硯水亭歳時記

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   不娶 寡欲 画道専一 ~高島野十郎の最晩年~

2011年06月26日 | 文学・絵画等芸術関連

高島野十郎 自画像

 

 

 

不娶 寡欲 画道専一

 

 ~高島野十郎の最晩年~

 

 

私は、素敵にお年を召された女性を多く存じているが、男性の晩年にも深い興味を持つ。

発災以降、どうしようもなく忙しくなった私なのだが、是非もなく高村光太郎を読みたかった。

3:11以降、私は高村光太郎全集を二度読了した。

女性の老いと違って、男性の晩年には特別な意味合いがあるように思う。

それまで歩いた果てしのない苛烈な旅路を見るからである。

智恵子を亡くし、失意のうちに、昭和20年4月13日東京大空襲、

智恵子との思い出や、父の作品と対峙した思い出のアトリエを消失している。

そのことは「消失作品おぼえ書き~アトリエにて 9・10」として残っているが、

よく言われる父・光雲との確執など何処にもなく微塵もないが、

父の作品と己の作品をなくした哀しさに溢れる貴重な愛惜の文献である。

その後宮沢清六氏を頼って花巻へ。

苛烈な環境で、独居。真冬は頬被りをして寝ないと吹雪が入って眠れなかった。

父、ロダン、萩原守衛、その後の智恵子抄など、独居七年、旺盛に書き記している。

何が戦犯だろう。宮本三郎も、サトウハチローも藤田嗣治も山田耕筰も戦犯か。

高村光太郎全集26巻には平均的日本人以外のことは何も感じられない。

明治・大正・昭和と駆け抜けた一介の日本人そのままである。

深い精神性以外、そこにはあり得ない。

 

処で主家の床の間に、時々飾ってある高島野十郎の「蝋燭」の焔の絵は、

何一つ語ってくれない。言い訳めいた文章を殆ど残さなかったが、黙って鑑賞すると、

この高い精神性の絵は尋常ではない。これら焔の連作は柏市増尾の片田舎で描かれた

最晩年の絵だ。うっかりすると、観る者の魂をさえ、すっかり奪ってしまわれかねない。

絵以外殆ど残さなかった高島野十郎は、絵だけで充分であったのだろう。

光太郎と一緒で、明治・大正・昭和を駆け抜けた一市民に違いない。

 

高島野十郎 最晩年の連作「蝋燭」

 

 私は、高島が最晩年を過ごした柏市増尾という場所に行ってみた。

近所の方に伺うと、そりゃあ昭和35年だったものだから、何もなかったけれど、

今は高島さんの住居跡もなくなり、新興住宅地になっているという。

付近に、毎年カタクリの花が群生して咲く場所を教わり、

そこにじっと佇み、野十郎の生き様を夢想する。幽かに孤高の画家の香りが。

 

久留米の富裕な家に生まれ、東京帝大農業部水産学科を首席で卒業し、

帝大から銀時計を贈られたが、それを辞退、主任教授からの金時計だけは受けた。

その時は既に画業に専念したかったのだろう。これという師もなく基礎もない画家に。

二三年助手を務めた後、野十郎は帝大を辞し、恐らく放浪の旅に出ていたのだろう。

そして郷里・久留米に帰り、二度ほど個展を開いたようだが、

政局・時局には一切関わりを持たなかった。そして描く絵は写実の絵のみ。

戦前や戦争中はどうした心理状態でいたのだろうか、全く判然としない。

だが「無一物 無尽蔵」といった風貌で、きっと無欲であったに違いない。

 

戦後昭和4年から8年間、野十郎は欧州へ旅立つ。

ミレー、ダ・ヴィンチ、デユーラーなどを観た僅かな消息がある。

北米経由で、戦前のドイツ・フランス・イタリアなどで、主にルネッサンス時代の絵画に

ぞっこんであったようだ。そこで更なる高みを目指す精神性を自分なりに獲得。

よく第一次戦争などのゴタゴタした欧州を旅したものである。

そこが如何にも、骨格の太い野十郎らしい。

 

帰国後、郷里久留米を中心に盛んに個展などによって発表するが、

戦後昭和23年、再び上京し、北青山などに住み着く。

東京五輪で、アパートを道路拡張などで追われ、各地を転々と余儀なくされる。

東北、秩父、小豆島、奈良、京都などを転々と放浪し、昭和35年に柏に住み着くことに。

古希を迎えていた野十郎は独居生活。その貧乏暮らしをものともせず、

最晩年の15年の殆どを、「蝋燭」の焔(ほむら)を描いて過ごしている。

そして昭和50年、野十郎の命の焔が燃え尽きようとする時に、

齢88歳の老姉が、85歳の弟を看取ったと言われている。

田中農協病院を経て、野田市にある特別介護老人ホームで死去。

野田市にて葬儀あり、市川市霊園の中、野十郎は五輪塔で静かに眠っている。

生前真言宗を愛し、空海の秘密曼陀羅十住心論」を座右の銘としたようだ。

即ち、「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば

落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として

生まれる前の裸になる事、その事である」と、深い写実の精神性を示唆している。

遺稿には、「花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり」と、

「ノート」最終頁に綴られていたと言われている。

 

私は市川霊園の野十郎のお墓を詣で、五輪塔に手を合わせると、

「不娶 寡欲 画道専一」(妻帯せず 我欲なく 画業一意専心」と、

書かれた野十郎の直筆を見た。野十郎は生前、それほど評価が上がらなかったが、

没後次第に野十郎の画業に、派手なスポットライトが当たっているように思う。

尚主家に来た蝋燭の絵は昭和48年頃届いたと聞いている。

 

「雨 法隆寺塔」

 

この作品は盗難にあい、4年間床下に放置されていた 処が修復された時、

裏面いっぱいにワニスが縫ってあり、画面は完璧であって

当時 絵の具の質感など無視した象徴画に流れて行く中、

かくも絵の具の本質を見事に追求した画家はいなかったと最大限評価された

 

今どき、何故野十郎か、人の上に立ち、宰相になれる器の人は

野十郎以上のピュアさと我欲のなさと骨格の太い国家観が必要であると思えたからである

菅総理よ、貴殿の最後の仕事は「税と社会保障の一体改革」のみ しっかり果たせ!

 

又本日の日曜美術館で「思い出を蘇せる画家 諏訪敦」の番組に深く感銘を受けた。

写実と言ってもただ写し取るものではないことが分かった 野十郎に一脈通じていたかも