Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

フォッサマグナ

2020年05月02日 23時59分00秒 | 長野旅行記
フォッサマグナ。大地溝帯。大地の裂け目。ナウマン象でおなじみのナウマン先生が命名したというもの。


要するにユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界である。


嘘かホントかは知らないが、日本列島は2000万年前に中国大陸から分離して、日本海が形成され、1600万年前に割れた。その後、東日本は縦長に、西日本は横長になってくっ付いたらしい。
プレートはいつも同じ場所に留まっているものではないらしい。




ここは、糸魚川静岡構造帯。フォッサマグナの西の始まりの場所である。ここから東に向かって数十キロメートル行くと、フォッサマグナの東はしである柏崎千葉構造線に至る。
とにかく1600万年前に日本列島は割れた。割れた場所では日本海と太平洋を繋ぐ海になっていた。そこに風雨による侵食作用があり土砂がそこを埋め立てた。
フォッサマグナの深さは6000メートル。恐竜の化石があるとすれば、その下の岩石にあるだろう。上に積もった岩石は新第三紀以降のものであり、もう恐竜はいない。

関東山地のみがフォッサマグナから頭が出ている古い岩石。北西は小諸、佐久より、南西は八ヶ岳の東側で北杜市あたりまで。北東は熊谷手間あたりまで、南東は厚木までの巨大なものである。
この地域が頭が出ているのは、フィリピン海プレートの沈み込みによって、かつてはるか南にあった伊豆半島が本州にぶつかり北アメリカプレートの下に沈み込んだときに持ち上げられたのだろう。

さて糸魚川はヒスイで有名だが、これはフォッサマグナと無関係ではないだろう。ヒスイは火山活動により、岩石の中に溶岩が貫入するときに、溶岩の成分が溶けた地下水などが温められて結晶化したものだと考えられている。つまりヒスイは温水から作られるというものだ。
このあたりはフォッサマグナミュージアムで見学することができる。




善光寺

2020年04月20日 21時46分00秒 | 長野旅行記
去年の7月の写真。長野県善光寺。

神社仏閣の建築には、妻入りと平入りと2種類の様式がある。


建物の妻側(切妻)から入ることが出来る建物を妻入り、建物の横から入るのを平入りという。ここでは神明造は平入り、大社造は妻入りということになる。
両方とも古代からの建築様式である。

弥生時代の高床式倉庫が妻入りだったことを考えると、やはり妻入りの建物の方がより古いのだろう。たしかに平入りが機能的によいのは、その建物が横長で大きい時であろう。その場合は妻入りの場合には奥まで行くのに遠くまで歩かなければならないからだ。

伊勢神宮が平入りで出雲大社が妻入りということなる様式なのにも興味深い。天津神が平入りで国津神が妻入り、、、などという法則はないが、このあたりの日本の建築様式というものも深いものがあるだろう。



海津城(松代城)

2020年04月03日 22時57分06秒 | 長野旅行記
海津城の城代は甲陽軍鑑を記した高坂昌信。後に森長可の手に渡り、松平忠輝が入城し、よくわかんない城主を経て、真田信之(幸村の兄であり昌幸の子)が城主となる。武田→織田→豊臣→徳川→真田となり、明治維新まで続く。
この地は千曲川と犀川に挟まれており、西は北アルプスから犀川に注ぐ水。
東は群馬県との県境の山脈である浅間山や白根山などの山やら千曲川に注ぐ水で、古くから洪水が起こる地であった。
さて、この地ではいまからおよそ280年前の1742年に大洪水が起こる。
「戌の満水」という呼び名のこの事件は、海津城はもちろんのこと、佐久地方では10メートルの増水があったという。2019年の台風19号で壊滅的な打撃を受けた千曲川流域であるが、この戌の満水の時は、さらんび大規模な災害であったという。
このリンク先の動画をみると、当時の台風の経路と、2019年の台風の経路と台風のスピードが酷似している。

松代城は、その後城下町も形成され政治の中心地となるが、商人たちは善光寺門前から動こうとしなかったため経済の中心地にはなりえなかったようである。


川中島合戦場

2020年04月01日 21時18分28秒 | 長野旅行記
川中島といえば第4次川中島の合戦である。

赤いピンが川中島古戦場。北の黄色い星が善光寺。西の黄色い星が茶臼山(信玄の本陣)南に黄色い星が2つあるが、右側が海津城(現松代城)  左側が妻女山(謙信の本陣)


ジオラマを見てもこの通り。真ん中を南から北に流れるのは千曲川であり、西から東に善光寺付近を流れているのは犀川である。
地図や写真をみると、海津城と妻女山が近いこと。関ヶ原古戦場にも行ったことがあるが、実際この目で見たらあそこも結構狭かった。
海津城から妻女山までは、自宅からちょっと歩いてスーパー行ってくる、、、というような距離である。
  この戦いは典型的な後詰決戦である。海津城を上杉軍が攻めようとする。落城したらまずいので武田の本軍が山梨から出てくる。決戦。これである。
  長篠の戦いも、長篠城を狙って出陣した武田を織田徳川連合軍が援軍(後詰)で駆けつけ起こった戦であり、戦いは大抵が後詰決戦である。


当時の国境線は犀川。謙信は海津城を攻めるためとはいえ、かなり武田領奥深くのど真ん中の妻女山に陣取った。ヘタをすると包囲されそうな位置でもある。この陣取りは、後世のさまざまな歴史家たちから「頭おかしい」とか「天才のなせるわざか?」などという称賛を受けている。実際に海津城から妻女山を肉眼で見ても、たしかに謙信は頭がおかしい。


