Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

コロナのお話

2020年07月17日 04時15分00秒 | 歴史
本日の感染者は622人だそうである。言葉や数字とは不思議なもので、何でも一緒にしてしまう。今年の3月あたりが日本におけるコロナのピークだと思われるが、本日の感染者はその数に肉薄しているようにみえる。3月のピーク時は1日あたり700人くらい感染者していた。死者は記憶では1日20人くらいを超えていたように思う。
数字で見れば感染者は同程度。だからテレビでも「すわ大変だ!また緊急事態宣言か?」という内容をやっているらしい。が、死者は0である。今週の死者はほぼ0か1人で推移している。
つまりこの情報だけを見ても、今日の状況は3月の状況とは似ていない。違う状態と考えるべきだろう。




一方こちらは世界の状況。世界の国々の統計の合計というわけだ。これによると感染者は80635人で、死者は1747人。死者÷感染者は0.02166。100人中2.1人の死者である。
さて乱暴だが、この0.02166の死亡率を日本の本日の感染者数である622人にかけてみる。そうすうると、13.47人。しかし実態はこの日の死者は0である。

素直に考えると、感染者の定義が3月と今日の7月とでは変わったのだろう。かつては38度の熱が何日以上続いた、とか、そういうのが感染の定義だったりした。しかし今日ではPCR検査などで、ウイルスが体内にどのくらいいるかという定量で恐らく測られているのだろう。なぜなら今日では無症状でも陽性で感染者にカウントされているものが過去と比べて圧倒的に多いということはニュースとか見ていてもわかる。

日本ではコロナによる1日の死者が最大15人〜25人くらいがピークだったように思う。ということは、今日の感染者622人で死者0あるいは1という推移は、これの15倍の規模ではじめて死者がかつてのピークの15人ほどと並ぶことになる。622×15=9330。つまりかつての感染者700人は、今日の9330人に相当するものであると言えなくもない。つまり感染者の見極めの精度が上がったため、かつて同じ精度で測ったとしたら、やはり1日あたりの感染者は10000人くらいはいた、と考えられるというわけである。
  勿論ウイルスや人間の免疫力は冬から春にかけてのほうが今日よりも厳しい状況ではあるだろから、それを差し引くとしても、まあ1日あたり6000人くらいで、今年の3月に相当する規模と乱暴にいってもいいのかもしれない。

  しかしそうなると、世界の統計である感染者8万、死者1700人はどう考えたらいいのだろうか? 死亡率2.16%である。
ごく普通に考えるならば、その答えは「世界は日本ほど厳しいな感染者の定義をしていない」ということだろう。つまり日本の感染の定義を世界に当てはめたら、本日の世界の感染者は8万人では利かないのだろう。100万人とかになるのではないか?

もちろんこんな乱暴な意見はテレビでは流されない。しかしテレビは「人間はウソをつく」ということを省いて、発表の数字をそのまま流す。

テレビによれば、日本の対コロナ対策は世界と比べて優等生ではないらしい。むしろ失敗している方の国と報じている局も多いし、専門家の一部もそういう意見を言っている。
とすると、本日の感染者の622人がウソか、あるいは本日の死者0がウソか、あるいはテレビや専門家の一部の言っている意見がウソかのどちらかが考えられる。
どちらも本当だとしたら、矛盾するからである。発表の数字が本当だとしたら、日本は死者が出ない優等生であるから、テレビや一部の専門家はウソをついていることになるし、逆にテレビや専門家の言っていることが本当だとしたら、感染者622人で死者0はウソの発表ということになる。

どちらが本当なのかは知らないが、どちらかがウソを言っているということについては恐らく確かである。
意図的なウソなのか錯誤のウソなのかはともかくとして、、、。

しかし死者の発表でウソをついていたとしたら、大胆なことをするものである。それこそ戦前の大本営発表のようなものだろう。たしかに国家は時としてそういう事をする。
しかしニュースや専門家などがデマやウソを流したりするのは良く目にしたりするので、こちらも同様に鵜呑みにはできない。

いずれにせよ、どちらの陣営の発表も鵜呑みにするのは危険だろう。統計のウソであれば、いずれ死者の数がごまかせなくなるだろうし、ニュースの嘘も同様であるから、注視はしつづけるべきだろう。


私の今の認識では、本日の感染622という数字は、過去と比較できる数字ではない。したがって、本日を過去の3月のピーク時のようなものとは一切考えない。なので622人感染が多いとはほとんど思わない、である。



コメント

アマゾンプライム会員に勝手に登録されていた。

2020年07月01日 14時14分00秒 | 世間話
これで2度目の誤認登録である。
1回目の入会に気付いたのは、クレジットカードの明細をチェックしていた時のこと。この時は2ヶ月も支払っており、1ヶ月分は返金されたので、500円の損失だったが、「まあ仕方ないか」と請求はしなかった。今思えば、この時キッチリと請求しておくべきだった。
2回目は、2日前にアマゾンを通じて図鑑を買ったのだが、本日メールをチェックしていたら、アマゾンプライム会員入会ありがとうございますとか、訳の分からんメールが届いていたことで気付いた。

1回目のミス?があったので、アマゾンで買うときには、誤ってプライム会員に登録しないように気を付けて購入処理をしてたのだが、なんでまた入会してたんだろうと訝しむ。
初回はともかく2回目であるから、これは私の不注意とはもはや思えなくなった。まさか勝手に入会させられているのではあるまいな?という疑問が湧く。
そしてネットで同じような症状の人がいるか調べてみると、、、、、、いるいる。
検索ワードに「勝手に入会」というものがあるくらいだ。

で、真相というと、


これである。ここでみぎの「次に進む」を押すと、めでたくプライム会員に入会である。なんだそりゃ?
『次に進む(登録する)』というボタンがアマゾンプライム会員入会のボタンのようで、入会せずに購入手続きにすすむには、画面中央下にある青いリンク先である「アマゾンプライムに登録しない」というボタンを押さないといけないらしい。

こんなの騙す気満々ですやん。

アマゾンドットコムにおける文法では、黄色いボタンというのは、購入手続きの「次に進む」「確定」「カートに入れる」などの一連の手続きをスムースに示唆するためのインターフェースである「はず」である。
それが「次に進む(登録する)」などという手続きのボタンのように思わせる文面で、プライム会員にさせてしまうという悪辣なことをするとは。。

これがいかに悪辣なのかは、もう一度上の画像全体を見て欲しい。
「今すぐプライムに登録すると云々、、」
という文章の後に、次に進む(登録する)というボタンがある訳だ。つまり、「アマゾン側では全然騙していませんよ。そのように誤読するあなたに問題があるんじゃありませんか?」というアマゾン側の対抗弁論が、この画像からすでに読み取れるわけである。(ただし事後だが。その事後であることもアマゾンの狙いなんだろう)
おそらく私の主張するようなクレームや場合によっては訴訟などを、アマゾンはかなり受けているのではないかと思われる。それに対するアマゾン側の対応が、プライムの特典を使わなければ、返金に応じるという対応でもあり、または、、ここで私が妄想した「あなたの誤読では?」という対抗手段である。

