蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

神楽坂研究(2)縄文時代  (bon)

2016-04-11 | 日々雑感、散策、旅行

 好評をいただいています神楽坂研究(1)の第2弾として、このほど、表記タイトルの縄文時代の
神楽坂についての研究成果が届きました。 執筆(並びに水彩画)は、神楽坂住人の“若さん”です。
 縄文といえば、文明、文化のスタート点のような位置づけにあたりますが、蓼科浪漫倶楽部が拠点として
いる長野県茅野市豊平の“畑”の近くには、尖り石縄文遺跡があり、尖り石縄文考古館には、国宝指定の
「縄文のヴィーナス」、「仮面の女神」の土偶が展示されています。 畑仕事の後は、近くの
“縄文の湯”(温泉)にお世話になっています。  また、文中に引用されている三内丸山遺跡には、
一昨年の夏に訪問して感動したところに、昨年にはNHKテレビでも取り上げられて詳しい解説がありました
のでよく記憶しています。

 前置きがずいぶんと長くなりましたが、縄文時代と神楽坂の今を結ぶ貴重な歴史ドラマをお楽しみください。
合わせて、この記事のために描かれた筆者自筆の水彩画にもご注目ください。 
それでは・・・

*********** 神楽坂研究(2)縄文時代 ************

 縄文神楽坂にタイムスリップ!

 

 神楽坂研究(1)の中で、「神楽坂下は、縄文時代東京湾の入り江でした」と書きました。それを見た、
札幌のU氏*1 から面白い本を紹介していただき、はまってしまいました。中沢新一著「アースダイバー」*2 です。氷河期が終わり、徐々に温暖化が進み縄文時代前期には、現在より3-5m海面上昇し海が複雑に内陸に入り込んでいました。(縄文海進*3)約6000年前の縄文時代、海水が東京湾奥深く入り込んだ時の地形図に、現代の地図、鉄道地下鉄路線図、古墳、神社、遺跡等をマッピング。思想家、人類学者のとして様々な切り口で都市論、文化批評・建築論・生態学、芸能芸術論を展開、久々に読書してしまいました。U氏の実家は久我山、当時は井之頭公園まで海水が入り込みまさにシーサイドでした。洪積層と沖積層が複雑に構成された“脳のしわ”みたいな武蔵野段丘のマップを眼にしていると、縄文時代の神楽坂のイメージがわいてきました。(笑) しかも私の長屋のある近辺に遺跡、なじみの寺社のマーク、日本人のルーツである縄文人について少し勉強してみたいと思いました。

        


 

 本年3月26日北海道新幹線が新函館北斗まで開通。50年前、北島三郎の“函館の女”を聞きながら津軽海峡を連絡船で渡り、約20時間かけ札幌から上野に到着。文京区小石川伝通院そばに転居。以来神楽坂に移転するまで、文京区に通算20年近く居住。伝通院は徳川家ゆかりの寺、山門から西に安藤坂を神田川、大曲に降りてゆくと、途中左手の丘の上に、源頼朝公ゆかりの牛天神北野神社があります。神社下は“牛天神下”交差点。当時、神社の創建と周辺の故事の説明板に、その辺りは、平安時代(794-1185年前)は海の入り江だったと書いてありました。しかし最近神社のウエブからその説明が消失。関東大震災以降、広範囲なボーリングによる地盤調査等から縄文海進について詳しく地質学的研究が進みました。近年、専門家の方が平安時代には、海岸線はすでに日比谷あたりまで後退していたことを神社に指摘し故事、由来を全面改定。今のキャッチフレーズは”新・天神伝説生まれる!“パワースポットであること強調しています。“平成になっての新・伝説ってなんだ?(笑)
 

世界から注目の縄文時代!

