あのコルトを狙え

TOKYO2020 子供たちに負債を(笑)

横浜市電遺跡

2007-09-01 23:57:19 | ヨコハマ

ご無沙汰しております。久しぶりに更新してみました。
毎日のようにチェック下さっている方々に感謝しております。


さて横浜市電が廃止されて今年で35年。
私の年齢では乗車体験がありません。
しかし子供の頃は廃止後に公園などに供出された車輌で遊んだ懐かしい思い出があります。
それもほとんど無くなってしまいました。
マニアレベルではないが鉄道に興味があるのは子供の頃に触れた公園の市電が影響しているのだろうと思う。


今から20年程前までは京浜急行の黄金町駅前に横浜市電の架線柱が残っていました。
中学時代にその存在を見つけてから駅前を通るとその横浜市電の跡を眺めるのが楽しみでした。

しかしそれも長くは残らずにいつも間にか消えてしまいました。


ある日山元町の電停跡付近に架線ポール(側柱)が残っている事を発見。
親戚の家に行く際に通っていたこの道の角を曲がった所に停留所があった事は親から聞いていた。


黄金町のポールが無くなってからかつて市電が走っていた道を通るとポールが無いか探していた。
それで10年程前に発見した時は感動したものだ。









そして同時に軌道の名残も残っていた。道路の左側はアスファルトではなくコンクリート製。
これ自体は市電の跡ではないが当時の写真で打越橋の上から撮影された物を見るとつなぎ目のパターンが同じだった。
軌道敷横の車道部分。(もっともコンクリート舗装の道路は本牧の軌道跡でなかった道路にも使われて残っていたが)




この曲がり方がいかにも軌道跡っぽい。
5,60年代の横浜の遺構が次々と姿を消して行く中でこの箇所だけが私の知らない横浜の姿を感じさせてくれた。








しかし、いつしか架線柱は取り替えられコンクリート舗装の車道も消えていた。






ここの架線柱の事は市電保存館の方は知っていたのだろうか。
函館に日本最古のコンクリート電柱が保存されている。



名所案内に載せられているあの電柱のように横浜の遺構として保存されてくれれば…

また1つヨコハマが消えた

通りかかるのが楽しみだった街角は今通っても何も感動しない。

もうあれが最後の架線柱だったのだろう

ところが先月新聞に別の場所でポールが残っていたという記事が載っていた。

まさかまだ残っていたとは(涙…)



2007年8月14日 朝日新聞横浜版より

残っていた事も嬉しいが「保存」されるなんて素晴らしい事です。

フルサイズでご覧になりたい方はこちらを



移設しなくとも生麦にそのまま残してくれればいいのにと思いましたが
古いものなのでこんな事もありますからね 
 
  ↓↓↓     ↓↓↓





昭和39年3月3日 神奈川新聞より

フルサイズでご覧になりたい方はこちら


タクシーはグリル形状からクラウンRS20でしょうか?

今回は画像が重たくてゴメンナサイ


コメント (9)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« コルト1100売ってます | トップ | 今年もやります!たてものと... »
最新の画像もっと見る

9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
横浜市電、浜松町交差点 (flingscottomomi)
2007-09-02 10:31:48
ドリモノに続き、横浜市電にも乗った事のあるオジサンの昔話です。
母の実家は久保山にあり、東横線の高島町から市電に乗って良く行きました、もう40年以上前の事です。国道15号にあった安全地帯の停留所から乗り、保土ヶ谷方面へ行き、戸部駅を過ぎるとやがて浜松町の交差点が見えてきます。
その交差点の真ん中に「係員の首だけが出る小さな小屋」があり、やって来る市電のナンバーを見てポイントを切り替えていたのです。「小屋」と言うよりもまるで「一式陸攻のキャノピー」が交差点の真ん中に埋まっている感じ!、久保山へ行くには浜松町でポイントを切り替え左折して藤棚方面へ曲がります。当時でも大変ユニークな施設だったあの「交差点のキャノピー」を覚えている人は何人いるのでしょうか?。

先日、車で浜松町を通過したおりその話を母に話したら「あんた変な事覚えているわね~」と言われてしまいました。
返信する
Unknown (debopacer)
2007-09-02 13:17:59
市電が走っている光景は覚えていますが、乗車した記憶が曖昧なオジサンです(笑)

さて、わずかに残っていた形跡が消えてしまうのは寂しいですね。
移設じゃねぇ・・・
山元町は時々通りますが、コンクリート舗装が最近まで残っていたのは気がつきませんでした。こちらも残してもらいたかったな。
昭和39年の記事を見ていたら、被害者の住所が番地まで出ているし、お客の住所に至っては乗車してない青果商の氏名と年齢まで記載されているんですね。
運転手のコメントの最後に「つぶされたタクシーはもう使いものになりません」も時代を感じました。死ななくて良かったとは言わなかったのかな?
返信する
横浜市電のサイト。 (flingscottomomi)
2007-09-02 15:05:23
こんなのを見つけました、写真が懐かしいです。
http://home.k02.itscom.net/brc/yokohama/map.html
返信する
横浜市電のサイト 2 (flingscottomomi)
2007-09-04 16:42:56
写真がどれも懐かしい、涙が出るくらいです!
http://www.dagashi.org/romen/yokohama1.html
http://park19.wakwak.com/~s-omoide/32ban.htm
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link136.html


返信する
1962の市電、山元町駅 (flingscottomomi)
2007-09-04 18:07:13
横浜市電山元町1962年
返信する
1962年、市電、山元町駅 (flingscottomomi)
2007-09-04 18:12:03
上の書き込みは↑私のミスです、すみません、

1962年の横浜市電山元町駅の写真です。彩雲さんの撮影した道路のカーブも写っています。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link115-hama.html
返信する
Unknown (彩雲4号)
2007-09-12 15:35:45
F先生
いつもコメントありがとうございます。

市電の写真集が出版されていますが車輌だけでなく町並みや広告、車等を細かく見るのも楽しいです。

街は代わっていくんですねぇ・・・
返信する
横浜市電跡探索 (ym5105)
2007-09-15 11:54:20
彩雲さんお久しぶりです。
一緒に行った時の山元町の交差点ですね。

あれから大して時が経過してないのに
ポールが撤去されたのには驚きました。
今でもあの交差点を時々通るのですけど
道路まで再舗装されて市電の名残が消えて
しまったのが残念に思います。

私は数年前、急に取り付かれたように
横浜市電を知りたくなり、研究&探索を
始めた訳ですけど、flingscottomomiさんも
市電への熱い思いがあるようなので
機会あれば一緒に探索してみたいですね。
返信する
Unknown (彩雲4号)
2007-09-15 23:00:42
ymさん
こんばんは。
残された市電遺跡はどれだけあるのでしょうね。

やはり生麦のポールはあのまま残しておいた方が良かったのでは?と考えてしまいます。

また市電保存館に行きたくなりました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ヨコハマ」カテゴリの最新記事