今日は取引先と会食だった。
接待を受けるのもするのも嫌い。
上等の焼肉をおごってもらったけど、
気が散って全然味が分からない。
そもそも、食事というものは黙って食べるもので
会話に気をとられてろくに味わえない、などというのは
高価なメシに失礼だ。
そういや、「四コマ漫画を読むのが好きです。」ってちらっと
言ったら、「まんがライフとかですか?」って返された。
四コマ漫画誌の名前まで知ってるなんて、ほんと
会話の間口広いなあと驚愕した。
だって、たまたま四コマ漫画が趣味の人なんて
100人に1人も居ないから。
鶴見緑地まで観に行った。
いやあ、めずらしいもん見たなあ。
花はぐったりして元気なかったけど。
それにしてもここの植物園、順路がよく分かんなくて
下手すると、展示の2.3割くらい見ずに終わってしまう。
月下美人にしても、目玉の展示物の一つのはずなのに、
休憩所みたいなエリアにさりげなく置いてあるし。
もうちょっと展示というか、アピールの仕方を考えるべきだと思う。
全体的に。
源光庵
伏見城の血天井と
悟りの窓。
瑣末な事やけど、寺社の建屋って
あれだけそこら中開けっ放しやのに
思ったほど虫が室内に入ってこない不思議。
線香焚いたりしてるせいもあるやろけど、なぜなのか。
悟りの窓を前にして、網戸はないのかとか、
雑念の塊みたいになって見ていた。
確かに、窓そのものの、周囲の風景ともあわせた所の、
デザイン性の卓越さみたいなものは感じた。
悟りがどうとかはさっぱり分からんけど、単純におしゃれ。あの造形は。
古田織部美術館
鷹峯の外れ、これでもかというくらい不便な住宅地の中に
民家をそのまま使った形で存在する。
一日10人くらいしか来ないんじゃないか。ひょっとして。
にも関わらず、スタッフが少なくとも3人。
ほとんど室内の掃除とかしてるし、なんかもう金持ちの道楽みたいな
施設。帰るときに、三つ指立てて、ご来館ありがとうございましたとか
言われたし、どういう教育してんのか、逆の意味でびっくりした。
丁寧過ぎて怖い。
試験運用という事らしい。
疎水は流れが速いので船を停止させる事もできず、
名所に差し掛かってもゆっくり観ることもできない。
そしてもちろん、行程の大部分を占めるトンネル部分は
真っ暗なため、何も見えない。
トンネル内は、かなりカビくさい、というか
疎水特有の臭いが充満している。
それと寒い。ワインセラーくらいの寒さ。
コート着てても手がかじかむくらい。
こう考えると、今日みたいに関心の高いモニターだけを集めて運行するのは
問題ないとしても、これを金取って大々的に観光ツアー化するのは、
ちょっと無理があるのではないかと思う。
毎回思うけど、バッハは別格やなあ。やっぱり。
曲自体を知らなくても、バッハかそうでないかは、如実に分かる。
曲の作りこみ度合いが、違う。
「カルメン」(カルメン幻想曲:ビゼー)って、10分ほどの短い演奏時間中に
すごくいろいろな要素があって、まるで人生のダイジェストみたいな曲。
今回あらためて聞いて思った。
日本人の感覚とはイコールではないかもしれんけど、
一人の男の人生の苦楽を謡っているような気がする。
カルメン自体は女やけど、曲は女っぽさがない。
そういう所が、日本と感性違うんやろか。
ほんと、良い曲。
職員の京都弁が面白い。
宮内庁の習わしなんやろか。京都の町屋地区の人の話し方みたいだ。
今時京都人でも、普段こんなに訛って話さない。
庭園内は、眺望こそ開けているけど、道も建屋も最小限の広さしか
とられておらず、30人が傘を差して一度に見学するには余りにも窮屈。
本来貴人がごく僅かな供を連れてゆったり時間を過ごすためのものだから、
こういう団体見学の仕方は全く不釣り合い。
石段の段差ひとつ取り上げても、びっくりするくらい低く造られていて、
極限まで賓客に気を回しているというか、たぶん皇族の使用を強く意識したものだと思う。
