伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(49-2) 1976年11~12月② 

2008-06-08 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年


(76年11月1日(第417回)・8日(第418回)放送分については「曲目リスト(49-1) 76年11~12月①」に記載)

<1976年11月15日(第419回)>

・ク・クル・ク・ク・パロマ(Cu-Curu-Cu-Cu Paloma) アイ・ジョージ
 詞・曲:Tomas Mendez R:1962/-/-<詳細求む>
◆第13回・第20回(62年・69年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回・10回)
<アイ・ジョージ>
①1960 年代に人気を集めたラテン・ジャズ歌手。石油会社の重役であった日本人の父と、フィリピン人の母の間に生まれ、幼少期の頃は父の仕事の影響で香港・マニラ などを転々としながら裕福な少年時代を過ごしたが、彼が生まれて間もなく母親が死亡、父親もバタビヤへの戦地に赴任後、現地の刑務所に投獄され、帰国後す ぐ逝去。15歳で天涯孤独となった彼はその後、ボクシングや競輪の選手、運送屋、菓子屋など数十の職業を転々としながら苦しい生活を送る。その後、米軍 キャンプを中心に流しの歌手として生計を立てるようになり、1953年、知人の薦めでテイチクの歌手採用試験を受け合格、「黒田春夫」という芸名で「裏街ながしうた」でデビューする。しかし、あくまでも歌謡曲路線で売り出したいレコード会社とジャズ・ラテンに傾斜していた彼との方向性の違いが早々から際立ち、程なくテイチクを退社。再び流しの生活に戻る。
② 再び流しの歌手として日本各地の繁華街を転々としていた最中の1959年、大阪のナイトクラブ「クラブアロー」に当初出演予定であった外人歌手が出られな くなりその代理として急遽出演することとなり、そのステージが盛況を得たことから、後にこのクラブと専属契約を結び、再デビューに向けての第一歩を築く。 また、同時期に森繁久弥からもその才能を評価され、森繁率いる「森繁劇団」の大阪での舞台公演にも客演し、知名度を上げた。この年12月、人気ラテングループ「トリオ・ロス・パンチョス」の日本公演に、坂本スミ子とともに前座歌手に起用され、これを機に芸名を「アイ・ジョージ」とし正式に再デビューし、古巣のテイチクとも再契約。その後、「ク・クル・ク・ク・パロマ」「ラ・マラゲーニャ」「ダニー・ボーイ」「ラ・バンバ」「カチード」など洋楽のカバーを中心に歌手活動を展開する傍ら、オリジナルの歌謡曲である「硝子のジョニー」「赤いグラス」「紅子のバラード」などもヒット。抜群の声量と歌唱テクニックにより、1960年代の日本の歌謡界屈指の実力派シンガーとして人気を獲得する。63年には日本人歌手として初めてアメリカのカーネギー・ホールでコンサートを開催、その後も海外での公演を定期的に行い、「世界の流し」との異名を取るようになる。
③69年にはバンド「ザ・ジャパニーズ」を結成。71年には「自由通りの午後」がポーランド音楽祭「ソポト」の日本代表作品に選出さ れるなど、歌手として更なる飛躍が期待されるが、70年代半ば以降、飲食店経営など多額の借金を背負うなど金銭トラブルが続出、これが原因となり表舞台の 一線からフェードアウトせざるを得ない状態に陥ってしまう。テレビ番組やコンサートへの出演も平成期に入ってからはほとんど行っておらず、事実上歌手業は 引退状態となっている。
・どこへ帰る 五木ひろし
 詞:山口洋子 曲:平尾昌晃 R:1976/09/25 HC:16位
◆第2回(76年)全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリ受賞曲 
・夜のフェリーボート テレサ・テン
 詞:山上路夫 曲:井上忠夫 R:1976/06/01 HC:85位
昔の名前で出ています 小林 旭
 詞:星野哲郎 曲:叶 弦大 R:1975/01/25 HC:6位
◆年間チャート(77年)5位(70.8万枚)
◆第10回(77年)日本有線大賞特別賞受賞曲
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞グランプリ受賞曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※この曲は星野の実体験から生まれた作品といわれている。彼が地方に旅に出ていた際、たまたま一度結婚のために水商売の世界から足を洗った星野の知り合いの女性から、訳あってまたこの世界に戻り独立したので一度店に来て欲しいという電話をもらい、その際、彼女に名前を尋ねたところ、「昔の名前で出ている」と答えた。この言葉に強い印象を抱いた星野は宿泊先のホテルに戻って、一晩でこの曲の歌詞を書き上げたという。
※この曲を発表した前後の時期に、小林は経営していたゴルフ場が倒産し、東映に移籍してヤクザ映画に出演したり、歌手として地方での営業を行うなど地道な芸 能活動により多額の負債返済に明け暮れる日々を過ごしていたが、この曲の2年がかりの大ヒット(累計95.3万枚<オリコン調べ>によりその負債 を一気に返済することができたという。
雪は降る(Tombe La Neige) サルヴァトーレ・アダモ
 詞:Salvatore Adamo/安井かずみ<日本語版訳詞>
 曲:Salvatore Adamo 
 R:1963/-/-<オリジナル>、1969/06/01<日本語版> HC:5位<日本語版>(日・オリコン、71年)
◆年間チャート(71年)31位(30.5万枚)
<サルヴァトーレ・アダモ>
① イタリア出身、ベルギー育ちの世界的なシンガーソングライター。1961年、地元の歌唱コンクールで優勝したのを機に、「哀しみのヴェニス」「帰り来ぬ青 春」などで知られるフランスの人気シャンソン歌手、シャルル・アズナヴールのバッグアップを受け、ベルギー・フィリップス社で初のレコード収録に参加。当 初はなかなかヒット作が生まれなかったが、62年秋に発表した「ブルー・ジーンと皮ジャンパー」がスマッシュヒットし、続く「サン・トワ・マミー」が翌63年にかけて大ヒット、その後も「一寸失礼」「雪は降る」「いとしのパオラ」「夢の中に君がいる」などのヒットが続き、国内での人気を確立。また、フランスを初めとする他の欧州諸国の音楽市場にも本格的に進出し、ソ連やアフリカ、チリ、イスラエルなどでも長期のツアーを実施。世界中に多くの固定ファンを持つ国際派スターとして活躍する。84年夏に持病の心臓病が悪化し、一時療養を強いられるが、脅威の回復力で短期間で復帰、日本公演を敢行しファンを喜ばせた。
大の親日家としても知られ、1963年の初来日以来、30回以上にわたり日本公演を敢行。 コンサートのみならず来日時には「ヒットスタジオ」をはじめ「サウンド・イン・S」(TBS系)、「ミュージックフェア」(フジテレビ系)、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)など日本のテレビ番組にも数多く出演したり、日本の歌手(森進一ら)に楽曲の提供を行うなど、日本のショービジネスの世界にも一定の 足跡を残した。日本の歌手にも彼の作品をレパートリーとして取り込んでいる歌手も多く、特に越路吹雪は64年に大ヒットした「サン・トワ・マミー」をはじ め、「夢の中に君がいる」「夜のメロディー」「失せし恋」「どうぞおねがい」など、アダモの代表的なナンバーを率先してシングル・アルバム盤に吹き込むな ど、その後のアダモの日本での人気に多大な影響を及ぼした存在でもあった。80年秋、越路が逝去した際に行われた追悼式にもアダモは急遽来日し彼女に哀悼 の意を捧げている。

