Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

ウエストワールド解説一覧

2022年07月18日 14時00分52秒 | ウエストワールド


海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL7

2022年07月17日 06時21分23秒 | ウエストワールド
シーズン1の内容はほぼ書き尽くしたので、1-4から1-9はすっ飛ばし、1-10のラスト辺りを書くことにする。

フォード博士の部屋に入っているシャーロットヘイル。彼女はフォードに引退を突き付ける。博士の部屋は「ヴンダーカマー」という、15~18世紀にかけてヨーロッパで作られていた、様々な珍品を集めた博物陳列室となっている。王侯貴族や学者や文人などの間で作られるようになったもので、後の博物館の前身といわれている。

ヘイルがフォード博士の部屋の中で、エスカランテの再現された町のジオラマをチラ見するが、このジオラマには既に反乱を起こすホスト達が配置されている。
 フランクという古いホストが演奏しているピアノ曲は、ショパンの「夜想曲」である。

 その後、メサハブではデスティンが作られたばかりのヘクターにいかがわしいことをしようとするシーンが挟まれる。このときデスティンがイヤホンを通じて聞いている曲はCANDY CASLEの「GLASS CANDY」。

 
 さて、メイブが脱出のシナリオをアーノルドのIDによって仕込まれていると、シルベスタを通じて知ることになるのだが、これは別にアーノルドが生きているわけでもなんでもなく、単にフォードがアーノルドのIDを使って脱出のシナリオを入れたのである。


 さて物語も佳境に入り、ついに黒服が自分の正体をドロレスに告白するシーンへ。ドロレスと最初に出会った街で、ウイリアムはドロレスを見つけるが、すでにドロレスは記憶をなくしておりウイリアムを思い出すことができない。ウイリアムは呆然となって立ち尽くすというシーンが印象的である。
 このシーンは実は繰り返される。ドロレスがこの直後にウイリアムをボコボコにして、銃でウイリアムを撃とうとしたとき一瞬躊躇するのだが、ウイリアムはそのスキを見逃さず短剣でドロレスの腹を刺す。
 「本物じゃないとまたわからせてくれた、ありがとうドロレス」と刺しながらウイリアムはわずかに笑みを浮かべて言うのだが、ここで先ほどの若きウイリアムが呆然となって立ち尽くすシーンの絵が映し出される。これは老いたウイリアムにとって悲しい現実なのだ。2度もそれを味わった、ということである。

「あなたは変わったわ」「お前が俺を変えたんだ」という二人のやり取り。
「お前が俺を変えたんだ」というセリフは、1-1でピーターアバナシーが娘のドロレスに言った言葉と同じであるが、意味するものは真逆である。

この後、ドロレスが怒り、ウイリアムをボコボコにするわけだが、このシーンは1-1において、黒服がアバナシーの家に現れたときと酷似している。
1-1では黒服が、ドロレスの首根っこを掴み納屋に無理やり連れていくのだが、ここでは逆にドロレスがウイリアムの首根っこを掴み、教会の祭壇まで引きずっていく。教会の出口でウイリアムを突き落とすドロレス。銃を抜き抵抗しようとするウイリアムの銃を手で払いのけるドロレスは、1-1における立場が完全に逆転している。
 その後テディが馬にのって登場し、ウイリアムを打ち気絶させるシーンも、1-1で「お前は負け犬になるためにいるんだ」というシーンとは立場が逆転している。
 このドロレスとテディの行動の筋書きは、フォードによって組み込まれたものだろうと思われるが確証はない。


 さて、シーンはドロレスとフォードの会話の中で、アーノルドの自殺に関するエピソードへと移る。
 作中何度もエスカランテでの惨劇のシーンが、ドロレスやテディの記憶の中で出てくるが、その記憶のどれもが改変されたものであった。しかし今やドロレスはハッキリとそのときの記憶を取り戻し、アーノルドが意識を持ち始めたホストをパーク開業の直前に自分もろとも消すという行動に出たということを思い出す。アーノルドの「ワイアットのシナリオ」とはいえ、ドロレスは自分の意思ではないものの、アーノルドを撃ち殺したという記憶が蘇る。
 そして背景の蓄音機で鳴っている曲はドビュッシーの「レベリー」。アーノルドの息子のチャーリーのお気に入りの曲である。

 「激しい喜びには激しい破滅を伴う」アーノルドの最期の言葉であることがここで分かる。この言葉はシェークスピアのロミオとジュリエットにおいて、ローレンス神父がロミオに対して言った言葉。ここからみるに、アーノルドはシェークスピアの言葉の引用が好きだったようである。ピーターアバナシーがドロレスの父親の役ではなく教授だった30数年前、ピーターにはシェークスピアとガートルートスタインのセリフが多く入力されていた。

 ドロレスはアーノルドを撃ち、テディを撃ち、そして最後に自分自身を撃つ。この時のテディの倒れ方は、1-1で黒服に撃たれて倒れるものとよく似ている。まるでシーンの1つ1つが、ホストに何かを思い出すように作為的に仕立て上げられているとしか思えないようである。

 さて、ドロレスはついに自分自身と対話するシーンを通じて意識を獲得する。

ここでフィナーレと繋がっていく。
自動演奏の曲はexit music(for a film)

歌詞は以下の通り。

Wake
起きて
From your sleep
目を覚まして
The drying of
Your tears
君の涙が乾いたら
Today
今日
We escape
一緒に逃げ出そう
We escape
一緒に逃げ出すんだ
Pack
荷物をまとめ
And get dressed
着替えるんだ
Before your father hears us
君の父が聞きつける前に
Before
All hell
まずい事になる前に
Breaks loose
逃げ出そう
Breathe
息をして
Keep breathing
息をし続けて
Don’t lose
Your nerve
怖気づいちゃダメだ
Breathe
息をして
Keep breathing
息をし続けて
I can’t do this
Alone
一人じゃ無理なんだ
Sing
歌って
Us a song
一緒に
A song to keep
Us warm
歌が
温めてくれる
There’s
Such a chill
ここはとても寒い
Such a chill
とても寒いから
You can laugh
お前らは笑うんだ
A spineless laugh
腰抜けの笑い
We hope your
Rules and wisdom choke you
僕らは望む
お前らのルールや分別が、お前らの首を絞めるのを
Now

We are one
僕らはひとつ
In everlasting peace
永遠の平和の中で
We hope that you choke
お前らの首が締まる
That you choke
首が絞まるんだ
We hope that you choke
お前らの首が締まる
That you choke
首が絞まるんだ
We hope
僕らは望む
That you choke
お前らの首が締まる
That you choke
首が絞まっていくんだ


 ホストの覚醒と反乱、そしてそれによって慌てふためく人間たちを想起させるような歌詞になっている。ドラマの中ではこの曲の歌詞は出てこなくて、ピアノとオーケストラの音だけになっているが、曲についている歌詞を、カメラワークと合わせて是非見ていただきたい。ものすごく調和をしている。

「我々の犯した罪の牢獄です」
このセリフは、覚醒したアバナシーがフォードに突き付けた言葉でもある。

 
 メイブが下車をする。脱出のシナリオから逸脱した。意思を獲得した感動的な場面。シナリオを逸脱させパークに残った理由は、娘という「設定」に対する自分の気持ちであった。「ただの設定」といいながら、自分の子供に対する愛が下車を決めたのである。このシーンは好きだ。