茶室の鮮やかな浅葱色の市松模様が無事見られて、もうそれだけで満足している。
やっぱり奈良時代以前の仏像って、平安期以降と比べて
より写実的というか、仏の身体が人間の造形になってて好き。
それ以降になると、記号的というか、仏像自体も概念の存在みたいな
気がする。
考えてみると、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸期と
時代はばらばらなのに、一つの寺の一つの堂の中に
違和感なく並存してる、というか一体感すら漂わせてるのって
凄いことだと思う。歳月のなせるわざというか。
1000年一跨ぎ。
軍師官兵衛見てその流れで、東山の豊国廟行ってきた。
ここの石段が昔、「大河ドラマ秀吉」のオープニングで使われてた
ことに後で気づいてびっくりした。
あのオープニング映像は、子供が出世街道をひた走るって印象だけが
鮮烈やったんやけど、よく見ると、ほとんどの時間階段をかけ上がってる。
秀吉ってまさに、ひたすら上り詰める人生やったから、
そう思ってあの石段を見つめると、感慨深いものがある。
実際現地行ってみると、500段くらいあって、もう果てしなく階段
登らされる感じ。(ちょっとうんざりする。)
徳川政権に完膚なきまでに秀吉時代の栄華を示すものは破壊されたんで、
かなり断片的にしか、当時のものは残ってない。
でも今こうして、阿弥陀ヶ峯の山頂に、なんの墓碑もなく廟があり
実際たぶん墓の下に遺骸の入った甕が置かれてて、
ふもとには、ただ伏見城の立派な門と、方広寺の鐘だけが
歴史の証人のように、黙って鎮まっているっていう様は、なんとも渋い。
あの辺りは、国立博物館とか三十三間堂とかあって、秀吉関連の施設は
完全にそれらに埋没してて、まったく目立たない。空気みたいになってて、
あの秀吉がそういう扱いってほんと妙というか。
隣接して京都女子のキャンパスが、幼稚園から大学まで広大な敷地にわたって
存在してて、平日には学園都市みたいになるんやろう。
豊臣秀吉の名前なんて、それこそ小学生でも知ってるんやろうけど、
たぶんその何千人という学生は、ほぼ誰もその有名人が目と鼻の先で
眠ってるってことに気づいてないんやろなあと。
その辺りも、不思議というかなんというか、面白い。
社内接待みたいな飲み会だった。
営業の人は、お客さん相手に、毎度ああいうことをするのだから
頭が下がる。
僕にとっては、人の機嫌をとり、会話を引き出すということは
もう苦痛でしかないから、営業職になったら、たぶん会社やめると思う。
必要性はわかるけど、やりたくない。
経理(事務)をやってるんだから、事務なりに会社の役に立つ方向に
工夫する。これを目指したい。
ルーチンワークに陥ると、改善の発想が無くなるというのはもっともな指摘。
そうでなくとも、経理は確実・保守(安全)・継続をモットーにせよと
教わってきたから、そうなりがちなのは無理もない。
本来、どっちが正しいとか言うものではなくて、トップの方針で変わってもいいものだ。
完全に自動化する方法が今はないんだから、
付加価値を生み出さないのなら価値は無いはいい過ぎだけど
別に総合職である必要が無いと言われると、それもその通り。
税務という仕事は、税務相談とか税務判断があるので、これは機械的に
当てはめられるもんでもないが、しかし確かにルーチンの部分が大半なのも
確かである。
税務屋なら、今よりちょっとでも節税できる方法はないか、あれこれ考えるとか
税務調査リスクを下げることだって、結局は積極的な節税対策と言える。
改善は、遊びがないと生まれない。毎日、ぎちぎちに資料作り、連絡に時間をとられて
それで1年が過ぎていくなら、土台無理な話である。
担当者が積極的に、取捨選択を提案せよというのもまずもってそうやけど、
同時に管理職の責任も大きい。
うちの管理職、全然そういう発想ないし。
でも最近は、ちょっと意識してくれてるみたい。
