先崎彰容の頭の良すぎる内容を聞いてハッとしたので備忘録としてまとめておきたいと思う。
●(イスラム)原理主義という言葉の持つ本来的な意味
先崎
過去の聖典の作られた時代を絶対的に正しい時代として理想化して(想像上の過去と理想化して)、今の社会をムハンマドの登場する以前の無秩序と混乱の時代と同様なものとして考え、すなわちアメリカの資本などを受け入れた結果、腐敗堕落している無秩序な世界になってしまっていると考え、これを一気に変えなければならないという考え方をする。そうするとここに出てくるのは革命思想であり、社会を転覆するという思想になる。
一方過去というものを理想化する時のもう一つの態度に保守主義がある。保守主義とは今まで紡いできた時間を尊重して、革命を起こすのではなくて、少しずつ微調整していこうという考え方である。
ところが原理主義的な考え方は、もっと過去には純粋な無垢な時代があって、今徐々に他国の価値観などが入ってきて汚染されている時代なんだと考え、一気に変えなければならないという革命思想に直結している。革命は暴力を伴うから、我々が見ているような暴力のシーンもある。という風に考えたほうが、イスラムについて大枠で考えるときには正しいのではないか。
●キリスト教原理主義とイスラム原理主義の相違
宮家
キリスト教には聖と俗と2つに分かれている。その中間にカトリックであれば教会がある。ところがイスラムは聖と俗の区別がない。イスラム法学者は宗教指導者ではない。良いムスリムであれば、ムハンマドの教えを信じて実行する。この点で聖俗の区別はない。コーランに書いてあることを実行する。それを我々は原理主義と呼ぶ。
ペルシャとアラブ。石油がでているアラブと出ていないアラブ。占領下にあるアラブとそうでないアラブでは状況や事情が異なる。政治的利益の対立は、宗教的な教義でしか彼らは説明できないのある、今は。なぜなら議会制民主主義をやってもダメだった。社会主義をやってもダメだった。最後の手段としてイスラムがでてくるわけです。
アラブ民族主義の動きも、もともとイスラム主義でやるかアラブ主義(世俗主義)でやるか(注:イスラム教に基づくイデオロギーかアラブ民族主義に基づくイデオロギーか)、このせめぎあいは第一次大戦後・第二次大戦後に出てきた。その時に、いわゆる「イスラム原理主義」というものは退けらた。なぜかというとイスラム原理主義的なことでやるとクリスチャンが入ってこれないから。ところがアラブ民族主義の一番盛んだった当時のところはレバノンだった。レバノンは当時半分以上はキリスト教徒だったから(注:キリスト教マロン派のことだと思われる)当時はイスラム主義は採られなかった。ところがレバノン式の統治もダメ、ナセル式の社会主義もダメだった。そして最後に残ったのがイスラム主義だった。その中でもシーア派的なものもあれば、スンニ派的なものがある。スンニ派の中にもいわゆるムスリム同胞団的なものもあれば、それ以外のものもいっぱいある。だけど彼らの基本的な考え方は、今腐敗しているのをムハンマドの時代に神からいただいた言葉の通り、良いムスリムでありつづけましょうという形で世直しをする。それに常に戻ろうとする。そして戻ったら、また腐敗してというかだらけて、それが何度も何度もイスラムの歴史のなかで繰り返されてきた。
司会
●サウジとイランの敵対関係はスンニとシーアの対立ではない?
宮家
ないという風に分析しています。あれは結果。
ペルシャ帝国とその対岸にあるアラブ。そこに石油が出ちゃった。その裏にアメリカがいる。(注:パーレビー王朝とアメリカの蜜月のこと)で、革命がおきた。(注:イランイスラム革命)アメリカはイランを敵対している。どうしよう。その時にイスラム革命によって共和制になったイラン。シーア派の「イスラム法学者」が政治を行っている。これはイスラム的にまた原理主義的に言えばあるべき姿。でもそんなことをやったらうまくいくわけがない、という人たちがアラブにもいる。つまりシーア派だからスンニ派だからというワケではなくて、イランが政治的に求めている権益とサウジアラビア等々人口が少ない・石油は出る、しかし自分たちじゃ守れない、いやなイラク人もいるし、そしてその先にはペルシャ人もいる。どうやって自分たちの権益を最大化するかって時に、ひとつのイデオロギーとして宗教を使っているということはあると思う。
●イスラム復興
先崎
原理主義という言葉はアメリカのキリスト教(プロテスタント)の保守派から出てきた言葉である。第一次世界大戦後に共産主義や国際連盟が登場するが、キリスト教保守派からみれば自分たちの考えているのとは全然違う世界構想が作られたという危機感が出てくる。終末論のようなものがワーッとアメリカを掻き立てていった時にでてきたのが原理主義という言葉の最初だった。
イスラムの研究者の間では、この原理主義という言葉をイスラムに使う必要性はないという論調が多くある。なぜならイスラムってのがそもそが原理主義であるから、わざわざ原理主義と呼ぶ必要性がない。
社会主義・アラブ民族主義というキーワードについて。