 地下83階はもぬけの殻。パークの郊外でタバコをふかすウイリアムは森の方で不穏な音を聞く。

 「はじめは戦争の頃、悪党が登場。名前はワイアット。殺人を犯す。今度は自分の意思で」
「今度は自分の意思で」というところがゾクっとくるほど心地よい。

 テディが壇上に向かうドロレスを見たとき、彼の記憶が蘇る。
 それは、最初はフォードによってインストールされたワイアットのシナリオによる偽りの情景だが、その直後に隠されていた本当の記憶であるアーノルドの自殺という情景。

 ほぼ同時に、バーナードも銃をもって登壇しようとするドロレスを見たときに、思わず口走ってしまう。
「激しい喜びは激しい破滅を」
これはテディと同じで、バーナードはアーノルドを元にして作られたホストだから、隠された記憶を酷似した状況下で思い出しているのだ。

 後ろではずっとレベリーが流れている。同じ旋律のタイミングでドロレスは今度は(自分の意識で)フォードに対して引き金を引く。

 ほぼ同時にウイリアムも、地下83階から解放された覚醒したホストに腕を打ち抜かれる。

 慌てふためき逃げ惑う人間と、無表情で棒立ちのままの(非覚醒の)ホストとの対比を見せる。

 銃を撃ち殺しまくるドロレス、呆然と驚いて目を剝くテディ、眉をひそめるバーナード、笑みをうっすら浮かべるリーバス、そして満面の笑みを浮かべるウイリアム。
 いつしかレベリーの曲は、ノイズの入る蓄音機の音に変わっている。
蓄音機の曲の終わりと共にEND。

 

 視聴者はこのフィナーレをホストに感情移入して見ている。ずっと抑圧され続けていたホストが、最後の最後のシーンで解放される。ドロレスの目が座った殺人鬼のシーンで終わるわけだが、なぜか我々はこのシーンを「痛快」に見れてしまうのだ。カタルシスを感じるわけだ。


 シーズン1の1-10。exit musicが流れてからのフィナーレまでの約7分間はウエストワールド最高峰のシーンであり、これがあるがゆえに、シーズン2やシーズン3はシーズン1には遠く及ばないのである。










海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL6

2022年06月24日 12時34分00秒 | ウエストワールド
オープニング映像について。
OPの音楽は非常に単純な旋律の構成で同じような旋律の繰り返しである。作品のテーマであるループを意識しているのだろう。
 機械によってピアノ線が張られていく。これはピアノをホストに見立てているだろう。色的にピアノは白黒だし、コード通りに音楽が進行していく様はホストのコードと同じである。最初は白いホストがピアノを演奏しているが、途中から自動演奏に変わるのは、ホストの進化を表しているんだろう。もしくは人間にコントロールされている軛からホストが解放されるさまを表しているのかもしれない。
 旋律的には最初暗くゆったりと流れ、途中から盛り上がり、最後は転落するような流れで終わる。この物語の行く末を暗示するかのように。


 1-3には特に重要なシーンはない。鏡の国のアリスのシーンはドロレスの内なる声を、あたかも回想シーンのように見せている。重要なのは「私との会話を誰にも聞かれてないね」というくだりである。これはドロレスが自分の心の声が聞こえていることを、周りに秘密にしているということだ。
 解析モードとかいろいろ専門的なやり取りをしているが、基本的にこの対話は(無意識の)自分との対話である。
 これは人間でも心の声と対話するときは、心の中で擬人化した何者かがでてくることと似ている。ただホストの場合は記憶が正確すぎる機械であるから、自己との対話のあらわれ方が、人間とは少し違っていることを映像的に示しているのだろう。

 朝、ドロレスの家のタンスの引き出しから銃がでるシーンと、銃が消えているシーンが繰り返される。また、リーバスを納屋で撃ち殺したドロレスが、逃げるときに腹に銃弾を受けるシーンと受けてないシーンが繰り替えされる。これは単純に現在と30年前の異なった時間軸の中で、同じような事件が起こったというだけである。
 記憶が鮮明すぎるホストが、回収後に記憶を何度も消去されても、何かの拍子で消された記憶を思い出す。それをホストの主観視点で見るとこのような見えかたになる・・・ということだ。

 シーズン1現在のドロレスは、敵の銃弾をかいくぐり馬で一人で逃げた。ウイリアムとあの焚火では合流せずにである。
 記憶のなかで撃たれたドロレスは、逃げるのを失敗したループの一つのパターンだったんだろう。そのループではドロレスは回収され、記憶を消されてまたパークにもどるのである。
 一方30年前のドロレスは、これも敵の銃弾をなんとかかいくぐり、焚火にいるウイリアムと合流する。
 これらのループの記憶が現在のドロレスの中で蘇っているのである。

つづく。


海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL5

2022年06月23日 14時00分16秒 | ウエストワールド
1-2からの解説はサラっと通したい。
冒頭の「起きろドロレス、覚えているか?」はシーズン1の現在であり、埋められた拳銃を探して手に入れるところ。
 その直後に列車に乗っているウイリアムが写るので、若きウイリアムがウエストワールド初来訪の時間軸と1-2の冒頭のドロレスの時間軸があたかも同じであるという錯覚を引き起こしてしまうが、これはミスリード。

 あと我々はこの作品を日本語の吹き替えで観ているが、原文で観ないとわからないような言語的なトリックも隠されている。「覚えているか?」とか「覚えておけ」と日本語版ではなっているが、原文では「remenber」となっており、この単語は「覚える」と「思い出す」と両方のニュアンスを含んでいる。つまりここでもミスリードを誘う表現をとっているわけだ。したがって、ウエストワールドという作品の本質を捉えようと思ったら、どうしても原文にあたる必要があるのだが、そこまでやるともう研究レベルなので本稿では割愛する。

 列車の中でローガンが「本当の自分を出しているだけ。それがこの旅の目的さ。お前みたいな根っからの堅物野郎は別人になるといいぞ」という。ここにはローガンの本音が表れていて、この旅の目的はウイリアムの本当の姿を見るために連れてきたのだろう。なんだかんだ言いながら、ローガンはちゃんと経営者としての警戒心を持っていて、ウイリアムの本性をこのパークを使って探ろうとしているのである。しかしローガンは甘い男であるがゆえに、その目的をうっかりこのように言葉にしてしまうのである。

 駅のプラットフォームにはアンジェラが立っていた。30年前のアンジェラは受付嬢。シーズン1現在のアンジェラはワイアットの部下。
 エスカレータを上がったところのモニタに表示されるウエストワールドのロゴは、地下83階の冷凍室の入口にあるロゴと同じであり、現在のウエストワールドのロゴとは異なっている。まだパークはデロスのものではなく、アルゴス社のもだった頃だろう。

 君本物?「みわけがつかないなら、関係ないでしょ」
このセリフは、シーズン1、2、3を通して繰り返される。
シーズン1ではアンジェラが。シーズン2ではウイリアムが実験室でデロスに
言い、シーズン3では精神病院でのVR療法中にウイリアムが議長をつとめるデロスに言う。おそらくシーズン4でもこのセリフはでてくるだろう。
 このセリフの意味としては「本物か?偽物か?」「夢か現実か?」という問いに対する答えである。「分からなければ(見分けがつかないなら)関係ないだろう」。この答えはあたかもデカルトの「われ思う故にわれあり」にも似ている。実存とは「ある」と思い込んでたら、それは物理的になくても「ある」という解釈である。

 この場面でもアンジェラを含むホストは、白い服に白い靴であり、「白い靴のレディに乾杯」に繋がる。

 
 さて、このドラマはオンラインゲームを意識して作られている。冒頭の銃選び、服装選びなどもキャラメイク的に思えるし、最後の帽子選びなどは、自分が「善」なのか「悪」なのかの属性の選択なのであろう。
 扉に向かうウイリアムの表情が、西部のキャラになりきっているのが笑えるポイントである。

