神戸スポーツボクシングクラブ【KSBC】リュウ会長のリュウ流ブログ

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「願い」、「想えば」必ず通ずる

2011-04-22 06:26:31 | 神戸スポーツボクシングクラブ

自分自身、信じてもらえるのかどうかは本当のところ、わからないけれど、

阪神淡路大震災の時、トータルで3日間~1週間位、地震から3日間前の期間だろうか、

気力も一番充実している時に自分自身、今までの人生で、後から振り返ってみても、おそらく「正体不明」の風邪?なのか病?という類のものに襲われた。

そしてさらに、震災が起こるそのほんの一瞬前、刹那の瞬間に、思いっきり眼が醒めた。

そしてなんでだろう?と思ってそのすぐ後にドーンという縦揺れの衝撃と共に、左右、横方向に思いっきり揺らされた。

地震とは思ってなくて、それ位の本当に「思いっきり」という感覚であった。

感覚的には、十二階建てのビルのちょうど中間位になり、ちょうど「支点」になるので大丈夫かな?と思っていてても予想を絶する揺れであった。

途中、「大丈夫かな」、から「大丈夫であって欲しい」、「大丈夫で居ていてくれ」などと、「安心「から「願い」、「希望」へと変わっていった時間があった。

約30秒から1分近くの揺れに感じた。

これが時間の流れであり、「本能」での流れでもある。

そして、今の自分の考え方にも、考えてみればまったく同じような「考え方の流れ」である。

例えば「人」と接する時には、誰それ構わず直感的にこの人は「大丈夫だろう」と最初直感的に思う。

そしてそこから時間の流れを経て、「大丈夫かな?」になり

「大丈夫であって欲しい。」

から「大丈夫で居てくれ」と本能で希望に変わっていく。

そして結果として「大丈夫でよかった」なのか「駄目だったか」に振り替えられる。

なので「大丈夫でよかった」の場合はものすごく、自分の心の中での「感動」があり、

「駄目だったか」の場合は、ものすごく、「悲しく」、「いたたまれなく」、「絶望感」に襲われる。

しかし、その後どうすればいいのかと深いところで考えると、相手を攻め立てて、その部分を「埋め合わせる」のでは決してなく、「自分の中に事実を一旦受け入れて呑みこむ」「我慢する」「耐える」もの、もっと深く言えば、「自分さえ死ななければいい」

「相手が助かればいい」

「人間としてそういう役割なんだ」

といった「感覚」で、人間の一番最も近い「本能」の部分で考えている。


自分はあの大震災によって「夢」を奪われた。

それから長い年月もの間、ずっと、ずっとそう思っていた。

もし、仮に、「運命」というものがあれば、「何か」を正直「恨んでいた」部分もあった。

子供の頃はそんな考えだった。

けど、周りからはもう「大人」と言われる年代にようやくなり、深く、深く考えると、それは間違っている事に「気付いた」

全て震災が悪いんだという自分自身への「言い訳」だった。

そして、それを本当の意味で気付かせてくれたのは僕の「父」そのものである。

そして、深く、深く、考えたらまた「母」でもあった。

雨の日も、台風の日もジムに向かい、風邪で学校を休んで回復したと思えばジムに向かっていた。

台風なので閉まっていて諦めて帰った時もあったな。

震災の後、何度もジムを訪れた。

たしか数えていたけど9回くらいかな。

そんな子供の頃だった。

けど思いは違う形で受け継がれるんやね、「願い」続ければ、「想い」続ければ必ず叶う。


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