面白いもの「紹介・SHOUKAI」

日々、感じたこと、行動したことを書いてみます。

井波八幡宮

2024-05-13 17:56:57 | 日記
井波八幡宮

創建は明徳4年(1393)。

石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられるとか。

瑞泉寺の建立が1390年なので、お寺と合わせて、神社も勧請したということだろうか。

当時の時代は神仏混合が常識なので、当然の感覚のはず。

地元の八幡社も、瑞泉寺つながりで、こちらから分祀した可能性もありそう。

残念ながら、井波町のどの村に、自分のご先祖が暮らしていたかは、わからずじまい。

古文書があるわけでもないし。

瑞泉寺の影響力は広大で、当時の入百姓政策は、滑川市・上市・西谷内方面に及んでいて、富山県東部説、金沢市説、石川北部説も、ご先祖様の住んでいたところとしては、捨てがたいところ。
ルーツ探しも、これでしばらくはお休みの予定。

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瑞泉寺の超巨大ネットワーク

2024-05-12 10:13:26 | 日記
瑞泉寺の超巨大ネットワーク

真宗大谷派井波別院瑞泉寺というのが正式な名称。

本願寺第五代綽如により1390年に建立。

浄土真宗の開祖の親鸞は有名だけど、第五代綽如の知名度はもう一つ。

それまでは、関東地方でしか勢力のなかった浄土真宗の勢力を、一気に近畿から北陸方面に広げたのが、第五代綽如。

朝廷を動かすほどの博覧強記で、しかも行動力があり、さらにはどんな僻地へでも自らが赴くという情熱があって、特にこの井波地方では、カリスマ的な存在となったらしい。

44歳で突然の死去。伝説では「南朝方の凶刃に倒れ、簀巻きにして庄川に投入された」とされ、その悲劇的な最期が、イエス・キリストを連想。

のちに浄土真宗一向宗の勢力が、上杉謙信や織田信長と対決していくのも、なんだかキリスト教の十字軍と重なってきそう。

瑞泉寺は別名、瑞泉寺城・井波城と呼ばれ、ほとんど城郭都市という印象。

たぶん、半径50キロくらいの範囲に、ものすごいネットワークを持っていたのではないだろうか?


茨城県西部から栃木県南部にかけて、推定1000人から2000人の開拓移民が1820年前後に移り住んだとされ、父方と母方の先祖が、その中に関係して
いたのはほぼ確実。

檀家になっているお寺の話では「300人(あるいは300世帯)を引き連れて、砺波地方から寺ごとやってきた」という。

おそらく、瑞泉寺を中心としたネッワークが関東にもあって、何らかの交渉が成立したのではないか、と考えているのだがどうたろう。

また、地元の風習では、昭和30年代ごろまでは、本願寺に分骨するおりは、瑞泉寺経由で寺社の報告し、北陸経由で京都に向かったという。
大変な労力と考えられるものの、それだけ結びつきが深かったのかも。



ちなみに結城藩の水野家は能登の西谷内1万石から1万8千石に加増されて、1700年に転封。


初代の水野勝長は幕府の実力者の柳沢吉保の側近だったため、幕府側にも、加賀藩の前田家とも調整が可能だったのではと推測。


また、鎌倉時代の結城家初代の結城朝光は浄土真宗開祖の親鸞を手厚く保護したのは有名で、北陸の信者たちのイメージもよかったのかも。


当時、天明の大飢饉(1782-1788)、天保の大飢饉(1833)の復興政策が展開されていて、関東各地の藩では「入百姓」という開拓移民政策を展開しており、
東北・北陸の農家の次男三男を優遇して受け入れたらしい。