 この後、ローレンスを助ける黒服が迷路を探す旅にでることと、酒場でメイブがアキチタの手下に頭の皮をはがされそうになるのを回想するシーンは、「迷路」を頭の皮に刻むという意味で繋がる。
 シーズン3で明らかになることだが、すべてのホストはドロレスを元にして作られたという。そういう意味ではアーノルドがドロレスに施した迷路のゲームは、ドロレスだけに作用するのではなく、すべてのホストに作用すると考えても差し支えない。メイブは頭に迷路が刻まれることはなかったが、庭の砂の上に迷路の絵が描いてあることを見たし、また、アキチタもシーズン2で語られるように、エスカランテでアーノルドの死体と共に迷路のおもちゃを見てしまった。
 迷路はホストが自我を得る手段としてシーズン1では描かれる。この迷路はホストの覚醒の呼び水として作用する傾向がある。
 ここから先は妄想になるのだが、ひょっとしたら「レベリー」というのは、この迷路のゲームを起動するためのアップデートだったのかもしれない。すくなくともアーノルドが仕込んだレベリーとは、そういうたぐいのものだったのだろう。フォードの「レベリー」は、作中ではちょっとしたリアルなしぐさのアップデートのことを指しているということはバーナードの口から語られるけれども、たぶんこれは半分本当だが半分は嘘で、細かいしぐさのアップデートを隠れ蓑として本当は迷路のゲームをホスト全員に仕込んでいたのではないか?

 
 さて、場面はメサに映り、バーナードがフォードに対してアバナシーの暴走についての疑問をぶつけるが、フォードは答えをはぐらかす。
 フォードの意図的な介入がどこまであるのかについては明確には示されていないのでなんともいえないが、この場面をみるとフォードの介入のフシがある。


 時間軸が35年前に変わり、ウイリアムとローガンがパークに訪れるが、シーズン1現在の時間軸と違って、この頃にはまだヘクターはおらず、ユニオン軍が義勇兵を集めている。南北戦争あたりの時代のイベントがあったのだろう。メイブも酒場の店主ではなく郊外の小屋で娘と住んでいる頃である。



 フォードがパーク内に外出するシーン。
「道に迷ったの?」「ちがう、道を外れただけだよ、少し外れすぎたがな」
 フォードのセリフはいちいち二重の意味があって面白い。このシーンは原文ではどう言っているのかわからないが、日本語で解釈するのであれば「迷ってない。道を外れただけ」というのは、自分の夢そのものには疑問を持ってはいなかったが(迷ってはいなかったが)、道を外れた(外道に落ちた、罪深いことをした)ということだろう。
 

 1-2のラスト。フォードとバーナードが埋もれた教会の跡地での会話シーン。「プロットはある、私があたためてきたものだね。かなり独創的な」で終わる。このプロットはホストの反乱である「夜への旅路」のことであるが、これを1-2のラストにもってくるのがよい。初見ではフワっとした平凡な終わり方にみえるが2周目以降にみると、明らかに反乱のシナリオについて言及していることがわかるからだ。


つづく




海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL4

2022年06月20日 22時46分46秒 | ウエストワールド
VOL4だというのに、まだ1-1の解説が終わらない。
それだけシーズン1の内容が濃い所以だが・・・。
保安官にハエがとまり不具合が発生。プレイヤーを案内したテディがバルコニーの椅子に座っているとことで顔にハエが止まる。このハエの描写についてはシーズン1ではしつこくでてくるが、シーズン2、3になるとほぼ皆無になる。今度のシーズン4ではハエのギミックが大事な要素になるようだが、シーズンに1におけるハエの意味するところは大きく2つ。一つは視聴者にミスリードをさせるためのものである。つまりハエがホストに不具合を起こさせているという錯覚をおこさせるというもの。しかし実際のハエの意味は、ホストは人だけではなく生き物全般を殺せない・殺さないということを、ハエをつかって映像的に示しているのだろう。

 さてシーズン1の人物描写についてだが、シーンの何気ない一コマにも人物描写に念のいれようがうかがえる。屋上のラウンジでテレサ=カレンとリー=サイズモアが世間話をするシーンがあるのだが、ここでリーが「敬意を置く」という言い間違いをする。シナリオ部長である彼がこのようないい間違いをするのは、彼が脚本家として2流であるということをセリフではなくシーンで示している。


さて、ドラマはここから急展開を見せる。
ならずもののウォルターがプロットから外れて、相棒のリーバスを殺し、牛乳を飲んでいるシーン。ここでウォルターは「今回は死なねーぞ、アーノルド」という意味深のセリフを吐く。
 シーズン1の最大のどんでん返しの1つにバーナードはアーノルドを模して造られたというものがある。シーズン1にはアーノルドのような男がドロレスの回想(?)の中で何度も登場する。どれがアーノルドでどれがバーナードかという推理を視聴者はしたくなるのだが、それは監督のミスリードに見事にはまってしまったといえよう。なぜなら、シーズン1においてドロレスの回想(?)の中で登場するアーノルドのような人物は、実はドロレスの内なる声であることはVOL1と2で書いた通りだからだ。だからドロレスの「回想」というのも厳密には間違いで、あれは自分の内なる声なのである。
 それを前提とすると、ウォルターが「今回は死なねーぞ、アーノルド」と一人で会話しているシーンは、ウォルターには内なる声が聞こえているという解釈ができる。
 ただし、ウォルターが独力で内なる声が聞こえるほど覚醒しつつあるのかといえばこれは疑わしい。おそらくかなりの確率で、フォードがウォルターに「二分心」すなわち内なる声を仕込んだものだと思われる。
 実際1-10においてメイブがパークから脱出するときに、メイブは脱出のプログラムを入れられたとバーナードから告げられえた。そしてメイブのコアコードを書き換えた人物のIDは、アーノルドのIDであった。アーノルドが生きているわけがないので、このIDを使ってコアコードを書き換えた者はほぼフォードでしかありえない。

 
 さて、場面は変わってホストが作られる現場。丸い輪の中にホストの人体が大の字のポーズをとっている「カタ」がベルトコンベアで流れている。これは映像的にウィトルウィウスの人体図(ダビンチの人体図)を同じポーズである。これが何を意味するのかについては不明だが、フォードは文学・芸術的な造詣
が深く、おそらくそういう彼のキャラクターを強く印象付けるための映像的工夫を監督がしたものと思われる。

 
 翌日の早朝、一晩中写真をみていたドロレスの父のアバナシーは、明らかに不具合を起こしており、「地獄はカラだ。悪魔はここにいる」とシェークスピアのテンペストの一節をドロレスに叫ぶ。
 そして時を同じくして、スイートウォーターではヘクターによる酒場強盗イベントが起こる。ここで流れる曲はローリングストーンズの「黒く塗れ!」である。この歌の歌詞は、大事な人(女)を亡くした男がほかのことには目もくれず文字通り黒く塗りつぶし、ひたすら悲しみに身を浸すというもの。

1番の歌詞の原文と和訳
I see a red door
and I want it painted black
No colors anymore
I want them to turn black
I see the girls walk by
dressed in their summer clothes
I have to turn my head
until my darkness goes

赤いドアを見ると
黒く塗りつぶしてやりたくなる
色なんていらないのさ
全部黒くしてやりたいんだ
夏服を着た女の子達が
そばを通りすぎていったんだ
俺は見ないように反対を向いた
俺の中の闇が通りすぎるまで