私としては、会員にならずに購入手続きに進むボタンが、青いリンク先のコレであるという時点でギルティである。黄色ボタンがプライム会員登録というのは悪意がある。そして、それを指摘された場合には、上の画面全体を見たときに、アマゾン側の主張、すなわち「いや、これは購入手続きではなくて、あくまでアマゾンプライム会員の登録の是非を聞いているだけの画面ですよ」という主張にも、一応矛盾しないような作りになっていることである。そういう作りになっているそのことことそが悪辣なのである。

なぜなら、「返金に応じる」、「そういう作りになっている」、という点はつまり、
気付かないでずーっと月額500円を払い続ける人に対してアマゾン側は、「意図的に」注意を喚起しないわけである。
つまりそのような「誤解に基づく登録」における支払いに対して、アマゾンは大した注意喚起をしないどころか、(気付けば)返金に応じるという行為をすることによって、気付かなければその支払いは喜んで受け取るというわけであるからだ。

老人は支払い続ける。必ず支払い続ける。なぜなら、確実にプライム会員に知らないうちに入会させられ、クレジットカード明細やメールをきちんとチェックしない限りは毎月500円を知らず知らずに吸い取られていくからだ。
しかもこの月500円というのが絶妙な金額で、手続きの面倒くささを考えれば、「まあ500円なら仕方がないか」などと思わせることが出来るギリギリの金額が500円という額である。私が冒頭に仕方がないか、と500円諦めたのはまさにこれである。老人なら手間の面倒さを考えればなおさらのことであろう。

そして、このアマゾンプライム会員の解約だが、解約のためには、解約のボタンをなんと3回も押さないといけないのである。
ボタンを1回、あるいは2回目を押しただけで、ブラウザを閉じてしまう人もいるのではないか?

結論だが、一体アマゾンは何を売っているのだろうか?
この件からわかることは、
アマゾンにとっては「誤解」というものも商品なのだ。しかも気付かなければ、それは月額500円の商品なのである。
こんな誤解を解こうとしないということは、それはもう嘘をついているということと同義である。

携帯電話会社も、老人にタブレットをタダと称して契約させ、通信料の月額5000ナニガシの金額をボッタくるという手法とするが、あれと同じような構図である。
誤解を商品にしてやがる。ネットにおいては誤解はいまや商品だ。それが世界的にトップ企業であるアマゾンもそうなのだから、アマゾンという会社はやはりロクなものではないし、人間の悪意というのはある意味底知れぬものがある。


コメント (1)

ようするに日本に対するネガティブキャンペーンだろう?すり替えるな

2020年06月21日 14時09分00秒 | 政治 経済
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73439

記事はほとんど読むに値しない。自粛警察をファシズム的と断じ、今回のコロナの外国人への入国制限を人種差別と断じて、日本に対するネガティブキャンペーンを展開しているのである。
何のために? そりゃまさにドイツなどの欧州や米国が、自分達こそまさに人種差別やファシズムと非難されるような事をしているニュースが国際的に取り上げられているのであり、それから目をそらす為に極東にある他国日本に対して、同様のことがあたかもあるかのように宣伝しているのである。

つまり確信犯的な工作の記事に対して反論する試みをしているのわけで、野暮と言えるが我慢ならぬ。

自粛警察はたしかに問題はあるが、それを自国の人間が怪しからんというのならともかく、外国人や外国に発信するためのスポークスマンが言うのは我慢できない。
それは工作的だからである。必ず外国にとっての政治的意図があるからだ。もしくはそれがなかったとしても、単に外国を盲目的に礼賛しているカブれているか、である。

東日本大地震による共同体的絆と、自粛警察はいわばコインの裏表である。ある面における美が、一方の面では醜に写るだけだ。こんなものをファシズムという著者は工作が目的ではなかったら、頭が悪いとしか言いようがない。たとえそれがフンボルト大学を出ているとしてもである。

記事の中にあるファシズムの実験とやらも噴飯ものだ。ナチス式服従とナチス的ポーズを強制させて、ファシズムの証明をはかろうとするなんて。
そんな事を実験しなくても、国家や文化の鋳型に嵌められた人間は、その国やその文化の人のようになるのは当たり前のことではないか。日本に住めば鋳型によって日本人的になるし、アメリカに住めばアメリカ的になる。それだけのことだ。
ドイツがナチスに傾いたのは、ナチス式服従とそのポーズにあるのではない。そういうのは枝葉の鋳型であって、警察官の格好をさせれば警察官らしくなるというだけの枝葉の証明にすぎぬ。かれらがファシズムに傾いたのは、ドイツの国家や文化の鋳型もあれば、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの環境という鋳型もある。反ユダヤ主義はナチスの専売特許ではなく、19世紀〜20世紀のヨーロッパやロシアでは非常に顕著だった。ユダヤ人=汚い資本家という思想は、真実はともかくとしても当時から広く認識されていた。加えて19世紀末にはすでに社会主義思想と貧富の差が蔓延していた。
それはドストエフスキーの小説を読めば、いかに人民が閉塞した空気に包まれているかということがよく分かる。加えて第一次世界大戦でドイツは負け、巨額な賠償金を科せられた。
当時のこのような鋳型がナチスを生んだと見たほうがより説得力がある。

にもかかわらず枝葉のナチス式ポーズや自粛警察という表面的な現象のみを取り上げて、これこそファシズムの兆候だ、などと騒ぐのは、学歴ある著者としては「それを知っててなお言っている」としか思えない。

冒頭の
「要するにネガティブキャンペーンでしょ? 外国の政治的問題をそらすために、そこまで我が国を貶める必要がどこにある?」
というわけである。
コメント

解像度にまつわる話

2020年06月17日 00時20分00秒 | Eos5D
画像はフォトショップの画像解像度の画面。
私は長らくこの画面に書いてあることの意味がよくわからなかった。
画面の「ドキュメントのサイズ」の項目にある「mm」は長さの単位だからいわゆる紙の大きさでわかるが、「pixel」という言葉の意味「pixel/inch」に至っては何を言ってるのか分からなかったが、この度ようやく一定のレベルで把握した。

pixelがドット(点)と同じようなものであることは私もわかっている。
しかしpixel/inch(ピクセルパーインチ)というものは良く分かってはいなかった。
pixel per inchとは、ppiとも表されるもので、密度を示す単位である。下図をご覧いただきたい。
ここにppiではなくdpiと書いてあるが、本質的には同じ意味である。
1インチあたりの密度、それがppiである。
dpi=ドットパーインチ。 (主にプリンターの1インチあたりの印刷密度を表す数値)
ppi=ピクセルパーインチ。 (主にモニターの1インチあたりの表示密度を表す数値)
1インチ四方の密度ではない。1インチの密度である。

ppiは密度の話である。しかしまだ大きさの話はしていない。モニターは大きいものから小さいものまである。密度も高く大きさも大きければ高級といってもいいだろう。600ppiの100インチモニターなら最高だろう。しかしそんなものは巷に売ってはいない。その話をすると話がそれるので、まずは本題から進めていこう。

さてモニターの大きさの話である。
96ppiの1インチ四方のモニターがあったと仮定しよう。もちろんこんなモニターは巷には売られていない。縦2.54センチ×横2.54センチの真四角の小さすぎるモニターだからだ。(これは1インチモニターではない。モニターのインチとは横幅でも縦幅でもなく対角線の幅を指す用語)
さてこのモニターは96×96=9216個のピクセルの細かさで写真を表示する。
ppiを上げたらどうなるだろう。例えば600ppiの1インチ四方のモニターを考える。
600×600=360000個のピクセルの細かさで写真を表示できる。素晴らしい!
しかしそんなモニターはない。1インチに600ピクセルも入れられるような液晶素子は少なくともモニターにはない。トフォンの最新機器のiphone11のRetinaディスプレイは458ppiもあるそうだが、PCモニターでそこまでの密度を誇るディスプレイは(高すぎて)市販されてはいない。

