もともと何か強烈だったり特殊だったりしたものがあった土地は、
現在その姿を変えていても、土地が<発する感じ>
みたいなものが違う気がします。
東京の新宿の北西地区再開発に関しては以前の記事でアップしましたが、
その更に北部地域にあたる戸山地区は、
かつて<戸山ヶ原>と呼ばれた大規模な陸軍の施設があった場所です。
高田馬場や新宿には幼少の頃から縁があって、
なにかにつけてよく出かけた地域ですが、
陸軍の施設跡という事を知らない頃の記憶をたぐり寄せてみると、
なにか他とは違う地域という印象があって、
そこを通るたびに僅かながら特別な感情が涌いていたのを思い出します。
画像はそんな戸山地域にある、
時々このblogに書き込みを頂くzeroさんから教えて頂いた、
都立豊多摩病院跡です。
▼
元来伝染病を扱う隔離病院だったそうですが、
戦時中は思想犯や政治犯の収容所に使われたこともあるとか。
戦後、昭和46年(1971)に高等看護学校になるものの、
昭和63年(1988)に廃校、
その後新宿区の施設として転用されるも、
現在は既に使用されていないそうです。
(すべてzeroさんから教えていただきました)
zeroさんの言葉を借りると、
廃墟というよりはただの<放置物件>。
周囲の塀の随所にセキュリティーシステムがあるのが、
綺麗に保ってる原因かと思いますが、
それにしても綺麗な廃墟です。
唯一自転車置き場の屋根がめくれて、
下に落ち葉が溜まっているのが、
時間の経過を感じさせてくれるくらいです。
▼
裏手には講堂のような建物もありますが、
これもよくよく見ると使われていない様子ですが、
外からはまったくそうは見えません。
全体的に人の気配を感じるので、
まだ何らかの目的で時々使用しているのかとも思います。
■追記■ 13.MAR.2006
明治42年(1909)の日本帝國陸地測量部の地図をみると、
この場所に既に<郡病院>と記載されているので、
かなり古くから病院の敷地として使われていたことがわかります。
ちなみに豊多摩病院になったのがいつかは解りませんが、
大正14年(1925)にはまだ<郡病院>の表記、
そして昭和12年(1937)には<豊多摩病院>の表記になっているので、
この間だと思います。
またこの地域は
明治、大正の地図にはそれぞれ大久保村、大久保町と表記され、
<戸山ヶ原>の文字が出てくるのも病院と同じく、
昭和12年の地図になってからのことです。
■追記■ 18.NOV.2007
この記事のコメント欄の9番目、11番目に、
豊多摩病院時代にご入院の経験をお持ちのねこちゃんさんから、
当時の院内の詳細な様子のお話を頂きました。
隔離病院ならではの重厚なルックスと暗い印象の院内とは裏腹な、
とても開放的で明るい雰囲気だった院内のお話は、
豊多摩病院の知られざる真実ですので、
ぜひご覧になってください。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
> NEXT
現在その姿を変えていても、土地が<発する感じ>
みたいなものが違う気がします。
東京の新宿の北西地区再開発に関しては以前の記事でアップしましたが、
その更に北部地域にあたる戸山地区は、
かつて<戸山ヶ原>と呼ばれた大規模な陸軍の施設があった場所です。
高田馬場や新宿には幼少の頃から縁があって、
なにかにつけてよく出かけた地域ですが、
陸軍の施設跡という事を知らない頃の記憶をたぐり寄せてみると、
なにか他とは違う地域という印象があって、
そこを通るたびに僅かながら特別な感情が涌いていたのを思い出します。
画像はそんな戸山地域にある、
時々このblogに書き込みを頂くzeroさんから教えて頂いた、
都立豊多摩病院跡です。
▼
元来伝染病を扱う隔離病院だったそうですが、
戦時中は思想犯や政治犯の収容所に使われたこともあるとか。
