Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

照明

2010年02月23日 01時53分47秒 | Eos5D
EF50mmF1.8II

宿の照明です。これは紙が巻いてあるわけでもなく、蝋燭の炎でもない。プラスチック製で、中には電球が入っている。ネタバレをしてしまうと風情もへったくれも無いが、写真というのは、それを感じさせずに見せることが出来る。本当はこんなに暗くもない。撮影時間は午後4時頃なのだ。さらにレタッチも加えている。印刷してしまうと、そのあたりの修正に気づいてしまうかもしれないが、ブログ上に貼るときには解像度を72まで落とし、27㎝×18㎝まで縮小するので、細かい修正箇所は殆ど気づかれる事はない。カメラがデジタルになって、こういう加工がとても楽に行えるようになった。私がカメラを始めたのも、それが大きな理由である。あとは銀塩に比べてカネがあまりかからない事。まぁ銀塩を愛好する人に言わせれば「加工は邪道」となるかもしれないが、銀塩でもフィルターかけたり、暗室で現像するときにRGBのバランスを調整したり、果てはネガにまで加工を加えたりなど、同じようなことをやっている。そうすると、どこからが邪道で、どこからが正道なのかの線引きが分からなくなる。

まぁ、邪道だろうが正道だろうが、自然に見えて美しければそれでいい。

事実と真実

2010年02月13日 02時33分42秒 | Eos5D


事実と真実。両方ともよく使われる言葉であるが、その言葉の意味を明確に使い分けられる人は、実は少ない。これは辞書を引いても、混同する説明になっていて、誤解を生むのである。

事実(辞書からの抜粋)

(1)現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。
(2)〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

(1)の説明では、真実と混同しやすい印象を与える。その証拠として、真実の辞書に書かれている意味を調べてみよう。


真実(辞書からの抜粋)

(1)うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。
「—を語る」「—の恋」「私に取つては、あなたが、一番—な友人でゐらつしやるのだから/人形の家(抱月)」
(2)〔仏〕 絶対の真理。


我々は、事実を、ときおり「本当のこと」と捉えている。それは辞書的な定義としては必ずしも間違いとはいえない。ただ「本当のこと」という言葉の捉え方に意見の相違がある。「本当のこと」=「真実」という言葉の変換を、我々は半ば無意識的に行っているが、これこそが誤解の最大の要因であろう。例えば「その一瞬の出来事」であっても、それは事実足りうる。つまり「本当のこと」になりうるわけだ。写真は「その一瞬の出来事」を写し取ったものという事から、それは「本当のこと」であるけれども、同時に「本当のこと」ではない。言い換えれば、現実に起こったことであることは間違いないが、しかしそれは絶対の真相や真理とは必ずしも成り立ち得ない。

つまり我々は辞書の定義の(1)を大きく意識して、言葉の意味を捉えるが、実は言葉の定義の本質により近いのは、(1)ではなくて(2)の方である。


(2)の抜粋:

事実
(2)〔哲〕 時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

真実
(2)〔仏〕 絶対の真理。

真理
(1)正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。
「不変の—」
(2)〔哲〕(価値を慮外にして)事態の真相。真。その基準については諸説ある。(1)思想と事物の一致、すなわち判断や命題が存在と正確に対応すること(対応説)。(2)ある命題(思想)が他の諸命題と矛盾せず整合性があること(整合説)。

事実はあくまで、我々もしくは「私」が知覚・経験することを背景に持っている。我々に経験される出来事や存在とあるように、経験・知覚されない出来事は存在などはスルーされるのである。例えば、ここに挙げた2枚の写真がある。両方の写真とも、同じくらいの場所で撮影されたものである。この場所は上の写真と下の写真を併せ持った場所である。美しい、美しくないで表現するなら、上は美しくなく、下は美しい、といった異なった知覚が導き出される。実は、この場所を説明するには、この2枚では不十分である。時は刻一刻と流れ、風景や情景は瞬間瞬間に変化していく。その変化の様を全て記録に残す事は不可能である。毎秒1枚ずつ撮影したとしても、またビデオで撮影したとしても、それは記録される範囲が画角内に限定されるし、たとえ肉眼で見たものであったとしても、我々の知覚外の現象については(たとえば、足元に小さな虫が活動していたとして、それに気づかなければ、その人間はその点における事実を取りこぼしている事になる)ついにその事実は知覚・知る事ができないということになる。これが事実というものの正体である。一方真実とは、これも諸説があるが、広義には「普遍的で妥当性のある法則や事実」である。ある命題が諸命題と矛盾せず整合性があること、とあるが、これは「誰が見ても同じと感ずる事」と乱暴ではあるが言い変えても良いだろう。
先ほどの「足元の虫」の件で言えば、その虫に気づくものもいれば、気づかぬものもいる。同じ景色を見ても「美しい」と思う人もいれば、「さほどでもない」と思う人もいる。このように意見の総意が得られない、つまり普遍的でもなければ、知覚の整合性もないものは、真実とはいえないことになる。つまり真実とは、この世のすべてを見通せる目であったり、もしくは完全に統一された意思であったりというように、人間全部が同じ条件を揃えているといったような要素を要求されて、初めて現出する言葉である。

