Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

31:ウルムチの夜

2010年11月29日 02時33分18秒 | 中国旅行記2010年8月
天山天地を見た後、夕食を食べることにした。成君は美味い店を知っているらしく店選びは彼にまかせた。
連れて行ってもらった先は、大皿で有名なお店らしい。なんとこのお店は大皿のギネスブックにも載っている店だ。
まぁ、ギネスに載っている店が正統派の料理を出す店かといわれれば、それはアレだが、まぁそんな細かいことはどうでもよろしい。成君が連れて行ってくれた店だ。問題なし。

はたして料理がきた。こ…これはでかい!ここで成君の彼女の同僚も食事の席に参加。タクシーの運ちゃんまで食事をさせることにした。計5名である。5名で合計金額は150元。このテーブルに載っている全料理でこの値段はなかなか安い。



みれば確かにギネスブックのようである。
味の感想は…かなり大味だったが、値段がリーズナブルなので大人数で行くには良い店だと思う。


ウルムチの宿の確保は夜から行うことになった。今日は朝早くから観光だったので宿の手配をしていなかったのだ。
夜になってからの宿の確保は難しいということは、中国だけではなく万国共通である。幸い成君と彼女の同僚が私の宿探しの為に携帯電話を掛けて奔走してくれている。中国人も全部がステロタイプで判断するべきではない。彼らは私の要望に応えて安い宿を探してくれた。タクシーは夜のバザールにも付き合ってくれて、結局ホテルに着いたのは午後10時をまわっていた。成君とお別れの挨拶をする。彼は本当に中国人とは思えないほど人がよかった。
結局タクシーを12時間も使ったことになる。12時間使い倒して、1人頭266元は安かった。
さて到着した宿は連れ込み宿のようなボロさである。翌日朝の7時にウルムチ発北京行きの飛行機に乗らなければならないので、5時にロビーで集合ということになっている。ホテルからバスでウルムチまで向うのだ。ちなみに宿代はハッキリとは覚えていないが200元くらいだったと思う。

さて早朝にウルムチ空港へ向う。だが、ウルムチ空港はターミナルが二つある。安い航空チケットは小さいほうのターミナルから発着するので、大きいほうのターミナルで降りてはいけなかったが、私は降りてしまった。空港のインフォメーションで聞くとターミナルが違うという。しかし無料の空港バスが15分~30分に一本の割合で、別ターミナールまで接続しているのでそれに乗る。
なかなか慣れない事をやらなければいけないが、旅程は最初からやったことの無いことばかりから始まっているので、いまさらそう大して不安にはならない。午前8時半に出発した飛行機は12時には北京空港に到着していた。9日間にわたる北京~ウルムチの列車の旅が、飛行機にすると僅か3時間半で到着する。これは実に驚くべき事である。バックパッカーが地球の大きさを実感するために飛行機は使わない、ということを何回か聞いたことがあるが、私もその一端が分かったような気がする。たとえ9日間の弾丸移動だったにしても、北京~ウルムチの3600キロメートルは遠かった。時には硬座に18時間座り続けたこともあった。その長い道のりも飛行機を利用すればわずか3時間半である。なるほど、世界一周をするならやはり飛行機は極力使わない方がいいな、と切に感じた。感慨というものが違う。ウルムチに到着したときには、なにか感慨深いものを確かに感じた。リーチェン山脈、天山山脈を見た時にも、「ついにここまで来たか」という思いがあった。あれを飛行機を使って日本からウルムチまで直通でビューンと来たら、天山山脈をみてもさほど感動しなかったであろう。昔の旅人は列車もなかったので、玄奘三蔵などはさらに感激したに違いない。

さて、長々と書いてきた旅行記だが、ついに次回の「北京 万里の長城」にて最終回となる。
足掛け3ヶ月にわたって中国旅行記を当ブログにUPしてきたが、次がいよいよラストである。

次が最終回か、名残惜しいなと思う方はクリックを
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飯香岡八幡宮

2010年11月28日 15時01分43秒 | iphone
中国旅行記以外の国内の写真もUP
紅葉は逃しつつあるが、銀杏は近所でも撮れる。今日はiPhoneの写真です。魅力は撮った写真を速攻でブログにUPできること。投稿の15分前に撮影しております。



しかも、ちょっとアプリを使ってレタッチをほどこしてあります。
ここまでやれれば十分です。

えっ、そんなに早くUPできるのかよ、と思う方はクリックを
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30:ウルムチ 天山天地

2010年11月27日 02時26分26秒 | 中国旅行記2010年8月
トルファン滞在中に、例の西安駅で知り合った日本語堪能な中国人君にホテルから電話をかける。外国で電話をかけたのはドイツとここ中国だけである。ホテルのオペラーターに英語が通じるので、私も慣れないヘタクソな英語を使って国内電話を依頼です。はたして中国人君に電話は繋がった。列車の到着時間は午前9時という事を伝える。
さて、トルファンの朝早く駅にバスで向う。値段は8元。やはりバスは安い。最後の電車の切符は「無座」。つまり立ち席というわけである。
駅では、X線チェックはいつもの事でみていない。だがリュックの中身について聞いてきたようだ。ようだというのは、言葉が分からないからである。内容は何となく分かっていたが、イロイロ開けさせられるのが嫌だったので、分からないフリをきめこんで、チェックを逃れた。おまけにパスポートチェックまでさせられた。だいたいこんなチェックは、この旅行で初めてだ。憶測ではあるが、新彊ウイグル自治区だから厳しくなったのだろう。チェックが空港並だ。それも全員やっているわけではないから一層腹立たしい。荷物を明けろというようなことをいってくるが、不愉快なので分からない不利をしてあけなかった。荷造りも大変だからだ。

