Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

20:ベゼクリク千仏洞

2010年11月03日 23時04分05秒 | 中国旅行記2010年8月

高昌故城の次に来たのは、ベゼクリク千仏洞(写真)である。
ここは仏教寺院である。嘉峪関と同様に岩盤を繰りぬいて建物としてしまっている。まだ訪れたことはないが、ヨルダンのペトロ遺跡も同じような作りではなかったか。どうも西アジアも中央アジアも共通点を多く発見ができる。歴史的には、どうやら唐の支配の直後に成立した天山ウイグル王国の時代あたりに建てられたらしい。ウイグルという名称も、トこれがまた「トルコ」と同様理解しがたい概念だ。ウイグルは、中国ではカイコツ(回鶻)などと呼ばれていた頃までさかのぼれるのだが、この回鶻と天山ウイグル王国の民族が同じであるとは限らない。この辺りは私も不勉強なのだが、回鶻の中国語での音は「ウイグル」に限りなく近いので、この頃(8世紀~9世紀)からウイグルという集団は当時の人達に認識されていたのだろう。この回鶻は、九姓鉄勒という部族(民族?国家?集団?)から台頭してきたものである。鉄勒とは「テュルク」と読めることからテュルク系民族であったといわれている。匈奴の末裔という説もある。いずれにせよ、匈奴もテュルク系であり、鮮卑・柔然は別としても、その後の突厥もテュルク系であることから、回鶻もテュルクの一派であるとも言える。

遊牧民族の歴史は本当に難しい。というのも、彼らはほとんど文字を残さなかった。ウイグル文字、突厥文字、契丹文字というように7世紀以降は彼らも文字を使用するようになるが、残念ながら匈奴や鮮卑、柔然といったそれ以前の遊牧集団においては文字を残していないので、彼らの歴史がよく分からない。しかもである。「匈奴」。これが何を意味するのか、実はよく分からない。匈奴は中国における「漢」とか「晋」のような国名だったのか?それとも「蛮族」という意味として使われた遊牧集団名なのか?民族名として使用したのか?実際のところ、この辺りはよくはわからない。だが柔然や鮮卑や突厥やモンゴルを見れば分かるように、かれらは多民族の集団を形成していた。故に国家名といっても良いし、新たに創設された民族名といっても良い。国家建設の時代はえてして民族が「発明」される。たとえば7世紀の日本。それ以前は「倭」といったが、律令を取り入れ天智・天武朝に「日本」という国家が建設された。まだ大和人と名乗っていたのかもしれないが、中国地方~関東人までのさま座名形質と文化の違う人々はこの時ある程度統合されて大和人、もしくは日本人と意識されたハズである。さらに時代は過ぎて19世紀の日本。明治維新によって近代国家「日本国」が誕生した時、琉球人もアイヌ人も日本人になった。日本人、日本民族、大和民族という民族が発明されたのである。民族は国家建設の時代には「発明」される。
さて話は遊牧民族名に戻ろう。テュルク(トルコの語源)だが、匈奴人(この言い方が正しいかわからないが)は、テュルク系である。ここでいうテュルク系とは、血族の事・あるいは言語的な事を指している。テュルクもまた発明された民族なのだろう。だがこれは古すぎてよく分からない。いずれにせよ「テュルク」から派生して作られた「民族(または国家・集団))名は多い。匈奴・突厥・ウイグル・鉄勒あたりはかなりの割合でテュルクだし、月氏についてもテュルクの可能性が高い。

まあとにかく結論としては「よく分からない」のである。
ただ、多少わかっているのは、回鶻が唐の時代に西に逃れて天山のふもとに「天山ウイグル王国」をたてたという事である。ベゼクリクが建てられた時代は、この王国の「ウイグル人」がこの地に沢山いたのだろうと思われる。もともとウイグル人はマニ教を信奉していたらしいのだが、9世紀以降は仏教に転向したらしく、この千仏洞は転向後に立てられたことは間違いない。





この地一帯の山は、すべて「火焔山」と呼ばれている。そう、西遊記の火焔山のモデルはこの山である。勿論、牛魔王はいない。
我々にとってはスケール大きい素晴らしい荒野だが、タクシーの運転手のオスマンさんはこの景色が嫌いらしい。彼にしてみれば緑の色が沢山あるほうが美しいと感じると言う。なるほど、両者に共通しているものは「ないものねだり」であった。日本では緑なんか見飽きている。だからこのような荒野が美しくみえるが、彼らウイグル人にしてみたら逆なのだ。