さすがに1インチ四方のテレビは荒唐無稽だ、96ppiの23インチモニターで計算してみよう。23インチモニターの縦横の長さをミリメートルで表すと以下のようになる。
https://pen64.com/document/monitor-size.html 

横幅508.3mm(50.83cm) 高さ286.3mm(28.63cm)
ppiはインチなので分かりづらいので、ミリメートルに置き換えてみよう
式 96÷25.4(mm)=3.779 1ミリメートルに3.779個。この密度である。
23インチの横幅は508.3ミリなので、508.3×3.779=1920.86個
23インチの高さは286.3ミリなので、286.3×3.779=1081.92個
横が約1920個。高さが約1080個。1920×1080=207万個。

さて、ここで1920×1080という数字をどこかで見たことがないだろうか?
そう、モニターの解像度である。
HDは1280×720 約92万個
FHDは1920×1080 約207万個
4Kは3840×2160 約829万個
8Kは7680×4320 約3317万個

23インチだろうと28インチだろうと、FHDモニターである以上は1920×1080の解像度までしか出力しない。FHDに代表される規格とはそういうものである。しかし、だとすれば、23インチだろうと28インチだろうとどんなにモニターが大きくなったとしても、FHDの規格である限りは、ピクセル総数は1920×1080=207万個である。23インチの面積は1,454cm、28インチの面積は2,156cm。しかしピクセル総数は207万個。小さな23インチのモニターのほうが面積あたりのピクセル数は多くなる。
https://pen64.com/document/monitor-size.html

ということはモニターが大きくなると、ppiは落ちるのではないか?
フォトショップの画像解像度で入力して確かめてみた。
28インチのモニター 1920×1080 幅618.7mm 高さ348.5mmの場合のppiは・・・
79が近似値。落ちている。
https://www.ipentec.com/document/hardware-display-dot-pitch
このページを参照するとそのことがよくわかる。モニターがでかくなればppiは落ちる。つまりインチ当たりの密度は落ちるワケ。

さて、上で1920×1080=207万個と書いたが、207万画素といってしまっても差し支えない。ピクセルの総数=画素なのだ。
ただし、これまで書いてきたように、どんなに画素数があがっても、ppiが落ちたら密度は落ちるから、見た目の画質は荒く感じる。つまり画素なる言葉は決して画質を保証しない。画素など写真のサイズが大きくなれば画質は荒くなるわけで、あくまで画素数は写真サイズと比較することによってはじめて意味をもつ単位となる。

さて、相対指標の画素よりも、絶対指標のppiを重視するべきであることは確認したが、ここで「人間の肉眼」というものについて述べなければならないだろう。
はたして人間は、どの程度のppiまで識別することができるだろうか?
ppiは理論上、技術がすすめばどこまでも高めることはできるだろう。それこそ10000ppiという密度も未来においては可能かもしれない。
しかし、人間の視覚(明視距離25cm)で識別できるppiは、およそ360ppiといわれている。写真を虫眼鏡や顕微鏡を使ってみるのではないとしたら、25cm先から見るのであれば、360ppi以上は必要ないということになる。
技術の進歩は、 人間の生得的なセンサー(例えば肉眼)を越えたところで、人間が識別できなければ意味をなさない。

スマートフォンのRetinaデスプレイは400ppi以上あるというが、スマートフォンは25cm以内で見ることになるので、人間の識別可能域はもっとあがり、たぶん600~800あたりになるのではないか?


私の持っているEOS5Dはもう15年も前のカメラである。
フルサイズの撮像素子をもったカメラで有効画素は1280万画素。

4368×2912ピクセル=1271万画素
サイズ46.2cm 30.8cm
A3サイズ=42cm 29.7cm
解像度 240ppi

これで撮った写真をWEB上で載せても意味がない。240ppiは96ppiまで落とされてしまう。4Kの23型で200ppi。8Kの23型で400ppiなので、4Kを買えば、モニターで200ppiまでの画質なら再現できる。しかし肉眼にはまだ余裕がある。
なので、写真サイズをこの半分にしたとする。つまりA4サイズに縮小したとする。サイズの縮小によってカメラの解像度はあがり340ppiになる。この場合、4Kのモニターだと200ppiまでしか対応していないので、4Kの23型よりもかなり小さなものを選ぶか、もしくは8Kの23型に買い替えることになる。すると400ppiまで表示できるので問題ない。そして肉眼も360ppiまで25cmの範囲なら識別できるので、非常に画質がよくなるわけだ。

これは5Dの写真をモニター鑑賞する場合である。
印刷の場合はどうだろう。

プリンターの性能は300dpi以上といわれている。この際肉眼である360ppiを超える必要はない。360dpiのプリンターで、A4サイズの340ppiの5Dの写真を印刷し、360ppiの肉眼で鑑賞すれば、すくなくとも肉眼では340ppiの画質を感じることができるのである。
もちろん写真をA4より大きく引き伸ばすとしたら、まずEOS5Dが障害になる。また、印刷して鑑賞することが目的だとするならば、モニターは別に96dpiのFHDでも問題はない。モニター上では実物よりもショボくみえるだろうが、印刷するのであれば、画質を左右するのはプリンターのdpiと肉眼のppiだけになるのだから。

ということで、お買い物が難しくなるのである。

コメント

BLACK LIVES MATTER に対する諸々のはんのうについて

2020年06月08日 14時07分00秒 | 世間話
https://news.yahoo.co.jp/byline/daisukekawasaki/20200607-00182173/

スマホアプリの「スマートニュース」からの記事である。最近、スマートニュースを読んでいて感じるのは、記事の一つ一つの文面が長文になっていることが多い。

コロナによる緊急事態宣言以降にこの傾向は顕著な気がする。私も政府に対して、国民に対する補助がシブチンなこともあり、同様に長文で感情をまくし立てた。なのでこの傾向も同じことなのだろう。つまり必死というか一生懸命、または感情的になっているのである。

著者はこういう。
【「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。】と。
同時にこうも言う【これは「怒りの」運動だからだ。不正義を正すための「戦い」だからだ。】

言わんとしていることはわかる。この事件を、いつもニュースで流れるようなお題目的な「かわいそう」「ひどい」という事で片付けたくはないのだろう。つまりここに一生懸命さが現れていることはよく分かる。

そして「この問題は対岸の火事ではない」といういつものお題目が出てくる。人類皆兄弟、日本人だから関係ないという態度は許されないというような強い主張がついている。無言でいることは「人の尊厳に対する根源的冒涜行為を容認する」ことになると主張している。

言いたいことはわかる。それだけ必死なのだろう。自分の近しい対象に対する冒涜があった場合には、私もこれと同様のことを言うかもしれない。著者にとっては黒人問題は、人類の普遍的な人権に対する冒涜行為と捉え、他人事ではなくて明日は我が身、もしくはこれに賛同しないものは不正義だと言わんばかりである。必死さゆえの感情的な意見の吐露である。