 

 昨年5月13日ロンドン・サザビーズのオークションで古美術蒐集家、井上恒一氏のコレクションの土偶が約2億円で落札され話題になりました。NHKスペシャル、アジアの巨大遺跡「日本・縄文・奇跡の大集落、一万年持続の秘密」*4 シリーズの最後に、20年にわたる三内丸山遺跡の発掘から浮かび上がった世界に例を見ない豊かな縄文時代を特集。戦後やっとスポットライトをあび、国内外での最新の研究、文明評価を織り交ぜ、洗練された狩猟採集民族として、どの文明より長い1万年という世界に例のない持続した社会を築いた縄文文化を興味深い映像で放映した力作です。時代名のもとになった縄文土器は世界の4大文明より古い世界初の土器(約15,000年前)であり画期的発明です。土器の形、文様は“芸術は爆発だ”の岡本太郎を触発。1951年国立博物館で衝撃の出会いの後で、歴史教科書の弥生時代の埴輪より前の古いすぐれた土器として縄文土器を追加させました。出会いから64年、英国で土偶が実に破格の価格で評価されました。縄文人の知恵と美的センス恐るべし!

   
 1953年(S28年)岡本太郎 縄文草創期丸底深鉢型土器  2億円の土偶   中期把手付甕形土器
 

  毎週千葉県茂原にゴルフに行きます。今でも、ゴルフ場周辺やコースでたぬき、イノシシ、野鳥をよく見かけます。池に鴨の群れ。秋にはドングリ。時々、謎の怪鳥*5 も見かけます。(笑)縄文時代は狩猟した鳥獣のBBQも盛んでしたが、肉、魚と山菜の煮込み(ちゃんこ鍋、水炊き)、ドングリやクリなどの木の実を粉にして皿型土器で焼き上げるクレープ(ガレット)やナンやパン等も(お好み焼き)もよく食べていたようです。フランス語でクリはマロン、シャテーニュ*6 と呼び、粉にしてパンに焼きます。(コルシカの伝統食としても有名)クリやドングリを粉にすると長期保存が可能でミネラル・ビタミン・タンパク質豊富なでんぷんになります。クリ渋皮はポリフェノールたっぷり、ドングリはデトックス効果大!神楽坂前の魚貝でちゃんこ鍋、ジビエ(イノシシやシカ)のステーキにガレット等、縄文神楽坂人はビオ(BIO)グルメだったようです。三内丸山では、生食では毒があるニワトコの実が層になって発見され、発酵させ酒の原料にしていました。山葡萄ジュースも発酵すると赤ワインです。フレンチも和食もルーツは同じような食生活だったのかもしれません。牛込・神楽坂は魚貝、山の幸に恵まれ狩猟採集で営みをするのに適した地であったようです。他方、三内丸山では魚(サバ、ブリ)の干物の加工流通が判明。北区飛鳥山の北側崖下(低地砂州)京浜東北線・新幹線線路の下JR田端駅近くまでの北区中里貝塚*7 では貝(カキ、ハマグリ)を大量に干物にした水産加工場跡が発見され、内陸集落と交易していました。しかも海中に棒くいをたて牡蛎を養殖、大きさも10-12cmと大粒でした。干し牡蛎は中国語で蠔豉(ホウシー)という正月の高級縁起料理の食材です。今でも、日本産が最高級品(アワビ、ナマコ、ホタテ、クラゲも)です。


  
 謎のホオジロ冠鶴(茂原)  タヌキ       イノシシ    サバ(頭なしの干物)   牡蛎 


  
縄文神楽坂はシーサイド・パラダイス!

           

 
 東京中心部から北西部は10-15mの富士山、浅間山火山灰の層(関東ローム層*8)の上に台地が構成され地盤として安定。全体は武蔵野台地(段丘)と呼ばれ、山の手といわれる地域はこの標高約30mの台地にあります。東の端の台地は、現在の皇居・江戸城と国会議事堂(図薄緑)があるところです。神楽坂一帯は、少し内陸に入った江戸時代の平川(江戸神田川、江戸川)、小石川が合流する地点の西側牛込台地に位置しており(図の緑)周りはほぼ海に囲まれていました。海と山の幸に恵まれた環境でした。飯田橋から神田川沿いにさかのぼると妙正寺側川と合流するあたりに落合遺跡があります。その妙正寺川で、漁網で漁が確認されています。神楽坂周辺のシーサイドは神楽坂前の魚や貝が豊富に取れたようです。2012年(平成24年)市谷加賀町2丁目のマンション工事現場でなんと縄文人全身骨発見。江戸時代より寺社、侍屋敷、花街、商店街として発展してきたこの地域は掘れば必ず侍屋敷跡がでます。戦後ビル建設も進み、新しく弥生・縄文時代遺跡発掘となるとその下の層にあるだけに新発見は難しくなりました。酸性土壌の台地に運よく条件も重なりこれはニュースでした。