ウルムチまでの所要時間は約2時間。今まで利用した鉄道の中で一番短い道のりの切符が無座でよかった。この電車の中でもウイグル人に好奇な目で見られ、分からない中国語で話しかけてくるのを身振り手振りで話す。途中死海を通過する。ウイグルに死海があるとはこの時初めて知った。
列車は1時間遅れでウルムチに到着。出口に中国人君が待っていた。その隣には彼女らしい子がいるではないか。ははぁ、知り合いって女のことだったのか…と、この時初めて気づく。かねてより、ウルムチについたら「天山天地」に行こうと言っていたのだが、この日のバスツアーは30分前に締め切られていた。列車の到着が1時間おくれなければ、バスツアーに参加できたのである。彼は「どうしようか?」といってきたが、私はどうしても天山天地に行きたかったので「天地に行く!」と主張した。彼は、代わりのツアーを探すがバスッアーはもうない。仕方が無くタクシーのチャーターを検討するが、1日タクシーのチャーター代が1000元とか言っている。中国人君は半ば途方にくれていた様子であるが、私はどうしても天山天地に行きたかった。ちょっとウルムチに行って来るなんてことは、気軽にはできないのである。場合によっては今後二度と行けないかもしれない。だがチャーター1日1000元というのは法外すぎた。ハッキリいって舐めている。中国人君は非常におとなしい子のようで、1000元から食い下がらない。ハッキリいって、この1000元と吹っかけてくるヤツと交渉しても時間の無駄と思った私は、駅前から離れて500メートルくらい離れたロータリーの方に向って歩くことにした。「もっと安く行ける!」と私は中国人君(彼は「成」という苗字。以後成君とする)を説得して、ちがうタクシーを探すことにした。はたしてタクシーのたまり場にやってきた。早速交渉開始。最初のタクシーは700元と言ってきた。内心「なんだよ、いきなり1000元から700元かよ。値段なんてあってないようなものだな」と思ってしまったが、こんなところでは到底妥協はできない。なにせトルファン、そして嘉峪関では6時間のチャーターで150元という値段で行けたことを私は既に知っているからだ。トルファンでは一日チャーターが半ば騙された感じでも500元。二日目も中間マージンなしのオスマンのほぼ一日チャーターも300元でいけた。その情報・背景を知っているので私は俄然強気だった。700元とか600元とかぬかしていたが、あっという間に400元まで落ちた。いつのまにか人だかりができている。私が外国人だからなのか、カモとして捉えられているのか、10人くらいのタクシードライバーに囲まれている。400元から先は下がらない。ここで初めて私は料金を提示する。300元を提示したらタクシーのオヤジが怒り始めた。だが、前述したようにこの値段は法外ではない。キチンとした根拠がある。嘉峪関では150元で10時間も乗り回したぞ、と若干の誇張を入れて筆談で説得にかかる。300元は決して無茶な額ではない。交渉はかなり白熱して相手も熱くなってきているが、この相手の態度は半分演技であることを私は知っている。ひるむことなくバトルを続ける。だが振り返ってみると、成君はなにかご機嫌がよろしくない。呆気にとられていたのか、400元あるいは300元でも高いと感じていたのか、多分後者であったのだろう。この時は、私はバスツアーの一人頭の料金が入場料を含んで150元だったとは知らなかった。ちなみに天山天地の入場料は1人100元なので、150元のバスツアーは破格だったということになるが、この時点ではこの事実を私は知らなかった。交渉後のタクシーの中で、その事実を成君から知らされることになるのである。この時は、3人で費用をシェアしたら、400元なら1人頭130元。タクシーなら300に値切れたら、1人頭100元ということになるので、かなりお得だと思っていた。入場料が100元だとしても、合計1人頭200~230元。これでもまだ悪いのか?と交渉しながら思っていた。結局、成君が元気のなさそうにしていたので、交渉はここで打ち切って、400元で妥協する事にした。本当は300元まで延々とやるつもりであったが、成君の反応がすこぶるよろしくない。その都度、どうする?400元でいいか?それとも300まで粘るか?と成君に聞いていたが、これがよくなかった。相談するということは、こちらの出せる額を相手に探られてしまっていたのだろう。
最終的には「入場料ナシで400元」となった。この入場料ナシで400というのが、私にとっては想定していない出費を余儀なくされることになる。これは後になって分かった事だが、タクシードライバーも入場料を払わなければならないらしかった。だから、一日のチャーター代金は実質500元になってしまったのである。1人頭166元となった。入場料を3人分入れれば800元。つまり1人あたま266元の旅行である。これはバスツアーの150元と比べれば相当高い。だがこの交渉を纏める段になっても、成君は「嫌だ!高い!やめよう!」とは言わなかったから、私はそのまま押し切ってしまった。私から見ると、彼は中国人にしては珍しく大人しい。

後にバスツアーの値段を知って「気の毒な事をしたな…」と思ったが、もう後の祭りである。まぁ私としてはここに二度目に来る機械があるかどうかは分からないので、押し切っていくことにしたのは正解だが、彼にとっての266元は高かったに違いない。そこで罪滅ぼしの意味と、いままで世話になった感謝の意をこめて、彼には携帯用リチウムバッテリーを進呈することにした。このバッテリーはiphoneを充電することができるモノで、これは彼曰く「中国にはない」そうである。私は旅行前にこのバッテリーを購入したので、まだ新品ホヤホヤである。値段は5000円を超えるものなので、元に換算すると1元=13円としても、384元である。



天山天地は、文字通り「天山山脈」を拝むことができる絶景の地である。そこへはロープーウェイであがる。





ついに天山山脈が肉眼で見える地まで来たのか…と思ったが、曇っていてハッキリ見えない。違う写真ではうっすらと見えたが、今回その写真はUPしない。ここから西に600キロも行けば、そこはもうカザフスタン共和国である。最後のモンゴル帝国と言われるジュンガル帝国があった場所が、ここウルムチである。最終的には清に滅ぼされて現在に至る。



天山にはこおような仏教寺院がある。それにしても線香の太いこと。灰になって崩れる時も「バラバラバラッ」と音を立てて崩れる。迫力が違う。ちなみにここは撮影禁止区域。



天山山脈からの水が滝になって落ちている。水量のものすごいこと。華厳の滝など…メジャナイかもしれない。



見よ、この遊歩道まで水が溢れているのを。中国の安全対策ってもののレベルが分かる写真でもある。危ないってコレ。










まるで洪水の如し。
上から下を見下ろした図。
水量がハンパではない。



滝の上流はこのような穏やかな湖になっている。
カルスト地形ならではの、水の青さである。



岩盤に文字をほってカラーリングしてある。これは中国ならではの文化である。日本や西洋では、このように岩盤に文字を彫って色を塗ったりはしない。だが、こういう手を加えられた風景もまたよきかな…である。



下山して食事へ。右の女性は成君の彼女の仕事の同僚である。うーん右の同僚の子のほうがカワイイな。
彼女らは中国系の形質の顔をしており(西安から来ているので当たり前か)、ここウルムチではむしろ珍しい顔立ちである。



夕暮れのモスク。
我々日本人とはもっと馴染みが浅い「遠い外国」の風景である。


ウルムチ蜂起があったのによく中国人がここに旅行にこれたな、と思った方はクリックを。
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29:パッカーと

