知る人ぞ知る 全国都市対抗野球(社会人野球)の特別敢闘賞『久慈賞』の久慈
次郎(1898~1939)です。日本にはまだプロ野球などなかった大正6年、岩手県盛岡
中学(旧制)を卒業すると、野球でも名門、早稲田大学に進み、身長180㎝、恵まれ
た体格と強肩を活かして在学中からリーダーシップを発揮していました。
1922年(大正11年)大学卒業後先輩の勧めなどもあり、函館水電㈱(電力、運輸
会社、後北海道電力に発展)に入社し、同社に勤める傍ら函館大洋倶楽部(函館オー
シャン)でプレーしていましたが、1927年(昭和2年)に、函館市内中心部に『久慈
運動具店』を開業し起業家としても活躍していました。
球聖 久慈次郎 (早稲田大学時代)
(ウイキペディアより)
同年(1927年)から全国都市対抗野球大会が始まりますが、ここでも大いに活躍し
ました。1930年からは監督も兼任し、函館を率いる名捕手兼監督として人気があった
そうです。1931年(昭和6年)と1934年(昭和9年)の日米野球大会では全日本軍の主将を
務め、エースの沢村栄治とバッテリーを組んで好リードと強肩を活かし、ベーブ・
ルースやルー・ゲーリックらのアメリカ選抜チームを苦戦させたとあります。
昭和9年11月に行われた日米野球大会の後、全日本軍を母体とした大日本東京野球
倶楽部(現:東京読売巨人軍)が誕生するに際し、久慈は破格の待遇で主将として参加
を要請されるのですが,同年3月に発生した函館火災の復興と、アマチュア野球の発展
に貢献しようとする信念から、これを辞退してしまうのです。同球団の初代主将は
久慈次郎の名のみ残され幻に終わっています。
運命の時、1939年8月19日 全道樺太実業団野球大会(於、札幌円山球場)に選手
兼監督として札幌倶楽部との試合に臨み、7回四球で一塁に歩く際、相手捕手のボー
ルが右のこめかみを直撃し、救急搬送されたがそのまま帰らぬ人となったのです。
享年42歳の若さでした。多くの人達に愛され将来を嘱望されていただけに大きな
ショックを与えたのでした。 久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かう途中、
停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれています。
お墓(函館市称名寺)ボールの形
(ウイキペディアより)
久慈次郎の像(函館オーシャンスタジアム)
(ウイキペディアより)
(旭川スタルヒン球場方向を向いている)
このような気骨と才能を持ち惜しまれながら早世した久慈次郎を義父に持つ 久慈
雅子さんは、このほど『義父 久慈次郎と家族のお話』(久慈雅子著、2022.3.15第
1刷、文芸社)と題した文庫本を出版されました。折しも、日本に野球が伝来して
今年ちょうど150年にあたります。まだ発売前に送っていただきましたが、彼女は、
高校同期で10数年前からは蓼科浪漫倶楽部メンバーとして信州蓼科の農園作業でも
ご一緒していた仲間でもあります。
球聖 久慈次郎が事故で亡くなられた2か月後に誕生した、2代目久慈次郎が彼女の
ご主人で、初代次郎の33回忌を東京芝増上寺で盛大に執り行われただけでなく、出身
地の盛岡そして函館でも多くの人々により執り行われたと述懐されています。
本の写真
本の前半では、球聖久慈次郎(義父)のことが述べられ、後半には、雅子さんご
自身の2代目次郎さんとの出会いから、波乱に満ちたしかしバイタリティ溢れる活動
やご家族との楽しい生活や苦労など赤裸々に綴られていました。
私は現役の頃、関西で会社の野球部長をしていて、大阪代表として後楽園出場を
しましたから、都市対抗野球の『久慈賞』は知っていましたが、この本のお陰で、
初代久慈次郎さんの事柄を詳しく知るところとなりました。
黒田伸が盛岡で久慈次郎講演会