硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   かんかんたる父へ

2011年06月19日 | 歳時記

父へのプレゼント

 (日本橋「竺仙」のさやま縮の浴衣と兵児帯と、入谷「平井履物」のからす表の右近下駄も、

京都の義父へは綿95%のかりゆしと、西川文二郎製作のパナマ帽を贈る)

 

 

 

かんかんたる父へ

 

山に行かない時の父は、誰と逢うでもなし、

盆栽いじりと書斎とを行ったり来たり、

80歳をとうに超えている。だが軍隊で鍛えた分だけ、

未だに矍鑠として、衰えを知らない。

父の日のプレゼントを妻とチビたちと一緒に書斎に持っていった。

孫たちをみると直ぐに相好を崩し、

函を開け、我が妻の名を呼び、感謝の言葉を伝える。

僕はその様子をじっと見ていたが、

いつかこうなることを望んでいたのだろう。

 

それにしても日本の外交を背負っていた父が、

最も長くついた政治家はT首相やS首相で、

父は自らを「絶対公僕」と言って憚らなかった。

その後の混迷の中、父は忽然と役所を辞めた。

 

小さい僕は父と遊んだ記憶がない。祖父母とは数多く、

そして最も愛してくれたのは亡き母であった。

 

僕が大学に入り、亡き主人宅へ書生として、

入ったことが最大の要因ではないかと、今でも勘ぐっているが、

戦後忸怩たる思いのまま、

請われるように入った外交の戦場は、

きっと様々な難渋なことがあったことであろう。

岳人意外の友人は、意外と海外のご老人が多い。

身内の集まりはそう好きではない。

 

そして父は孤高のうちに、自宅を粛々と守り、

寡黙な中で、或いは若くして亡くなった母を愛していたのかも。

爾来読書と山登りに没頭していた。

山への憧れは、祖父を通じて、深田久弥を知り、

祖父から父へと伝達されたものであったろう。

 

父の背中を見るにつけ、以前では考えられないようなことがある。

何と、幅広く頑丈な父の背中は、

あの一の倉沢から見上げた「谷川岳」に見えるではないか。

地味ではあるが、今でも二つの日記をコツコツと書き続け、

今度は北岳の縦走に挑むという。

 

 

梔子の花が咲いたよ

 

   「報告」

 

   あなたのきらひな東京へ

   山からこんど来てみると

   生まれ故郷の東京が

   文化のがらくたに埋もれて

   足のふみ場もないやうです。

   ひと皮かぶせたアスファルトに

   無用のタキシが充満して

   人は南にゆかうとすると

   結局北にゆかされます。

   空には爆音、

   地にはラウドスピーカー。

   鼓膜を鋼で張りつめて

   意志のない不生産的生きものが

   他国のチリンチリン的敗物を

   がつがつ食べて得意です。

   あなたのきらひな東京が

   わたくしもきらひになりました。

   仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。

   あの清潔なモラルの天地で

   も一度新鮮無比なあなたに会いませう。

   (高村光太郎 70歳 昭和27年11月22日作 雑誌『いづみ』に発表)

 

杏や大風が大好きな ばぁばの作ったイタリアン・トマト