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三ケ根山の殉国七士廟

2008-06-16 20:31:56 | 殉国七士廟
 先週の土曜日(6月14日)、三ケ根山にある殉国七士廟にお参りしてきた。

 *殉国七士とは、大東亜戦争戦争後の東京裁判において、連合国側から「A級戦犯」と決めつけられて処刑された7人の国家指導者たちのことである。

 昭和23年12月23日未明、東京裁判により、「A級戦犯」とされた七人の絞首刑が巣鴨拘置所において実行された。(この日はいうまでもなく当時の皇太子、今上天皇のお誕生日であるが、これは連合軍の嫌がらせという説もあるが、しかしかえってこのことで、この日にちは日本国民の記憶にはっきりと残るであろう。)

 七人の遺骸は、横浜市久保山火葬場において荼毘にふされ、東京裁判で被告の弁護人を務めた三文字正平弁護士、火葬場に隣接する、興禅寺住職市川伊雄師は、米軍の厳重な監視の中、七人の遺骨の一部の奪還に成功した。
 その後、この遺骨は、熱海の松井(岩根)家に移され、昭和24年5月3日、同市内伊豆山の興亜観音に密かに祀られた後、昭和35年8月16日、遺族の同意のもとに財界、その他各方面の有志の賛同を得て、松井石根大将の郷里である、三河湾国定公園三ケ根山頂に建立された墓碑に分骨され、安置されることとなったという。

 当日は東條大将のお孫さんである東條由布子さん。『日本人の知ってはならない歴史』の著者である若狭和朋先生。日本会議西三河支部幹事長の杉田謙一さん、三ケ根山の休憩施設「ゆうとぴあ三ケ根」にて殉国七士廟のお世話や無料案内を行っている伊藤 弘さん、フリーチベットイン名古屋代表の林英樹君らと「かんぽの宿三ケ根」にて食事会を行った。

 ところで東條英機元首相の名前を私が始めて知ったのは、中学生の頃、歌番組の『ザ・ベストテン』に歌手の西城秀樹が出演したおり、司会の黒柳徹子が「東條英機」の名を引き合いに出して、(東條さんは)「戦争を始めた悪い人」と紹介した時である。
 学校での日本史の授業においても東條さんの評価は似たようなもので、私が尊敬する司馬遼太郎さんでさえも東條元首相について、以下のように酷評している。

 たとえば東条英機という人は、ふつうのつまらない人であります。せいぜい町内会長が務まる程度の人でして、いまここにもし東条が生きていて、「東条さん、あなたはむちゃをやりましたね。どうゆう了見ですか」と言っても何の答えも出てきそうにない人ですね。
(『昭和という国家』より引用)

 日米開戦時の最高指導者であった東條英機元首相にたいする戦後の評価はおおむねこのような芳しくないどころか、戦争を始めた極悪人の印象が強いのではないだろうか。
 東條さんや家族のかたがたが、戦後いっさいこのことにたいして、弁明をしなかったし、戦争でひどい目に会った人々(司馬さんも含むであろう)からの怨念が東條元首相一身に向けられてしまったので、それも無理のないことであろうとは思う。
 しかし戦後教育のマインドコントロールが解けはじめた私にとって、佐藤早苗氏の東條家に関する著作や、東条由布子さんの著作を読む限り、東條元首相は、家族にたいして非常に情愛の強いかたであったことがあきらかになった。

 このようなかたが「極悪人」とは私にはとうてい思えないのである。

 東條大将の妻、勝子さんは、首相夫人に似合わないくらい素朴で気配りのあるかたであったと佐藤さんの著作には描かれていたが、お孫さんの由布子さんも、私どものようなものにお茶を入れてくださったり、丁寧な言葉をかけてくださったり、さまざまな心配りを頂いた。

 このような人々にいまなお慕われている東條大将ははたして「極悪人」であったのであろうか?「旧日本軍=悪」の図式から脱却するとともに東條大将はじめ七人の殉国者たちの再評価も行われてしかるべきであると強く感じるのである。

 ところで殉国七士廟に参拝して私が三つ決意したことをここに記す。

一、毎月、23日の殉国七士の月命日にはかならず三ケ根山に参拝する。

二、もはや高齢になられて、このままでは貴重な体験をあの世に持っていかれてしまうであろう戦争体験のあるお年寄りにはできるだけお会いして、お話を聴き、記録を後世に伝える。

三、今月の28日から岐阜市内において行われる、若狭和朋先生の勉強会に参加して戦後教育における歴史観から脱却するとともに、日本人としての誇りを回復するための歴史を新たに学ぶ。

 また、これまで私は「右翼」「左翼」という言葉がどうにもしっくり感じなかった。

 で、これからはいわゆる日本国の伝統文化を尊重し、また同様に外国の人々の愛国心をも理解に努めつつ、中共等による内政干渉を払拭し、憲法を改正して米国の軍事的束縛から脱却し、日本国民としての誇りを回復しようとする立場を「憂国派」、戦前の日本軍国主義を悪とし、米国におしつけられた東京裁判史観と憲法九条の堅持をよしとし、中共等におもねる立場を「自虐派」と呼称しようとおもう。


*殉国七士(職名は終戦時のもの)

東條英機元首相、陸軍大将。

松井石根中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、陸軍大将
(上海事変、および南京事変時の総司令官)

土肥原賢二第12方面軍(国内)兼東部軍管区司令官、第1総軍(国内)司令官、陸軍大将
(北京語に堪能で、華北分離工作を推進し、満州国建国に携わる)

広田弘毅元首相
(外交官、外務大臣として「共和外交」を推進。二・二六事件後首相に就任し、軍部大臣現役武官制を復活させた。支那事変勃発時の近衛内閣の外相であり、このことで文官として唯一の死刑判決を受けた)

板垣征四郎第七方面軍(シンガポール)総司令官、陸軍大将
(満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣等を務めた。石原莞爾らと謀り、「満州事変」を実行した。「頭に祭り上げられる型の軍人」と評する声もある。

木村兵太郎ビルマ方面軍司令官、陸軍大臣
(東条内閣における、東条陸軍大臣のもとで次官を務めた。ビルマ戦線において、隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席や日本大使館員や民間人を置き捨ててラングーンを航空機で脱出し、敵前逃亡したことで有名。)

武藤 章第14方面軍(フィリピン)参謀長、陸軍中将
(盧溝橋事件において、参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、中支那方面軍参謀副長として赴任した。陸軍省軍務局長として対米開戦を推進し、近衛第2師団長、第14方面軍参謀長を歴任し、参謀軍人として著名な司令官のもとで軍務に尽くした。)

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