以前、空気を読むことについて書きましたが、どこかの雑誌で(出典が思い出せません・・・ヽ(;´Д`)ノ)、こんな話を読んでふと思い出しました。
松尾芭蕉の「古池」に飛び込んだ蛙は1匹か?100匹か?
自然な日本語は単数形と複数形をほとんど区別されません。だから正岡子規やドナルド=キーンは「a frog」と単数形に、ラフカディオ=ハーン(小泉八雲)は「frogs」と複数形に訳したそうです。
古池の水面に一匹の蛙が飛び込み水音が静かに聞こえるのと、たくさんの蛙が次々と水中に飛び込んでいき、その音が次々と響き渡るのとでは、全く違う光景なのに。
蛙が何匹であるのか、その水音はどんな響きなのか。それは読者の心が決めます。その自由度が、曖昧であると同時にとても味わい深い。それがこんな有名で昔から知っていた詩にまだ隠れていました。いや、気付くことができた、と言うべきでしょうね。
日常言語にたゆたう曖昧で、かつ趣き深い空気。目を凝らせば、すぐそこにあります。
古池や 蛙飛び込む 水の音
松尾芭蕉の「古池」に飛び込んだ蛙は1匹か?100匹か?
自然な日本語は単数形と複数形をほとんど区別されません。だから正岡子規やドナルド=キーンは「a frog」と単数形に、ラフカディオ=ハーン(小泉八雲)は「frogs」と複数形に訳したそうです。
古池の水面に一匹の蛙が飛び込み水音が静かに聞こえるのと、たくさんの蛙が次々と水中に飛び込んでいき、その音が次々と響き渡るのとでは、全く違う光景なのに。
蛙が何匹であるのか、その水音はどんな響きなのか。それは読者の心が決めます。その自由度が、曖昧であると同時にとても味わい深い。それがこんな有名で昔から知っていた詩にまだ隠れていました。いや、気付くことができた、と言うべきでしょうね。
日常言語にたゆたう曖昧で、かつ趣き深い空気。目を凝らせば、すぐそこにあります。
古池や 蛙飛び込む 水の音
なんで「静かに」なのかというと…
「古」池や
となっているからでしょうか?
わかりません。
結局フィーリングだと思います。
曖昧であることをそのまま楽しむ暖かい視線と、
曖昧なものに論理の光を投げかける冷静な視線の、
両方でもって味わってみたかったんです。