その感情は尊重できなくはないが、この感情が「同一の意見をもて!」という強制力を伴った物言いになったときには、注意が必要である。

不正義を見過ごすものは不正義だ。だから正義の言動をしなければならない。

著者の主張はかならずしもこうではないだろうが、こういう解釈の余地が強い表現をとっている。おそらくは感情的になっているからであろうが。
これの何が問題かといえば、著者はたぶん気づいていないのかもしれないが、どんなに善意から発生した意見であっても、「同一の意見をもて!」とやった瞬間に、そこに悪が入り込むのである。
善とか悪とかはただの言葉である。善悪論争で問題になるのは、いつも「同一の意見をもて!」という事を、善悪両陣営が行なっているからだろう。

別にこれをやめろとは言わない。なぜなら自分の最も大切な家族や自分自身が冒涜的立場に置かれて隷属を余儀なくされた場合には、「自分は今の境遇から解放されるべきだ」という強い意志を、まわりに同調させようとするはずだから。その点において、「同一の意見をもて!」という正義を自分は持つ事になり、従って著者の意見を完全には排除はできないのである。

問題は、どこまでを一人称、二人称としての問題と捉えるかである。
一人称や二人称の「虐げられた」という感覚は、私にとっては大事件である。私が虐げられたのは勿論として、(私にとっての)あなた、君という近しい存在が虐げられることは大事件なのである。

やばい論理展開を私が今やっていることは自覚している。この主張は、私の意図とは違った解釈を他人に与える危険性があることは承知しているが、一応最後まで述べさせてほしい。

さて、これが三人称、つまり彼、彼らになるとどうだろう?地球の裏側で、報道されることもなく、知らされることもなく起こる虐げられた事件については、我々は知らなかったりもしている。

つまり、ここで私がいう二人称と三人称というものの違いは、どれだけ親しい間柄かということも言っているが、同時に、どれだけ世界で起こっている情報を知っているか、そしてそれを知った時にどの程度二人称のような気持ちになることが出来るか?
ということである。

両親の死と知人の死と赤の他人の死とでは、自分に与える影響は異なる。これは理屈ではなく感覚である。本当は世界のどの人たちとの間でも、二人称の気持ち(つまり両親を失った時のような気持ち)になれたら素晴らしいとは思う。そういう気持ちをもっても損をしない社会が世界に広がっていれば、そうなりたいとかなりの割合の人が思っているだろう。

記事はこのように続く

~ひとまず、前編はここまでだ。後編にて「制度的人種主義」の本質および、いかに日本が「ある種のレイシズム」の総本山であるのか、解説してみたい。】

論法構成は以下の通り。

●黒人差別の事件があった。
●これを差別で片付けてはいけない。これは人の根源的冒涜行為の問題
●他人事は不正義。同じ意見をもて!
後編の予測
●制度的人種主義はナショナリズム。
●日本が「ある種の」レイシズムの総本山

この論法はどうも眉唾だ。
この論法をみると、今回の黒人の事件をきっかけにして、最後の「日本がある種のレイシズムの総本山」という主張こそが著者の主張の中心ではないか?と疑いたくなってくるのだ。

著者の記事を好意的に解釈するのであれば、かれは世界の人々全てを二人称のように考えていることになる。この前提から出発するのであれば、彼の怒りはわかるし、かれが「同一の考えをもて!」というような気持ちを押し付けるのも無理はないと思う。

しかしだとすれば、著者はこの社会では生きていけないだろう。この世の不公正を被る人間を、二人称で考えていたら、経済活動などそもそも罪深くて行うことはできないだろう。先進国は他の発展途上国を経済的には割合の違いはあるが利得を貪っているきらいがある。差別で片付けることなく、そこまで問題を拡大するなら、そう断じざるを得ない。


「同一の意見をもて!」
このイデオロギーによって、どれだけの血が流されたのか。

勿論、今回のアメリカで起こった出来事は、我々にはある問題を突きつけたことは確かである。そういう意味では対岸の火事ではない。しかしその問題の感じ方は、人によって大きく異なる。人によっては重く、深く受け止めるだろうし、場合によっては世界の見え方が変わってしまうということもあるだろう。
しかし、理屈でもって
これが正しいから、同一の意見をもて!とやると、その切実な願いはとたんに、いつものイデオロギーに落ち込むのである。



人のふり見て我がふり直せ。
というところかもしれない。







コメント

危機感

2020年06月02日 13時20分00秒 | 歴史
https://news.yahoo.co.jp/articles/efcc823051558f557a4003f65c8a56fd105ff066

こういうニュースが流れるたびに、論調はある決められた方向に流れることが定番となっている。
すなわち
①だから韓国は度し難い
②日本は悪いことしたんだから仕方ない
③韓国に対するヘイトはしてはいけない

思想の違いは①〜③では全く違うものの、おおむねこういう意見が多い。しかしそれではいつもの論調になるので(右や左の思想にせよ) 少し変わった考察をしてみたい。

親日賞賛禁止法とやらが議論されているらしい。懲役刑までこの法律は含むらしい。

上の①〜③のどの思想を持つ人にとっても共通するであろう危機感は、以下のものである。

「現在は日本の経済力はそこそこあり、未だ韓国に対してはかなりの発言権はあるものの、ひとたび日本が凋落した時、彼ら(韓国政府)は、いまですらそうなのに、日本が凋落した時には、彼らの国の国内だけの法律の適用のみならず、我が国に対しても強い干渉をしてくることになるだろう。その時に日本人は彼らの奴隷になりはすまいか?(経済的にせよ何にせよ著しく虐げられるということである。)
また仮に彼の国と戦争することになったとしたら、日本がもし彼ら負けた時は、文字通り奴隷的な関係性を強いられることになる公算が極めて高い」という危機感である。

別にこれは対象を韓国ではなく、中国に置き換えても同じことが言える。日本の戦中や戦後直後はアメリカに対しても同じ危機感を抱いていただろう。ポツダム宣言の受諾にあたっては、ソ連にたいしてそういう危機感を抱いていたに違いない。

日本人は以上の危機感を持っている。ヘイトスピーチが昨今本当に流行っているかどうかはともかくとしても、それが起こっている結構な割合で、この危機感があるとおもう。同時に、日本のGDPが失われた20年と言われるようにほぼ成長がなく、そして今回のコロナ騒ぎからの、政府の国民救済を渋ったことによる国民の怒り。この怒りの根源のなかに、国際的に他国よりも相対的に弱くなれば隷属することになる、という危機感もあったであろうことは否めない。

日本が戦後、韓国(または中国やロシア、アメリカも含む)にどれだけ手を差し伸べてきたかということについては、自分は日本人であり主観的にしか判断できないのだが、もしも今後立場が逆転したときに、彼らが我が国をどのように扱うのか、ということに関しては、日本が彼らに扱ってきたようには遇されないであろうことは予測できる。これはあくまで主観的な判断である。
(まあ自国である日本が、コロナによって被害を受けている最中さえも、外国に援助する金を国民よりももしかしたら惜しまないという態度が、あるいは客観的な証明の材料になるかもしれないが)

