伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(50-1) 1977年1~2月①

2008-06-15 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年1月3日(第426回)>
・北の旅愁 細川たかし
 詞:石坂まさを 曲:猪俣公章 R:1976/10/01 HC:32位
・雨の桟橋 森 進一
 詞・曲:中山大三郎 R:1977/01/01 HC:26位
・西海ブルース 内山田洋とクールファイブ
 詞:永田貴子(吉田孝穂) 曲:尾形よしやす R:1977/02/05 HC:20位
※①元々は長崎のクラブ専属歌手として活動していた1968年に自主制作盤として製作。当時佐世保市を拠点に活動していた尾形義康(よしやす)の作ったメロディーを当時クールファイブのプロモーターを務めていた吉田孝穂が地元有線放送からの推薦で入手。「永田貴子」(「ながたたかし」と読む)名義で歌詞を付け直してクールファイブに歌わせたところ、有線放送とNBC長崎放送ラジオにリクエストが殺到。この地元での好評振りがクールファイブの全国区進出に弾みを付けた。
※②当初はこの「西海―」をメジャーデビュー曲とする計画が立てられていたが、リリースの直前になって曲の権利が作曲者の尾形の元に戻った関係でこの計画は頓挫。別の作品を用意する必要に迫られた吉田は、代替作の歌詞を急ピッチで書き上げ、その歌詞を持参して北海道に当時居を構えていた彩木雅夫の元を訪ねて作曲を直接依頼。こうして誕生して代替曲が後に70万枚以上を売り上げる大ヒットを記録することになる「長崎は今日も雨だった」であった
※③他方「西海―」はお蔵入りの状態が長く続いていたが、地元・長崎を中心としてファンの間では「幻のデビュー曲」として根強い人気を誇っていたこともあり、結成10周年を迎えたこの年になってようやくシングル化される運びとなった。
・母のなみだ 二葉百合子 R:1977/01/-
S.O.S ピンクレディー
 詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1977/02/05 
 HC:1位(1977/02/14) 
◆年間チャート(77年)8位(64.6万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞大衆賞受賞曲
(この曲を含め、同年度のレコード大賞選考対象期間内にリリースされたシングル4作品に対して受賞)
ピンクレディーにとり初のオリコン週間チャート1位獲得曲レコード盤ではこの曲の冒頭に「SOS」を意味するモールス信号が使用されており、本物の「SOS」の信号との混同が生じる虞があるとして、この信号音のついたバージョンについては各放送局で放送自粛の措置が採られた。 

<1977年1月10日(第427回)>
想い出の樹の下で 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:筒美京平 R:1977/01/25 HC:7位
・ハートブレイク急行 フォーリーブス
 詞:阿久 悠 曲:井上忠夫 R:1976/10/21 HC:50位
しあわせ未満 太田裕美
 詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1977/01/21 HC:4位
◆年間チャート(77年)37位(31.0万枚)
・愛はめぐり逢いから 南 沙織
 詞:岡田冨美子 曲:林 哲司 R:1976/11/21 HC:45位
さよならをいう気もない 沢田研二
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/02/01 HC:8位

<1977年1月17日(第428回)>
・兄妹 森田健作
 詞:さいとう大三 曲:泉 八汐 R:1976/11/-
・よまいごと 前田美波里
 詞:白石ありす 曲:菅原 進 R:1976/10/-
・恋に木枯し ザ・リリーズ
 詞:伊藤アキラ 曲:森岡賢一郎 R:1976/11/05
【メドレー】おじいさんおばあさんありがとう~東京だよ おっ母さん 島倉千代子
 ・おじいさんおばあさんありがとう 島倉千代子 
  詞:内与詩守 曲:土肥寛展 R:1976/08/-
※交通遺児チャリティーレコードとして発売。
 ・東京だよ おっ母さん 島倉千代子
  詞:野村俊夫 曲:船村 徹 R:1957/04/-
※島倉が前年、1956年に同じく船村作曲でヒットした美空ひばりの「波止場だよ お父つぁん」に触発され、船村に当時のコロムビアの担当ディレクターを通じて「"おっ母さん"の歌を私にも作って欲しい」と懇願したところから製作された作品。船村は、兼々抱いていた「作曲家として成功したら必ず地元・栃木にいる母親を呼び寄せて東京見物をさせてやりたい」という思いを元にこの曲のメロディーを作り上げたという。
※いわずとしれた島倉の代表作であるが、年末の紅白では35回の出場歴がありながら1回もこの曲を披露していない(一説によれば、二番の歌詞の一部に「戦争で死んだ兄が祀られている靖国神社へと母親と一緒に参拝しにいく」と解釈できる部分があることが政治色・宗教色のある歌を回避する傾向のある紅白の選曲基準に引っかかったためともいわれている)。