<1976年11月22日(第420回)>
・酒場川 ちあきなおみ
 詞:石本美由起 曲:船村 徹 R:1976/10/10 HC:81位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(7回)
・兄いもうと 新沼謙治
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1976/11/01 HC:39位
・ダンス・ウィズ・ミー 和田アキ子
 詞:千家和也 曲:浜田省吾 R:1976/11/25 
・あけぼの荘 千田彩子 R:1976/10/-
・さざんか 森 進一
 詞:中山大三郎 曲:猪俣公章 R:1976/08/25 HC:24位
◆第18回(76年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第7回(76年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(9回)
【メドレー】白いあなた~最後の一葉 太田裕美
 ・白いあなた 太田裕美
  詞・曲:太田裕美 R:1976/06/21【LP】
LP「手作りの画集」収録曲

<1976年11月29日(第421回)>
・逢いびき 伊東ゆかり
 詞:なかにし礼 曲:川口 真 R:1976/08/01
パールカラーにゆれて 山口百恵
 詞:千家和也 曲:佐瀬寿一 R:1976/09/21 
 HC:1位(1976/10/04-11/01)
◆年間チャート(76年)18位(40.9万枚)
◆第9回(76年)日本有線大賞有線ヒット賞受賞曲
コバルトの季節の中で 沢田研二
 詞:小谷 夏(久世光彦) 曲:沢田研二 R:1976/09/10 HC:7位
※この年も「立ちどまるなふり向くな」「ウィンクでさよなら」そして同曲とベストテンヒットを立て続けに発表した沢田だったが、この年5月、新幹線の車内に一般の男性乗客にからかわれたことに憤激し、相手を殴打し軽傷を負わせるという不祥事を起こしたことから、その責任を取る形で、同年の賞レース番組や大晦日の紅白歌合戦への出場を全て辞退している。
※ソロ転向後では初の沢田自身の作曲によるシングル作品。作詞は前年のドラマ「悪魔のようなあいつ」(TBS系)で知遇を得たドラマプロデューサー・久世光彦が担当した。 
東村山音頭(志村ケンの全員集合 東村山音頭) 志村けん(ザ・ドリフターズ)
 詞:土屋忠司 曲:細川潤一/たかしまあきひこ<編> R:1976/09/05 HC:8位
※元々は1963年、東京・東村山市の市制施行を記念して地元農協からの依頼盤としてキングレコードから制作・発売されたものである(歌は当時キングの看板スターであった三橋美智也、下谷二三子を起用)。この曲を少年期に頻繁に聞いていた東村山出身の志村けんが、「8時だョ!全員集合」の一コーナー「少年少女合唱隊」でギャグを織り交ぜて披露したところ好評を博し、後に加藤茶による「はじめての僕デス」との両A面扱いでシングル化され、オリコン最高6位、21万枚以上を売り上げるヒットとなった。74年に荒井注に代わる新メンバーとしてドリフターズに加入して以降、迂闊が上がらずスランプ状態にあった志村だったが、この曲のヒットを背景に子供たちを中心に熱烈な支持を獲得するようになり、以後加藤茶と並ぶツートップ体制でドリフの人気を牽引する存在に成長してゆく。 

【司会】 芳村真理・井上 順


(参考)この頃の主な出来事
・11/16 この年の日本歌謡大賞に都はるみ「北の宿から」。
・11/29 日本医科大学の丸山千里名誉教授、自ら発明したガン抑制に効果があるとされる「丸山ワクチン」の新薬認可申請を厚生省に提出。


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