硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  泰山木の花が咲き

2011年06月13日 | 季節の移ろいの中で

我が家の庭の王者 泰山木の白い花

 

 

 

泰山木の花が咲き

 

 我孫子・手賀沼 文学散策 (Ⅰ)

 

 

庭一面にいい香りが漂っている。これは朴の花ではないな。朴より少し香りが控えめだ。

父が朝、「そう言えば今日が祖父の命日だな、しばらくお墓参りをしてないが、さて」と。

「じゃ僕らが行くよ」と言い、杏に「鳥さんたちを見るかい」と言ったら直ぐに首をコクリとした。

いい具合に、妻も行きたいと言い出す。非常勤勤務の良さか。目指すは我孫子市・手賀沼。

子(ね)の神大黒天にある祖父の墓参に行く。

 

祖父は変わっていて、老いてからA紙新聞記者になったが、

柳宗悦を心から慕っていた。特に奥さまのアルト声楽者だった兼子さんの大ファンで、

A紙新聞の大先輩・杉村楚人冠の信任も厚く、始終我孫子に通っていたらしい。

 

水原秋桜子は、年に50回も通って好きだが、キミも余程好きねぇとよく言われていたようで、

そして白樺派の文人たちの集まりに、時々顔を見せ、その都度何か提供をしていた模様。

 

父との確執で悩み、方々を転変とした若き日の志賀直哉。今はあまり読まれないようだが、

私は、志賀直哉の文章は格別に美しいと信じている。私が好きな中勘助も来ていたようだ。

 

祖父は豆々しく繊細な男で、彼らの住居を買う際には、きっと力になったことだろう。

そして実に筆まめであったので、白樺派や他の文人たちの新発見があるかとも思う。

未だに、祖父の日記に手をつけていないが、判読は妻に任せたいものである。

 

志賀直哉邸の書斎は古色蒼然として実にいい。まるで良寛和尚の五合庵を観るかのよう。

 

  

 

 

志賀直哉の書斎 右手石段は 山上の客間へと続く

 

石榴や椿や樺や杉板や、何もかもが邸内にある原木をそのまま使用、藁葺屋根以外は、

昔のままだと言う。この書斎で書かれた小説は、大正6年(1917)に父親との確執を書いた

『和解』。続いて同年『城之崎にて』。大正9年(1920)『小僧の神様』。作家全盛の勢いに。

作家として名声を得て行く時期でもあり、更に大正10年(1920)~大正13年(1923)まで、

『暗夜行路』の前編と後編の殆どを、この小さな書斎で書き上げている。

 

その後京都経由、奈良・高畑町に移り、和のお屋敷を持つが、滝井孝作もついて行った。

本来俳句は河東碧梧桐の弟子だが、小説の師は芥川龍之介と、特に志賀直哉を師と仰ぎ、

孝作と志賀は随分親しかったようだ。志賀邸に夕食に招かれることがしばしばだったらしい。

 

滝井孝作は、志賀邸のもう少し高台に掘っ立て小屋を建て、円形古墳の傍の家で妻と、

暮らしながら、ヒロインのリンが出てくる連載小説・『無限抱擁』という純愛小説を書いている。

師の移動とともに京都へ行くが、『無限抱擁』のヒロインのリンが死ぬと、小説も終わり。

その後、何と志賀邸のお手伝いさんと結ばれる。然もその名は「りん」。何ということか。

常に私が主人公で、如何にも日本的情緒の私小説に過ぎないが。

 

滝井孝作 仮寓跡 傍の円形古墳 (この一帯には古墳が十三個あるとか)

 

志賀は晩年殆ど我孫子を思い出したくなかったと言う。

冬は特に寒く湿気が多いこの地で、二人の愛児を失っているからだ。

志賀を我孫子に呼ぶ切っ掛けを作ったのは、他でもなく武者小路実篤。

そのお蔭で白樺派の文人たちや、林芙美子や、斉藤茂吉や、古くは正岡子規も来ていた。

野口英世を物心両面から支え続けた血脇守之助は我孫子の旅籠・「かど屋」の出で、

謝恩の碑も我孫子にはあったが、後に東京歯科大学を創立することになる。

文人だけではなく、多くの文化人や著名人が集まった場所、

それが錦湖・手賀沼の湖畔であったのだ。まるで「坂の上の雲」を見るかのようである。

 

だがつい最近まで、全国の湖の中で最も汚れた湖として有名であったらしいが、

今ではスッカリ綺麗に浄水され、美しく、古き良き時代の湖畔になっている。

我が長女・杏はここに集まる渡り鳥が大好きだ。

 

長谷川伸、中里恒子、島崎翁助、窪田空穂、藤蔭静樹、円地文子、大町桂月、

古くは小林一茶までこの地に来ている。西洋史専門の村川堅固・堅太郎の別荘もある。

「三田文学」の編集長であった坂上弘も在住していた。大田蜀山人や、

歌人で、宮中・歌会始めの召人であった清水房雄も住んでいた。

軽妙な句を作り、人気があったM新聞の、祖父の記者仲間であった岡野知中も、

ハケの道と呼ばれる場所に住んでいた。

俳人で、この地出身の、高浜虚子の口実筆記をした野村久雄もいた。

祖父は特に、関東三十三番札所で、真言宗の古刹・「子(ね)の神大黒天」を愛し、

今は新しい家が建っているが、門前に住んでいたようだ。祖父の遺言に、前方後円墳がある

この御寺の墓所を購入していたので、埋葬を遺言し独りここに眠り、

祖母は田舎に行くなんてマッピラだと公言し、祖父の言い成りにした。

後に、当家伝来の青山墓地に分骨し、祖母と一緒にしたが、

父は何かと祖父を尊敬し、祖父の墓参りを欠かしたことはなかったようだ。

 

武者小路実篤と志賀直哉、たった2キロしか違わない距離で、

お互い船で行き来し、小船から「おおい、しがぁ、いるかぁ」ってな具合に大声を張り上げ、

二人は懐かしく、愛惜に満ちた声になって聞こえたという。

 

但し祖父は二人に割って入ったわけではない。

時世、急をつげる中、ただ悠々としていただけだ。無論『匿名者』として。

でも一言だけ、我が家に伝承されていることがある。

左翼系作家だった小林多喜二が志賀邸にやってきて、

意見を仰いだ時、志賀はウザイと思ったらしく聞く一方であったらしい。

白樺派は時局に疎すぎると、祖父は嘆いていたようだが、

でも彼らとのお付き合いが好きだったのだから、イト不思議。別記事にする。

 

祖父が最も愛し、信仰にも似た感情を抱いていたのは、柳宗悦・兼子夫妻の存在であった。

(Gooブログ記事の容量の都合で、最も大切な部分は、別記事にする)

 

直哉の哉の字に ハネがない このほうがすっきりするといい 生涯この字に徹した

 

志賀邸から 200メートル手前にある「白樺文学館」