<1977年1月24日(第429回)>
・燃える春です 芦川よしみ
 詞:吉田健美 曲:杉本真人 R:1977/01/-
・オー・ラ・ラ・オーサカ 坂本スミ子
 詞:なかにし礼 曲:Paul Mauriat R:1976/12/-
「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」などのヒットで知られるフランスの作曲家・指揮者、ポール・モーリアが作曲を手掛けた
・ヘッドライト 詞:新沼謙治
 詞:阿久 悠 曲:徳久広司 R:1977/02/01 HC:12位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回)
・ふらりふられて 由紀さおり
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1976/12/20 HC:38位
【メドレー】古城~津軽じょんがら節 三橋美智也
 ・古城 三橋美智也
  詞:高橋鞠太郎 曲:細川潤一 R:1959/07/-
◆第10回(59年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
レコード売上枚数は公称で300万枚を記録したという三橋美智也最大のヒット曲。1959年に創設された日本レコード大賞の選考にも最終段階まで残ったものの、水原弘の「黒い花びら」に1票差で破れたという逸話が残されている。
 ・津軽じょんがら節 三橋美智也
  詞・曲:青森県民謡 R:-/-/-(※LP盤には数度収録されている)
◆第26回(75年)NHK紅白歌合戦出場曲(12回) 
<三橋美智也>
①北海道出身の流行歌・民謡歌手。1939年、9歳のときに全道民謡コンクールで優勝し、少年期は民謡歌手として活躍。その後一時芸能活動から身を引き、温泉街のボイラーマンなど職を転々としたが、再び1954年にキングレコードと流行歌歌手として契約を結び、「酒の苦さよ」でデビュー。翌55年に発売した「おんな船頭歌」のヒットを契機にスターダムを駆け上がり、以後、「哀愁列車」「リンゴ村から」「夕焼けとんび」「みれん峠」「一本刀土俵入り」「古城」「達者でナ」「石狩川悲歌」「星屑の町」と民謡で鍛えられた伸びやかな高音と安定感ある歌唱力を武器として次々とヒット作を発表、先輩の春日八郎とともに同時代のキングレコードの2枚看板として活躍するとともに、旅情演歌の第一人者としての地位を確立。NHK紅白歌合戦にも1956年から10回連続出場を果たし、うち4回白組のトリを務め、「平凡」「明星」などの芸能雑誌の人気投票でも上位の人気を長年キープするなど、人気・実力ともにNo,1の男性歌手として大衆の支持を得る。
②1966年、前妻と離婚した際の不倫スキャンダル報道が尾を引き、この年の紅白では落選。以後、ヒット曲にも恵まれず、1960年代半ば~1970年代初頭にかけて歌手として低迷期を迎える。その中で原点である民謡への回帰を志し、1973年に「民謡三橋流」を創設し、細川たかしら後の演歌界を背負って立つ多くの逸材の才能を発掘。70年代後半の民謡ブームの波に乗り、三橋にも注目が集まるようになり人気が再燃。78年にはラジオ関東(現・ラジオ日本)の人気深夜番組「電撃わいどウルトラ放送局」のパーソナリティーに中島みゆき、沢田研二、浜田省吾、つボイノリオ、Charら気鋭の若手アーティストの中に混じって抜擢され、この番組でのラフなDJスタイルが若年層にも受け、テレビCMなどにもこのラジオ番組で多用した「フィーバー」という語から、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の主役、ジョン・トラボルタが劇中で着用していたものと同型の白いスーツ姿で登場、「ミッチー・ブーム」を巻き起こす。1983年には日本歌謡史上初、そして(現時点では)唯一の生涯レコードプレス枚数1億枚突破という前代未踏の記録を樹立した。
③しかし、1980年代に入り、名義貸しをしていたホテルの倒産により多額の負債を抱えるなど私生活上の苦労も重なってか、長く患っていた糖尿病が悪化。彼の歌手としての最大の魅力といえる伸びのある高音も失われ、歌唱力にも難が出ることが多くなるなど、歌い手としては致命的ともいえる衰えを抱えながらの芸能活動を強いられる。その中にあっても、1988年には盟友・春日八郎・村田英雄とともに「三人の会」を立ち上げたり、92年には日本レコード大賞功労賞を受賞するなど、「演歌界の第一人者」として健在ぶりをアピールし続けたが、1995年秋に突然ゴルフのプレイ中に意識を失い、そのまま意識が回復することなく1996年1月、65歳でその波乱の生涯に幕を閉じた。

