黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋03

2016-05-16 00:10:46 | ・貧民窟
かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。

明治の中期には、貧民窟の実情を伝える小説やルポがたくさん発表されました。
1895年(明治28年)に出版された泉鏡花の『貧民倶楽部』は、
貧民を束ねる女乞食の丹が、華族の女たちを懲らしめてゆくストーリーで、
当時の様子が克明に記されています。
「鮫ヶ橋界隈の裏長屋は、人を入れる家というよりは棺桶のようだ。
土間、天井、襖、障子すべて無く、隣とは壁一枚で、
道路とも扉一枚で分つ。三畳ないし五、六畳の一室のみ。」

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図下辺中央の、出羽坂付近を歩きました。
今回は、若葉地区をさらに北上し、
貧民窟の中心部を見ていきます。


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若葉地区を蛇行しながら縦断する道沿からは、
幾筋もの細い道が分岐しています。(概略地図:9)
道幅の狭さは当時から受け継がれたものでしょうが、
周囲に建ち並ぶ建物は、木造が多いながらも小綺麗で、
かつての貧民窟を連想させるものはなにもありません。






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やがて商店が軒を連ねる三叉路へでます。(概略地図:10)
江戸時代の地図を見ると、すでに同じ場所に三叉路があったようで、
どうやら道筋に関しては、江戸の頃よりそれほど変わっていないようです。
広場を兼ねた三叉路の造りを見ると、
その昔から寄り合いの場所として機能してきたのかもしれません。






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さらに北へ進むと、こじんまりとした商店街があります。(概略地図:11)
名称を掲げたアーチも、電柱から吊るされた表示板も無く、
見渡した限りでは、名前の無い商店街です。
眠そうな商店街ですが、
新宿に拠点を持つ丸正スーパーや個人商店など、
意外と、ほとんどの店が営業をしています。
※当初「名前の無い商店街」と書きましたが、
調べてみると「若葉二丁目商店会」という名前がありました。
商店街の方、失礼しました。
ただし、目立たないことは事実です。






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中には、こんな細長い仕舞屋があったり。
また昭和な商店にまぎれて包丁研ぎの店などがあるのを見ると、
江戸時代、多くの職人が住んでいた場所だったことを思い出します。






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商店街の東には鉄砲坂があります。(概略地図:12)
江戸時代、この界隈には、
将軍護衛の鉄砲隊である「御持組(おもちぐみ)」の屋敷が集住し、
鉄砲の練習場もあったことからそう呼ばれるようになった坂です。
こちらの坂も、急坂で、距離も長めです。






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また商店街の西には戒行寺坂があります。(概略地図:13)
坂の上にある戒行寺に因む坂は、別名「油揚坂」とも呼ばれ、
かつて坂の中腹にあった、良質な豆腐屋に由来していたそうです。

続く


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