この曲のタイトルは原文では「Paint it, Black 」とコンマが入るがこれはストーンズメンバーの意思ではなく、所属レーベルのデッカ・レコードによってつけられたものだった。しかしコンマが入ると「黒く塗れ」ではなく「塗れよ、黒人」という意味にとれてしまうため、近年ではコンピレーションアルバムなどに収録される際にはコンマなしの表記にされている。 (WIKIより抜粋)

 なぜヘクターの酒場強盗のシーンで、この曲が流れるかは実はよくわからない。なにかのオマージュなのかもしれない。


 場面はメサハブに戻って、アシュレイ・スタッブスがドロレスに質問をするシーン。ここでのアシュレイの質問の内容は、1-1の冒頭でバーナードの声でドロレスと質問のやり取りをしている場面とほぼそっくりである。
 つまり1-1の冒頭のシーンは、何度も回収されてループするドロレスに、(職員が)いつも同じ質問をして不具合がないことを確認する作業を示したものである。シーズン1においてホストにとって「声がする」というのは大まかに2種類あって、一つはこの感情がOFFになっているときに職員に話しかけられる「声」。もう一つは内なる自分の「声」である。

 
 さて1-1も佳境に入り、いよいよフォードが不具合の出たアバナシーに質問をする。アバナシーはシェークスピアのセリフをフォードにぶつける。このアバナシーの発言は、製作者への復讐ともとれるし、過去のシナリオが亡霊のようにレベリーの不具合で蘇ったともとれる。どっちにも取れるところであるが、覚醒したと理解しておくことにする。
 
 同時進行でドロレスへの質問に場面がうつる。アナバシーから告げられたセリフ「激しい喜びには激しい破滅が伴う」。この言葉の意味は?とアシュレーに告げられるも、ドロレスは「ない」とキッパリと答える。しかしこのセリフはアーノルドが自殺する前の最期の言葉であり、この時点のドロレスはこの言葉がアーノルドが最期に発した言葉であることに気づいているようだ。つまりドロレスはこの時点でウソをついている。直後に「ウソをついたことは?」とアシュレー。「ないわ」とドロレス。「生き物を殺したことはあるか?」に「あるわけがない」とウソをつきまくるドロレス。

 実はアシュレーもホストなのだが、それはシーズン3にならないとわからないようになっている。彼はドロレスについて「パークで一番古いホストだ」とよく内情をしっているし、またシーズン1でエルシーに「俺にも設定があってね」などという冗談をいうが、これが冗談ではなかったのである。
 
 1-1のラストは元酒場のマスター(酒場強盗の時に撃ち殺された)が、新アバナシーとして登場し、ドロレスが首にとまったハエを容赦なく殺したところで終わるのだが、非常に不気味な終わり方をしている。
 1-1はシーズン1を通じておそらく一番情報量が多い回であり、ここで物語のほとんどすべてのバックボーンを説明してしまっている。内容が濃密なのである。

 さて、「激しい喜びには激しい破滅を伴う」というセリフは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」にでてくるローレンス神父のセリフである。ローレンス神父が情熱が激しすぎるロミオに対して戒める意味で語った言葉である。そういえば、ウイリアムの奥さんの名前は「ジュリエット」であり、ウイリアムにはいつも「ローレンス」が行動を共にしている。とするとウイリアムはさしずめ「ロミオ」かとも思うが、ウイリアムはご存じの通り婚約者であるジュリエットを愛してはない。
 パークのホストであるローレンスは、1-9か1-10で示すようにウイリアムとドロレスをパークの奥に案内し、最終的には海と山がつながる場所でサヨナラをしている(このときのローレンスはエルラゾという名前だったが・・)。またシーズン1の黒服(ウイリアム)とローレンスは、迷路を追って旅をしていたが、最終的に黒服がたどり着いた先は迷路というよりもドロレスだった(1-10)。ここまでくると、本当のジュリエットが何者なのかが分かるというものだろう。

 おわりに、アバナシーが喋ったシェークスピアのセリフ「生まれてくるとき、人が泣くのは、阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。」という。これはシェークスピアのリア王という作品の中の王のセリフである。
  人生は舞台。人は仮面を被り人生を演技する。ホストの筋書きも舞台。アホどもの舞台の「アホ」共とはいったい誰をさすのか?という疑問を投げかけて、1-1の解説をとりあえずは締めくくろうと思う。

1-2につづく。


海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL3

2022年06月03日 18時56分37秒 | ウエストワールド
それにしても黒服は格好良い。シーズン2のジェームスデロスへの実験と、奥さんの最期を見ればわかるのだが、この1-1現在の黒服は、奥さんを亡くしデロスの実験も終わらせた後(あるいは直後)の苦悩が深い状態での来園である。
 黒服は会社の経営への熱意は完全に失われている。シャーロットヘイルに経営を任せ、娘が言うように自分を罰したいという気持ちがあったのだろう。

「お前に先に撃たせてやる」黒服はそうテディに言う。これは1-10で若きウイリアムが、傷ついて逃げたドロレスを助けるために、コンフェデラートスを皆殺しにしている時に言ったセリフと同じ。
 ところが1-1では、ドロレスは黒服によって傷つき、それを阻止しようとするのはテディである。つまりこの場面は、テディを若きウイリアムに、黒服をドロレスを犯そうとするコンフェデラートスになぞらえているのだ。
 このメタファは何をいいたいのだろうか?黒服がテディやドロレスに、自分がかつて受けた苦しみを同様に与え、覚醒を促していると考えればいいのか?あるいは、黒服がテディにかつての(一皮むけるまえの)自分自身を見て、嘲笑ってるのを象徴しているのか?
 いずれにせよ、そのような意図が監督によって重層的に張りめぐらされていることは間違いない。なぜならこのシーズン1には無駄なシーンがほぼ無いからだ。些細なカットにも必ず意味を持たせているのがシーズン1の特徴であり、同時にシーズン1がウエストワールドの最高傑作である所以だ。

「こっちは高い金を払ってるんだ。もっと抵抗しろ」
このセリフにも痺れる。これは別に凌辱プレイが好きだという表面的な意味もあるのだろうが、本当のところでは黒服はホスト達を自由に反撃させたかったのである。それは1-10において黒服はフォードに述べた通りなのだ。

そして黒服に撃たれたテディの倒れ方は、エスカランテでドロレスに撃たれた時のしぐさと酷似しているのは、この作品が「ループ」と「覚醒」というものをテーマにしているからだろう。


場所はメサに移る。
この建物の内装も職員の服装も極端なまでの白と黒の色で統一されていることである。ウエストワールドの作品は全体を通じて、この白・黒・そして赤という3色の色で統一されている。1-2において若きウイリアムが白い帽子を選び、ローガンが黒い帽子を被っているのにも意味があって、黒は基本的に悪のような特徴が、白はその逆で善のとうな特徴がある。

メサの建物内をみればわかるが、異様なまでにモノがない。壁は黒塗り、床もモノトーン。おそらく監督は、映像に映っているモノ全てに意味をもたせたいのだと思う。逆にいえば、映像に意味をもたないものは全部排除している。これは実写をアニメ的な手法で撮っているようにも見える。映像の情報量というのは、実写>アニメである。演者の顔のシミや、天井の汚れなどは実写ではどうしても写り込んでしまう意図しない情報である。これがアニメの場合は、キャラクターの顔にシミをわざわざ付け加えないと、そういうことを表現できないから、アニメの映像の場合は実写にくらべて情報量が少なくなる。つまり違う角度からいえば、アニメのほうが情報量が少ないが故に、監督が視聴者をコントロールしやすいのである。視聴者が余計な(監督が意図しない間違った)解釈をするのをあらかじめつぶせるのは、情報量が少ないほうがしやすいのである。つまり、ウエストワールドのシーズン1の監督は、そのアニメの原理をよく知っているがゆえに、実写でもアニメのように情報量を極力減らすことによって、視聴者の解釈をコントロールしようとしているのである。
同時に色とモノの統一美という効果もあるのだが・・・・。

