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蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

樋口一葉  (bon)

2015-11-24 | 日々雑感、散策、旅行

                         昨日(11月23日)、靖国神社の “新嘗祭”で爆発事故があったそうですが、
                          幸いケガなどがなく無事でしたが、七五三などで多くの参拝客で賑わっていた
                          とのことで、無事で何よりでした。

 23日は、樋口一葉の忌日にあたります。
 明治5年(1872年)に東京で生まれ、少女時代から文学に興味を示し、才能に優れて20歳で、
既に作品を発表し、一躍有名となるのですが 24歳の若さにして結核にむしばまれて彗星のごとく
惜しまれながら、明治29年(1896年)のこの日、帰らぬ人となりました。
 本名は夏子、戸籍名は奈津・・とありました。

           (ウイキペディアより)


 少女時代までは中流家庭に育つが、父らの死後、借金を抱えて貧しい生活を送る中、吉原遊郭近くの
下谷龍泉寺町で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開くも(一葉22歳)一年余りで、店を引き払い、
本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居するという状況でした。 しかし、この時の経験が後に
代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっているのです。 ウイキペディアには、“1894年12月に
「大つごもり」を『文学界』に、翌1895年(明治28年)には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、
その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての
期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。”とありましたが、驚異的な活動であったのですね。

 若くして苦労のどん底にある女流作家が、その才能を短期間に凝縮してその作品を世に残した
すごい人なのだと改めて思うのです。

 一葉記念館は、たけくらべの舞台にもなった台東区竜泉(地下鉄日比谷線三ノ輪駅近く)にあり、
たけくらべ が発表されてからちょうど120年を記念して、~12月24日まで特別展が開催されていて、
たけくらべ(未定稿)が展示中とありますから、訪れてみたいと思います。

         一葉記念館
           (一葉記念館HPより)
 

 以下に、ネット青空文庫より、「たけくらべ」の一部(十二)を抜粋してみます。
 

たけくらべ(抜粋) 十二

 信如が何時も田町へ通ふ時、通らでも事は濟めども言はゞ近道の土手々前に、假初の格子門、
のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣しをらしう見えて、椽先に卷きたる簾のさまもなつかしう、
中がらすの障子のうちには今樣の按察《あぜち》の後室が珠數をつまぐつて、冠《かぶ》つ切りの
若紫も立出るやと思はるゝ、その一ツ構へが大黒屋の寮なり。

 昨日も今日も時雨の空に、田町の姉より頼みの長胴着が出來たれば、暫時《すこし》も早う重ね
させたき親心、御苦勞でも學校まへの一寸の間に持つて行つて呉れまいか、定めて花も待つて居ようほどに、
と母親よりの言ひつけを、何も嫌やとは言ひ切られぬ温順しさに、唯はい/\と小包みを抱へて、
鼠小倉の緒のすがりし朴木齒《ほゝのきば》の下駄ひたひたと、信如は雨傘さしかざして出ぬ。

 お齒ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで來し時、
さつと吹く風大黒傘の上を抓《つか》みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと
力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずる/\と拔けて、傘よりもこれこそ一の大事に
成りぬ。

 信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に
厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急《あせ》れども、
何としても甘《うま》くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして
置いた大半紙を抓《つか》み出し、ずん/\と裂きて紙縷《こより》をよるに、意地わるの嵐またもや
落し來て、立かけし傘のころころと
轉がり出るを、いま/\しい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと
手を延ばすに、膝へ乘せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。

 見るに氣の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中
ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすか
と尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍《もど》かしきやうに、
馳せ出でゝ椽先の洋傘《かうもり》さすより早く、庭石の上を傳ふて急ぎ足に來たりぬ。

 それと見るより美登利の顏は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、
人の見るかと背後《うしろ》の見られて、恐る/\門の侍《そば》へ寄れば、信如もふつと振返りて、
此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足になりて逃げ出したき思ひなり。

 平常《つね》の美登利ならば信如が難義の體を指さして、あれ/\彼の意久地なしと笑ふて笑ふて
笑ひ拔いて、言ひたいまゝの惡まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をするとて私たちが遊びの
邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲《たゝ》かせて、お前は高見で采配《さいはい》を振つてお出
なされたの、さあ謝罪《あやまり》なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに
言はせるのもお前の指圖、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には
父さんもあり母さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥《なまぐさ》のお世話には
能うならぬほどに餘計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくす/\ならで此處で
お言ひなされ、お相手には何時でも成つて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉《と》らへて
捲《まく》しかくる勢ひ、さこそは當り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隱れて、
さりとて立去るでも無しに唯うぢ/\と胸とゞろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。


      2004年発行の5千円紙幣
            (ウイキペディアより)
 

 

 





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