いわゆるキツツキ戦法に失敗した武田軍は、夜明けとともに霧の中から奇襲してくる上杉軍に狼狽し、いわゆる古戦場であるここで、信玄は謙信の太刀を軍配で受けたと言われている。


諏訪大社2

2020年04月01日 02時57分00秒 | 長野旅行記
神社のことを調べると、どうも奈良時代の格式、平安時代の格式、そして明治時代の格式で結構違ってきている。明治になると神宮や大社が乱発し、その価値が落ちる傾向にあり、戦後になるとその価値の既存が著しい。しかしながら平安時代においては、神宮や大社などは現代に比べれば希少であり価値が高い。
では現存する神社が、中世から連綿と続く由緒正しい神社かどうかのお墨付きは何を見れば信用できるのか?ということだが、そこで出てくるのが式内社、式外社というものであるようだ。この式とは平安時代の延喜式からきており、式内社と書かれた神社は、学者のお墨付きがついてると思ってもよいだろう。少なくど10世紀から連綿と続いている文化財であるとみてよい。
さて、次に官幣大社についてだがこれは何かというと、今で言うなら中央政府の官、すなわち当時の神祇官から神への供え物、いわば神の降りる依り代が支給されて、神社としての機能を保証されたものらしい。一方で、国幣大社なるものもあり、これは中央政府ではなく、地方を治めていた豪族ら国造から依り代を支給された神社であるようだ。大社、中社、小社という格付けもある。そして官幣といわれるものはほぼ畿内にしかなく、国幣は畿外である。
  ようするに誰の後ろ盾による神社なのか。宮なのか。そういうことらしい。

さて、諏訪大社である。少なくともこの神社は、官幣大社であり、式内社であるので、延喜式である10世紀あたりの平安時代から今日まで続く古い神社であり、どうじに中央政府の後ろ盾による神社である。

ランキングでいえば、伊勢神宮、出雲大社、香取神宮、鹿島神宮にはおよばないが、それに次ぐ名門とはいえるだろう。
つまりすごい。

ただ神社というのは、カミを信仰する古代日本人の中では、結構ののちの時代に作られたものらしく、原始的なものだと建物はなくて、祭りの時に磐座(いわくら)といわれる石や、神籬(ひもろぎ)といわれる結界を依り代として神に舞い降りてきてもらうものだったようだ。
現在地鎮祭で使われる神籬はこれではなく榊の常緑樹に紙垂(しで)をあしらった御幣のようなものを指すが、古代の神籬は結界だったようである。

古代の神籬は、現在の拝殿と本殿を囲う玉垣(たまがき)瑞垣(みずがき)や垣の内側に植えられている神木などの囲われた結界がそれである。



神籬  ひもろぎ



地鎮祭による神籬



玉垣  瑞垣



磐座   いわくら






諏訪神社

2020年03月31日 17時05分49秒 | 長野旅行記
中央高速の諏訪ICで降り、諏訪大社上社本宮を訪ねた。
【諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。 】
【諏訪大社は「上社本宮 」「上社前宮 」「下社春宮 」「下社秋宮 」といったように二社四宮の境内が鎮座する。】

暗号である。日本語でお願いしたい。ハッキリ言って、↑の文章は何を言っているのかよくわからない。式内社?官幣大社?おいしいんですかそれは?
そもそも日本人でありながら「社」と「宮」の違いも、この記事を書いている段階ではわかっていない。
しかも上の社、下の社とはなんなのか?本宮はなんとなくわかるが前宮との違いはなにか?春宮?秋宮?なんで季節の名前が宮の前につくのか?
この時点でわかることは、私は日本の古来の宗教である神道そしてその様式や用語についてはまるで無知ということである。
 
ネットで調べてみることにした。
https://syukatsulabo.jp/article/8829 
ああ・・・・やばい。この感覚は・・・・・人生でなんども似たような経験がある。そうだ、これは、私が、日本古来の文化や神道に対する知識が圧倒的に足りていないという確信の感覚である。

以下、ネットを駆使してなんとか分かった(ようなきになっている)ものを要約すると
〇上社中社下社 上下は土地の高低をさす場合もあるし、序列のことを示す場合もあり、神社につかわれるときは前者の高低を示すことが多い。
〇神社と宮の違い 神社は神道の施設をさす言葉 宮は神社の社号の一つ。
〇春宮 皇太子がすむ宮 秋宮 皇后がすむ宮

さて、いよいよ行き詰った感がある。
なにが行き詰ったかというと、今これを書いている私の頭の中に去来していることは、次のような疑問でいっぱいだからだ。「そういえば若宮って言葉があるな」「あと皇族の親王のことを宮様というな」「浩宮」「秋篠宮」「ああ、ここにも秋がついている」「秋は皇后じゃないのか?」「ほかにも全国に総社とか一宮、二宮、三の宮とかもあるな、あれはなんだ?」「社と杜(もり)って言葉があったけど、あれはどうなってる」「なんで春が皇太子で秋が皇后なのか?」「社号には神宮・宮・大神宮・大社・神社・社 の6つあるが、格式の高さの違いがあるらしいが、どれが最も高く、どれが最も低いのか。そしてそれはなぜか?」

たぶんこの段階の理解で、知ったような解説をブログにかいても、おそらく電話帳のような長さの膨大なコピペの文章で溢れることになるだろう。しかしそれをやり終えても、私の脳内はあいかわらずスッカスカに違いない。

結局私は諏訪神社に行って、いったい何を観たのだろうか?という疑問が残るが、そんな無知に嘆いても仕方がない。この記事を投稿した後に、上記の疑問についてとりあえず一夜漬けのお勉強をしようと思う。

とりあえず今日の記事は以上です。
♪キーンーコーンーカーンーコーン