2010年11月25日 02時00分14秒 | 中国旅行記2010年8月
さて、トルファンで私が泊まったホテルの名前は「トルファン賓館」である。
ここではお金を払えばインターネットが出来る。料金はたしか1時間10元だったか。写真の料金表は国際電話の値段とコピーファックスの料金。
さて中国でインターネットといえば、ご存知「検閲」「金盾」である。英語では「グレートウォール(長城)」という皮肉った名前で呼ばれている。はたして本当に「天安門事件」はブラウザで検索できないかどうか? 私はノートパソコンを持参してきたので、日本語のOSと日本のgoogleブラウザを使っている。まずwikipediaに行き、天安門事件を検索すると、あっさり出てきた。あれ??と思い、こんどはwikiではなく、googleのブラウザで「天安門事件」を調べると、ブロックされる。接続に問題がありますという画面が出る。これは通信がオフラインになったときにでる表示と同じ画面である。もう一度入力する。ブロック。3~4回くらいしつこく入力すると、googleのブラウザでも天安門事件はヒットする。ははぁ…金盾といってもこの程度か、というのが感想である。次に日本にメールを送ってみることにした。outlookexpressを使って送ろうとするが、ブロック。ありゃりゃ。また送るがブロック。メールに関するブロック率は100%。少なくとも私の持ち込みのノートパソコンからは、まったくメールは送れなかった。エラー画面をみてみると、サーバー側で何か制御しているらしい。次にWifi環境だが、これは西安の回にブログでも書いたとおり、中国国内ではWifiが開放されていないので使えない。スマートフォンを使ってインターネットをしたければ、現地のキャリア(チャイナテレコム?)にローミングしなければならず、これはかなりの額を取られる(一日1600円くらいだったと思う)
結論からいうと、ちょっと拍子抜けであった。完全ブロックされるのはメールのみであって、日本のPCに入っているブラウザを使えば、何割かはブロックされるものの、しつこく検索すればその防御は突破できるのである。だがやはりNGワードにはブロック機能が働くということは事実であった。噂には聞いていたが、この事実を目の当たりにして、「これが中国共産党の統制というのものか」と妙な感心をしてしまった。その中で驚いたのはスカイプについてである。実は私はノートPCにスカイプをインストールせずに中国に来てしまった。iphoneでスカイプをして日本へ連絡すれば良いと考えていたが、wifiが開放されていないということは知らなかったので、PCに事前にインストールしていなかったのである。そこで、ネットからダウンロードしてくることにして、googleからスカイプのダウンロードページに行くと…、なんと日本語のダウンロードページに入ったはずなのに、中国語のスカイプの画面に強制的に切り替わってしまった。中国語が分からない私にとっては迷惑な話である。そこで、YAHOOからダウンロードページにいっても、また強制的に中国のスカイプのページに飛ばされる。これは明らかに中国政府の意図を感じた。切り替わり方が実に不自然なのである。まず最初に指定した日本語のページにアクセスするのだが、ページが表示される直前に中国のサイトに飛ばされるのだ。googleでもyahooでもmsnでも、全部同じ結果で中国語のスカイプのページに飛ばされる。おかしいなと思い、ブラウザで「中国 スカイプ」で検索してみると、なんと中国のスカイプには検閲機能が組み込まれているらしいということが書かれている。勿論、これが書いてあるのは日本語のサイトである。
日本語版のスカイプはダウンロードできないか?と思ったが、気を取り直して、日本人のどこかのブログから直リンクでスカイプのダウンロードアドレスが載っているページを探し、それを何個か試したら、何回か目に繋がり、ついに日本語スカイプのダウンロードページに到達した。中国恐るべし!まさかスカイプまで検閲対象だとは…。先日ツイッターで風刺記事にリツイートした婚約前の女性が、当局に拘束されて強制収容されたというニュースがあったが、ツイッターもスカイプもメールもなにも全部が検閲対象になっているんだろう。さすがにこれにはビックリ。背筋に寒いものを少し感じた。


さて、トルファン賓館で2人の日本人のパッカーと知り合い、夕食を共にすることにした。二人とも20代前半の男女で若い。一人の男は、これからカシュガルを抜けてパキスタンに行くという事である。もう1人は私の通ってきたルートと逆で、これから西安~上海に行くという。話しを聞くと、この女性の方は船で大阪から上海まで移動し、それから長距離バスなどを使ってウルムチまで行って、そしてそこで折り返してトルファンまできたところであった。二人ともなかなかの貧乏旅行者経験者であるようで、女性の方はかつてインドに行って赤痢にかかって、現地の病院に入院したという経験があるツワモノである。もう1人の男の方は、これまた東南アジアなどで貧乏旅行の経験を積んだ、旅なれた者である。彼らはここ「トルファン賓館」においても、私のように一泊180元の部屋には泊まらない。彼らはドミトリーという、一泊60元とか80元の部屋を利用しているのだ。貧乏旅行の場数がまったくない私にとっては、彼らの旅行スタイルにはかなり興味があった。もともとシルクロードの旅というものを私がしたかったのも、そういったバックパッカーのブラリとした旅のスタイルに憧れを抱いていたというのが理由にあったのだ。ここで日本人が3人集まったのも何かの縁という事で、一緒に夕食を食べに行くことになった。だが、その直後彼らのルームメイトであるイスラエル人も一緒に行きたいと言ったので、彼も連れて計4人で夕食を食べに行くことになった。
イスラエル人やバックパッカーの日本人2名は英語が堪能である。4人の内で、一番英語が下手糞で理解力が乏しいのは私だったが、そんなことはお構いなしで話をしだした。面白いもので、言葉が一番出来るものが話の主導権を必ずしも握るというものではないらしい。4人の中で英語が一番堪能なのはイスラエル人と日本人女性だったが、話の主導権は常に私とイスラエル人であった。