さて、そのように立場が逆転したときに遇される内容に危機感を覚えた国民は、もしもそのような時が訪れた時は、必死に抵抗するだろうと思う。わかりやすいのは戦争という「時の訪れ」だろう。
文字通り「鬼畜◯◯」と思いながら、命をかけて抵抗するに違いない。奴隷か?死か?である。

行き過ぎた憎しみは、やがて己に跳ね返るのだろう。ただし、その憎しみをやっている張本人は、そのことを知らないのである。「殺し合いの螺旋」というべきこの世界観を、みずからの正義(?)によって気づかないわけだから悲劇は繰り返されるのである。

やれやれ、客観中立を目指したものの書き方をするもんじゃない。書いててフラストレーションがたまるじゃないか。

以上に書いた内容をヘイトスピーチというなら、この世のありとあらゆる発言はヘイトスピーチなのかもしれない。
つまり今回の投稿は確実にヘイトスピーチには当たらない。
コメント

罪と罰 読了

2020年05月31日 05時33分00秒 | 世間話
泣いた。読んでて泣いてしまった。人間は清濁が常に人格の中に同居し、濁の人間のおぞましい悪性が描かれるが、同時に清の人間の神性も描かれている。人間の悪性を暴露した話というのは、現在ではうんざりするほどあらゆる物語の中で取り上げられる。いわばお腹いっぱいのニヒリズムである。しかし、そんな人間にも考えられないような清い美しい行いをするという「希望」もこの作品は読み手に信じさせてしまう。いわゆるファンタジーとも言える内容を含んだ作品だ。

だめだ。どたいこの作品を言葉で説明したところで、表現しきれるものではない。

ただ、この作品は後世の様々な作品に影響を与えた事は確かである。
まったく順序は逆なのだが、この作品を読んでいてデスノートを思い出した。デスノートの原作者は、この罪と罰という作品を必ず読んでいるハズである。デスノートにおける主人公の思想や考え方、または苦悩などは、この罪と罰という作品の濃いエッセンスをかなり薄めたものとして読める。少年漫画だからしかたがない。罪と罰を薄めずにそのまんま漫画で少年雑誌に乗せることはまあ無理である。

次に、やはり夏目漱石や芥川龍之介などの明治の文豪の筆致のような暗い影を落とす作品のにおいが至る所でするのである。もちろんドストエフスキーがそれらに影響されたわけではなく、漱石や芥川のほうが影響されたほうだろうが。。。

あとはロシア人という民族性をこの物語から伺い知ることが出来る。ドイツ人が書いた魔の山、またはファウストなどの登場人物たちと、ドストエフスキーの登場人物、世界観はかなり異なったものである。ただし19世紀の共通したにおいというものはあり、共通点も多い。それは漱石の作品にも同じものを感じることができ、19世紀という世界がどういうものであったかを垣間見ることはできる。

あとは前回も書いたが、やはり理性と身体の問題。
そして裏切りという「罪」と、殺人という刑法上の犯「罪」の違い。
良心の呵責による「罰」と、法律によって裁かれるという「罰」の違い。
そしてその異なる罪と異なる罰における贖い方の違い。すなわち悔恨・更正なのか禁錮・拘束なのか。

このあたりにくると、神の摂理である自然法と人間の作った(人間社会の自由を制限・調整する)法律という異なるルールというテーマもこの作品に見いだすこともできることになり、いわゆるホッブス、ロック、ルソーなどの近代国家思想の話としての解釈も可能になる。

そうなると、クラシックロマン派作曲家のワーグナーの作品「タンホイザー」におけるテーマとの近似性も現れてくる。彼のこの作品が1840年代に書かれたことをみると、やはりドストエフスキーの時代とほぼ同じではないか。そして、かたやドイツ。かたやロシアである。

そして、この罪と罰の時代のロシアでのドイツ語というものの位置付け。作品の中に、やたらドイツ人、ユダヤ人、そしてドイツ語などがでてくるが、なぜこの時代のペテルブルクの人の中に「ドイツ」というものがでてくるのか、ということについてはこの時代の歴史背景をしらねば深くは理解できないという仕組みにもなっている。
(そもそも皇帝エカテリーナはドイツ人であることや、ペテルブルクという都の名前がドイツ語読みであることを知らなければ、このあたりの事情については気づかないだろう)

あとはこのような貧民街での娼婦という世界。これは現在のインドなどで似たような光景を目撃することができるだろう。インドに貧乏旅行したバックパッカーの旅行記などをみると、この罪と罰における貧民街と娼婦の住居などは、とても近しい雰囲気を感じるからだ。

この作品には、ひとりあきらかに1人だけ濁をもっておらず、清のみしかもたないというファンタジーな女性が出てくるのだが、こういう人間が実在していて欲しいという希望が感じられる。このようなキャラクターは、ヘタをすると作品そのもののリアリティを壊し、ファンタジーをして読者に「嘘だこんなの」と思わせることになり、結果作品をダメにしてしまうという危うさがあるが、この作品はその塩梅が極めてうまく、ギリギリのところで成立させていると思う。
ただ、一番のリアリティをもっているのはやはり主人公であり、上記したファンタジーの女を本物とすれば、主人公の行いは偽物だが本物に限りなく近い。この主人公もややファンタジー的な側面があるが、我々凡人が目指すことができる最高の到達点はおそらく主人公クラスにおける善性だろう。女性ほうのクラスはもはや神である。この作品の唯一人間くさくない人物である。(つまり、やや嘘だ!こんなやつぁいないと感じさせてしまうものがある)

そういう意味では、罪と罰という作品は
リアリティ文学というよりは、ややファンタジー寄りである。これはもちろん褒め言葉である。

コメント

ドストエフスキー 罪と罰

2020年05月30日 00時56分00秒 | 世間話
図書館が再開したので、さっそく本を借りる。今回は文学of文学、ドストエフスキーの罪と罰。上下巻で結構分厚い。
今日、上巻を一気に読み終えてしまったのだが、これは読みやすい。トマスマンの魔の山もこれと同じかこれより分厚い本だったが、あれは正直きつかった。
今回の罪と罰は、訳者の工藤誠一郎もうまかったのだろう。とても素晴らしい翻訳だとおもう。とはいえ、まだ上巻までしか読んでない。が、半分読んだだけでもこの作品は名作だと分かる。ドストエフスキーは人間のこころというものを実によく知っている。主人公の心理描写や、その他の大勢の人々の心理がことごとくリアルであり、同時に清い。自分もこういう人物でありたい、という希望を作品の登場人物に見出してしまう。どんな終わり方を迎えるかはわからないが、ひとついえることは、この本はどういう内容か?と問われた時に、説明するのが不可能だということだ。
様々な読み方ができる。ただ予感として感じる1つのテーマとしては、「頭(意識)で考えた事などは、行動で体験・経験に比べれば、はるかに矮小であり独善である」ということである。
この作品は、身体というものをかなり重視していることは読んでいてわかる。主人公は頭脳明晰ではあるが、身体はまるでダメである。しかし身体を通じて、主人公は思考では得られなかった数々の経験をつみ、人格が変わる。教養小説の極みである。
コメント

ザリガニ取り

2020年05月25日 12時59分00秒 | 世間話
子供が市役所の裏にある広場に行ったら、なんと家族連れが沢山いた。うちの県は特別警戒都道府県だが、さすがにみんな自粛に疲れているのだろう。特に子供などは自然な生き物なので、表に出て飛び回らないと心身ともに不健康になり弊害もでるだろう。
広場の池でたむろしてる人達がなにをしてるのかというと、手製の竿を使ったザリガニ釣りである。写真はその釣果だ。