<1977年1月31日(第430回)>
・思い出に抱かれて 小柳ルミ子
 詞:橋本 淳 曲:佐瀬寿一 R:1977/01/25 HC:41位
・手のひらの中の地図 内藤やす子
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1976/-/-【LP】
※アルバム「想い出ぼろぼろ」収録曲
・ミッドナイト急行 あいざき進也
 詞:松本 隆 曲:三木たかし R:1977/01/25
・恋のかげろう 片平なぎさ
 詞:岩谷時子 曲:鈴木邦彦 R:1977/02/05
【メドレー】カスバの女~希望 岸 洋子
 ・カスバの女 岸 洋子
  詞:大高ひさを 曲:久我山明 (R:1955/06/-<エト邦枝盤>)
※①オリジナルはエト邦枝の歌で1955年に芸術プロ映画「深夜の女」の主題歌として製作。岸のほかにも緑川アコや沢たまき、竹越ひろ子、ちあきなおみらも後にLP・EP盤でこの曲をカバーしている(尚、岸洋子バージョンについてはライブLP「岸洋子リサイタル'81」等にも収録されている)。
※②この曲のタイトルにある「カスバ」とは国(都市)の区域内を意味するアラビア語の「カサバ」の発音が変化して生まれたもので、軍隊の駐留する城砦または城砦を有する地域の中心都市を意味する語である。アルジェリアのこの「カスバ」の一角にある酒場街で「夜の蝶」として生きる女の悲しい性をテーマとした歌であり、この当時の歌謡曲にしては前衛的ともいえるリアルかつ情熱的な歌詞が話題となり大ヒットしたが、当の作詞者である大高自身はアルジェリアには一度も訪れたことはなく、「外人部隊」(1933年、フランス)、「モロッコ」(1931年、アメリカ)といった、多様な人間の溜まり場と化していた戦前の(特にフランスの)外人部隊の生活を題材とした幾つかの映画からイメージを働かせてこの曲の歌詞を書き上げたという(因みに実際のアルジェリアでは酒を相手に勧めることが宗教上の理由で禁止されていることから、この曲に登場するカスバの片隅にある酒場街も大高のイメージに基づいて歌の舞台として設定された、全くのフィクションであると伝えられている)。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・01/03 東京港区の品川駅付近の公衆電話ボックスで拾った青酸入りナトリウム入りのコーラを飲んだ男子高校生が死亡する事件が起きる。翌4日早朝にもこの公衆電話ボックス付近の歩道で同様に青酸入りコーラを飲んだ工事作業員が倒れているのが発見されるなど、この種の事件が多発する(青酸コーラ無差別殺人事件。被疑者不明のまま1992年に時効を迎える)。
・01/06 ソニー、世界最大規模の32インチテレビを発表。
・01/20 オーストラリア、ニューサウスウェールズ州のグランヴィル駅付近で電車が脱線。死者83人、重軽傷者210人以上を出すオーストラリアの鉄道史上最悪の惨事に(グランヴィル鉄道事故)。
・01/27 ロッキード事件、丸紅ルートの初公判が行われる。
・01/27 デザイナーの森英恵がフランスに自身のブランドショップ「ハナエ・モリ・パリ」を開く。日本人デザイナーとして初めて「ファッションの本場」パリのオートクチュール界へ進出。