話の内容は他愛の無いものであったが、イロイロとイスラエルの事は聞けた。なんでもイスラエル人は、兵役が終わると殆どのイスラエル人は長い旅にでるらしい。兵役の中で僅かな給与がもらえるらしいが、軍隊生活では使うものがないらしく、欲望の開放もままならない。それが兵役を終えた瞬間にすべてが解放される。兵役を終えて直ぐに働き出す者はいないらしく、多くのイスラエル人は兵役後の解放された時間を満喫するために、1年くらいは海外に旅行に出かけるらしい。そんなことをこの男は言っていた。さらに日本とイスラエルの収入の話になったり、物価の話になったり、はてはユダヤ人の定義の話になったり、アシュケナージユダヤ人の話に触れたり(ちなみにこのイスラエル人はアシュケナージではない)、さらには政治の話にまで入り込んだ。第2、第3、第4次中東戦争の話や1997年のオスロ合意の話。レバノン侵攻の話などを、イスラエル批判をなしにして、ただただイスラエル人の言い分を聞いたりしてみた。彼らの認識は、やはり「アラブ諸国に潰される」という恐怖が強く、それにたいする防衛というスタンスで一貫していた。ツッコミどころは沢山あったが、その手の話を外国人、それもイスラエルというキナ臭い国の人と、しかも慣れない外国語でやると誤解が生まれた時ヤバくなるので、ほどほどにしておいた。午後6時くらいから始まった夕食は、話が弾みに弾み、気がつけばあっという間に午前0時をまわっていた。翌日は早朝から電車でウルムチへ移動だったので、名残惜しいがお開きとすることにした。



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28:吐峪溝

2010年11月24日 03時13分18秒 | 中国旅行記2010年8月
吐峪溝にいく。吐峪溝もベゼクリクと同じように火焔山のような地形の中にある。
宮崎駿の風の谷のナウシカの元になった場所はパキスタンのフンザ地方と言われているが、ここトルファンにしても何らかの影響を与えているとしか思えない。非常によく似ている。

さて吐峪溝はこれまた仏教寺院がある場所なのだが、千仏洞については修復中なので閉鎖されている。





朝一番で来たのだが、流石に観光客がいない。そもそも吐峪溝自体が観光地としてマイナーなのかもしれないが…。



もうかなり目も慣れてしまって、このような地形は珍しくもなくなってしまったかもしれないが、スケールが大きい。



ウイグル人の労働者2人。
左は中国系、右は白人系のように見える。



千仏洞の場所。



山の上から吐峪溝を見下ろしてみた。



二日目のタクシーチャーターは、300元にまけさせた。この日は砂漠、吐峪溝と見て周り、葡萄園を回ることになっていた。葡萄園に行く時に一端ホテルに戻って昼食を採ってから向うことになった。オスマンがいうには日本人のオネーチャンが葡萄園に行くとのことで一緒に行こうという事になったのである。ロビーで休んでいると、その日本人のオネーチャンと思しき人がやってくるので世間話をする。このオネーチャンがなかなかのバックパッカーで、このホテルのドミトリー(多人数部屋)に泊まっているとのことであった。ルームメイトにこれまた日本人(男)のバックパッカーがいて、その人もロビーにやってきた。西安以来の日本人との出会いである。
葡萄園の観光を済ませたあと、この2人とあともう1人のイスラエル人のバックパッカーと一緒に依の町に繰り出し、シシカバブと酒を飲みに行くことになるのだが、その話はまた次回にでも…。


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27:トルファン郊外の砂漠

2010年11月23日 01時28分34秒 | 中国旅行記2010年8月
早朝から砂漠に向う。というのも早朝に行かないと日中では暑さでやられてしまうからだ。砂漠の過酷さは敦煌でイヤというほど知ったので、午前中それも日が昇り始めの時間に見ることにした。何度も言うように砂漠は天然の要害である。ここをこえて行軍してくる軍隊はいない。現代では分からないけれども、すくなくとも近代までの軍隊はこの過酷の地を無謀にもこえようとは考えていなかったハズである。
さてこの砂漠だが、近年まで砂漠一泊ツアーというものがあったらしい。夜に砂漠にテントを張って、満天の星空を見ながら寝泊りし、翌日の早朝に日の出の太陽をおがむというものである。これが外国人にも開放されていたツアーだったのだが、現在では外国人はそのツーアー参加が禁止されてるようである(オスマン談) 許されているのは中国人ツアーだけという、これまた選民思想というかなんというか。どうも彼らは外国人の行動を統制しなければ済まないらしい。



砂漠の風紋がハッキリと見える。肉眼で見たのは初めてであった。
どこまでのつづく砂漠。自然の厳しさのすさまじいことよ。この砂漠の真ん中に日中、水を持たずに下ろされたとしたら、おそらくあっという間に脱水症状に陥ってしまうだろう。



足跡もついていない。私のつけた足跡も2~3日もすれば、風にあらわれて消えてしまうだろう。
敦煌と比べて砂の色が明るくない。



午後は吐谷渾へ向う。その写真はまた次回に

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26:石油採掘

2010年11月21日 02時40分40秒 | 中国旅行記2010年8月

タクシーの運転手であるオスマンさんの言うところによると、新疆ウイグル自治区内における石油採掘の会社は全て中国国営のものであるという。彼が珍しく中国の文句をこの時言った。「ああやって石油を掘って全部中国内地に持って言ってしまうんだ。私はあれが一番中国の許せないところだ」と。私はこれまで、オスマンと同乗している時に、中国の事をどう思うか?とか、新疆ウイグル内での教育については中国の事をどう教えているのか?という事を何回か聞いた。彼はあまりそのことに対して積極的に中国批判はしていなかったが、石油問題になったら違っていた。明らかに「金になる資源を中国に吸い取られていて、貧乏なのはヤツらのせいだ」という思いが入っていた。そういえば、タクシーの値段交渉においてもそうだった。彼は「ここはウイグルだ。ウイグル人は約束を守る」と言っていた。これはあきらかに中国に対するあてつけの言葉だったのだろう。つまり「中国人は約束は守らない」と言外に含んだモノの言い方である。

しかし、それにしても簡体字というのは読みづらい。漢字は古くは漢の時代に完成された文字であった。それが古代の日本に輸入され1500年以上の時をこえた現在、本国である中国では簡体字という簡略化された文字に置き換えられ、遠く離れた輸入した日本が、いまだ繁体字という漢の時代のままの漢字を使用し続けている。現在、中国では繁体字が読める人が少なくなってきた。筆談においても繁体字では理解できない人が多い。香港・台湾人などは今でも繁体字を使用しているので、筆談に関しては彼らと行うほうが意志の疎通がやりやすい。

しかしニュースなどで「新疆には石油が出る」と聞いていたが、実際にこの目で見ると、結構広い規模に渡って石油が出ていることがよく分かる。その埋蔵量はいかほどのものなのだろうか?

