夜のヒットスタジオの名物コーナーとして、第1回放送から最晩期まで続いたものとして、オープニングでの「他人の歌メドレー」というものがあります。これを楽しみに毎回夜ヒットをチェックしていた方もかなり多いんじゃないでしょうか。
夜ヒットがスタートした当時、企画ものであるといえども、他の歌手の曲を歌う、というのは業界では「ご法度」とされており、スタート当初、この「オープニングメドレー」も、当時は業界の猛批判に晒されていたようです。しかしこのブログを立ち上げた頃にも書いた夜ヒットの黎明期の項目を参考していただければ分かりますが、夜ヒットのコンセプトはそれまでの歌謡番組の常識を覆すこと、詳しく言えば、「雲の上の存在」であるスター歌手を「普通の一人間」として理解して、視聴者と歌手の距離を少しでも縮める、というところにあり、このメドレーもまた、途中で歌詞を忘れてしまって適当な詞やハミングなどで誤魔化してしまったり、というハプニング性を計算に入れた企画であったことからすれば、そのような批判も当時の製作者サイトからすれば既に想定範囲内のことであったと思います。
そして例の「泣きの夜ヒット事件」を契機として、夜ヒットの評判が高まり、局の看板番組へと成長していくにつれ、このメドレーに対する批判も沈静化し、夜ヒットにはなくてはならない名物コーナーとして長年親しまれることとなりました。
このオープニングメドレーは「意外性」が一番の魅力であったと思います。普段はドップリと演歌の世界に漬かっているベテラン歌手がいきなり、若手アイドルの曲を歌ったり、その逆もあったり、時には海外出身の歌唱力に定評がある歌手が片言の日本語で、グダグタな歌唱になったり・・・・(欧陽菲菲さんや故・テレサ・テンさん辺りがその代表例でしたか・・・)と、歌手の印象を大きく変えることもしばしばありました。
「意外性」を狙ったと思われるキャスティングをざっと思い浮かべてみますと・・・・
・村田英雄→「風は秋色」(松田聖子)、「セーラー服を脱がさないで」(おニャン子クラブ)、「セクシー・ユー」(郷ひろみ)
・三波春夫→「君は薔薇薔薇・・・という感じ」(田原俊彦)
・八代亜紀→「1986年のマリリン」(本田美奈子)
・小柳ルミ子→「あんたのバラード」(ツイスト)
・春日八郎→「青い果実」(山口百恵)
・千昌夫→「白いパラソル」(松田聖子)、「天使も夢見る」(桜田淳子)
・五木ひろし→「ミ・アモーレ」(中森明菜)
・森進一→「UFO」(ピンクレディー)
・都はるみ→「哀愁トゥナイト」(桑名正博)
・中森明菜→「襟裳岬」(森進一)
・松田聖子→「函館本線」(山川豊)
等など、いくつもあったように記憶しています。特に村田さんと三波春夫さんのものについては、かなり有名ですね・・・(三波さんは殆ど音楽に関係なく「バラバラ」と歌っていたり、村田さんは思いっきり村田節で「セクシー・ユー」を歌い、それに乗せて次に歌う郷ひろみさんが踊っているという何とも言いがたい光景が・・・)。逆に意外性を狙って、妙にマッチしていた場合もいくつかありましたね。管理人が知っている限りでは、前川清さんの「乾杯」(長渕剛)、野口五郎さんの「ほんきかしら」(島倉千代子)、山口百恵さんの「岸壁の母」(二葉百合子)、八代亜紀さんの「ジェラシー」(井上陽水)などは、すべて完全な逆の発想(演歌→ポップス系、もしくはその逆)でのキャスティングなのにも関わらず、その人の歌声、或いは歌唱スタイルの特性からか、妙に雰囲気が合っていたという感じがします。
ほかにも細川たかしさんは、ロックであろうがポップスであろうが、すべて民謡調で歌ってしまったり、聖飢魔Ⅱが出演するときは必ずといっていいほど、歌を度外視して「公開ミサ」に引きづりこんだり、とんねるずにあっては、本番で歌う衣装よりも派手な衣装(ヒッピー風衣装)でいきなり登場したり、或いは敢えて音をすべてはずして歌ったり、森進一さんや青江三奈さんの歌を歌う場合に彼らの声真似をして歌うパターンが多かったり、といわゆる「お決まり芸」みたいなものもいくつかありました。また、クリスマスの日が含まれる週の放送では、通常のパターンではなく、すべてクリスマスソングでメドレーを行っていたのを記憶しています(その場合、ラストに登場する歌手は大抵「きよしこの夜」辺りを歌っていたと思います)。