戦後、昭和46年(1971)に高等看護学校になるものの、
昭和63年(1988)に廃校、
その後新宿区の施設として転用されるも、
現在は既に使用されていないそうです。
(すべてzeroさんから教えていただきました)
zeroさんの言葉を借りると、
廃墟というよりはただの<放置物件>。
周囲の塀の随所にセキュリティーシステムがあるのが、
綺麗に保ってる原因かと思いますが、
それにしても綺麗な廃墟です。
唯一自転車置き場の屋根がめくれて、
下に落ち葉が溜まっているのが、
時間の経過を感じさせてくれるくらいです。
▼
裏手には講堂のような建物もありますが、
これもよくよく見ると使われていない様子ですが、
外からはまったくそうは見えません。
全体的に人の気配を感じるので、
まだ何らかの目的で時々使用しているのかとも思います。
■追記■ 13.MAR.2006
明治42年(1909)の日本帝國陸地測量部の地図をみると、
この場所に既に<郡病院>と記載されているので、
かなり古くから病院の敷地として使われていたことがわかります。
ちなみに豊多摩病院になったのがいつかは解りませんが、
大正14年(1925)にはまだ<郡病院>の表記、
そして昭和12年(1937)には<豊多摩病院>の表記になっているので、
この間だと思います。
またこの地域は
明治、大正の地図にはそれぞれ大久保村、大久保町と表記され、
<戸山ヶ原>の文字が出てくるのも病院と同じく、
昭和12年の地図になってからのことです。
■追記■ 18.NOV.2007
この記事のコメント欄の9番目、11番目に、
豊多摩病院時代にご入院の経験をお持ちのねこちゃんさんから、
当時の院内の詳細な様子のお話を頂きました。
隔離病院ならではの重厚なルックスと暗い印象の院内とは裏腹な、
とても開放的で明るい雰囲気だった院内のお話は、
豊多摩病院の知られざる真実ですので、
ぜひご覧になってください。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
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豊多摩病院は、戦前からあるのは昔の地図でも確認できましたが、
地図上で見るかぎり、現在とは建物の形が違うようですね。
参考までに昭和46年(1971)に都立新宿高等看護学院となり、
昭和63年(1988)に看護学校閉校ですので、平成になってから
ずっとこの状態のようです。
昭和46年 看護学校開校時の校舎と考えると、この新しさは
納得出来る気も・・・。
詳しい年代をありがとうございます。
記事を少し修正させて頂きました。
そうですね、建物の外観からいって戦前の建物ではありませんね。
でも昭和63年(1988)年からの「放置」だとすれば、
もう18年!
やっぱり綺麗過ぎる気がしますが・・・
もっと前にアップしようと思いながら、
ついついのびのびになってしまいましたが、
ちょうど戸山ヶ原の話題に相応しい日が近づいているので、
この機会にアップしようと思いました。
特に縁日で買い物をするとチブスやセキリになるというお話は、
私も両親から言われた記憶があるので、懐かしいです。
今思うと、そんなに不衛生だったのかと思います(笑
あれだけのしっかりした建物なので、ホームレスにとってはありがたい話しだったんではないかと思いますが、
それでも逃げ出したということは、やはり・・・ですかね(汗
この場所は知ってはいましたが、
地元出身ではないので、病院にまつわる裏話は全然知りませんでした。
でもそこまで強烈な伝承があるというのには、
過去の歴史のどこかに、なにか原因になる事件がきっとあるんではないかと思いました。
昼、外から見る分には、全然そんな感じはしないんですけどね。
いろいろいわくがありそうなので、
確かに解体した方がいい建物なのかもしれませんね。
しかし、建替後がまた収容所!?