さて、葡萄園に行ってきたときの看板の写真をここでお見せしよう。国家AAAAA級景区とあり、観光地としてはかなり等級が高いこの葡萄園。おそらくこの観光地など中国国家によって管理、そして売り上げなどが送金されているのだろうが、そんなことよりもこのマークを見て、なにかを思わないだろうか?私はこの看板を見た時に、あれ?この看板のようなデザインをどこかで見たことがあるぞと思ったものである。なんだったけ・・・としばし考えること5秒。そうだ、これだよこれ!

ご存知スターバックスコーヒー。数年前、北京の故宮博物館の中にこのスターバックスコーヒーがあったそうだが、多数の中国人から「故宮に外国の資本のコーヒー屋があるとはけしからん」という声が多数あって、国家によって強制的にテナントを追い出されたという話があった。その後、その場所には中国の資本のコーヒー屋が入ったという。しかし・・・もしもこの葡萄園のマークがスターバックスからデザインの一部をパクったとすれば、彼らの精神構造は屈折しているとしか言いようが無い。私は中国の風景や何も知らない気のいい人民には好感がもてるが、中国政府は「クソ」だと思っているので、この葡萄園のデザインについても完全にスターバックスのパクリだと思っておくことにして、中国政府をクソミソに非難することにする。

 

さて、中国旅行記ばかりを書いてきたが、チョットこの辺りで一端休憩し、中国帰国後の日本で撮影した写真などをボチボチ紹介するとしよう。

この写真はiphoneで撮影した6枚の写真を、iphone有料アプリのAutoStitchというパノラマ写真加工ソフトを使って作ったパノラマ写真である。このアプリはパノラマ編集がとても簡単なので重宝しております。撮影場所は千葉の某所の駅前にある公共タワーの11階からの眺め。

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24:バザールでござーる

2010年11月15日 22時44分50秒 | 中国旅行記2010年8月

翌日は朝からバザールに出かける。バザールという言葉はもともと古代ペルシア語から来ているらしい。正確にはサーサーン朝の公用語であるパフラヴィー語らしい。パフラヴィー語はアラム語から派生した言葉である。アラム語はアケメネス朝ペルシアの公用語であり、中東全体の国際語として使われていたセム語派に属する。だがセム語派という区分けも実際のところよく分からない区分法である。1970年代生まれの人は、学校などで「インドヨーロッパ語族」「ウラル・アルタイ語族」「セム・ハム語族」といったように「世界3大語族」が存在する、と教えられてきた。だが、この区分はかなり大雑把で穴が多いものであるらしく、セム語派とインドヨーロッパ語派の親近性などが指摘されたりしたり、楔形文字やヒエログリフがアルファベットと親近性が高いことから、フェニキア文字は象形文字の派生だと近年私的されていたりして、研究が進んでいる。とにかく○○語族というのは、一度忘れたほうが良い。さてアラム文字について考えよう。まずエジプトの象形文字であるヒエログリフ。まずはここから始まる。ヒエログリフから原シナイ文字が派生し、原シナイ文字から原カナン文字が派生。原カナン文字からフェニキア文字が派生し、フェニキア文字から古ヘブライ文字、アラム文字、ギリシア文字などが派生した。ギリシア文字からその後はキリル文字やラテン文字などに派生して、これらはアルファベットの類型にほぼ統一される。古ヘブライ文字だが、これはアラム文字と親近性が強く、この後の派生はよく分からない。さてアラム後である。フェニキア文字から派生したアラム文字は、その後ソグド文字、アラビア文字、シリア文字などに派生していった。この中で重要なのは「ソグド文字」である。ソグド文字は、ソグド人が使用していた言葉。ソグド人はペルシアを拠点として商業活動を行っていた者たちである。遠く唐の長安まで足を運んでいたコーカソイド(白人)である。ソグド文字はその後ウイグル文字を産み、そしてウイグル文字は契丹文字、モンゴル文字、満州文字を生んだ。ウイグル、契丹、モンゴル、満州はともに遊牧民族帝国を生んだ集団である。遊牧集団の使う文字は、さかのぼればこのアラム語に到達する。契丹文字は漢字を借用して作られた文字なので、視覚的にウイグル文字やアラム文字には似ても似つかないが、モンゴル文字や満州文字はウイグル文字に似ている。この辺りは不勉強なのでよく分からないが、とにかくアラム語はユーラシア一帯に多大な影響を及ぼした国際文字であり、現在の英語にも匹敵するような地域的な広がりをもった国際語であった。それから派生したウイグル文字で、横書きから縦書きに変わって、最終的には満州文字となるのである。中国旅行記の最初に紹介した北京の故宮に満州文字を見ることができるが、あの文字はアラム語から派生した言葉なのである。それが遠く北京まできているというのはすごいことである。(実はタイの言葉なども、アラム語から派生したものなので、その勢いは東南アジアにまで及ぶ。そう考えるとインドネシアまでがイスラム教圏であることは理解しやすいワケだ)

さて、ここはウイグル自治区。現在のウイグル人は、残念ながら4世紀~13世紀に中央ユーラシアで活動したテュルク系集団の末裔でもなんでもない。現在のウイグル人は、20世紀の民族主義的世界観の中で国民国家として独立する過程の中で生み出された(作られた)民族である。例えるならば、近年ユーゴから独立したマケドニアと同じである。近代国家ギリシアとも同じである。現在のマケドニア人は、アレクサンドロス大王がいた時代のマケドニア人の末裔でもなんでもない。現ギリシア人も、古代ギリシア人の末裔でもなんでもない。現ルーマニア人も、ローマ人の末裔でもなんでもない。ウイグルも同じことである。さて、現代ウイグル人が使っている新ウイグル語は、アラビア文字を改良したものであって、前述してきたウイグル語とは断絶している。夢も希望もない話をすれば、現代のウイグル人は、言語的に民族的にもかつての「ウイグル」ではない。だが、仮に断絶していたとしても、風習や文化はかつての名残を残していると思いたい。バザールの中にかつてのウイグルの片鱗・カケラを見つけたい・・・と思っている私の希望である。この写真の肉売りの光景などは、おそらく近年の中東や中央ユーラシアの文化の影響がほとんどであろうが、その中のどこかにかつてのウイグルらしさが見え隠れしているのはないか?そういう幻想というか期待の目をもって眺めてみたくなるのである。

バザール入り口。エキゾチックの雰囲気満点だ。

彼らウイグル人にとってはタダの日常の風景の一角にすぎないが、私から見ると興奮冷めやらぬ光景がつづく。これは面白いぞ。

気分は完全に大航海時代である。ヨーロッパから香辛料を求めて長い航海をしてきて、異国の市場にたどり着いた貿易商人の気分である。彼らにすれば、我が国の八百屋かスーパーみたいな感覚なのだろうが、私からすれば見るもの見るもの珍しい光景である。この香辛料が満載の袋を一つ丸ごと日本に持って帰りたい・・・・と思うのは私だけではないだろう。

見よ、この香辛料の種類を!

