大津波で百名を越える死者を出した、日本海中部地震地震から、今日で25年。被害増幅の背景を探ります.
秋田では、この地震以前、日本海には津波はないと信じられていました。
私も小学校で、津波とは、太平洋側のリアス式海岸独特の波の増幅現象で、直線的な海岸の日本海側では、津波は発生しないと、社会科の授業で習ったのを鮮明に覚えています。そのエロ教師は、黒板にリアス式海岸の図を書き丁寧に解説していました。
また、秋田では地震の時は、海岸に避難した方が安全だと教えられました.地震では、山や崖が崩れてくるので、海岸の方が安全だというのです。(彼は、女生徒に淫らな行為をすることで恐れられていましたが、当時は加害者が強く、被害者は泣き寝入りの状態で、私たちは、足もすくむ恐ろしさでした。)
その手の防災教育は、当時、秋田県全体で行われてたようで、この地震の翌年の1984年の春から、若者、特に高校卒業者が、大挙として秋田を去る現象が始まりました。
能力ある者が、こぞって県外に逃避する、若者の大流出がはじまったのです。こんな、教育を受けていたら命が持たないと、誰しも感じたのでしょう.
バブル経済の開始を告げる1985年9月22日の「プラザ合意」=(ドル大暴落)を待たず、若者の大量流出現象が発生し、それまで、増減を繰り替えしていた秋田県の人口は、以後、二度と増える事はありませんでした。
さて、地震の前年、1982年に秋田県が出した『秋田県地震対策基礎調査報告書』には、中央の学者が、過去の地震の状況から、秋田県の海岸には津波の記録がないので、津波の心配はないと、何度も強調しています。これを書いたのは、地震古記録の権威、東京大学地震研究所の宇佐美龍夫氏であったようです。
宇佐美龍夫氏は、松尾芭蕉の「奥の細道」(元禄十五年、1702年刊)で有名な出羽、象潟の風景を隆起、一変させた文化元年(1804年)の象潟地震について、震源地は鳥海山にあるとして、周辺地域の詳細な津波の被害記録を、ことごとく無視してしまいました。庄内地方から秋田の沿岸には、多くの津波被害の記録があるのですが、これを無き物として書き記しています.
さらに、宇佐美龍夫氏は、その29年後の天保大飢饉の最中発生した天保四年十月二十六日(1833年)の庄内沖の大地震と、大津波の記録も、無視したようです。
この天保の大地震では、大津波が能登半島から男鹿半島に押し寄せ、実に多くの被害記録が各地に残っているのです。
また、昭和39年(1964年)6月16日の新潟地震では、沿岸に4m以上の津波が押し寄せ、新潟市内では、地盤沈下地域に、津波が押し寄せ、地震とほぼ同時に爆発炎上した、昭和石油のタンクから漏れ出した石油が流入、パニックとなりました。津波は、秋田の男鹿半島~天王町にも来襲し、浸水、船の転覆・破損、防波堤の損傷などの被害をもたらしたが、「秋田には津波の記録がないので、津波の心配はない…」と再三、報告書にうたっています。
なぜ、こんな嘘の報告書を創らなければならなかったのでしょうか?
当時、秋田県では、秋田市の沖合いを埋め立て、72ヘクタールの大工業用地造成が計画され、大王製紙が進出する予定でした.埋め立て工場用地が、津波や大地震に脆弱な事は、隠しようもないことですが、歴史的事実を何とか隠したかったのでしょう.宇佐美龍夫氏は、『秋田県地震対策基礎調査報告書』で、秋田では、津波の記録はないので、津波の心配はいらないと、再三、強調しています。
それでは、津波の古記録は、本当に無かったのでしょうか?
いえいえ、実は地震当時、最も栄えた代表的な商家の文書に、鮮明にありありと記録されているのです。宇佐美龍夫氏は、あえてこの地域の代表的歴史資料さえ無視してしまったようです.歴史捏造のはしり、歴史の書き変えの元祖とも言える大先生です.さらに、沿岸の人たちはみんな知っている、新潟地震の津波さえ、無き事にしてしまったのは、やりすぎではないでしょうか?。。。。
実は、その宇佐美 龍夫氏は、原子力発電所立地の基礎となる、各地の歴史地震記録をまとめる仕事もされていました。そのご成果『 新収日本地震史料 』( 電気協会刊 )も、実は間違いだらけです.