そう考えると、写真といわれるものが、如何に真実など写していないという事が良く分かるのだ。自分の知覚できる、しかも瞬間的出来事という意味における「本当のこと」は映し出すことが出来るとしても、万人に共通した出来事は一切映し出すことなどは出来ない。自分の知覚に対しても、それは一瞬の出来事でしかない。一週間で3000枚の写真を収めたとしても、それは瞬間的な知覚にすぎないし、自分の目や耳で知覚したことであっても、それは主観的な世界観のみが構築されるだけであって、実態・真相はおそらく違っているのである。

こういう性質を巧みに使い分ければ、美しくないものでも美しく見せる事が出来る。実態とはかなりかけ離れた世界観を他人に植え付けることも可能である。写真・映像というものは、そういう効果を作り出しやすい装置なのである。
私のブログには多くの写真や旅行記などがUPされているが、基本的には魅力的に見えるような演出がかなり施されている。今回UPした一番目の写真のようなモノは、基本的には魅力が下がるのでUPしないのだが、これは悪い意味でいえば、印象を意図的に操作していると言える。綺麗に見せよう、行きたいと思わせるようにしよう、と印象を操作しているわけである。
たとえば、肉眼では空はこんなに青く見えない。それがこんなに青く見えるのは、写真機の演出効果のなせる業である。


さて、これを踏まえて報道というもののあり方を考えてみることにする。
彼らは事実と真実を巧みに混同させるような編集・構成を良く行う。しかし、それは学問的真理を追究するという目的に沿って行われている事は極めて稀である。多くは、そういったアカデミックな問題からではなくて、商売上、もしくは思想上の整合の為に行われているのだ。報道も商売も大した違いがない。両者ともども、社会の為に、と本当に心から考えている者は極めて少ない。両者とも基本的には利益を追求する集団に過ぎないのだ。だから、報道の内容を「学問的良心に従った真相」などと鵜呑みにする人がいるとすれば、その人はかなり純真なナイーブな性格の持ち主だといえよう。
↑の写真においても、一番目の写真ばかりを集めて構成すれば、実態とは異なる印象をあたえることが出来るだろう。我々は撮影者・報道者の良心を無条件で信じてはならないのである。それは信頼ではなく「鵜呑み」というのである。その報道を「信じる」のであれば、彼らの良心を鵜呑みにせず、信頼に足る良心を本当に持っているのかを見極めなければならない。つまりその点を研究しなければならない。面白い言葉がある。それはこういうものだ。「歴史の研究とは、歴史家の研究でもある」・・・と。つまり歴史家の良心の研究である・・・と言うのだ。この歴史家が、どの方向性を向いているのか。どこにこだわりを持っており、どこに関心がないのか。真相に一歩、また一歩近づくためには(ここで言う真相とは、全知全能、すべてを知りうる神の視点のことをさす)こういった研究者の研究をして、著書の取捨を選択するということを行っていかなければ、彼らの用意したワナに陥る可能性があるのだ。儲かるから書く。気持ちいいから書く。誘導しようとするから書く。いろいろな場合が考えられる。コマーシャルと同じである。美味そうに見せるのである。必ずある方向にベクトルがかかっているのである。我々は情報の取捨選択を適切に行わなければならない。それをせずに与えられた情報をただただ鵜呑みにするだけでは、我々は彼らのいいように利用されてしまうだけである。

銀河英雄伝説オンライン vol17

2010年02月08日 06時36分54秒 | Eos5D
銀河英雄伝説オンライン vol17


銀河英雄伝説というアニメーションを使ったゲームがある。
これまでの作品は、ボーステックというメーカーによってリリースされて
きたが、今作になってバンダイ・ナムコに製作が変わった。これはPCソフトで、
主に戦術に重きを置いたオンラインゲームである。(オフラインでもプレイ可能
だが、オンライン用に作られているとしか思えないほど、COMのアルゴリズム
は弱い)

最近写真をUPしないと思ったら、こんなゲームの動画編集をチマチマとやって
いたというワケである。