その127
(出島物語ー39)
薩摩に大きな影響を与えた 「 薩南学派 」 の話の続きとして、同じく土佐に多大の影響を与えた 「 南学 」 の話をして置きます。
【 大事業の前には必ず大理想あり、大理想の前には必ず学芸復興あり 】
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-127 田中河内介・その126
( 出島物語ー38 )
応仁の乱後、京都から四散した学問は、それぞれの地方に影響を与えてきたが、特に薩摩と土佐は、その隔絶された地形故に、これを純粋に継ぎ伝え、三百年風土に影響され、一種の薩摩および土佐らしい個性を備えた 「 薩南学派 」、「 南学 」 を形成し、薩摩人、土佐人の大きな指導力となってきた。 まず薩摩に大きな影響を与えた 「 薩南学派 」 の話から始めよう。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-126 田中河内介・その125
(出島物語ー37)
薩摩藩を天下の雄藩にした基礎には青少年教育がある。 その代表的なものに、島津忠良の「 いろは歌 」があります。 薩摩藩治教の聖典ともいうべき「 いろは歌 」は、公が選んだ当時の人生訓で、当時の人たちはもちろんのこと、後世薩摩の青少年の教育の軌範として、郷中教育や学舎鍛錬のすぐれた資料として用いられた。 若者は、日夜この歌を口誦して、心をととのえ、己を反省するように努めてきた。
●●〔ちょっと一息〕●●
桜田門外の変の生き残り、増子金八の墓に行ってきました―(その5)
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-125 田中河内介・その124
(出島物語ー36)
当時、士風が退廃堕落していた薩摩藩が、どうして明治維新を主導出来るようになったのか。 それにはまず、戦国島津氏の話から始めるのが適当であろう。 戦乱と激動の時代を乗り越えたこの時代の当主の横顔はいずれも個性的である。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-124 田中河内介・その123
(出島物語ー35)
頼山陽の伝記の続きです。 昔から、薩摩は武の国として知られていたが、当時の鹿児島は、士風を一変させ、退廃堕落、若者も柔弱化していた。 山陽は薩摩風俗の激変に驚き、それを二つの詩で表現した。 「 前兵兒謡(ぜんへこのうた) 」 と 「 後兵兒謡(こうへこのうた) 」 である。
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-123 田中河内介・その122
(出島物語ー34)
頼山陽の伝記の続きです。 熊本には四日間滞在し鹿児島に向った。 水俣では、徳富太蔵方に一泊。 分家の徳富美信と互に談笑した。 この美信の孫が後年、「 昭和の頼山陽 」 といわれた 徳富蘇峰であり、その弟が小説家の 徳富蘆花である。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-122 田中河内介・その121
(出島物語ー33)
頼山陽の伝記の続きです。 今回は、『 雲か山か呉か越か―下 』 として、 「 早崎瀬戸と イルカ 」 、 「 富岡の町と 頼山陽先生 」 の話をします。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-121 田中河内介・その120
(出島物語ー32)
頼山陽の伝記の続きです。 山陽は、茂木から肥後に向おうと船出したが、はげしい風波に襲われて橘湾の奥深くに漂着、千々石(ちぢわ) の天川屋(あまかわや)伍平(ごへい) 方に泊した。 翌日は、波静かで楽しい航海となった。 この時の茫々たる大海に船を浮べた感激を、詩にしたものが、かの有名な 「 天草洋に泊す 」 である。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-120 田中河内介・その119
(出島物語ー31)
頼山陽の伝記の続きです。 父の三年忌を済ませた山陽は、九州遊歴に出かけた。 最大の目的は、長崎に行って異国の風物に接することであった。 長崎では、年に一度のオランダ船の入港に出会っている。 また、この西遊には、『 日本外史 』 の草稿を、大切に持って歩き、行く先々で校正している。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-119 田中河内介・その118
(出島物語ー30)
頼山陽の伝記の続きです。 山陽は、広島の父が病気がちなのを気にしていたが、広島には行きずらかった。 しかし、京都へ出て五年目、ついに意を決して行くことにした。 山陽は、この時から病没まで、生涯に十一回帰省する。 父春水はこれから二年後に亡くなり、山陽は足かけ三年間の喪に服する。
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桜田門外の変の生き残り、増子金八の墓に行ってきました―(その4)
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-118 田中河内介・その117
(出島物語ー29)
頼山陽の伝記の続きです。 山陽は、潤筆の旅で美濃大垣に遊んだ際、藩の侍医江馬蘭齋の長女多保(たお)に出会った。 多保は、山陽の門人になり、細香(さいこう)という号をもらった。 細香は、ひそかに山陽を慕い、山陽も細香を妻にしたいと考えていたが、この話は成就しなかった。
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桜田門外の変の生き残り、増子金八の墓に行ってきました―(その3)
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-117 田中河内介・その116
(出島物語ー28)
頼山陽の伝記の続きです。山陽は、入京、開塾、自立の生活に入る。 しかし、藩侯に対する忠と、父母にたいする孝は、一生涯、片時も忘れることがありませんでした。
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桜田門外の変の生き残り、増子金八の墓 ( 茨城県 ) に 行ってきました。―(その2)
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-116 田中河内介・その115
(出島物語ー27)
頼山陽の伝記の続きです。 神辺を発ち、大坂に着いた山陽は、篠崎三島父子の世話により入京。 蘭医・小石元瑞(げんずい) の骨折りで、開塾、自立の生活に入った。
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桜田門外の変の生き残り、増子金八の墓 ( 茨城県 ) に 行ってきました。―( その1 )
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【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
先生とその門人たち-115 田中河内介・その114
(出島物語ー26)
頼山陽の伝記の続きです。 広島を出た山陽は、菅茶山の塾で、塾頭として講義を担当していましたが、茶山から、自分の姪と結婚して夫婦養子になってほしいという話と、福山藩への仕官の話が出され、びっくり仰天。 修史の実現のためには、どうしても茶山塾を出て大都へ出ねばと、煩悶するのでした。 . . . 本文を読む
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】 先生とその門人たち-114 田中河内介・その113
(出島物語ー25)
頼山陽の伝記の続きです。 山陽は、二十六歳の春、やっと門外自由を公許され、藩学問所の助教に挙げられました。 しかし、これでは修史の夢は不可能となります。 どうしても、広島の藩地を離れなければならないと、日々悩んでいましたが、やがて管茶山から朗報が寄せられました。
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伏見奉行所趾 ( 京都市 ) を 訪れました。 . . . 本文を読む