古文書を読む能力が足りないのでしょうか、宇佐美龍夫氏の調査は、現地で日雇いアルバイトを集め、古文書の中に「地震」の二文字を探させる手法で行われていました.。宇佐美龍夫氏自身が、古文書を通読し、その文書全体を把握するという、当たり前のことすら怠った成果が、間違いだらけの『新収日本地震史料』に結実したようです。地震の起きた日付けが旧暦、新暦で入り乱れています。「史料」を名乗るに値するのでしょうか。。。。
そうした「調査成果」?を元に、日本の各地の、原子力発電所が建てられているとすると、たいへん危険なことですが、事実、東京電力 柏崎原子力発電所を襲った、平成19年7月16日の中越沖地震では、発電所構内に甚大な被害を受け、未だに起動出来ない状態となっていますこと、皆様ご存知のとうりです……
日本海中部地震の後、秋田県では、若年人口が大流出してしまい、以後、若者は戻って来ませんでした。
現在の秋田県は、日本一の自殺率、低出生率、高齢化率、ガン死亡率など、暗く憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ます状態に、陥ってしまいました。
教育の偏向や歴史の書き換えが、地域に与えた影響の龍の如き恐ろしさを示す例とも言い得ましょう……
秋田では、この地震以前、日本海には津波はないと信じられていました。
私も小学校で、津波とは、太平洋側のリアス式海岸独特の波の増幅現象で、直線的な海岸の日本海側では、津波は発生しないと、社会科の授業で習ったのを鮮明に覚えています。そのエロ教師は、黒板にリアス式海岸の図を書き丁寧に解説していました。
また、秋田では地震の時は、海岸に避難した方が安全だと教えられました.地震では、山や崖が崩れてくるので、海岸の方が安全だというのです。(彼は、女生徒に淫らな行為をすることで恐れられていましたが、当時は加害者が強く、被害者は泣き寝入りの状態で、私たちは、足もすくむ恐ろしさでした。)
その手の防災教育は、当時、秋田県全体で行われてたようで、この地震の翌年の1984年の春から、若者、特に高校卒業者が、大挙として秋田を去る現象が始まりました。
能力ある者が、こぞって県外に逃避する、若者の大流出がはじまったのです。こんな、教育を受けていたら命が持たないと、誰しも感じたのでしょう.
バブル経済の開始を告げる1985年9月22日の「プラザ合意」=(ドル大暴落)を待たず、若者の大量流出現象が発生し、それまで、増減を繰り替えしていた秋田県の人口は、以後、二度と増える事はありませんでした。
さて、地震の前年、1982年に秋田県が出した『秋田県地震対策基礎調査報告書』には、中央の学者が、過去の地震の状況から、秋田県の海岸には津波の記録がないので、津波の心配はないと、何度も強調しています。これを書いたのは、地震古記録の権威、東京大学地震研究所の宇佐美龍夫氏であったようです。
宇佐美龍夫氏は、松尾芭蕉の「奥の細道」(元禄十五年、1702年刊)で有名な出羽、象潟の風景を隆起、一変させた文化元年(1804年)の象潟地震について、震源地は鳥海山にあるとして、周辺地域の詳細な津波の被害記録を、ことごとく無視してしまいました。庄内地方から秋田の沿岸には、多くの津波被害の記録があるのですが、これを無き物として書き記しています.
さらに、宇佐美龍夫氏は、その29年後の天保大飢饉の最中発生した天保四年十月二十六日(1833年)の庄内沖の大地震と、大津波の記録も、無視したようです。
この天保の大地震では、大津波が能登半島から男鹿半島に押し寄せ、実に多くの被害記録が各地に残っているのです。
また、昭和39年(1964年)6月16日の新潟地震では、沿岸に4m以上の津波が押し寄せ、新潟市内では、地盤沈下地域に、津波が押し寄せ、地震とほぼ同時に爆発炎上した、昭和石油のタンクから漏れ出した石油が流入、パニックとなりました。津波は、秋田の男鹿半島~天王町にも来襲し、浸水、船の転覆・破損、防波堤の損傷などの被害をもたらしたが、「秋田には津波の記録がないので、津波の心配はない…」と再三、報告書にうたっています。
なぜ、こんな嘘の報告書を創らなければならなかったのでしょうか?
当時、秋田県では、秋田市の沖合いを埋め立て、72ヘクタールの大工業用地造成が計画され、大王製紙が進出する予定でした.埋め立て工場用地が、津波や大地震に脆弱な事は、隠しようもないことですが、歴史的事実を何とか隠したかったのでしょう.宇佐美龍夫氏は、『秋田県地震対策基礎調査報告書』で、秋田では、津波の記録はないので、津波の心配はいらないと、再三、強調しています。
それでは、津波の古記録は、本当に無かったのでしょうか?
いえいえ、実は地震当時、最も栄えた代表的な商家の文書に、鮮明にありありと記録されているのです。宇佐美龍夫氏は、あえてこの地域の代表的歴史資料さえ無視してしまったようです.歴史捏造のはしり、歴史の書き変えの元祖とも言える大先生です.さらに、沿岸の人たちはみんな知っている、新潟地震の津波さえ、無き事にしてしまったのは、やりすぎではないでしょうか?。。。。
実は、その宇佐美 龍夫氏は、原子力発電所立地の基礎となる、各地の歴史地震記録をまとめる仕事もされていました。そのご成果『 新収日本地震史料 』( 電気協会刊 )も、実は間違いだらけです.