バザールで商売をする人達の息子・娘達。見ればモンゴロイドの形質の人やコーカソイドの形質の人とバラバラである。左から二番目の女の子などは、かなり白人的である。


23:交河故城と夜メシ

2010年11月14日 02時11分55秒 | 中国旅行記2010年8月

交河故城。この城は車師国の都であった。車師国とは、高昌故城の時にも書いたように、紀元前3~2世紀くらいにトルファンにあった国である。もう一度おさらいするが、この国は古くは月氏の影響下にありながら、匈奴(冒頓)の属国となり、漢(武帝)の属国となり、また匈奴の属国になり、また漢(光武帝)の属国になるといったように、支配者が転々と変わっていくなかで生きてきたのである。高昌国がこの地に成立するまでの間存続しつづけた国である。およそ今から2200年ほど前の国家である。交河というように、この王城は二つの川に挟まれた場所に建っており、東面と西面は絶壁になっておりそこに川が流れているのだ。

二千年以上の時を越えて現存する世界最古の土造建築都市である。

廃墟といってしまえばそれまでだが、私から見れば圧巻の風景。さて、トルファンは世界でも有数な盆地である。海抜がなんとマイナス150メートルなのだ。つまり空気の濃度が濃い。気圧も高い。当然気温は高い!この日の日差しは特に強かった。なんだかんだと言っても8月のトルファンである。乾燥地帯のほとんど礫砂漠といってよい地域である。現在時刻は15時であるが、運転手のオスマンさんのいうには午後15時くらいの時間が一番暑くなるらしい。この交河故城を見学するにあたって水を1リットル確保して観光をしたのだが、40分程度で全て飲み干してしまった。遮蔽物が殆ど内ので太陽光が直接に肌に照射して、あっという間に水分を奪うのである。注意していないと簡単に熱射病になってしまうだろう。「日なたにいると危ない」これは誇張ではない。この炎天下の中、連続して30分日なたでは絶対に歩けない。砂漠や乾燥地域を舐めたらアカンぜよ。

ここにもやはり仏教関係の建物が。影をみていただければ分かると思うが、太陽がほとんど天頂方向にあり、影が形成されない。

ペットボトルの冷えた水も、ここで30分ほど持っているとぬるま湯に変わってしまうほどである。この観光地に半日くらいいようと思ったが、とてもではないがもたない。半日いようと思うなら、水は4リットルは必要だろう。私がいた時間はおおよそ1時間半くらいである。

交河故城の西側の絶壁。よく見ると写真右側のほうにも崖(絶壁)がそびえたっている。緑地の場所には川が流れている。おそらく願い年月をかけて川が大地を侵食した結果、このような地形になったのだろう。グランドキャニオンのようなものである。

いやはや、直射日光がきつい。ここでかなり日焼けをしてしまった。夏にトルファンに来られる方は日焼け対策を考えたほうが良い。

さて、この交河故城で本日の観光コースは全て終了。帰りのタクシーの中でオスマンさんは、今夜一緒に食事をしようという話になった。警戒半分、興味半分であったが、このオスマンさんはそんなに悪そうな人ではなさそうだったので了承する。いくらぐらいのメシにするか?と聞いてきたので「可能な限り安く。そうだなぁ、20元くらいでどうか?」と言うと笑い出した。彼が笑った理由はよくわからなかったが、おそらくタクシーの一日チャーターに500元も払う者が、夜メシは20元で済まそうというのが可笑しかったのだろう。彼にしてみたら一食100元くらいを想定していたのかもしれない。さて、彼とは21時にホテルの前で待ち合わせすることにした。要するにラマダン解禁の時間なのだ。21時には日没になる。オスマンさんが食べられる時間はそこからなのだ。さて、20元で食べられる食堂への移動はオスマンさんのタクシーで向うことになった。料金は勿論なし。

連れて行ってもらった食堂は、ご覧のとおりの場末の食堂である。外ではシシカバブを焼いている。シシカバブは1串の値段が2元。ここでラーメンと揚げパン(中に肉がすこし詰まっている)とシシカバブ5~6本ほど食べて、本当に20元くらいだった。量の割には安い。

 


22:カレーズ

2010年11月11日 02時47分27秒 | 中国旅行記2010年8月

カレーズ

 

カレーズ。別名ではカナートとも呼ばれる地下用水路である。水源は遠く天山山脈から運ばれてくる。乾燥地帯に見られる水路で、イラン、アフガニスタン、パキスタン、ここウイグルなどに存在する。蒸発を防ぐ為に地下に水路が設けられている。山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を延ばし、長いものは数十キロメートルに達する。水路の途上には地表から工事用の穴が掘られ、完成後は修理・通風に用いられる。水路が地表に出る場所には、耕地や集落のあるオアシスが形成されている。(WIKIより抜粋

 カレーズ2

カレーズの内部。この地下水は現在もなお使われている。一番古い時代のカレーズは、魏晋南北朝時代にさかのぼれるそうである。そんな時代から地下水路を作っていたとは驚きである。

 

穴が等間隔に点々と空いている。穴に沿って地下水路が設けられている。こうみると、砂漠・荒野といえども、地下には巨大な水源があることが分かる。特にトルファンのカレーズはウイグルでは最大級である。

カレーズの水は、現在でも飲料可能である。中国の水質調査の報告書によると、この水は汚染されてはおらず飲めるようである。写真の紙が調査の結果である。しかし中国の調査による「安全」なので、あまり信頼できない。ところで、中国政府はウイグル自治区内で1960年代以降、何十回も核実験を行っている。場所はタクラマカン砂漠の東側~楼蘭あたりの地域。トルファンからそこまでの距離は300キロ程である。しかも核実験で使われている核兵器の威力はメガトン級。広島長崎型の数千倍規模の威力であるものが、楼蘭付近、つまりここウイグル自治区内において爆破されてきた。いまでもウイグルでは白血病の発病率が中国国内で最も高い地域である。奇形、白血病患者が「誤差」の範囲とは思えないほど多く現れている。これはあまり知られていない事実である。