  
新宿区に約60か所の縄文遺構

  
  市谷加賀町縄文人(復元)   落合縄文土器     落合縄文時代石器  竪穴住居(弥生時代復元)

 神田川上流の落合(目白学園周辺*9)に縄文時代中期、約4,500年前の竪穴住居78軒の環状集落が発掘されました。神田川流域で最大です。新宿区には約60ケ所の縄文遺跡が確認されています。一か所に1500年以上も定住し、大規模集落(約780軒)を営んだ三内丸山遺跡よりはるかに小規模。当時の日本列島で人口密度高かった関東、中部、東海地方は、温暖帯広葉樹林と重なります。牛込・神楽坂周辺は海が複雑に入り込んでいる地形から考え、小規模な集落が一定の狩猟採集のテリトリー間を最適間隔で保ち分散定住していたように思われます。わが長屋周辺もその一つでした。当時列島全体の人口は約26万人、全国平均100k㎡に150-300人の定住人口と比較すると、新宿区は、やはり人口密集地域でした。近年のDNA分析によると、日本人のルーツはバイカル湖起源説が有力です。縄文人は、あきらかに長江周辺漢民族とは違うというのが定説になりました。また稲作農耕栽培が始まった弥生時代は、半島系渡来人が中心だったという説も覆されつつあります。

 
  現代の縄文人、カナダ川下り3000kmに挑戦

      
         丸木舟(復元)      縄文丸木舟    カヤックでの冒険

 縄文時代の丸木舟は多くの発掘例があり、漁や移動に用いられかなりの行動範囲を行き来しクジラ、マグロ漁までしていました。先日神楽坂で飲んでいたら隣にカヤックで単独世界中に遠征している、冒険家(縄文人)Yさんにお会いしました。現在計画中のアドベンチャーは6月からカナダ・ユーコン川3000kmをカヤックで単独で下る冒険とのこと。いったんカヤックで下り始めると、縄文時代とは違いイリジウム衛星電話という秘密兵器がありインターネットも使えます。しかし、野営時には銃もなくナイフと素手でコヨーテやグリスビーなどの猛獣と対峙しなければいけないところは縄文時代と同じです。彼の印象は、市谷加賀町縄文人に帽子とサングラスをするとイコールです。勿論、衣類はヒートテックとハイテク装備で固めています(笑)


縄文時代の神楽坂を再現!

  JR飯田橋西口から外堀通りに面する神楽坂を望むと。向かって右側に坂下から外堀通りを行くと軽子坂下交差点次に大久保通りと神田川をまたがる橋の上に目白通りとの飯田橋交差点(変則6差路)に行きます。左に外堀通りを行くと、右手に東京理科大ビル、左手に法政大学を見ながら市谷・四谷・赤坂見附に通じています。

            
                   
 JR飯田橋西口から見た神楽坂風景

  千代田区富士見町の台地から牛込・神楽坂台地方面を眺望してみましょう。(次ページ自筆の水彩画)縄文海進で海面が上昇した外堀通り、飯田橋は完全に海面下です。そして、入江が2つ見えます。坂下を上り、鰻の志満金と花屋の裏手の神楽坂に平行している熱海湯に向かって上る細い坂道は小栗横丁。小料理屋さん、バー、フレンチ、焼き鳥、ちゃんこ屋、鳥茶屋別邸等々があり、近年特に注目の裏通りです。そこは海の入り江1でした。入り江2は大久保通りです。飯田橋から都営新宿線の曙橋あたりまで海が入りこんでいました。植生としては、クリ、コナラなどの温暖帯落葉広葉樹が占めていたようです。三内丸山では住居周辺にクリを植林し栗林として収穫していました。(居住地周辺地層にある時期から急激にクリの花粉が増加で判明)そして、クリの古木は建築資材(竪穴住居、謎の六本柱高層タワー?) として使用していました。東日本大震災の時、震度5弱の揺れ。袋町Rではカウンターの100本中割れた瓶は3本、本多横丁Kは被害ゼロ。神楽坂の台地は地震に強かった!海に囲まれ、温暖帯落葉広葉樹の森におおわれた神楽坂は狩猟採取民にとり定住最適地でした。外堀通り沿いの神楽河岸、神楽坂1丁目、船河原町、市谷田町そして四谷まで、縄文時代前、中、後期遺跡が発見されています。