古文書を読む能力が足りないのでしょうか、宇佐美龍夫氏の調査は、現地で日雇いアルバイトを集め、古文書の中に「地震」の二文字を探させる手法で行われていました.。宇佐美龍夫氏自身が、古文書を通読し、その文書全体を把握するという、当たり前のことすら怠った成果が、間違いだらけの『新収日本地震史料』に結実したようです。地震の起きた日付けが旧暦、新暦で入り乱れています。「史料」を名乗るに値するのでしょうか。。。。
そうした「調査成果」?を元に、日本の各地の、原子力発電所が建てられているとすると、たいへん危険なことですが、事実、東京電力 柏崎原子力発電所を襲った、平成19年7月16日の中越沖地震では、発電所構内に甚大な被害を受け、未だに起動出来ない状態となっていますこと、皆様ご存知のとうりです……
日本海中部地震の後、秋田県では、若年人口が大流出してしまい、以後、若者は戻って来ませんでした。
現在の秋田県は、日本一の自殺率、低出生率、高齢化率、ガン死亡率など、暗く憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ます状態に、陥ってしまいました。
教育の偏向や歴史の書き換えが、地域に与えた影響の龍の如き恐ろしさを示す例とも言い得ましょう……
震災は忘れた頃にやってくると言いますが、忘れる暇がないくらい各地で立て続けに起きていますね。
耐震構造の建物だって、本当に地震が起きてみないことには分りませんもの。
とりあえず、逃げる準備をしておくのが大事かな、なんて思っています。
耐震構造でも、危ないのもあれば、古い建物でも、地盤がしっかりしていると、案外大丈夫だったりします.
何かしら心の準備はしときましょう。
力作の文章を精力的に書いていらっしゃいますね~
確かに、日本海中部地震沖以前は、
三陸は津波が来るけど、日本海側は
やってくるはずがない、と思い込んでいました。
もし、あの地震時、たまたま秋田の海岸に
いたら、私も命を落としていたことでしょう...
これから、他のブログ記事も拝見します~
>もし、あの地震時、たまたま秋田の海岸に
いたら、私も命を落としていたことでしょう...
実は、私も全く同じ思いでした。あの地震を東京の街角で知った時に、直感的にそう思いましたよ。背筋が冷たくなり、しばらく動けませんでました。
あの地震の後、若者が大挙、秋田を去って戻らない理由も、そうした背景が有るのかもしれませんね。 かなり特殊な地震だったと思います。
まさゆきさん、至らぬ文章に目を通して頂きありがとうございます.文がヘタですので、おかしい所など、どうかご指摘ください.
当方へのコメントありがとうございました。
津波の記録を無視した報告書が作成されていたとは知りませんでした。勉強になります。
原発の設置のため活断層が無いことにするという話は良く聞くのですが、企業誘致のため津波が来ないと偽装するとは・・・
報告書の偽装も幼稚です。新潟地震の津波に言及が全くないなど、赤子をだまくらかすような見え透いた文章が続いてます.
地域が、衰退する理由が分かるような気がいたしますよ。とほほ…
そもそも天災とは、比較的長生きをし丈夫な居住物に定住するヒトという存在にのみ言えることなのかもしれません。 それ以外の生物にとっては、周期の長い自然現象の一つなのでしょう。
人災という言葉は、主に天災に絡むヒトの所業の善し悪しで使われますが、地方から都会への若者流出なども、天災に関わらずとも立派な人災だと、私は考えています。
余計なことを述べましたが、今後とも宜しくお願いいたします。
宇佐美龍夫氏と同じ学校のヒトでした・・・・
天保の大飢饉では、食料不足・食人の他、豪雨による洪水、伝染病、大地震、強力な津波も発生しました。その上、食料不足の最中に、役人が食料をまき上げる人災が、追い討ちをかけたました。
秋田では、役人が米価格の高騰を期待して、収穫出来たわずかな米を供出させ、投機に失敗。農民にお金を支払いませんでした。一揆が発生し、餓死者が積み上げられた街道各地には、多くの塚が築かれ、土崎港では、暴動も発生しました. 地元の天保の飢饉研究者も、津波隠匿に関わっています.
これから急速な気候温暖化が進むと言われていますが、世界各地で再び起こりうる事ではないかと思います.
お返事遅れまして、ごめんなさい。
秋田では、かつて、原子力製鉄所の誘致をしようという、運動もありました。 「秋田市から男鹿市沿岸を埋め立てて、一大鉄鋼コンビナートを建設するという計画だったそうです。」が、過去の津波や大地震のことがバレルと、工場がやってこないので、「日本海には津波はない」ということに、なってしまいました。
私も、小学校の地理の時間に、そう習いましたよ¥!! 本当に!
自衛隊の皆様の今回の地震での、有能ぶり、本当に敬服しています。私もボランテアで、三陸に行きましたが、橋や道路の復旧の早いことと、自衛隊の皆さんが、テント住まいで、復旧に取り組まれているの拝見して、敬服いたしました。
リバテイさん、ありがとうございました(^^)!