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2 コメント

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カスバの女 ()
2008-06-15 21:00:51
 この歌、「すすきのブルース」の九条万理子さん
という歌手も歌っていました。
 九条さんは、現在は「アニキ」水木一郎さんの
奥さんです。
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「夜の街」「夜の蝶」を歌ったなつメロ (resistnce-k)
2008-06-17 23:56:19
ムード歌謡路線が流行しだしたのは、1950年代半ば、松尾和子、フランク永井、マヒナスターズといった「吉田学校」の門下生がスターダムを駆け上がるようになってきてからの話だと思いますが、それより前にも「夜の繁華街」「夜の蝶として働く女性」というのを歌った歌というのはあったんですよね。
有名なのは菊池章子さんの「星の流れに」('47年)や三条町子さんの「かりそめの恋」('49年)あたりでしょうか。
このあたりは、まだ終戦後間もなくで世の中が混乱していた最中であったという時代背景と、夜の街に漂う哀愁感が見事にフィットして大ヒットにつながった、という感じだろうと思います。

1950年代の後半、「もはや戦後ではない」という文言が「経済白書」の中に記載され、世は劇的な高度成長の時代に突入していきますが、それ以降に書かれた「ムード歌謡」というのは、これらの歌とはその性質を異としている思います。つまり、「高度成長で賑わいを見せる繁華街の様子」というのを背景として製作されているという点に大きなちがいがあります。「悲恋」「大人の恋」をテーマとしていても、その前提には「明るい街並み」というのが見え隠れするわけですが、この歌も含め、それより前の「夜の街」の歌には「疲弊しきった街並み」というのが見え隠れしており、それだけに、聞く側にもこの上ない遣る瀬無さを感じさせるのだろう、と思います。

因みにこの歌のオリジナル歌手であるエト邦枝さんは調べてみると、歌手になる前は急大蔵省の職員であったという異色の経歴の持ち主の方らしいです。戦後、30代になってから(従って年代的には「夜のプラットホーム」で知られる戦前・戦中の大物の一人、二葉あき子さんとほぼ同じということになるかと思います)コロムビアと契約、プロの歌手に転向しますが、なかなかヒットが出ず、レコード会社も転々。そして'54年にテイチクと契約をし、この会社で初のヒット作である「カスバの女」ににめぐりあったというわけです。

エトさん自身がこの歌を披露しているテレビ番組の映像は、既に20年以上も前に鬼籍に入っておられることもあって、ほとんど現存していないのか、あまりお目にかかることができません。奇跡的に73年の「なつかしの歌声」(東京12チャンネル)と77年の「思い出のメロディー」(NHK)の映像は残っているらしく、この2つのシーンは私も昔、幼い頃ですが見たことがあります。
どちらかといえば「ドスの利いた低音」といった感じの歌声だったと思いますが、この声質だったからこそ、この歌が説得力を帯びていたといえるでしょう。美声の高いキーを誇る歌手ではちょっとこの曲の世界は表現できなかったと思います。よくよく考えてみると、その後にカバーをした歌手の顔ぶれを見ても、みな味わい深い歌声を持った「大人の歌手」がほとんどですからねえ・・・。人生経験とかそういったものもこういう重い歌に説得力を持たせるためにはやっぱり重要なんでしょうかね・・・。
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