能動的に動く部下というのは、部下の成長を考えて、これも嘘ではないし、
実際その通りだから、肝に命じるべきやけど、同時にこれは上の人(頭脳)にとっての
都合のよい手足ということでもある。
鬱になるまで酷使される手足というのでは流石にやり過ぎやし、
バランスなんだろうなと思う。
あの人は、積極的の塊みたいな人だし、
うちの経理は受動態の最たるもの、
どっちも極端だ。
今後は積極的な資料作り、報告を心がけようとは思う。
去年はひまわり畑を見たから、
今回はコスモスかと思って、
亀岡市の休耕地まで行ってきた。
個人的にはオレンジのやつが好きだが、
あれだけ多様な色の品種が植えられているのに
見当たらなくて、少しがっかり。
調べてみると、厳密にはコスモスの仲間ではないらしいが。
淡いピンクとか、いっそ純白とか、そういう色が似合うと思う。
コスモスは儚げな感じがいい。
真っ赤な奴とかは、存在感主張し過ぎてて、これじゃない感が。
のんびり亀岡のど田舎を散歩してスッキリ。
奈良の春日大社の裏山。
建立以来、基本的に人の手が加わってないとか。
たぶん根本的に人工林にしてないってだけで、
明らかに維持・管理はしている様子が見られる。
とはいえ、市街地から2、3キロ奥に分け入っただけで、
完全に鳥獣の世界というか、木々の音しか聞こえない
静寂の空間になる。
僕は根っからの都会人だから、やっぱりこういう
自分以外は全て自然という所に来ると、不安が先行する。
自然を満喫しながらも、足早に通り過ぎて、出来るだけ早く
元の世界に戻りたいという思いが募る。
人ひとり来ないような山奥で一人テント暮らしなんかした日には
気が狂うかもしれない。
宝塚市にあるJRの廃線跡を歩いてきた。
全く鉄道の事は知らないが、なかなかハイキングコースとして
よく出来ていた。
途中6箇所ほどトンネルがあり、長いものは入口・出口からの光が
届かず、自分の手を顔の前に持ってきても見えないほどの完全な黒一色、
暗黒空間である。
都市生活を送っていると、夜でも100%光があるから、暗くて見えないという
事がどれほど恐怖に感じるか忘れてしまう。
心理面もさることながら、全く眼からの情報がないと、
わずか数センチの線路の枕木の段差につまづいてコケたり、
中央を歩いているつもりでも、知らない間にトンネルの壁にぶつかりそうに
なったりすることが分かった。
ここは、かなり有名なコースらしく、2-3分も歩けば人に出くわすくらい、
ひっきりなしにハイカーが居るからいいけど、
もし、人里を離れた5、6キロほどの行程に、自分一人しか居なかったら、
数百メートルもあるまっくらな闇をいくつも乗り越えられるか、正直分からない。
あと、懐中電灯がいかに狭い範囲しか照らし出さないのかもよく分かった。
おそらく1㎡もない。一歩分くらい。
本当に足元を照らすと、前が見えなくて結局意味がないから、
数歩先を常に一歩分だけ照らす感じ。
つまり、数秒先の未来が、そこだけ光ってる感じ。
すれ違うハイカーの姿は、すれ違ったその瞬間には、もう過去の闇に消えている。
大げさに言うと、現在・過去・未来が少し実感できる場所。
両足院で坐禅体験した。
大人数でやるもんじゃない。気が散ってしょうがない。
坐禅は、寝る事と見つけたり。
「じっとして、自分の呼吸にだけ集中して、あれこれ考えず
自然にしてなさい」って教えられたけど、
それって限りなく寝るときの状態に近い。
起きながら寝ているような感じと理解した。
心身を眠ってるときくらい休めるんやからリラックス効果あるやろな。
昼間に30分とか1時間とか昼寝したら、そら体調いいはずやわ。
正直、姿勢なんかどうでもよくって、起きながら
何も考えずじっと回りの物音に自然に耳を傾けている状態
やったらそれで良いのでは。
例えば、朝方にぼーっと寝床で周囲の音を聞いてるとき
とか。
坊さんの言うとおりが唯一の正解とは正直思えなかった。