メドレーのラストに登場する歌手は、自分の持ち歌(自分の前の出番の歌手が歌った、そのラストの歌手自身のオリジナル曲)を歌いメドレーを締めくくるわけですが、その歌手を囲うようにしてほかの出演者が登場してくる、というのも、夜ヒットの豪華さを視聴者にアピールする上で効果的な演出であったと思いますし、ほかの出演者が歌にあわせて、妙なダンスを行うのも何とも見ていて壮快な感じでした。またその雰囲気の上ラストでメドレーに登場することも、歌手とにとっては一種のステータスになっているという感じすらありましたね。
あの、拓郎さんや陽水さん、中島みゆきさん、BOOWYですらもメドレーには普通に参加してくれていましたし・・・、何とも今考えても豪華な企画でした。
ただ、晩期になると、歌番組を「プロモーションの一環」として軽く考える風潮が蔓延るようになったせいか、メドレーを拒否して、後から改めて司会者から紹介される形で登場するケースが多くなっていきました。歌番組、もっと広くいえば「歌」に対する価値観がアーティスト各人により複雑・多様化していく中で、メドレーという企画は時代錯誤な感じを否めないものとなっていったという感じがします。仮に夜ヒットが今も続いていたとしても、メドレーについては、途中で廃止となっていた可能性も十分考えられます。今のヒット曲も「夜ヒット」のあの雰囲気で歌われていたなら、もっと違うカラーを印象付けることができた、そういう部分では、夜ヒットは続いてほしかった番組でしたが、他方、メドレーという夜ヒットの名物を排除してしまえば、メドレーがない夜ヒットは、単なる一歌番にすぎない、と番組の評価を損ねることにもなりかねない。その点ではあの1990年の辺りが番組としての限界点であった、という見方もできる。その辺りが何とももどかしく感じますね・・・。
夜ヒットがスタートした当時、企画ものであるといえども、他の歌手の曲を歌う、というのは業界では「ご法度」とされており、スタート当初、この「オープニングメドレー」も、当時は業界の猛批判に晒されていたようです。しかしこのブログを立ち上げた頃にも書いた夜ヒットの黎明期の項目を参考していただければ分かりますが、夜ヒットのコンセプトはそれまでの歌謡番組の常識を覆すこと、詳しく言えば、「雲の上の存在」であるスター歌手を「普通の一人間」として理解して、視聴者と歌手の距離を少しでも縮める、というところにあり、このメドレーもまた、途中で歌詞を忘れてしまって適当な詞やハミングなどで誤魔化してしまったり、というハプニング性を計算に入れた企画であったことからすれば、そのような批判も当時の製作者サイトからすれば既に想定範囲内のことであったと思います。
そして例の「泣きの夜ヒット事件」を契機として、夜ヒットの評判が高まり、局の看板番組へと成長していくにつれ、このメドレーに対する批判も沈静化し、夜ヒットにはなくてはならない名物コーナーとして長年親しまれることとなりました。
このオープニングメドレーは「意外性」が一番の魅力であったと思います。普段はドップリと演歌の世界に漬かっているベテラン歌手がいきなり、若手アイドルの曲を歌ったり、その逆もあったり、時には海外出身の歌唱力に定評がある歌手が片言の日本語で、グダグタな歌唱になったり・・・・(欧陽菲菲さんや故・テレサ・テンさん辺りがその代表例でしたか・・・)と、歌手の印象を大きく変えることもしばしばありました。
「意外性」を狙ったと思われるキャスティングをざっと思い浮かべてみますと・・・・
・村田英雄→「風は秋色」(松田聖子)、「セーラー服を脱がさないで」(おニャン子クラブ)、「セクシー・ユー」(郷ひろみ)