この土地は永久に「収容」という呪縛からのがれられないのですね、きっと(^^;
現在の建物は、お調べになった通り看護婦学校として新築されたものです。
元々の豊玉病院は、総合病院クラスの大きさだったと記憶しています。私も亀吉さんと同じく、伝染病病院に恐怖していた一人です。
昭和40年代初頭には閉院しており、その迫力ある廃墟はお化け屋敷そのものでした。当時は、出入り自由だったので、勇気ある悪ガキが探検に行って、自慢話をしていました。私もいつか行こうと思っている内に取り壊されてしまいました。廃墟として立っていたのは、2~3年だったと思います。
取り壊された跡地は、本当に広大な赤土の地面でした。そして、1年間程更地で放置された後に看護学校の建設が始まりました。建物に傾斜があって、当時としては、モダンな、伝染病の記憶を払拭するかの様な建物でした。
その建物も現在廃墟と聞くと、時の流れを感じます。
そうそう、この辺は昔、”豊玉郡戸塚村”と呼ばれていました。現在も豊玉陸橋にその名残があります。
いろいろと詳しいお話をありがとうございます。
亀吉さんもそうですが、
この病院について語る様子をうかがう限り、
相当きてた病院だったんだと感じます。
看護学校も閉校、ホームレスの施設も閉鎖と、
なにをやっても終わってしまう地場になってしまっているのかもしれませんね。
そういえば亀吉さんの書き込みだと、
もう解体されている頃ですが、どうなんでしょうか。
豊玉や豊多摩の表記は、
練馬の豊玉や、杉並の豊多摩高校など。
西東京のいろいろな所に残っていますね。
それだけ影響力のある土地の名前だったのかと思います。
私、現在52歳です。
6歳の時に「しょう紅熱」で1ヶ月入院しました。
レンガ作りで、食堂の食器にグリーンの文字で「豊多摩病院」と焼きこんでありました。
売店では母に永谷園の「磯の吹き寄せ」というふりかけと明治のミルクチョコレートを買ってもらいました。
面会の両親がガラスの2重扉の中の水槽で足を消毒して、白衣を着てやって来たのを覚えています。
洗濯室の白衣には「腸チフス・パラチフス」と大きく書き込んであるものもありました。
病院内は、小児科入院患者が自由に歩きまわれるほど自由でしたし、看護師も先生も優しかったですよ。
ただ、建物自体は・・・そうですねー贅沢にレンガを使用した要塞のような造りでお金がかかっていそうでした。
建物の外見の恐ろしさと中の人々の優しさとのギャップは今でも鮮明に記憶しています。
豊多摩病院の内実のお話を、ありがとうございます。
実は院内はとても自由で、優しい雰囲気の病院だったんですね。
おそらく職員の方々の耳にも「お化け屋敷伝説」は入っていたんではないかと思います。
なので、自然と優しく対応するようになったのかもしれないと思いました。
国内では昭和30年代の後半から40年代の前半にかけて、
いわゆる法定伝染病が激減しているので、
昭和40年代前半に豊多摩病院が閉鎖されるたのも、
特殊な問題によるものではなく、
単に需要が減ったためか、
あるいは建物の老朽化によるものだたんではないかと思いました。
コメントを沢山頂くので、改めて少し調べてみました。
田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』に、
鶴彬という反戦川柳作家の話が登場します。
治安維持法違反で検挙された氏は、拷問と長い拘留で赤痢にかかり、
隔離病院の豊多摩病院へ移送。
1938年9月14日午後3時40分、ベッドに手錠をくくりつけられたまま絶命。29歳。
という話がでているそうです。
また、
昭和23年に豊多摩病院に勤務していた警察官、辻川喜之助氏の
『檻の中の女たち』には、豊多摩病院に収容された、
遊郭の女達の話が綴られているそうです。
病院のはずなのに、警察官が勤務しているのも不思議ですし、
檻の中という表現も、病院とは離れた印象を持たされます。
いずれも戦前や戦後すぐの話ですが、
恐らくこれらの著述から、豊多摩病院の「都市伝説」が出来上がっていたんではないかと思います。
戦後お仕事をされていた優しかった医師や職員の方々は、
さぞつらい想いをしたんではないかとおもいました。