蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

大大阪  (bon)

2017-04-06 | 日々雑感、散策、旅行

 昔の話です。 かって大阪市が日本一の人口であった時代、大大阪(だいおおさか)と
呼ばれていたそうです。

 大阪は、天領として非常な繁栄を見せており、18世紀後半ころには、そのピークとも
いえる状況となり、当時の首都(現在の京都市)を人口で上回っていました。その後も人口
増が続き、19世紀後半には、大阪への遷都の話も出たそうですが、これは東京に決まり幻
に終わったそうです。

 幕末、明治維新に大阪は没落しますが、明治3年に大阪砲兵工廠、大阪造幣局ができて
新しい産業が起り、復興の道を歩み、その後には綿紡績業も集積し、大正11年には、大阪
は貨物トン数全国一位の地位を確保するまでに発展するのです。 人口も明治初め28万人
だったのが、22年には47万人となり、元禄時代の42万人を越えます。そして、大正
12年(1923年)の関東大震災で被災した人達が、大阪、横浜、名古屋、神戸に移住し、
大阪市は急激な人口増となり、さらに、大正14年(1925年)の市域拡張(西成郡、東成郡
すべて編入)により、人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となったのです。

        日本の都市人口推移(現在上位10都市)
       
           (ウイキペディアの統計数字から抜粋してグラフ化しました。)
 

 日本最大の都市であったのみならず、世界主要都市の6番目だったといいます。 
この頃(大正前期ころまで)、大阪府立中の島図書館、大阪中央公会堂などの建造、大正
後期から昭和初期にかけて、大坂城天守の再建、御堂筋、大阪市営地下鉄御堂筋線など画期
的な建設があったそうです。

        大阪中の島図書館中央ドーム
            (中の島図書館HPより)
 

 ところが、大阪市の転機は1930年代前半に早くも訪れ、1932年(昭和7年)、東京市は市域
拡張により、人口 497万人の いわゆる大東京市が誕生するのです。そして、第一次世界大戦
後の恐慌や昭和恐慌で、繊維や金属産業が大打撃を受け衰退し、戦時下の統制経済等の政策
により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行くのです。
 それでも大阪は、当時は東京に次ぐ日本第2の都市
であり、西日本の中心都市としての繁栄は
なお続いて行くのですが・・。

  1960年代後半より、東京一極集中が始まり大阪の衰退は急速に進み、高度経済成長期の終
焉から安定成長期以降それが決定的となり、1978年(昭和53年)の大阪市の人口は横浜市に
抜かれ、本格的な東京一極集中時代となるのです。 この間、1970年には日本万国博覧会が
開催されたが、大きな流れは変えられなかったのです。

  考えてみれば、政府、およびそれらの外郭機関が殆ど集まっている首都圏での活動は、それ
ぞれに情報発信源であり、企業等からの参画は情報収集の上からも優位であると想像されます。
この優位性は、単に地理的に近いというのではなく、自らの問題意識から情報を抽出する、
あるいは気付く機会が得られることにあると思われます。

 ICTは、距離と時間を超越した優れた情報伝達手段を提供しますが、伝達すべき情報そ
のものの抽出(認識)は、受信者とは別人であり、受信者の問題意識にフィットした情報の
意味が必ずしも伝達されるとは限らないのです。このことは、とりもなおさず、国の主導的
会合、問題解決会合に同席するなどの行動に直結するため、ますます集結する傾向が強めら
れるのではないでしょうか?

 今日のように、極度に首都圏一極集中が形成されると、その求心力は、ますます強められ
てくるのでしょう。情報発信活動を、政策的に分散されない限り、この傾向は続くと思います。

 上のグラフから、地理的にやや隔たりのある北海道において、道内の一極集中が札幌市に
おいて顕著にみられるようです。都市機能の一層の充実とともに、生活基盤、教育・文化・
娯楽等の充実が図られ、企業人のみならずその家族等の移住が促進され巨大集中都市が形成
されるのかもしれません。

 一つの事象として、大学などの存在もその要因を形成するのかもしれません。大学は、学
生の集合だけでなく、教養・文化活動の基盤を形成し、印刷・出版等の周辺活動が活発化す
ると考えられます。 明治9年(1886年)帝国大学令により設立された大学も、明治10年
(1887年)の東京帝国大学をはじめとして、1897年に京都帝国大学、1907年の東北帝国大学、
続いて九州、北海道と来て、大阪帝国大学は6番目、最後はその 8年後の名古屋帝国大学と
なっています。 歴代の首相、幹部の考え方もありますが、日本列島を俯瞰した時に、東京、
京都があり、次に東北、九州、北海道という流れを見ることが出来ますが、京都に近い大阪
は やはりその設置順位は後位となっているのでしょう。

 「都市とアートの物語―大大坂誕生と奮起する画家たち」(橋爪節也氏、大阪大学総合学術
博物館教授)によれば、画家、美術の観点から、この大大阪について次のように述べられてい
ます。 当時の都市問題研究誌から『大大阪は、日本最大都市であることは事実であるが、
未だ“われわれは大大阪市民なり”として世界に誇るだけの文化都市でもなければ経済都市
でもない』、『初の公立館を東京、京都と競った美術館開館も、震災と恐慌のため当初の大正
13年から昭和11年にずれ込む。全館を学芸員による常設企画館建設計画も平成4年まで実現し
なかった。工芸学校もバウハウスの教育を日本で最初に取り入れながら今も高等学校に留まリ、
芸術大学として実現していない。』

 また、当時の画家の言を引用して、『学術、文化、芸術などの仕事をするには、大阪はあ
まりに周囲がのんき過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようであり、気の利いた芸術志望者は、
多少 大阪よりは憂鬱である東京へ逃げて行く。それで、大阪は常に文芸家、芸術家は不在で
ある。』

 以上は、やや際立った見方かもしれませんが、何となく深遠で哲学的?な底流に根差すこと
が少ないのではと感じるところがあるように思えます。

 

昭和3年のヒット曲

 

 

 

 

 


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