・三波春夫→「君は薔薇薔薇・・・という感じ」(田原俊彦)
・八代亜紀→「1986年のマリリン」(本田美奈子)
・小柳ルミ子→「あんたのバラード」(ツイスト)
・春日八郎→「青い果実」(山口百恵)
・千昌夫→「白いパラソル」(松田聖子)、「天使も夢見る」(桜田淳子)
・五木ひろし→「ミ・アモーレ」(中森明菜)
・森進一→「UFO」(ピンクレディー)
・都はるみ→「哀愁トゥナイト」(桑名正博)
・中森明菜→「襟裳岬」(森進一)
・松田聖子→「函館本線」(山川豊)
等など、いくつもあったように記憶しています。特に村田さんと三波春夫さんのものについては、かなり有名ですね・・・(三波さんは殆ど音楽に関係なく「バラバラ」と歌っていたり、村田さんは思いっきり村田節で「セクシー・ユー」を歌い、それに乗せて次に歌う郷ひろみさんが踊っているという何とも言いがたい光景が・・・)。逆に意外性を狙って、妙にマッチしていた場合もいくつかありましたね。管理人が知っている限りでは、前川清さんの「乾杯」(長渕剛)、野口五郎さんの「ほんきかしら」(島倉千代子)、山口百恵さんの「岸壁の母」(二葉百合子)、八代亜紀さんの「ジェラシー」(井上陽水)などは、すべて完全な逆の発想(演歌→ポップス系、もしくはその逆)でのキャスティングなのにも関わらず、その人の歌声、或いは歌唱スタイルの特性からか、妙に雰囲気が合っていたという感じがします。
ほかにも細川たかしさんは、ロックであろうがポップスであろうが、すべて民謡調で歌ってしまったり、聖飢魔Ⅱが出演するときは必ずといっていいほど、歌を度外視して「公開ミサ」に引きづりこんだり、とんねるずにあっては、本番で歌う衣装よりも派手な衣装(ヒッピー風衣装)でいきなり登場したり、或いは敢えて音をすべてはずして歌ったり、森進一さんや青江三奈さんの歌を歌う場合に彼らの声真似をして歌うパターンが多かったり、といわゆる「お決まり芸」みたいなものもいくつかありました。また、クリスマスの日が含まれる週の放送では、通常のパターンではなく、すべてクリスマスソングでメドレーを行っていたのを記憶しています(その場合、ラストに登場する歌手は大抵「きよしこの夜」辺りを歌っていたと思います)。
メドレーのラストに登場する歌手は、自分の持ち歌(自分の前の出番の歌手が歌った、そのラストの歌手自身のオリジナル曲)を歌いメドレーを締めくくるわけですが、その歌手を囲うようにしてほかの出演者が登場してくる、というのも、夜ヒットの豪華さを視聴者にアピールする上で効果的な演出であったと思いますし、ほかの出演者が歌にあわせて、妙なダンスを行うのも何とも見ていて壮快な感じでした。またその雰囲気の上ラストでメドレーに登場することも、歌手とにとっては一種のステータスになっているという感じすらありましたね。
あの、拓郎さんや陽水さん、中島みゆきさん、BOOWYですらもメドレーには普通に参加してくれていましたし・・・、何とも今考えても豪華な企画でした。
ただ、晩期になると、歌番組を「プロモーションの一環」として軽く考える風潮が蔓延るようになったせいか、メドレーを拒否して、後から改めて司会者から紹介される形で登場するケースが多くなっていきました。歌番組、もっと広くいえば「歌」に対する価値観がアーティスト各人により複雑・多様化していく中で、メドレーという企画は時代錯誤な感じを否めないものとなっていったという感じがします。仮に夜ヒットが今も続いていたとしても、メドレーについては、途中で廃止となっていた可能性も十分考えられます。今のヒット曲も「夜ヒット」のあの雰囲気で歌われていたなら、もっと違うカラーを印象付けることができた、そういう部分では、夜ヒットは続いてほしかった番組でしたが、他方、メドレーという夜ヒットの名物を排除してしまえば、メドレーがない夜ヒットは、単なる一歌番にすぎない、と番組の評価を損ねることにもなりかねない。その点ではあの1990年の辺りが番組としての限界点であった、という見方もできる。その辺りが何とももどかしく感じますね・・・。
