土曜日はお経の会がありました。
ルビが振ってあるので、お経本も読めるようになった龍くん。
しかし今回も善導大師さまのもとまで到達することが叶いませんでした。
コチラは証拠写真 ↓
龍くんの目の前に置いてあるのは、山門の梅の木になっている青梅です。
今年は大きい実を鈴なりに付けています。
今月の法話は若住職でした。
信心と信仰心は全く違うもの。
自分が信じることから始まる信仰心は自力の心。
親が見守り続けてくれていると感じることで、子供の心に安心が生まれる。
その安心が阿弥陀さまからいただく信心であり、他力の心。
というお話でした。
来月は7月13日(土)の午後2時からです。
明日14時より、本堂にてお経の会があります。
どなた様でもご参加いただけますので、どうぞお気軽に起こしくださいませ。
明日の法話は若住職がいたします。
今月は私もお気軽です(笑)
先日、以前お知らせした若手僧侶の布教大会『あみと~く』が開催されました。
行きたかったのですが、神奈川組の仏教婦人会の総会が重なってしまい、泣く泣く留守番となりました。
どなたかお聴聞された方がいらっしゃったら、どうぞお話をお聞かせくださいませ。
さて、またまたご紹介させていただきたいものがあります。
東日本大震災の被災地で、言葉にならない声を受け止め続けている僧侶の活動をまとめた本です。
このお坊さんに、ご家族を亡くされた方がこんな言葉をかけられたそうです。
「幽霊でもいいから会いたい」
そう聞くと、つい幽霊の存在論にとらわれてしまう私がいます。
しかし、その言葉に込められているのは、ただただ家族に会いたいという悲痛なほどの純粋な願いしかありません。
震災から何年、何ヶ月が経ったと、節目の11日になるたびに耳にし意識します。
それはつまり、節目にしか震災を思い出さないということでもあるのでしょう。
読めば読むほど、私の今の生活との明確な温度差を感じます。
そんな自分本位な痛みを伴いながらも、本の中から感じる僧侶と話し手の心の共振が、私の凝り固まった心を和らげてくれたように感じました。
詳しくはこちらのページをご覧ください。
http://www.dobunkan.co.jp/pub/search/002378.html
もう6月ですね。
あっという間に1年の折り返し地点まできてしまいました。
さて先日のことですが、季語を調べる機会があり、「青嵐」という言葉が目に止まりました。
「せいらん」と読み、意味は「青葉を吹き渡る強い風」。
5月の季語になります。
「青い嵐」と書くので、字面から「青春」というか「若気のいたり」というか、なんとなく青臭い意味を想像してしまった私。
けれど、とっても春らしい清々しい意味だったので、自分のほんの少し爛れた想像が急に恥ずかしくなってしまいました。
浄明会館の2階からの眺めです。
最乗寺の境内の中で、イチョウの全貌を見るのに一番適した場所になります。
今日は風が強く、でも木々を通り抜けた清々しい風が心地の良い一日でした。
会館に吹き込む風に、きっと「青嵐」とはこういうことをいうのかなと、6月になって体感しました。
言葉とは便利なもので、実際には知らないことも、意味や説明された内容を想像することで擬似的な体験をし、あたかも経験したかのように頭の中で整理されていってしまうことがあります。
「なんとなく分かる」という想像から出発して、「こういうことでしょ」という断定に到着する。
青嵐も「なんとなく分かる」いった感覚で、実際に人前で使ってしまった言葉です。
たぶん、言った瞬間は「こういうことでしょ」と、さも体感したかのような気持ちだったはず。
でも、今日の風に吹かれて、言葉で分かることと、身体で分かることとの違いが、気持ちがいいくらいストンと腑に落ちました。
その気づきは、きっと当たり前のこと。
けれども、当たり前すぎるから、立ち止まれないこともある。
だからこそ、立ち止まらせていただいた今日のご縁に感謝です。