子供はザリガニを飼育したいらしく、ザリガニは何を食べるの?と質問してくる。私が子供の頃は、ザリガニを釣るのにザリガニの身を使ってたので、ザリガニが何を食べるのかということについては共食い以外に知らないのにハタと気がついた。
ネットで調べると雑食のようで、煮干し、魚の切り身、イトミミズなどの動物性のものから、レタス、ほうれん草、水草までの植物性まで幅広くエサにすることができるそうだ。

子供はザリガニを、池の水をいれた2リットルのペットボトルの口を切った容器に入れて持ち帰ってきた。早速バケツに移し替えたが水量が足りない。そこですこし水を足すことにして水道水を足したが、、、、

あれ?水道水って消毒してたが大丈夫か?という基本的なことに水を足してから気がついた。


早速ネットで調べたら、カルキ抜きをしてない水道水ではザリガニは死ぬと書かれていて狼狽した。カルキ抜きはバケツの水を日光の下に5時間ほど晒してやると抜けるようだが、そのまえに死んでしまうかもしれない。そこで広場の池に逆戻りして池の水と泥を取ってきた。これで一安心。


分かったこと。

つくづくつまらない大人になってしまった。ザリガニの生態もロクに知らないのである。何を食べるのか知らない。水道水が毒であることも忘れてる。ザリガニの呼吸がえら呼吸であることも調べないと分からない。カルキ抜きというものがあるということもはじめて知る始末。

情報化社会のくせに、そういう情報についてほぼなにも知らないのである。結果的にそのことを子供から教わった。
ザリガニ取りや飼育の知識はカネにはならないし、社会ではほとんど役に立つことはないだろう。しかし人生を豊かにするには必要な知識であるに違いなく、それらを知らないのである。つくづく教養の無さを思い知ったわけである。

コメント

養老孟司の話の書き起こし。

2020年05月23日 03時12分00秒 | 世間話

養老孟司


自然=人が意識的に作らなかったもの。

意識的に設えたものは全部自然じゃ無いですね。意識的なもの。

実は人も自然なんですよ。どういう意味かって、意識的に作られていませんから。

意識的に作った部分とそうで無い部分を区分けしていかないと、僕のいう自然が理解できない。だから自然にどう向かい合うかってのは、実は自分が自然であるということをうっかりすると忘れちゃうんですよね。で、自分が自然であることのいちばん典型は身体なんですよ。

0.2mmの受精卵が食べることによって大きくなった。ということは完全に自分で周囲と繋がっちゃてるんですよ。物質的に考えたら。その感覚は今はゼロですよ。それね、昔の人はあったんですよ。だから土から生まれて土に還るって言ってた。その感覚がない人が、だから、自然と人間が対峙していると、こう考えちゃうんですよ。

全然違うそれは。お前さんどこにいるんだよって話で。一部に過ぎないでしょ。要するに自然が物質でできているとしたら、その一種の結節点みたいになっていて、ね、まわりはずーっとこう曖昧になっていて、そこになにかかたまりができているんですよ。あっちこっちに。その塊がアンタでしょ、て話で。その塊はいずれほどけちゃうんですよ、死んで。別の部分は別の人に入ってるかもしれない。だから、そっちから考えると世界は繋がっちゃってるから、自然という言葉は消えちゃうんですね。

で人工的なものは意識的なもので、自然と対立するのは意識的なものといったでしょ。で、意識そのものは、実は自分で主導権を持ってないんですよ。つまり、意識があるときはね、意思があるから、なにかを自分がやってると思うわけでしょ。体も自分が動かしていると思っている。だけど、意識そのものが出てくるときは、朝、目が覚めるわけでしょ。これ意識が目が覚めようと思って覚めてんじゃないんだよ。だから目覚ましがいるんじゃないですか。じゃあどこから意識が出てくるかっていったら、ひとりでに出てくる、これは体の都合でしょ。寝るときも完全にそうで、しっかり意識して寝ようと思ったら目が覚めますよ。ね、ひとりでに寝る、なくなるんです。だからなんと、意識って自らの主導権を持っていないんです。ところが意識が一旦出てきちゃうと、つまり目が覚めちゃうと、てめえがやってると思ってるんだよ、意識は。そうでしょ。やってないよ頭殴られたら消えちゃうもん意識。

だけどその意識主導でやってきた結果が今の世界でしょ。で僕がいちばんよく分かりやすく「ああすればこうなる」的だろって。ああすればこうなる、こうすればああなるってのが意識ですから。


都会なんて典型的でそういう意味では不自然でしょ。そう、意識的なものしか置かないんですよ。これはもう驚くべきもんで。だから本当によくいうんだけど、銀座のね、道に石ころ落ちてないでしょ。おちてたら怒られるんだよ。誰かがけっつまづいて転んで足の骨おると、銀座だったら区役所が告訴されるんですよ。僕が山行って虫取りに行ってさ、石にけっつまづいて転んで足の骨折ったら、気をつけて歩きなさい、って怒られるだけだよ。でしょ。で世界の見方が全然違っちゃうんだよ都会と田舎では。だからその意識的な世界ではそういう、できるだけ無意識なものが世界中に満ちているってことを、気づかせないために、人の作ったものしか置かないって暗黙の前提が出てくるんですよ。だから、マンションに住んでて、たとえば丸の内の会社に通っている人ってのは、1日のうちにおそらく意味のないものを見ないんですよ。


1番問題なのは、感覚から入るものが非常にこう限定されてしまっているというところに、問題を感じているんで、これ、無意識ですから。

感覚から入るものをね、基本的に無視してしまうってのが人間の特徴なんですよ。そして、一旦抽象化しちゃうと。だからその、入るところをどんどん削っていってもあんまりわかんない。冷暖房完備の部屋に閉じこもっていれば分かるけども、まわりにおいてあるものは全部、意味のあるもの、人が使うもの。気温は変わらない。お日様は動かない。


ここにいれば風が吹くし、鳥の声がするし、これ、どんどん光うつってますよ。いどうしてますよね。それ嫌いでしょ今の人。講演会なんかいくと、全員がだって閉じ込められて座っているもん。全部一定でしょ周り。それなにをしてるのかって考えると、感覚を遮断してるんですよ。


いまさ、そこに書いてるから、白って書いてみなさいよ。漢字で。白でしょ?それ黒だもん。それ屁理屈じゃないんだよ。だから猫に字を教えられないんですよ。わかります?動物は感覚が先だから、だから、黒ペンで白って書いたら、彼らは頑として黒と読んじゃうだよ、まず。人間はそれを無視できんるんだよ、なんと。黒字で書いてなにが白だよって言わないんだよ、人間は。そのくらいメチャクチャな生き物なんです。それで万物の霊長とか言ってんだからさあ。そこで落とされているのは実は素直に感覚から入ってくる、こういう。

で、それがどういう影響を与えるんですかって、必ず聞くんだまた。バカが。それが理屈で言えるんだったらもう。。。わかるでしょ。黒が白になってんだからさ。そこを禁止しなきゃいけないよ、もう。