              
                  縄文神楽坂、鳥瞰図(BC3500-3000年、縄文時代前期、自筆水彩画)


 
 おそらく台地の海側の崖地に湧水もあったのでしょう。縄文神楽坂を囲む東南海辺はシーサイド・パラダイスといって良いエリアだったと思います。後に徐々に海水面が後退(海退)この周辺も汽水域となり牡蛎が豊富に取れた時代もあったようです*10。縄文時代の温度が2-3℃高かったのは、黒潮が列島沿岸部を東進したためです。同時期、日本海側に暖流が流れ込み海水蒸発量増大よる雨、雪を大きく降らせる気候条件ができ日本独特の四季が感じられる気候になりました。春は山菜、木の芽、夏は魚貝、秋はキノコ、木の実(ドングリ、クリ、山葡萄)冬は狩猟がメインでした。実のままか粉にして長期貯蔵できる木の実を大量に採集できたことは、森の破壊を伴う農耕をせず自然と共生、1万年以上持続した驚異の文明にとって重要な成功要因でした。生の魚介だけでなく、干し牡蛎・ハマグリと山菜の縄文ちゃんこ鍋は、濃厚な出汁がでたとてもおいしい鍋だったろうと想像できます。今晩は、海の入り江だった小栗横丁の「琴富士」(みのもんた御用達?)で縄文ルーツの塩ちゃんこで一杯、そして明日は、兵庫横丁仏人経営ブルターニュでガレットかな?(つづく)

 

(脚 注)

 

1.U氏は、リンゴ栽培、園芸ビジネスを日本に根付かせたお雇い外国人ルイスベーマーの研究家。公認会計士。

2.2005年5月初版、中沢新一著。2012年には「大阪ダイバー」も出版した。他著書多数。

3.縄文海進とは、氷河期が終わり徐々に温暖化が進み海面が上昇内陸に海の入り江として入り込んだ時のこと縄文前期(BC3500-3000)頃が海面ピークでその後徐々に下がっていった(海退)

4.NHKスペシャル2015年12月放送。アジアの巨大遺跡の4回シリーズ最後に三内丸山、縄文遺跡を特集。

5.千葉茂原の怪鳥:休園した動物園から逃げた鳥が茂原・長南ICあたりに自生し時々目撃されている。

6.仏語:マロン、殻に一つの大粒の実。シャテーヌ、3つの実が入った小粒の実。

7.北区中里遺跡:飛鳥山東側に台地から伸びた砂州低地で発掘された国史跡。縄文中期から後期にかけて特に大振りのカキ(12cm)、ハマグリ(10cm)層が繰り返し(春はカキ、夏はハマグリの順)地層化し残されている。後に4,700年前の丸木舟も発見された。注目すべきは住居跡ではなく、幅70-100m、深さ4-5m、全長1kmに貝だけが埋められていたので大規模な水産加工場(縄文水産)であることが分かった。

8.粘性質の高い粘土等の含有25-40%の地層をロームと呼ぶ。武蔵野台地に多い関東ローム層は浅間山、富士山の火山灰が堆積した地層。

9.目白学園遺跡:大正12年創立の学園。落合にある学園敷地内にS25年遺跡発発見され、12回にわたり発掘調査されてきた。無料で見学が可能。

10. 江戸時代神田川白鳥橋(大曲)から飯田橋までは白鳥池でした。そこの工事現場で牡蠣殻が発見されました。縄文海退で入り江が移動、川水が海水とまじる汽水域になった時はカキがたくさん取れたようです。

 

 

 





 



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