トルファンのブドウ園。トルファンのブドウは中国でもっとも有名である。ブドウ棚には、様々な種のブドウが栽培されており、写真のついた看板でブドウの種が分かるようになっている。その中にはヨーロッパ産のブドウの種もあれば、なんと日本のブドウの種もある。普通のブドウもあればマスカットブドウもあるが、ここトルファンでは、緑色をしたマスカット系のブドウが多い。トルファンの特産品であり、主産業であろう。

建物内には、ご覧のようにマスカットの房が数多く吊るされている。この風通しのよさそうな建物は、干しブドウを作るための設備である。こうやってブドウを室内に吊るして20日ほどすれば、自然と干しブドウとなるのである。まさにこの乾燥地域に適した保存法といえる。西洋の生ハムのように、まさに気候が生み出した保存法といえる。

ご覧のように一面のブドウ。これが全部干しブドウになるのだ。

あぁ・・・見たくなかった光景である。この娘達は、記念撮影に応える為の民族衣装を着たウイグル人である。写真撮影はお金を払えば一緒に写ることができる。が・・・この娘達が持っているものは・・・・携帯電話。こんな中国の内陸の奥地の辺境にも、やはりITの波は押し寄せているのだ。文明の利器は蔓延っている。まぁそりゃ仕方ない。人間は豊かな生活をしたいものだ。未開な生活を送る義務もない。人は自由に豊かな生活を営む権利はある。だが、この光景は流石に見たくは無かった。なにか急に日常に引き戻されたような気がした。私はこの時一瞬、自分が日本にいて電車に乗っているような気分になった。この光景は、万国共通なのか・・・・。

それにしても、ウイグル人の女性はなかなか綺麗だ。東洋系の顔ではない。あきらかに白人系に近い。ロシアとトルコの血が強く現れているようだ。どこでそう感じるのかというと、まず髪の黒さ、眉毛の濃さ太さは、トルコ系の特徴を持っている。これは私の独断と偏見だが、私の見たトルコ人はだいたいが黒髪、もしくはブラウン系で、眉毛が太かった。それ以外では目すじ鼻すじはスラブ系の感じがする。一昨年に行ったクロアチアの人達にも特徴が似ている。

さて、ここではブドウの絞りたてのジュースが飲める。値段は5元と安くはないが、絞りたてのトルファンのブドウジュースなんて今後飲める機会が来るとはかぎらないので飲むことにした。

世に数多に存在するグレープジュースなど、このグレープジュースの味と比べたらカスである。やはりブドウは乾燥地帯のものが一番上手い。甘みが全然違うのだ。

これは干しブドウ屋さん。100グラム10元(130円)くらいする。緑の干しブドウが一番高く、それは100グラム200円以上であった。だが、高くても是非マスカットの干しブドウを買うことをお薦めする。私は金が惜しくて茶色の干しブドウで妥協したが・・・今になってみると勿体なかったと思っている。お土産にはかなりの良品である。


21:蘇公塔

2010年11月08日 01時15分44秒 | 中国旅行記2010年8月
つぎに向かったのは蘇公塔である。イスラム建築様式のモスクである。
ところで、ウイグル人はイスラム教徒である。タクシーの運転手であるオスマンさんも例外ではない。イスラム教にはラマダン(断食月)というものがあり、今年は8月11日から9月9日までの間、夜明けから日没の間を毎日絶食する。食物のみならず水も飲まないのだ。敬虔なるイスラム教徒なら「つば」も飲まないほどである。さらにあくびをする時は、必ず人差し指を唇の真ん中に立てる。ちょうど「静かに」というジェスチャーをするときの「シーッ」と人差し指を唇に当てるポーズとソックリであるが、これもイスラムの風習なのだろう。さて、時刻はお昼を回っているが、ここでオスマンさんが昼飯はどうする?といってきた。そうだ、一日タクシーチャーターだから、全てのスケジュールはこちらの思いのままである。だが、一日チャーターだからこそ、まわれる場所は回っておきたい。そこで昼飯を食べる時間が勿体無く思い一食抜くことにした。だが、そういう答えをオスマンさんに言うのは野暮なので、私はこう言った。「私も今日だけラマダンをする。ただし水だけは勘弁してくれ」・・・と。この発言は、よほどオスマンさんに受けがよかったようで、かなり爆笑していた。このオヤジとはこの後も度々会話を繰り返すのだが、オスマンさんはしまいには「あなたは面白い人だ」と言った。その言葉は案外嬉しいものだった。やはりその土地に行ったらその土地の風習に従ってみると、かなり好感度があがる。今更ながら、そのことに気づかされた。
写真はチケット売り場。ちょっとおしゃれな建物だったので撮ってみた。




完全にイスラム様式である。
門構えといい塔の装飾具合といい、ここは完全に異国。我々の住んでいる「西側諸国」の文化・風土ではない。



モスクの中身。ここは撮影禁止区域だが、だ~れもいないのでコッソリ撮ったものである。
さすがはイスラム教。偶像崇拝を嫌うだけあって、神を表わしたモノはなに一つない。床に敷かれたカーペット。天井から差し込む光以外は、変わったところは特にない。



中央~西アジアの建築様式については不勉強で知らないが、ペルシャ系かアラブ系かの様式なのだろう。
やはり旅行は、歴史的背景を知っていた方が遥かに楽しめる。



右側の円柱を横に倒したような形のものはお墓である。



墓の形状も、我らが日本の墓石とはハッキリと様式が異なる。西洋の墓にかなり似た作りである。
ドームの上には三日月のマークが。ウイグルはかつて「東トルキスタン」と呼ばれていた時代があった。トルコの土地で「トルキスタン」である。やはり中央~西アジアでは月のマークが多い。テュルク系だから星を使うのか、それとも太陰暦を使っていたメソポタミア、そしてペルシアの影響なのか。非常に面白い。多民族の攻防を繰り返してきたアジア内陸部というのは、歴史が複雑すぎてとても興味深い地域である。