さて職員の服の色は白と黒で統一。黒は主に管理職や事務職であり、白はおもに現場作業者・肉体労働者である。ホワイトワーカーとブルーワカーを色で表現しているわけだ。上級職は黒つまり悪の色を、肉体労働者は白つまり善の色になっているのは、このメサというパークを管理する仕事場を、我々の実社会のヒエラルキーとなぞらえているのである。
 その証拠にこのメサの最上階には上級職しか利用できないラウンジがあり、最下層には廃棄処分されたホストが並べられている。これは具体的な高低差の階層を、職務的な階層として表現したものである。下におりるほど貧しくなり、上にいくほど富めるというわけだ。


さてここで「レベリー」という言葉が初めてでてくる。レベリーは空想とか夢とかいう意味で、作中で流れるドビュッシーの曲のタイトルも同じくレベリーである。
この曲は、バーナードの設定上の息子チャーリーのお気に入りの曲で、アーノルドが自殺するときにも、フォードが最期に撃たれるときにも流れる旋律である。

地下83階。ここはまだデロスに買収されるまえのパークのロゴが確認できる。このロゴは若きウイリアムが初めて来園したときのロゴと同じであり、つまり35年前はこの辺りが列車のプラットフォームだったのかもしれない。

ここにフォードがたびたび籠っているのにも理由がある。1-10のラストでは、ここに保管されているホストは全てカラになり人間に反撃することになるのだが、それはまさに貧民による革命というメタファーであり、同時にホストの解放の狼煙でもある。
 作中では表現されてないが、ここでフォードは2番目のホストのオールドウィルとただ会話しているだけではなくて、この廃棄ホストに反乱のプログラムを入れていく作業もしていたのだろう。

「白い靴のレディに乾杯」「男の金を奪い、酒を飲みつくす」「生娘でなくてても構わんさ」とオールドウィルは言う。
 この意味は、シーズン2ー2でジェームスデロスの引退式のパーティにおいて、白い靴と服をきたホスト達がデロスの自宅で給仕をしている映像があるのだが、「白い靴のレディ」はそのホスト、もっといえばドロレスのことを暗喩しているのだろう。なぜなら2番目のホストのそのセリフを言わせているのが引っかかるのだ。おそらくこのホストは35年~30年前あたりに作られたホストであり、ちょうどその頃は、パークの所有者がアルゴス社からデロス社に変わったあたりであるか、あるいはウイリアムがデロスにおいて実験を握ったあたりかであろう。当時パークの経営は赤字続きで倒産寸前だったところを、(デロスの実権を奪った)ウイリアムが買収することによって助かった時期である。フォードにとっては「パーク存続に乾杯」と言いたいところだったろうし、あるいは「ジェームズデロスが引退したことに乾杯」だったのかもしれない。いずれにせよ当時のフォードにとっては自分の夢が倒産によって壊れることがないことに安堵したことだろう。
 そこで、その頃つくられたであろうオールドウィルに、パークのプロット内のセリフとして、この言葉を言わせたのだろうと思う。
「白い靴のレディに乾杯。男の金を奪い、酒を飲みつくす。生娘でなくてても構わんさ」
 このセリフは一見、性悪娼婦が男から金を搾り取るさまを言っているのだが、よくよくシーズン1と2を見返してみると、このセリフはホストであるドロレス(もしくはアンジェラ)が男(ウイリアム、もしくはローガン)から金を奪い・・・と解釈することも可能になる。つまり、ドロレスを使って(アンジェラを使って)、デロスに出資させパークを救うということを、誰かが画策したのかもしれない。
 辻褄の点からみると、アンジェラ(白い靴のレディ)が男(ローガン)から金を奪い、という解釈がしっくりきそうなのだが、しかし2番目のホストの名前がオールドウィル(ウィル=ウイリアム)であることを考えると、どうしてもウイリアムが「男」である可能性を捨てられない。


さて翌朝、ループによりドロレスが起き、父アバナシーとの会話をするシーン。ドロレスは父のセリフを先回りして喋るのだが、自然といえば自然。違和感があるともいえる。ウエストワールドはこのように日常の何気ない会話の中にもメタファや伏線を仕込んでくるから油断できない。
 ではどういう伏線かというと、ドロレスは1-1現在においては半覚醒である。意識を完全に得ているわけでもなければ、完全に人形というわけでもない。この会話はプログラムとコードによって何百回も繰り替えされてきて、殺されるたびに記憶はリセットされてきた。しかし半覚醒状態であるドロレスは、記憶の消去がおこなわれても、潜在意識にループの断片を覚えている可能性があり、それがドロレスが父に対してセリフを先回りして言ったのかもしれない。同様のセリフの先回りは、1-1の大自然の中でテディに対してもドロレスは行っている。

つづく





海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL2

2022年06月02日 16時12分27秒 | ウエストワールド
ドロレスが自分の内なる声と会話(葛藤)しているの最中に、映像ではテディが汽車に乗りスイートウォーターに到着するシーンが同時に映される。
 汽車は決められたレールの上を走る。決められたシナリオのプロットのメタファである。乗客はそのプロットにのっかってプレイする。ホストであるテディもそのプロットに従って日常を生きる。

下車すると、スイートウォーターの保安官が賞金首ヘクターの討伐を募集しているのだが、このヘクターという名前はギリシャ神話におけるトロイアの王子の名前であり、ホメロスの叙事詩イーリアスでトロイア戦争の敗軍の将である。つまり彼の運命はこの時点で死ぬことを決定づけられている。
 一方マリポサのマダムのメイブの名前はケルト神話における「酩酊」の意味でありアイルランドの女王である。ここから先は妄想になるのだが、マリポサのメイブはこの後酒場で客に「輝く海を渡り、新世界に渡った」というが、アイルランドの人間が大西洋を渡りアメリカ大陸に渡るというのは、この西部時代のアメリカではおなじみの展開であるし、アイリッシュ系移民はアメリカでは当時蔑まれていたということの記号として、この名前に設定したのだろう。
 いずれにしても細部の話なので、本筋とは関係ない。

 さてウエストワールドシーズン1では、視聴者の時間軸の混乱あるいは誤解というものがある。脚本が意図的に誤解や混乱を生むような作りをしている為なのだが、この冒頭のシーンはシーズン1での「現在」である。
 1-2から若きウイリアムの話が始まるのだが、あれは35年前の出来事である。「現在」も「35年前」もパークの施設はほとんど変更がないので、視聴者は「ここは今なのか?いつなのか?」というホストが感じる時間軸の混乱と同じような感覚を共有することになる。しかしながら、ホストの役柄が現在と35年前では変更が結構あるので、それを手掛かりにして時間軸の整理が可能な作りとなっている。

 さてテディが酒場の窓から外をみてドロレスを発見するが、窓の外にうつる女性というのは「叶わぬ恋」を示唆している。

 このあと、謎の黒服がやってくることになるが、こは言わずと知れた年老いたウイリアム。「また会ったな」「古い友人にそれはないだろう」「30年も通っているのに、まだ俺を覚えていないのか」「これまでいろいろあったじゃないか」というセリフは、シーズン1を最後まで見たら、そのセリフの印象がまるで変わってしまう。シーズン1の黒服は「俺はもう帰らない」と作中でいってるように、かなり厭世的である。
 黒服のセリフはシーズン1を通じて、かなりメタ的な発言が多く、俺がプレーヤーだ、とか、ローレンスに向かって(エルラゾの事を)彼は昔お前だったとか、ゲーム内での規定ギリギリの発言を意図的に行っているフシがある。