あと、内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」は歌のヘタクソ\なアイドルがよく歌わされてるイメージがあるんですが。桜田淳子、榊原郁恵、ビューティーペア、能\瀬慶子等…。アイドルの登龍門みたいになってたんでしょうか。
・柳ジョージ→「能登半島」(石川さゆり)
・アルフィー→「あんたは大将」(海援隊/武田鉄矢)
・石川秀美→「波止場女のブルース」(森進一)
とか・・・。
なぜに「長崎は今日も雨だった」がアイドル系によく宛がわれていたかは詳細は不明ですが、今のCSのものをみると結構多いですね。この曲は完全に「ムード歌謡」という大人の歌謡曲のカテゴリーにはいる曲だけに、それはまったくイメージ的に対照的な歌手をキャスティングすることで「意外性」を狙っていたのかもしれませんね。
桜田淳子は出だし失敗するし、能\瀬慶子も出だしで思いっきり音を外すし、ビューティ・ペアにいたっては最初から最後まで音外れっぱなし。
これらの人は元々歌がうまくない人たちばかりですが、自分たちの歌をあんなにヘタクソ\に歌われてクールファイブの皆さんは後ろでどう思ってたんでしょうね(笑)
その回は1978/04/10放送分でCSでも再放送されましたね。
77年~78年のピンク・レディー旋風が吹き荒れてる時は彼女たちは出演すると毎回メドレーラストでした。
このメドレーのラストはだいたいキャリアの長いベテラン歌手ばかり歌ってたんでアイドルのピンク・レディーが出演するたびメドレーラストを歌うってのは珍しい。
いかにこの頃の彼女たちの勢いがすごかったかというのがうかがえますね。
ああいったキャスティングもほんとに人によりけりですねえ・・・・。
村田英雄さん、北島三郎さんがなんで大抵最初か最後しかメドレーに登場しないのか、といえば、自分の大事な歌を汚されたくはない、という思いがあったからこそのことなのかも。でも、そういう思いがなければ、夜ヒット史上に残る村田さんの「迷唱」は生まれなかったわけですしね。五木さんもメドレー途中であるとしても、自分が親交のあるタレントでなければ自分の持ち歌を歌わせなかったような感じでもありますしねえ・・。
反対に森進一さんとか布施明さんなんかは結構意外ですが、その点、ベテランなのにかなり寛容的でしたね。だみ声で歌われようと、歌がどれだけヘタであっても、森さんはよく笑顔で切り替えしてくれていていたのを思い出します。
あと、1978/04/10放送分での、ピンクレディーの代役として百恵さんと桜田淳子さんが「渚のシンドバッド」を振りつきで歌ったというリハーサル風景のシーンが一部流れていましたが、ほかにも「トップテン」との競合で、両番組に出演する歌手なんかが登場すると、ほかの歌手が代わりをやる慣行は一般に行われていたみたいですね。機具搬入・音あわせなどを含めて本番までの10時間以上もの入念なリハーサルを行うことで知られていた夜ヒット。メドレー一つとっても、リハに来ていない歌手の分を飛ばしてつなげるということはしなかった、という点を見ても、夜ヒットのリハーサル風景の厳しさが垣間見える気がします。
BLUEさん>夜ヒットとトップテンの掛け持ちは、私が知っている限りは原則不可だったような…月曜は他にレッツゴーヤングの収録もあり、当時の人気歌手のスケジュール管理は大変だったことが窺われます。
その後、より出演者を拘束する意味を強めるという観点もあって、日本テレビ側は「トップテン」に番組を切り替え、ランキングされた歌手はどちらか一方を選択せざるを得なくなりましたね。松田聖子・近藤真彦・田原俊彦辺りになってくると、夜ヒットに月1回~2回、そのほかは大抵、といっていいほどトップテンに出演し、或いはレッツゴーヤングの収録に参加するというスケジュールだったわけですから、かなり歌手にとっては肉体的にも酷な時代だったと思いますねえ・・・。