コメント

特別定額給付金

2020年05月21日 23時03分00秒 | 世間話
特別定額給付金の申請用紙が届いたのでさっそく記入して郵便箱に投函してきました。もらわないほどに奇特な人にはなれませんでした。

問題は何に使うかである。
社会的な発言としては「使って経済を回す」であろうが、
個人的な発言としては「不安だから貯蓄」となってしまう。

申請前は前者の考え方が優勢で、あぶく銭として使ってしまおうと思っていたが、申請後の今は心は後者の考えに傾いている。

これだから「自分」というものは信用ならない。定額給付金がイメージとしてあまり現実感を持っていなかった時には、あぶく銭だから経済回す為に使おう、使うなら国内の製品に金を落とそう、などと殊勝な考えをしていたものだが、しかしいざ申請用紙がとどき、給付が現実のものとして見えてきた時に、前者の考えを実行に移すには躊躇を覚えているのである。やはり貯金か?そう考えている自分がいる。
おそらく実際に現金が振り込まれたときの現実に直面した時には、さらに考えが確信に変わるだろう。すなわち貯金に意思が固まってしまうということである。

#10万円  で記事を書くつもりで、いまスマホで記事を入力しているのだが、ふとそんなことが心のなかによぎってしまった。

ほんとはもっと気楽に「焼肉でも食いたいな。写真のようなタン塩を頬張って・・・」などと書こうと思ったが、どうもそれは今の心境としては正しくない。

今の心境として感じることは、やはり自分はカネというモノに対して、ただならぬ執着があるということである。

オードリーの春日が、お金を使わないで生活することが楽しい、と言っていたが、あの心境は多分そういうことなんだろうとおもう。あれはそうすることにより、心の安定を買っているのだろう。不安を払拭する為にお金を使わないで生活しようとすることが染み付いてしまったのであろう。
それは一見素晴らしいように見えるが、おそらくは形を変えた執着なのだろう。なぜなら私はかなりの部分で、春日のそのあり方に共感しているし、同時に春日のしている事を似たようなレベルで実践もしているからだ。
しかしそれは、あくまで貯蓄で安心を買っているだけであり、もし未来にそのお金が紙切れになったとしてご破算になったときに、はたして平静でいられるか?と言われれば答えはNOである。
アリとキリギリスの話ではないが、アリは無欲なのではない。厳しい冬の前に、不安を払拭するためにセッセと貯蓄をしていたわけである。いかにアリとしても、その冬のときに貯蓄が突然にして消えてしまったときには平静ではいられまい。アリの餌はお金と違って実態だから消えるということはないが、もしも餌がお金のように実態出なかったとしたら、冬にいきなり消えてしまうということもありうる。そうなるとキリギリスと共に死ぬことになる。

なので、お金に対する執着がどの程度なのか?ということは、このような緊急事態には感覚にハッキリと教えてくれる。つまり自分は何者なのか?何に執着し何に頓着しない人間なのか?ということをマザマザとみせてくれる。

この感覚を持つ人は日本人では案外多いのではないだろうか?日本が仏教の国であることと関連性があるかもしれないが。

ゲームをやってても、この癖は現れる。クラフト系のゲームなのだが、資源を集められるだけ集めて、収納できなくなるので、さらに収納スペースをつくり、資源を集める。その繰り返しである。貯めることで安心を買っているのだろう。つまり不安の裏返しで、同じことをしているのだ。

このことは我が国がデフレであることと無関係ではあるまい。仏教の国である事もあるが、災害国である我が国は、いつも不安と隣り合わせであった。台風で川が増水し資源が失われ、母屋も壊され、地震で壊滅する。地震に伴い火事で資源が奪われ、といったように、いつも安心・安定を得るために、この国の人たちに貯蓄という文化は根付いている。
逆にいうと、安全・安心という執着が強いがゆえに、貯蓄の象徴であるカネに執着するのかもしれない。

仏教では執着は苦しみを生み出す元という。かといって信仰宗教にカネを「浄財」とか説伏されて、うまく利用されて喜捨させられるのも真っ平御免である。そんなものは仏教ではない。

仏教の本質はどう執着とケリをつけていくかにあるだろう。愛を「失うことを恐れる執着」と言い切った仏教は、たしかにキリスト教には無い世界観と着眼点を持っている。吾唯足知という言葉も執着に関する格言であり仏教に通づるものがある。

どう執着と付き合っていくか。そこを考えさせた特別定額給付金でした。







コメント

捏造報道これいかに

2020年05月21日 02時49分00秒 | 世間話
https://asagei.biz/excerpt/16271

このご時世に、国民の気の緩みを報道したいが為に、よりにもよって3月の映像を5月17日の映像と偽って流したのが「バイキング」なる番組である。

いくら視聴率を稼ぐためとはいえ、こんな事までするとは。「こんなに気が緩んでるなら、まだ緊急事態宣言の解除はできない」と、政治家がこの番組をみて感じてしまうのでは?

たしかに世は休業をしててもテレビ局は休業しない。みんな家に引きこもってるから視聴率は爆上げだろう。じゃあちょっと盛ってやれ、と捏造まで及んだのはないか?

人というのは、いつの時代でもどんな状況でもこういうことをする人は後を絶たない。

1番怖いものは何か?という質問に、著名人はこう答えたという。
「人間」と。
たしかに人間は怖い。自分がテレビのお偉いさんだとして、金が入るのならひょっとしたら捏造に手を染めてしまうかもしれない。人間は状況で変わる。自分が変わらないと思い込むのは傲慢なのかもしれない。先の世界大戦は、人間が状況で変わるということの良い証左であろう。

危ないのは人間である、ということを知っておいた方がいいという話である。
コメント

私は元々は自民党支持者でした、、、が

2020年05月14日 02時34分00秒 | 政治 経済
【ゾンビ企業は市場から退場です。新時代創造だね。】
とかすごいこと書いちゃってます。コロナウイルスの文脈の中で書いたツイートですが、凄いことを言うものです。ちなみに自民党岡山1区の人です。
ゾンビ企業の定義はわかりませんが、抽象零細企業のことを指しているのは明白です。百歩譲って仮にそれらがゾンビ企業だったとしても、そこで働く従業員は退場したら失業者です。つまり国会議員が失業者オッケー、新時代創造だね。などと言っているわけです。
この発言が企業から出るなら分からないでもない。企業は営利でモノを考えるので。
なので企業はまず文化という寺や神社、文化財などには投資しないので、それらの施設はこの日本から早速消えるでしょう。過疎地は経済的には損なので、過疎地にインフラを投下、もしくは維持費を投資することは企業はほとんどやらないでしょう。そこにすんでいる人たちも遠からず追い出されることになるでしょう。
医療費をどこかの期間が負担することも、企業としてはやらないでしょうから、医療制度も早速崩壊するでしょう。

つまり、国にしか出来ない投資やインフラ整備、文化財の維持、安全保障のための国有のものなど、けっこう国家が考えなければならないものは多いにもかかわらず、
この
あいざわ一郎
とかいつ奴は、国家としてやるべき責務について、まったく考えが及んでいないどころか、企業的な視点で政治を考えており、害悪以外の何者でもありません。こういう議員を一刻早くクビにして、企業に行ってもらいたいものである。

議員として不適格であること甚だしい。
それが、あろうことかこの国の与党である自民党員。しかも松下政経塾の出身とか。いったい松下政経塾とは何を教えている塾なのか。しかもこんなのが政務次官にもなっていたりしていたらしい。