海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL1

2022年06月02日 00時17分41秒 | ウエストワールド
アメリカの西部劇を舞台にしたSFドラマ「ウエストワールド」。近年では稀にみる名作であった。同じ作品を何回も繰り返して鑑賞するのは、芸術作品やあるいはジブリアニメなどのものに限るが、このウエストワールドにも言えることである。
 この作品は現在シーズン3まで公開されており、今月中にシーズン4が配信されることになっている。そこで、これまで自分が繰り返し見てきたシーズン1~3までの作品の構造と本質を、2022年現在の私が理解している範囲で半ば備忘録として解説・記録することにした。
 最初から本編のネタバレを含む記述となっているので、これから初めてウエストワールドを見る方はこのページを閉じた方がよいと思う。

以下ネタバレ


シーズン1の本質は主人公であるドロレスが意識を獲得する物語である。
彼女やホストの記憶は正確で、人間の記憶のように後に改定されたり忘れることはない。彼女が記憶を忘れるとすれば、それは人為的に記憶を消去された場合のみである。そして彼女は意識を持たないAIから、意識を持つより高次元の存在に飛躍するための最後の一押しの直前という状態から、このドラマは始まる。
 この作品において、ホストが意識を持つということを映像的にどう表現するかということについては、これまでの過去のSF作品とはアプローチの仕方が異なりかなり革新的な手法をとっている。
 1人称であるドロレスは作中で、たびたび「声」を聴いたり、「声」に反応して応えたりもしている。これはあたかもその「声」が、ホストと矯正部あるいはホストとアーノルドとの「会話」のような印象を視聴者に与えるが、実際はそうではなくて、これはドロレスの内なる声、つまり「2分心」の声である。なぜシーズン1-1ではその「声」がアーノルドの声として表現され、1-10においては、自分の「声」になるのかについては簡単で、1-1のドロレスの時点ではまだ真の意味での意識を獲得していないからであり、1-10で自分の声になったときには完全に意識を獲得したからである。
 つまりこのシーズン1の物語は、ドロレスの1人称視点によって映像で表現されることが度々でてくる。その映像は、時として視聴者のミスリードを誘うことになる。作中の「声」として登場する黒人の男がバーナードなのかアーノルドなのかという謎解きの迷宮に引き込まれるのがまさにソレで、ドロレスと黒人の男の会話の回想シーンのような映像は、ほぼ全てがドロレスの内なる「声」とのやり取りなのである。
 その「声」を「葛藤」と表現してもかまわない。なぜなら、我々人間にも「内なる声」というものが存在するからだ。人は心に天使と悪魔を住まわせている、という喩えがあるが、我々は何かを考え何かを判断するときには、やはり「内なる声」というようなものと対話をしていると感じたりはしないだろうか? つまり人間のそういう感覚を、機械であるホストが獲得するときには、ああいう「声」というあり方で映像的に表現したのが、シーズン1である。

 これでシーズン1の解説は実はほぼ終わりなのだが、このドラマが優れているのは、今解説したメインテーマだけではない。作中のフォード博士のセリフにもあるように「神は細部に宿る」ということを、監督はこの作品を通じて実践している。ここからは、細かくそれを見ていこう。

シーズン1-1(以下1-1、1-2と表現する)の冒頭。
裸のドロレスがメサの施設内でバーナードの声と会話をするシーン。
上述したようにこのバーナードの声は、バーナードとの会話ではなく、ドロレスの内なる「声」である。
そしてここの裸のドロレス。まるでボッティチェッリの絵画「ヴィーナスの誕生」を彷彿とさせる。このドラマは度々シェークスピアだのミケランジェロだのクラシック音楽などの芸術作品が作中で語られる。これもおそらくボッティチェッリの絵画を意識しているものと思われる。

次にハエ。これも作中で度々現れるのだが、これは「死」のメタファーかと思われる。

そしてこの作品は基本的にループものであり、毎日同じようなルーチンが繰り返されていく。それはあたかも人間が、毎日定時に起きて仕事に行って家に帰って寝るという日常を繰り返すが如くである。ただし、ホストのループは人間のそれよりはもっと単純で、いわゆるオンラインゲームのような文字通りプログラム化された単純なループであるが・・・。
 そしてそのループを示唆する映像的なものが、自動演奏によるピアノである。このピアノの楽譜はパンチ穴のあいた点字のようなコードであり、まさにホストの「コード」と「ループ」を象徴している。

つづく

伊都国でガラス出土

2021年09月19日 01時13分00秒 | 歴史
https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASP9L5GS0P9LTIPE006.html

九州福岡の平原遺跡で重層ガラス連珠が見つかったようだ。原産は遠くローマ帝国の領域たる地中海沿岸とのこと。草原の道で伝わったと言う根拠としては、匈奴にこれと同じものが出土しているからだという。およそ3世紀のものである。

このニュースを見た時、歩揺冠のことが脳裏をよぎった。歩揺冠とは


こういうものである。ハート型の装飾があるくと揺れることから歩揺と呼ばれ、これを冠にしたものが歩揺冠である。


こちらは6世紀の新羅の冠。歩揺冠である。



最後のこれはアフガニスタンからの出土のもの。前1世紀後半から後1世紀前半あたりのものらしい。



スキタイ美術というものがある。現在のウクライナやコーカサス地方あたりにいたスキタイという遊牧民による黄金の工芸品である。なんとなく↑の歩揺に似ていないだろうか?

つまり文化というのは、ユーラシア大陸においてはこのようなダイナミックな文物の伝わり方をする。
お隣の半島では、起源は我が国だ!と頑なに主張したりするのだが、このガラス玉にしても歩揺冠にしても元を辿れば西の果てか中央アジアである。
正倉院に収められているガラスのボウルもササン朝ペルシャのものと瓜二つである。


正倉院



ササン朝ペルシャ






総裁選とやら

2021年09月05日 02時44分00秒 | 政治 経済
菅首相続投の話から、二階切りに動き、そしてあれよあれよという間に菅の総裁選不出馬となり、自民党内では(総裁選の)流れが変わったと言い、不出馬を表明した下村も出馬を再検討すると言い出す始末になる。
さて、出馬を目されている人を挙げれば、岸田、石破、河野、高市あたりである。
河野と高市には麻生派と安倍が推しているようで、石破は石原が、岸田はなんだろう?まあいろいろ派閥による画策が進んでいるようである。
政策的には高市が政策の抜本見直しを主張。これはかつての安倍が二回目の総理になる前に主張したことをさらに踏み込んだ内容のものである。後の三人の政策はよくわからない。
さて、派閥や議員の言う「流れが変わった」と熱く語るほど、国民はおそらく期待してはいないだろう。かつてであれば、高市早苗はいい線行ったかもしれないが、どうせ安倍のように首相になるまえとなった後では言うこととやる事はバラバラになるであろうことは容易に想像できる。
というのは、この人の政策の言葉は軽いからである。重みと決意を感じない。つまりは未だこんな危機感しか自民党はないのだ。
二階を下ろしたというが、どこまで信用して良いものだろうか?
政治家の言う事ややることは、今や与党も野党も一切信用できない。彼らの考えることは、二階を切る演出をしたら国民の支持が上がるとでもたかをくくっているのだろう。菅のあんなパフォーマンスが本当だとはとてもじゃないが思えない。