20:ベゼクリク千仏洞

2010年11月03日 23時04分05秒 | 中国旅行記2010年8月

高昌故城の次に来たのは、ベゼクリク千仏洞(写真)である。
ここは仏教寺院である。嘉峪関と同様に岩盤を繰りぬいて建物としてしまっている。まだ訪れたことはないが、ヨルダンのペトロ遺跡も同じような作りではなかったか。どうも西アジアも中央アジアも共通点を多く発見ができる。歴史的には、どうやら唐の支配の直後に成立した天山ウイグル王国の時代あたりに建てられたらしい。ウイグルという名称も、トこれがまた「トルコ」と同様理解しがたい概念だ。ウイグルは、中国ではカイコツ(回鶻)などと呼ばれていた頃までさかのぼれるのだが、この回鶻と天山ウイグル王国の民族が同じであるとは限らない。この辺りは私も不勉強なのだが、回鶻の中国語での音は「ウイグル」に限りなく近いので、この頃(8世紀~9世紀)からウイグルという集団は当時の人達に認識されていたのだろう。この回鶻は、九姓鉄勒という部族(民族?国家?集団?)から台頭してきたものである。鉄勒とは「テュルク」と読めることからテュルク系民族であったといわれている。匈奴の末裔という説もある。いずれにせよ、匈奴もテュルク系であり、鮮卑・柔然は別としても、その後の突厥もテュルク系であることから、回鶻もテュルクの一派であるとも言える。

遊牧民族の歴史は本当に難しい。というのも、彼らはほとんど文字を残さなかった。ウイグル文字、突厥文字、契丹文字というように7世紀以降は彼らも文字を使用するようになるが、残念ながら匈奴や鮮卑、柔然といったそれ以前の遊牧集団においては文字を残していないので、彼らの歴史がよく分からない。しかもである。「匈奴」。これが何を意味するのか、実はよく分からない。匈奴は中国における「漢」とか「晋」のような国名だったのか?それとも「蛮族」という意味として使われた遊牧集団名なのか?民族名として使用したのか?実際のところ、この辺りはよくはわからない。だが柔然や鮮卑や突厥やモンゴルを見れば分かるように、かれらは多民族の集団を形成していた。故に国家名といっても良いし、新たに創設された民族名といっても良い。国家建設の時代はえてして民族が「発明」される。たとえば7世紀の日本。それ以前は「倭」といったが、律令を取り入れ天智・天武朝に「日本」という国家が建設された。まだ大和人と名乗っていたのかもしれないが、中国地方~関東人までのさま座名形質と文化の違う人々はこの時ある程度統合されて大和人、もしくは日本人と意識されたハズである。さらに時代は過ぎて19世紀の日本。明治維新によって近代国家「日本国」が誕生した時、琉球人もアイヌ人も日本人になった。日本人、日本民族、大和民族という民族が発明されたのである。民族は国家建設の時代には「発明」される。
さて話は遊牧民族名に戻ろう。テュルク(トルコの語源)だが、匈奴人(この言い方が正しいかわからないが)は、テュルク系である。ここでいうテュルク系とは、血族の事・あるいは言語的な事を指している。テュルクもまた発明された民族なのだろう。だがこれは古すぎてよく分からない。いずれにせよ「テュルク」から派生して作られた「民族(または国家・集団))名は多い。匈奴・突厥・ウイグル・鉄勒あたりはかなりの割合でテュルクだし、月氏についてもテュルクの可能性が高い。

まあとにかく結論としては「よく分からない」のである。
ただ、多少わかっているのは、回鶻が唐の時代に西に逃れて天山のふもとに「天山ウイグル王国」をたてたという事である。ベゼクリクが建てられた時代は、この王国の「ウイグル人」がこの地に沢山いたのだろうと思われる。もともとウイグル人はマニ教を信奉していたらしいのだが、9世紀以降は仏教に転向したらしく、この千仏洞は転向後に立てられたことは間違いない。





この地一帯の山は、すべて「火焔山」と呼ばれている。そう、西遊記の火焔山のモデルはこの山である。勿論、牛魔王はいない。
我々にとってはスケール大きい素晴らしい荒野だが、タクシーの運転手のオスマンさんはこの景色が嫌いらしい。彼にしてみれば緑の色が沢山あるほうが美しいと感じると言う。なるほど、両者に共通しているものは「ないものねだり」であった。日本では緑なんか見飽きている。だからこのような荒野が美しくみえるが、彼らウイグル人にしてみたら逆なのだ。




火焔山。その名の通り、たしかにやや赤く見えなくもない。




千仏洞の建築様式をみると、それはもう中国ではない。文化で国境線を引くとしたら、間違いなくここは中国ではないだろう。




限りなく中央アジアの文化圏である。おそらくサマルカンドあたりの建築様式に非常に近いのだろう。



おっと、工事の足場がみえちまったい。
だが、注目すべきはそこではない。谷間から砂埃が近づいてくるではないか。やばい、カメラの大敵である粉塵だ。この粉塵はかなり目が細かいので、レンズの中まで進入してきそうだ。中国内陸部に行かれる方は、是非粉塵対策のアイテムを盛っていくことをお薦めする。




ドーム型の屋根がついている。インドや中央アジア、またはイスラム圏でよく見かける様式である。拡大解釈をすれば、ロシアのタマネギ形の屋根も、この系列に属するのだろう。



谷間のわずかな所に緑と河が流れている。中国内陸部における砂漠のオアシスとは、このようなものである。マンガやアニメに出てくるようなオアシスは、あれはサハラでのオアシスのイメージなのであろう。




観光地「火焔山」である。別にこの山一帯が全部火焔山であり、先ほどのベゼクリク千仏洞も火焔山の中にあったのだが、入場料を取る観光スポットとしての火焔山はここである。とくにスゴイとも思わなかったので、入場せずに、入場口の柵の外から身を乗り出して写真を撮った。それがこの写真である。
帰国した今になって気づいたのだが、写真の中央右側にハングライダーが見える。もしやあれは敦煌と同じようにエンジンつきで、遊覧飛行が出来たのではないか?だとしたら、私はとんだ大失敗をしたかもしれない。火焔山の飛行撮影ができたかもしれないからである。敦煌では二百数十元であった。もし、火焔山にいかれる人は、絶対にこのハングライダーに乗るべきである。たかが3500円程度を惜しんではいけない。
しかし、なぜハングライダーの存在に今頃気づくのだろう。遅すぎる。これから西域に行かれる方はくれぐれもこのような後悔はなされないことを祈る。



中国の高速道路の料金所。
なにやら感じで書かれている。民族団結高宇天。意味は分からないが、民族団結をして高みに上がろうというスローガンか?
団結をことさらに説くという事は、もともと団結があまりない証拠なのだろう。
あとよく見てみると、右側のほうに「繁栄経済済人民」と書いてある。この「繁栄」とか「団結」とか書かかれている看板は、非常に多く目にする。天安門広場においても「団結」という漢字が使われていた。