これは失言の類ではない。言い間違いとこ言葉の綾ではない。完全に確信犯。つまり信念に基づいた発言であることは文面を見ればよくわかる。

こういう奴が、儲からなければなんでも民営化!とか叫ぶんだろう。
自衛隊も民営化してみるか?アホが。

岡山1区の国民はは次の選挙には票を入れる対象を考えるべきだろう。

コメント

経済について考える。 思考実験

2020年05月12日 13時00分00秒 | 政治 経済
-1+1=0 規模1
-10+10=0  規模10
-100+100=0  規模100
-1000+1000=0  規模1000
-10000+10000=0  規模10000

まずは単純モデルを考える。細かい間違いには目をつぶる。

マイナスは借金、プラスは現金とする。借金と現金を合わせると0となる。規模とは、人口が増えたり社会が大きくなれば、貸し借りの数字は比例して増えるものと考える。

ここまでは、たくわえの多さについて述べた。この現金を使うことにはまだ言及していない。どんなに規模が大きくなろうとも、全ての人がまったく現金を使わないなら規模の大きさに意味はなくなる。

ここで現金の50%を「使う」ことにしよう。そうなると

-1+1=0 規模1   市場0.5
-10+10=0  規模10  市場5
-100+100=0  規模100  市場50
-1000+1000=0  規模1000  市場500
-10000+10000=0  規模10000  市場5000

たくわえの50%使うことを「市場」と呼ぶことにする。市場規模と現金の規模は比例する。市場規模と借金の規模は比例する。


ここでたちまち疑問が生まれる。
①どんなに規模がでかくなっても、全ての借金を全ての現金で返してしまえば0になってしまう。借金も消えるが現金も消えてしまう。ここにまず違和感がある。すくなくとも自然界にはこういうものは見たことがない。あるとすれば、物理学における陽子と反陽子、電子と反電子などの理論の中にだけある。

②現金を使っても、それは誰かの現金になるだけで、現金は借金が存在している限り消えない。従ってモノの売り買いは際限なく出来る。モノという資源は有限にもかかわらずである。借金や現金の仕組みと有限な資源との間には辻褄があわないことがある。ここに違和感を感じる。

もちろん我々は知っている
借金はいずれ返さなければならないというルールが世間にあることを。
資源とは自然界の資源だけではなく、知的所有権のような人間が作り出した付加価値もそう呼ぶことを。

しかしそうであっても取引は無限、資源は有限には変わりがない。また、全ての借金の返済するとこの世から現金がなくなるということにも変わりがない。

経済はこの2つの仕組みになってるので、いつも違和感を感じ、なにかペテンにかけられた気持ちになる。

まあとりあえずそのことは考えずに先を進めよう。

資源は有限だが取引は無限についてまず考えよう。
資源は自然界の恵みであり、同時に知的所有権のように人間の生産物でもある。つまり有限な資源という側面もあるが、人間の生産力というある意味無限の資源という側面もある。(ただし有限な資源を使って生産力を得ているから有限だし、人間の時間毎に作れる生産物には限りがある点で有限だ)

取引を需要と表現するなら、取引の無限性は需要の無限性と表現することができる。
需要に対して資源・生産力が追っついていなければいわゆるインフレになり、反対になればデフレになる。

取引(需要)とは、「使う」ということであり、使う=市場だとは上で述べた。
従って、取引=需要=使う=市場  需要=市場ということが出来る。
その考えに基づくとデフレとは
❶市場が資源・生産力と比べて縮小していることを表すし
また別のいい方をすれば、
❷資源・生産力が市場と比べて過剰であるということを表してもいる。

認識を❶としてみるか❷としてみるかによって、デフレにおける政策は変わることに留意いただきたい。❶の解釈に立てば、市場を大きくする政策を採ることになり、資源・生産力に合わせる形で取引を増やすまたはカネを使う。❷の解釈に立てば、資源・生産力を小さくする政策を採ることになり、取引やカネの使う量を合わせる形で資源・生産力を減らす。

❶を財政出動政策❷を緊縮財政政策という。



国は自ら借金と現金を作り出すことができる存在である。借金と現金の規模が「たくわえの規模」であり、そのたくわえの50%を使うことを「市場の規模」と上で述べた。つまり国は現金(借金)を作り出し、それを使うことによって市場の大きさを操作することは出来る。しかし資源・生産力を操作することはなかなかできない。つまり国は需要は操作できる。供給は操作しにくい。


次にバブルというものを考えてみよう。

バブルとは「局所的なインフレ」ということができる。世の中の物価相場と比較して、ある商品の物価だけが急激な値上がりをして、しかもそれでもその取引が冷めないことをいう。
これが起こる過程はいくつも考えられる。
❶その商品を作るための資源・生産力が著しく毀損している場合。
❷その商品に値段よりも価値があると人々が思い込んでいる場合。

❶は需給バランスが悪いことによって起きる現象。
❷は売れ過ぎる商品である。価格を上げても売れ過ぎる商品である。

❷が厄介で、大抵は人間の思い込みに根ざしたものだ。この商品は「9将来さらに価格が上がるに違いない」という幻想を集団が本気で思い込んでいれば、この装置は起動する。投機商品に多い傾向がある。金融商品、金融派生商品にこの傾向がある。

❶によるバブルは主に自然界の資源が足りなくなってきた時に起こりやすい。
❷は大抵が人間の生産物によって引き起こされる。◯◯権などという人間が作り出した権利という商品は、人間にある思い込みをさせる傾向が強い。
人間を騙すために、人間は偽りの生産物を作ったりする。

生産物は偽りのだろうがホンモノだろうが生産物と割り切るか、偽りの生産物は生産物とは認めないと頑張るか。
そして、それらが混ざった「生産物」を買う人がいたとして、それを「市場がある」と認めるか、「偽りの市場」として退けるか。

経済は本質的には、法律に違反しない限りは、全ての生産物を認める傾向にある。従ってそれらが取引によって市場が拡大するこということを認める傾向にある。

私には違和感ばかりで、どうも経済にはあまり関わりたくないと思う次第である。






コメント

種苗法改正

2020年05月12日 03時18分00秒 | 政治 経済
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200511-00072491-gendaibiz-pol&p=1

コロナ禍の3月3日にシレッと種苗法改正を閣議決定したのとこと。この混乱期のなかにどれだけこの法改正が議論されたのかは分からないが、おそらく拙速にやったと思う。なぜこの時期に通そうとするのか?今はそれどころでは無いはず。
それどころでは無いはずなのに、あえて通そうとする意図は、そりゃ後ろ暗いものと勘ぐられても仕方がなかろう。この時期に通される法案の殆どは疑ってかかるべきなのだ。

ハッキリ言って、現在の不安過多の状況下にあって、国民が種苗法の是非を調べてその良し悪しを吟味する余裕はない。だから今は全面反対でよろしい。そういう重要そうな法案は、もっと落ち着いてからやるべきなのだ。

この政府はどうかしている。急ぐべきものを急がず、吟味しなければならないものをサッサと通す。こりゃ火事場泥棒と言われても仕方ない。

とにかくふざけてる。


何度でも官邸や全省庁に文句のメールを出して国民の圧力をかけるべきである。

コメント