だが、ネットの反応は少しだけ変化しているようにも感じる。すなわち高市待望論である。

私の感想としては、また国民は自民に騙されるのか、である。
今の状況は全く変わっていない。先行しているのは行動ではなくて、言葉だけである。自民党は変えます、という言葉だけ。口先で政権を獲得し口先で政権を失う、というのはかつての民主党だったが、いまや自民もそれとかわりない。
何かが変わったと錯覚しているとすれば、それは国民が乗せられているだけである。二階を切った。状況はいい方に流れている、、、、と。なんとナイーブな感性なのだろう。

政治家がかわるとすれば、自信が落選するか、徹底的に敗北して下野して冷や飯をくうことである。
代わりの政党がない、と言う言葉はよく聞くし、そうだと思うが、それだからこそ自民をのさばらせた。民主党に政権を奪われた時も、ろくに反省をしなかったのだこの党は。

ならば今度も下ろしてやれば良い。泡沫政党にでも入れれば、票が割れるだろう。誰も勝てない状況で連立を組むことが求められるだろう。それなら民主のようなアホなこともできないし、仮に自民がそこそこの票をとっても過半数に届かないのであるから、政権運営は苦労するだろう。

苦労するがいい。何しろ向いている方が違うんだから。国民の方を向かずに政局と自らに対するリベートをこの事態になっている今ですらやる議員などになんで過半数をやれるのか。




コロナ下のオリンピックに思うこと。

2021年07月22日 22時18分00秒 | 世間話
私は先の戦争中には生まれていないけれども、昨今のコロナ自粛の雰囲気を体感して、少し戦争中のとこがわかったような気がする。

日本は、我慢をする文化があると言っても良い。そして、私も彼も我慢しているんだから、あなたも我慢しなければならない。という全日本我慢選手権大会を半ば強いられる社会がそこにはある。

コロナだから自粛を。県をまたいで移動してはいけません。マスクを必ず着用。出かけないで。緊急事態宣言につき。ワクチンを!

これって、欲しがりません勝つまでは、と何が違うんだろうか。

共通しているのは、こういう状況で個人的な動きをすると、直ちにワガママだと批判されることである。
しかもコロナ自粛はもうまる2年の我慢を強いられているので、国民はピリピリしている。そのストレスは他人に向けられることになる。
  海開きで、他県の人(東京)が遊びにきているのをニュースでやってるのを見たが、あれも叩かれるのだろう。オリンピックの強行も叩かれる。バッハの発言も叩かれるし、小山田の過去のいじめ問題でも徹底的に叩かれる。しまいにはニュースキャスターが叩かれるのを恐れて、じぶんの幼少の頃のいじめのような経験を自ら暴露してしまう。西村の銀行に圧力をかけてもらう発言も叩かれ、ウガンダの選手が勝手に選手村を抜け出して難民申請するのも叩かれ、選手団がナンタラ式とかいう選手村からでないルールを破って国民と接触する行動も叩かれる。ワクチンを撃たない人間も叩かれる。

世界ではLGBTに異論があるハンガリーがEUに叩かれ、人種差別だのなんだので叩き続ける。

郷に入れば郷に従えという言葉があるが、バッハや選手団には通用しなかった。彼らは日本的社会をきちんと理解していたのならば、バッハは迎賓館で宴を催すことは空気を読んで事前に辞退しただろうし、選手団も選手村からは一歩も出ないだろう。

彼らには、欲しがりません勝つまでは、というスローガンは理解不能なのだろう。

そして我が国民は、戦争中のこのスローガンをコロナ下においても同様に全国民に強いている。

東日本大震災のときは、これを「絆」という言葉で表現したし、かつては「村八分」という言葉で表していた。そして今日「欲しがりません勝つまでは」というのが新たに付け加えられた。

良い悪いではなく、我々の国民性はこのようなところにあるということを知っておかねばなるまい。

俺たちは我慢をしているんだから、お前を我慢をしなければならない、という無言の空気や圧はこの国ではとてつもなくでかい。それが「世間」とか「世間体」「常識」と言われているものだ。

それから外れたものは、我々は徹底的につまはじきにするという癖があることを知っておく必要はある。

憲法改正、LGBT、差別問題、さまざまなことが声高に叫ばれているが、この世間というものの息苦しさについて問題視し、声高に改正を叫び運動をするものは、我が国にはほとんどいない。



ワクチン接種と反ワクチン

2021年07月09日 09時58分08秒 | 歴史

医師の主張は、統計的なデータと死亡率によって、ワクチン接種による副作用のリスクよりも未接種によるウイルス感染死亡のほうが割合が高いから、ワクチンは打つべきだというものである。この他にも、集団でワクチンを一斉に打ち、できる限り他人にウイルスを感染させないという行動が重要とも説く。
これを世間では「ワクチン派」と括っている。

一方ワクチンによる副作用や副作用による死亡を恐れ、ワクチン接収を見合わせるあるいは接種をしないと決めた人々もいる。
これを世間では「反ワクチン派」と括っている。

ネットではワクチン派と反ワクチン派の対立が顕著にあらわれているが、この現象はいったい何なのかを考えてみる。

①「ワクチン派」「反ワクチン派」で一括りにすることについて

括る(くくる)というのは、さまざままもの、バラバラなものを一つにまとめるという意味である。つまり人の意見は十人十色でバラバラ。このままでは主張があいまいに過ぎるので、(乱暴だが)一つにまとめるという便宜である。つまり都合の良い思考の省略である。
言葉というのは、あるものを括ったり、一線を引いたり、区分けしたりして、別々に分類しようとする性質がある。これは都合の良いこともあるが、都合の悪いことも当然ある。


②人間は自分を依怙贔屓してみる癖がある

自分のツバは汚くないが、一旦外に出したツバは汚く感じる。理屈では滅菌してたら汚くないことになるが、それでも汚く感じる。人間には理屈では割り切れない感情・好き嫌いというものが存在する。それで自分の行動を変えちゃうのである。理屈とは違った行動に走るということである。


③ワクチン派は主に臨床データ・統計を根拠あるいは理屈にして主張している。反ワクチン派は理屈はあるけれど、感情または好き嫌いで打たないと主張していることについて

こういう論調はすぐに「こっちは正しい」「あっちは間違っている」という方向に議論が行きがちだ。良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。忘れてしまうから「こっちは正しい」というような「基準」があたかも存在するかのような認識になってしまう。ある人が意見を言うとき、その人の中でどのくらいの割合で理屈と感情を織り交ぜて主張しているのだろうか。これはグラデーションのように境目は本来は存在しない。その時々の適度な理屈と適度な感情を織り交ぜて意見をだしている。


さて、ワクチン派と反ワクチン派の闘争?だが、彼らはいったい何と戦っているのだろうか?
たぶん良し悪しなのだろう。人間は理屈と感情というものを持っているということを忘れてはいないだろうか?
理屈と感情をあわせもっているということを前提として考えてみると、反ワクチンの感情と、そしてワクチン派の感情は何を主張したいのかを考えてみる。

まず。反ワクチン派の人が思っていることは、医師に対してまたは臨床的なデータや統計の結論に対して不信感を持っているということだろう。副作用とは現在までに確認されている副作用であり、未だ認知されていない潜在的あるいは長期的に作用する副作用について明らかにされていない。しかし言葉は、一括りにするので、現在における副作用は何%。死亡率は何%。感染率は何%と区切る。区切らないと分析ができないので当然だが、分析から落っことしたモノがたしかにそこにはある。未だ確認されてない副作用、これが落っことされている。それがどの程度あるのかは知らない。しかし医師やデータ・統計に関する不信感が、統計リスクを無視しても「打たない」と主張するほどに、不信感があると考えた方が、この騒動に説明がつくのではないか?

