そして時の最果てへ・・・

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撤退命令の無視

2008-10-26 21:25:38 | 歴史
前回の続きです。

もう一度柴田勢の攻撃プランをおさらいしておきますと、佐久間盛政が防備の弱い羽柴方第二陣に奇襲をかけ、敵の体制が崩れたところで柴田勝家本隊が守りの堅い第一陣を撃破する。ただし奇襲攻撃がはかばかしく進捗しない場合はあっさり撤退してガードを固める。そんなところです。

4月28日の午前2時ごろ、佐久間盛政は柴田勢の約半数を従えて進軍。余呉湖と琵琶湖の中間地点にある賤ヶ岳へと向かい、羽柴勢に奇襲をかけました。

大岩山砦を守備していた中川清秀は味方に敵襲を知らせ大いに奮戦しましたが、退却の潮時を見失って討ち死に。同時期に攻撃を受けた高山右近や桑山重治はさっさと退却しており、元々完成度の低い羽柴勢第二線陣地に拘るつもりはなかったようです。逃げ遅れた中川隊は不運ですね。

しかし中川隊の奮戦によって大岩山砦が陥落したのは午前10時頃まで遅れ、柴田勢にとって貴重な時間を奪う結果となりました。日のあるうちに柴田勢本隊が、磐石の羽柴勢第一線陣地を突破することは困難であり、勝家にとってもはや成功とは呼べなくなってしまったのです。

勝家は盛政に即時撤退を命令します。しかし盛政も当初の予定通り勝家本隊による攻撃を要請します。羽柴方の砦が動揺する様を見て取った盛政は、勝家が第一線陣地を粉砕することで羽柴勢が連鎖的に崩壊していくと考えたのでしょう。

結局、勝家は動かず、盛政も命令を無視して踏みとどまってしまいました。盛政を見殺しにできない以上、盛政が戻らない限り柴田勢は現在の位置を維持するしかありません。柴田勢は防御陣地から出た地点で待機するという、どっちつかずの最悪な行動をとってしまいました。