「信末」「沖」「土山」「蓮沼」「桑谷」など、結城でなじみのある苗字の人は、みんな井波町周辺のゆかりの人たちといえそう。




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井波町は彫刻の町

2024-05-10 15:23:38 | 日記
井波町は彫刻の町

井波町は人口8000人。

2004年に井波町を含めた8自治体が合併して南砺市が誕生。

中世の時代に、北陸の浄土真宗の拠点として栄え、それは門前町というレベルではなく、巨大宗教王国で、上杉謙信や織田信長に対抗するレベル。

1581年には、信長配下の武将佐々成政によって3000軒が全焼し壊滅

1594年ごろから、前田家の保護で、大工のまちとして復興し、さらに前田家の文化政策で、彫刻の町として発展したという。

井波彫刻は全国的に有名で、2018年には日本遺産に認定。

父方のルーツはこの周辺のどこかで、200年ほど前に、栃木県佐野市に滞在し、さらに進んで、茨城県結城市に移り住んだらしい。

ただ、もっと狭い範囲での特定の村とかは調査できないのが残念。

農村の分家の仕方が、ちょっと「散居村」風なのが、砺波地方の文化を受け継いでいるくらい。
彫刻文化との関係も、記憶にないかな。

井波町史の本を読んでみると、「天明・天保の大飢饉で76人の走り人が出た」という記載があるものの、それも、少し気になるところ。

ちなみに「走り人」とは、農村を放棄してアウトローになってしまうこと。

井波の歴史   https://konishi-hudousan.com/井波の歴史/






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ルーツ探しの旅 その2   高瀬神社

2024-05-09 15:28:17 | 日記
ルーツ探しの旅 その2   高瀬神社


母方のルーツがこの辺りではないか、と推測しているのか゛南砺市井波町高瀬地区。

越中一宮の称号のある高瀬神社がその代表的存在。


「一の宮」とは、平安時代から鎌倉時代初期にかけて逐次整った一種の社格で、その地域で第一に尊崇を集めた神社。

このエリアは高瀬の庄といわれ、平安時代から記録が残っているという越中の国を代表する神社の一つ。

ちょうど桜の季節で、しかも快晴。さらには境内では神前結婚の撮影会が行われていて幸せな雰囲気。

この高瀬地区は明治22年に政府の町村制の施行により、いくつかの村と合併しており、その一つが「森清村」。
どうやら、この森清村から開拓移民として栃木県南部に移住したのが、母方の先祖らしい。


「森清」は「もりきよ・もりせい・もりせ」という呼び方をされ、全国に森清の苗字をもっている人は500人くらい存在
するとか。

ちなみに母方の実家の姓は森田。どうして姓を変えてしまったのかは、結局のところ不明。


もともと森清に住んでいたころから森田さんだったのが、栃木に移住したときに森田にしたのか。


地図で確認すると、近くに昭和23年創業の「森田電気商会」という老舗企業があって、気になるところ。
森田もどこにでもある苗字だけどね。


源氏系那須氏の分家に森田氏があって、下野の国では比較的多い苗字だったので通り名にしてしまったのか、それとも養子みたいな展開あったのか、まだまだ謎が多そう。


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ルーツ探しの旅・その1  正八幡大神宮

2024-05-07 11:59:22 | 日記
ルーツ探しの旅・その1  正八幡大神宮

今回の旅のテーマはルーツ探し。

家の家系伝説では、約200年前の1820年ごろに、富山県のこのあたりのどこかからやってきたというのが伝説。

この時期、石川・富山両県から推定500~1000世帯が移住しており、それらの人々が、栃木県南部から茨城県西部にかけて、盛大に散らばったらしい。

おそらくは、分家の分家だろうけど、自分の代で7代か8代目くらいだろうか。

石川県金沢市と富山県南砺市の県境にある「正八幡大神宮」に行ってみた。

住所は富山県南砺市蔵原169

穏やかな里山の景色の残る静かな田舎という感じ。

茨城県結城市の地元にも各地に八幡宮が分祀されていて、おそらくはここの正八幡大神宮おおもとではないかと推測。

200年前のことなので、いろんな根拠のないことをひたすら想像してのことだけど。


正八幡大神宮は、江戸時代は加賀藩の祈願所として、それなりの影響力があったらしい。

今は、かなりの過疎化した村という印象で、冬はとてつもない豪雪地帯という印象。

旧蔵原トンネルというミステリースポットが有名なくらい。

周辺を散歩していると、あちこちで雪解け水が噴出していて、関東に住む自分には不思議な感覚。

南砺市は名水の街でもあるので、うらやましいくらい。

なんといっても、立山連峰があるし。

八幡神は機織りの神様でもあり、渡来人の神様とも。

中国の秦氏、トンデモ話としてはユダヤ系渡来人を秦氏と呼称したという伝説はロマンがあって楽しそう。

現実的な話としては、源平合戦の時代、木曾義仲の「倶利伽羅峠の戦い」に代表される源氏一党の勢力圏で、この源氏が八幡神を信仰していたため、源氏を棟梁とした土豪たちが、負け戦ののちに各地に散らばって八幡宮を祀ったという推測でいいのかと。

地図で調べていても、周辺の各地に八幡社が乱立していて、ドキドキするくらい。

戦国時代で考えても、この地方は上杉謙信に負けて、豊臣秀吉に負けてと、近隣の弱小の土豪たちにとっては負けっぱなしの一族の歴史だったのでは。

もう一つ考えられるのは、「八幡大菩薩」信仰。


奈良時代の聖武天皇のころに広まった信仰で、大仏建立とほぼ同時代とか。


八幡神と仏教がいつの間にか融合し、全国に広まったらしい。この時代くらいから金が採掘ができるようになり、経済も高度成長で一気に広まったと考えられそう。

八幡宮は全国に44000社あるといわれるほどで、この時期は、日本にとっても数百年に一度しかやってこないバブルの時期だったのかも。


ちなみにこのエリアに多い苗字は、吉田・山本・西村・伊藤・前田・山崎・山口・そして私の苗字の加藤さん。
みんなメジャーな苗字過ぎて参考にはならないけど。


正八幡大神宮 https://kt-hub.com/28476/shouhachihatadaijinmiya/


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