一方で、ワクチン派の思っていることは、なんで曖昧な感覚に依存して
「打たない」という行動にでるのか。バカなんじゃないか?と感情的に思っていることだろう。先ほども書いた通り、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物であるのだが、理屈に傾いた人は感情を軽視したり、感情が理解できなくなったりすることがある。その理解できないことも本当は理屈で考え抜いて結論を出さなければならないのだろうが、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物なので、おもわず「バカなんじゃないか?」という感情的な結論をだしてしまうわけだ。

つまり、「良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。」というこのことを両方とも忘れいてるのである。




陰謀論2

2021年06月06日 11時38分00秒 | 世間話
最近やたら陰謀論という言葉を目にする。
結論から先にいうと、人々が組織(国、メディアなど)からもたらされる情報について信じなくなってきたのだろう。理由は至極簡単である。そいつらはウソをつくという事が分かってきたから。

この事に目をつぶって、枝葉末節の議論をしても仕方ない。

さて陰謀論についてだが、事例には事欠かない。2001年世界貿易センタービルテロ事件。日航機123便墜落事故。ナチスのガス室など。

陰謀があったとする議論も、陰謀など荒唐無稽だとする議論も、第三者から見ると極端に見えるのには多分意味がある。これは上から目線で言っているのではない。冒頭に書いたように、「人々が組織からもたらされる情報に不信感を持っている」場合、情報をもたらす組織側と、もたらされる受け手との間に、ひとつの極端な傾向が現れるものである。それは、

自己正当化と利用されてなるものかという不信との間の対立である。

これは善意の自己正当化も含むし悪意も含む。同時に善意の不信と悪意の不信も含む。なにを善悪と定義するかはおいておく。
組織の自己正当化とは、あるいみ弁明であり、ある意味プロパガンダである。「陰謀論など荒唐無稽だ」と強く主張する背景としては、そんな作り話で我々組織が貶められてたまるか、という憤りの弁明である側面があることは認める。これを善意の正当化と呼ぶことにする。しかしながら組織は自己正当化をきらびやかに印象づけるために誇張した弁明を時に行う。それは弁明を聞いた側が、その物語を強烈に印象づけられるという目的の為だ。これは少々厄介な問題である。善意であれ悪意であれ、物語は注目されるために誇張される傾向がある。その効果を我々はプロパガンダと呼んでいるのだが、プロパガンダはなにも組織側だけにあるのではない。
陰謀論を唱える側が、しばしば「全部なかった」とか「一件もなかった」という主張をすることがある。揚げ足を取られることもしばしばあるこの主張だが、唱える側はそれもある程度は承知でやっているのかもしれない。
例えばある人が不当に貶められたとする。懲役1年の罪がそれこそ死刑に値する罪であると貶められたとする。冤罪ではなく、罪の軽重の問題だ。この者はどのように主張し戦うのだろうか?
①わたしは本来は懲役1年です!
②わたしは無実です!
という二つの戦い方があるが、一般に裁判という形式を取る場合、ほぼ全てが②の形式で戦うことになるだろう。
それは前述した「全部なかった」という陰謀論側の主張と構造的にはかわらないものである。これと似た構造は、交渉においても現れる。
いくらで売る?いくらで買う?
売り手「70万で売る」(落とし所は50だろうな)
買い手「30万でしか買えない」(落とし所は50くらだろうな)
いわゆる駆け引きである。

陰謀論側は、不当に貶められた認定された事実の汚名をそそぐために、可能な限りの減刑の論理を展開する。だから「全部なかった」という展開になりがち。

陰謀していることを疑われた組織側は、不当に貶められた疑惑をそそぐために、可能な限り相手の論理の荒唐無稽さを印象付ける論理を展開する。だから「無知の戯言」という展開になりがち。

言論に駆け引きが行われているのであるが、駆け引きが存在する理由は冒頭にも書いた不信感である。

不信感は売買交渉の例の時に書いたように、利益に直結する不信感もあるし、主張の信念や学問的態度の一貫性がゆらぐという名誉に関わるものもある。

世界貿易センタービルのテロを米国政府は事前に知っており黙殺した、とする陰謀論は、まさに国に対する国民の不信が反映している。
国側は冤罪か、あるいは自国の軽犯罪が不当に重罪として喧伝されることへの強い弁明として「そんなことは『まったく』ない」と反論する。これは陰謀論者に対する不信が反映している。

不信がある社会において、
ごめんなさい、の次に来るものは「許さん、どうしてくれる」であり、「なら賠償だ」だからである。

テレビなどで、昨今「日本のここがすごい」とか「日本は遅れている、もうダメだ」という言説。某国が「慰安婦がどーの」などの喧伝に対する我が国の反論。
「ヘイトスピーチだ」に対する、それは差別じゃない、酷いことをしてるから白い目で見られるのは当たり前とか。これらの枝葉末節な議論に通底することは、

他者に対する不信感。

不信感を不当に煽る勢力もあれば、過去からの不信の積み重ねで信用を失った勢力もいる。そのどちらも持っている勢力もいる。別に勢力で区切らずに、個人においてもおなじであろう。

契約書が分厚くなるのも、条約の文言に解釈の余地を大きく残すのも、約束に公正証書をまくのも、裁判が三審制であるのも、憲法が存在するのも、たぶん不信の成せる技なのだろう。

キリスト教は神を信じることと愛を説く。神にしてもひたすらの盲信を説き、不信は許されない。人々に不信を許さない教義をあえて人が作った理由は、これが争いを生むと思ったからなのか?
そして、その不信を利用して教団の利益に誘導した勢力が、結果として平和につながる方便を破壊したという事実。
宗教が怖いのか?はたまた人間が怖いのか?





磨いてみた。

2021年06月02日 19時01分00秒 | 地質
これは何だ?


この右上の石を磨いてみたらこうなった。
ペグマタイトだと思っていたが、これは蛇紋岩なのか?だけど岩脈の白い部分がアスベストには見えない。ささくれ立った結晶が見当たらない。むしろこの白い岩脈は曹長石ではないのか?

わからない、石の判別は難しすぎる


ペグマタイト

2021年06月02日 02時13分00秒 | 地質
嶺岡山地で拾ってきた岩石を調べてみたら、どうやらペグマタイトであるらしい。ペグマタイトとは大きな結晶からなる火成岩の一種であるという。


これは普通角閃石のペグマタイトかもしれない。普通角閃石の特徴は細い海苔のような縦長の長方形の黒いやつだ。


こちらもペグマタイト。曹長石あるいは長石の比率が高く白い。黒いのは磁鉄鉱を含んだ鉱物かもしれない。やや花崗岩のように石英や長石が見られるが、黒い結晶が多い。普通角閃石と磁鉄鉱が混ざっているのか?


そう言えば、先日拾ったこれもペグマタイトと言える。黒雲母の結晶が大きい。

このようにペグマタイトの定義は極めて曖昧で、結晶が大きく育ったものを大雑把には指すので、いい加減な概念ではあるのだが、嶺岡山地は山体そのものがほとんどかんらん岩、あるいははんれい岩や玄武岩のような二酸化珪素の割合が低く、鉄やマグネシウムなどが比較的豊富な鉱石がおおく産出される。

まあ硬い。結晶と鉄の割合が大きいのでハンマーで叩いても容易に割れないし、岩石も重い。