火焔山。その名の通り、たしかにやや赤く見えなくもない。




千仏洞の建築様式をみると、それはもう中国ではない。文化で国境線を引くとしたら、間違いなくここは中国ではないだろう。




限りなく中央アジアの文化圏である。おそらくサマルカンドあたりの建築様式に非常に近いのだろう。



おっと、工事の足場がみえちまったい。
だが、注目すべきはそこではない。谷間から砂埃が近づいてくるではないか。やばい、カメラの大敵である粉塵だ。この粉塵はかなり目が細かいので、レンズの中まで進入してきそうだ。中国内陸部に行かれる方は、是非粉塵対策のアイテムを盛っていくことをお薦めする。




ドーム型の屋根がついている。インドや中央アジア、またはイスラム圏でよく見かける様式である。拡大解釈をすれば、ロシアのタマネギ形の屋根も、この系列に属するのだろう。



谷間のわずかな所に緑と河が流れている。中国内陸部における砂漠のオアシスとは、このようなものである。マンガやアニメに出てくるようなオアシスは、あれはサハラでのオアシスのイメージなのであろう。




観光地「火焔山」である。別にこの山一帯が全部火焔山であり、先ほどのベゼクリク千仏洞も火焔山の中にあったのだが、入場料を取る観光スポットとしての火焔山はここである。とくにスゴイとも思わなかったので、入場せずに、入場口の柵の外から身を乗り出して写真を撮った。それがこの写真である。
帰国した今になって気づいたのだが、写真の中央右側にハングライダーが見える。もしやあれは敦煌と同じようにエンジンつきで、遊覧飛行が出来たのではないか?だとしたら、私はとんだ大失敗をしたかもしれない。火焔山の飛行撮影ができたかもしれないからである。敦煌では二百数十元であった。もし、火焔山にいかれる人は、絶対にこのハングライダーに乗るべきである。たかが3500円程度を惜しんではいけない。
しかし、なぜハングライダーの存在に今頃気づくのだろう。遅すぎる。これから西域に行かれる方はくれぐれもこのような後悔はなされないことを祈る。



中国の高速道路の料金所。
なにやら感じで書かれている。民族団結高宇天。意味は分からないが、民族団結をして高みに上がろうというスローガンか?
団結をことさらに説くという事は、もともと団結があまりない証拠なのだろう。
あとよく見てみると、右側のほうに「繁栄経済済人民」と書いてある。この「繁栄」とか「団結」とか書かかれている看板は、非常に多く目にする。天安門広場においても「団結」という漢字が使われていた。


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6 コメント

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Unknown (seabasscolon)
2010-11-04 18:34:36
どの写真もすばらしいスケール感がありますね。
それにしても、どこにも「中華」は感じられません。(料金所の漢字は別として)
最後の2枚はやはり「ホコリ」がセンサーについてしまったようですね。
Unknown (katsu)
2010-11-05 21:04:58
最後の写真の漢字がなければ、これはとても中国とは思えませんね。広大な領土を持つと色々な国から技術が入ってくるのですね。
しかし、この時代に岩盤を繰り抜いて作るのは大変な作業だったでしょうね。それに落盤って危険もあるでしょうし、恐れ入りますね。
牛魔王いてほしかったw (コルリ)
2010-11-05 22:19:13
火焔山って実在の山だったんですね!
ドームの曲線や手摺りの直線がきれいです^^すごく精密に造られた建築物なんですね。
この足場は例の有名な竹の足場なのかな?
seabasscolonさん、ありがとうございます (大納言)
2010-11-07 00:33:44
実はホコリは当初からセンサーについておりまして、編集作業の時にコピースタンプツールを使って消しておりました。最後の二枚はそのスタンプ編集を忘れていたようなので残ってしまっているわけです。
中国では砂埃がこわくて、レンズをはずしてブロワーすらできませんw
katsuさん、ありがとうございます (大納言)
2010-11-07 00:36:22
一面超乾燥地帯ですからね。もはや中国というよりかは、中東に近い風景かもしれませんね。
落盤をおそれずに山をくりぬいているのはすごいですね。雨が降らず、自信もないこの地ならではの工法ですね。
コルリさん、ありがとうございます (大納言)
2010-11-07 00:39:10
そうなんです。実在したんですよ。
西洋風の建築様式で、精密につくられています。中には仏像がおかれていたりするんですがね。
あ、足場は残念ながら鉄パイプでした。昔香港の工事現場で竹を使われているのを見たことはありますが、最近はないようですね。

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