例えば社会主義的な政策・民族主義的な政策、この2つに共通しているのは宗教と対立して世俗的な価値観だということ。したがってアラブ民族主義を掲げることは、世俗的なことであってイスラム(主義)を排除することになる。
国作りをする点においては、宗教さえそれに従わなければならないという。
例えばエジプトが国作りをしていった時期があったが、これは世俗主義の権化であって(注:エジプトは社会主義を採り、かつアラブ民族主義であるから)、イスラム(主義)からすると耐えられない。
社会主義みたいなのが、時代の雰囲気もあって取り入れて国作りをしていった。
アメリカにおいて第一次世界大戦後に原理主義が1920年代に台頭してきたように、イランやエジプトも明治維新期のように第一次世界大戦後に社会主義や民族主義を入れながら近代化を目指した時期があった。
欧米諸国とイスラム諸国の融和。成長と分配の好循環というイメージ。経済的な豊かさをヨーロッパの科学技術や資本主義を学ぶことによって入れることが融和だとするならば、それによって中東にもたらされるものは、中東にいる王や資本家たちが牛耳る資本主義的な経済的格差である。そこに登場してくるのがイスラムという宗教の背景をもった人たちが、貧民たちに福祉政策をやるとしたら、国民の信頼を得る。そして国王という世俗権力に対してイスラムという宗教を全面に押し出してきた者たちが支持を得て、これを乗っ取っていくというか変えていく、革命によって「我々が考えている清く美しい世界を取り戻すんだ」というのがある支持を得ていく。だから、我々が考えているような欧米との融和政策。「融和なんてふざけるな」と。「資本主義の豊かさで堕落しているだろ」と。「我々が清くつつましく聖典に書いてある通りの生活をしているのをないがしろにしているじゃないか」と、これは許すまじという考え方が暴力的に出てくるであろうと。ここに石油利権というものが絡んでくるならば、この石油を求めてアメリカとかがこの地域をグリップしておこうという国をいくつかピックアップすれば、そこの所に前述したようなオイルマネーをめぐる貧富の差が出てきているというである。
司会
●反米主義がアラブの一部の地域にあるとすれば、相手を間違っているという話であって、その国その国の王族とかイスラム法学者とか、ないしは政府とか国営企業とかそういうところに対して向かうべき怒りというものを、反米主義という言葉で、その国その国の統治者・権力者らが、敵は我々ではなくてアメリカなんだよと、ないしは巨大資本なんだよとすり替えて聞こえます。
先崎
アメリカに対する怒りがものすごい。だからすり替えというか非常にわかりやすい一つの象徴になっているのは事実。
宮家
結局イスラエルという国が建国されてしまって、エルサレムをユダヤ人が支配してしまっていると。エルサレムはイスラムの聖地ですから、その裏にアメリカがいると彼らは思ってますから。
そうすると各王様・独裁者がいるんですが、例えばサウジだったらワッハーブという非常に厳しいイスラムの法学者を仲間に抱き込んで、厳しい政策をやってそれで宗教的な正当性を維持してきたんだけれども、しかし実態は堕落しているわけですよ、おそらく。となると困るでしょ、国内あんまり正当性がないわけだ。そしたら「ホラみろと。イスラエルはけしからん。あんなところで殺戮をやっている」「これはアラブの大義である」といって国内の引き締めのためにイスラム・アラブ諸国がイスラエルのパレスチナ問題を利用したといったら失礼だけれども大義として活用してきたことは事実。
ところがパレスチナ人がとにかくバラバラになっちゃって、パレスチナ人は実政府あったはずなんだけどハマスにとられちゃって、そうすると「あれ?PLOにお金だしてきたのに、ちゃんとやってくれないじゃないか」と。
「よく考えると湾岸諸国にとって一番怖い相手はイスラエルなんかじゃない。ペルシャだとイランだと」となれば、「アメリカと喧嘩をするのもあるかもしれないが、やはりこれはイスラエルと組んで、そして自分たちの安全保障を考えることも検討しないといけない」と。「アメリカはアフガンから撤退して、そのあと帰ってこないんじゃないか」と。そういう疑心暗鬼がたとえばアブラハム合意というわけですが、イスラエルと一部の湾岸アラブ諸国との合意だとか、それとつい最近まではイスラエルとサウジアラビアとの関係改善もアメリカの水面下で仲介していたわけですよ。それが私の中東の現状認識です。
これらの話が正しいとするならば、中東の近現代史ならびに今日のパレスチナ問題、そして今日のテロ活動をしながらも貧民層に福祉するハマースやヒズボラの行動にも矛盾なく説明がつくものが多い。
さらにいえば中東地域における中世から近代まで勃興と滅亡を繰り返してきた様々な王朝や権力者の歴史の中で、彼らがイスラム教をどう利用しどう活用してきたかということにもある一定の答えが見えてくるものである。
1920年代に中東に起こった近代化や1978年に起こったイランイスラム革命は中東の「フランス革命」とは似ているが非なるものなのであろう。
「イスラムには聖俗の間に教会があるというような区別はなく、いつも原理主義であった。それが堕落とそれを正そうと絶えず繰り返される、それが中東の歴史である」という内容の話は目から鱗が落ちる言説である。