大阿蘇タロウの周辺ブログ

身近に起こった出来事の記録。

東京裁判。残酷なアメリカ人、朝鮮人。

2010-02-08 20:01:19 | Weblog
「東京裁判」は誤り=英提督の批判、公文書で明るみに
【ロンドン10日時事】太平洋戦争の終戦前後に連合国軍の東南アジア最高司令官だった英海軍のマウントバッテン提督が、東条英機元首相ら「A級戦犯」を裁いた1946~48年の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の開催を誤りと批判していたことが明らかになった。
 
英国立公文書館に保管されている48年の同国政府文書によると、マウントバッテン提督は、当時進行中だった東京裁判を念頭に、「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」と主張し、日本の戦争指導者を戦犯裁判にかけることに反対を表明した。

米国の著名な月刊雑誌、フォーチュンの当時の記事(昭和二十四年四月号)より
「法廷に証人として出廷せず、従って宣誓無しに作成された検事側書類を証拠として受理し、検事と弁護人に異なる(大差ある)審理手続きで弁護側に不利を与えた東京裁判は、判決に批判の余地を残した。」

アメリカ合衆国ダグラス=マッカーサー元帥
昭和25年(1950年)10月にウェーク島でトルーマンン大統領と会談中の会話
「東京裁判は誤りだった」

日本糾弾の急先鋒であった首席検事キーナン。東京裁判から数年後の発言
「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として、復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった」

マクホン・ボール(メルボルン大学教授)
「(東京裁判を)もう一度傍聴したら、必ず病気になる」

元ドイツ大使・大島浩被告のアメリカ人弁護人オーエン・カニンガム
「東京裁判は、報復とその宣伝にすぎぬ」

ドイツ系アメリカ人 C・A・ウィロビー(GHQ 参謀第二部長) 『The Tokyo Trial and Beyond』より
「この裁判は歴史上最悪の偽善であった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁ずる」
※ 歴史上最悪の偽善はニュルンベルグ裁判である。東京裁判はその次である。

ウィリアム・O・ダグラス(米国最高裁判事)
「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外の何ものでも無かった」

オランダ レーリング判事
「我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。
もちろん、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復讐劇だと言ったのはまさに正しかった」

パール判事(インド人)
「日本は国際法に照らし、全被告は無罪である」

英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿 『戦犯裁判の錯誤』より
裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、「私は全然疑わない」

英法曹界重鎮FJPビール 『野蛮への接近』
「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為にほかならない。」

オーストラリア 東京裁判ウェッブ裁判長
「東京裁判は誤りであった」

米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
以下は正論00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」の抜粋です。
チャールズ・リンドバーグ

日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。
この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版された。
現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。

各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にさ
れなかった、即ち殺された。

ニューギニアでは二千人ほどの日本兵捕虜に機関銃が乱射された。オーストラリア兵のパイロットたちは飛行機で日本人捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造 る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。

キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景より
山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った。 「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その後も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。


私の村は地獄になった より
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。 「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 
虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号

日本軍捕虜収容所の日々―オーストラリア兵士たちの証言より
捕虜となったある豪州兵はこう回想している。
「普通の日本人の食生活と比べても、そんなに悪くはなかったはずだ。特に、戦争の終わりになると、俺たちの方が町の日本人よりいい食事をしていたんじゃないだろうか」と。

日本再生ニュース より
ジュネーブ条約といえば、日本の戦後補償問題でも度々持ち出されるが、内容は戦時捕虜(POW)は不当な尋問や拷問から保護され、良好な給養(食事)や収容施設が保証されるというもの。

そのジュネーブ条約に関して高山正之氏(帝京大学教授)が面白い指摘をしている。同条約を 「旧日本軍以外の軍隊が過去に1度でも守ったとは寡聞にして知らない」というのである。

1例だけ紹介すると、先の大戦後マッカーサーは降伏した日本兵をPOWと呼ばず JSP(Japanese Surrendered Personnel=降伏日本軍人)と命名したという。
「JSPにすれば『日本軍指揮官が軍紀、及び給養の責任を負う』ことになって、せこい話だが、経済的な負担を免れるからだ。だから日本兵は自分たちで捕虜収容所を建て、畑を耕して飢えをしのいだ・・・中には人も住まないレンパン島に収容というか放置され、食糧もないまま1千人余が餓死したケースもあった」
だが、日本軍は決してそんなせこいまねはしなかった。コレヒドールで7万の米兵が、バンドンでは8万のオランダ兵が白旗を掲げたが、「いきなり大量の捕虜を抱えた日本軍は貧しい補給の中から、それでも何とか良好な給養を心掛けてきた」。

事実、内地の収容所の例だが、日本は終戦直前でさえ「1人当り570グラムの米麦給与」していた。 それは当時の日本国民成年男子に対する配給量の2倍に当たる。

The Winds of God ~フィリピン人が愛した神風~
『1571年のスペイン統治から始まり、1898年のアメリカ統治、と他国に支配されてきたフィリピン。それは蹂躙の歴史でもあった。しかし、1942年に始まった日本軍の軍政は違い、マバラカットの人々は尊重され、子供などは特攻隊員に非常に可愛がられた、とディソン氏は語る。
そのディソン氏は15歳のときに大西中将・関大尉に可愛がられた思い出を持つ。
特攻隊員たちは「死」から逃れられない運命を享受しつつ、生活を共にすることになったフィリピン・マバラカットの人々を守ることにも力を注いだのだと。
マバラカットの人々にとって彼らは英雄であった。』

反日マスコミが伝えない親日の話より
ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」
さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。
そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。
日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」
(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

戦話・大空のサムライ―可能性に挑戦し征服する極意より
戦後、パプア・ニューギニアを訪れた坂井三郎氏は、自分のことを「タナカ」と称する現地の人からこのようなことを 言われたそうだ。

「自分たちは長い間、オーストラリア人の支配を受けて来たのですが、その間、彼らはいばり散らすばかりで、私たちに何も教えてはくれませんでした。しかし、戦争が起こり、日本軍がブイン地区にやってくると、やがてこの日本人たちは、たくさんのことを私たちに教えてくれました。私たちは先ず日本語を教わりました。日本の“先生”たちは、それまで自分たちが考えてもみなかった傾斜地(彼らはたしかアップヒルといった)のジャングルを切り開いて耕し、種子を蒔いて、食料を自分の手で栽培する、ということを教えてくれました。また、生活に役立つことを、いろいろ教えられ、それが私たちには、いまも役立っています。」


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