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ロスチャイルド財閥-157 東京裁判 麻薬中毒者ヒトラー

2023-01-07 12:44:15 | 国際政治・財閥

ヒトラーの頭部レントゲン写真(スタンフォード大学フーヴァー研究所アーカイブズ蔵)
歯がひどく蝕(むしば)まれ、上の前歯が4本だけ残り他は入歯。







東京裁判

東京裁判(正式名は「極東国際軍事裁判」)は、1946(昭和21)年5月3日(金曜日)に東京市ヶ谷の陸軍士官学校大講堂で開始されました。 

A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が2年10ケ月間も続き、戦争に負けたから責任を取らされます。「ポツダム宣言」で戦争犯罪人の処罰が明示されており、「敗戦処理」からは逃げれません。 

戦勝国からすれば、「ポツダム宣言」を受諾しておきながら、「正義の戦争」と宣(のたま)う日本無罪論を主張する、戦後、吉田茂や岸信介~安部晋三ら首相に尻尾を振る情けない一部の阿呆な産経新聞などの記者は、支離滅裂な姿にしか映りません。 

東京裁判は市ヶ谷で審理されましたが、「国際裁判」であることをわすれてはなりません。 法理論も国際法が優先されます。







麻薬中毒患者ヒトラー

見本帝国とナチス・ドイツには隠された接点がある。阿片だ。 阿片は外交の潤滑油。 満州国とナチス・ドイツの間で阿片交易が行われていた。 アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler・1889-1945年)はタバコも吸わず、酒も飲まない。 彼は胃腸が弱かったので、ほとんど野菜しか採らない菜食主義者(ロバート・N・プロテクター『健康帝国ナチス』草思社・2003年)。

しかし、ヒトラーの真の姿は、麻薬中毒者。 フーヴァー研究所には、ヒトラーの頭部レントゲン写真が保管されている。 ヒトラーが暗殺未遂に遭ったとき、脳を検査するためレントゲン写真が撮られた。 この写真を見ると、歯がひどく蝕まれていることがわかる。 上前歯が4本だけ残っており、他は入歯だ。 

ヒトラーの主治医テオドール・モレル(Theodor Morell・1886-1948年)は、「オイコダール」(Eukodal・別名オキシコドン)という麻薬をヒトラーに投与していた。 オイコダールの原料は阿片で服用者を依存患者に変えてしまう。 ヒトラーは重要な会談や演説や作戦会議の前には、モレルを呼んで静脈に薬物注射をさせていた。

ドイツ人作家ノーマン・オーラによる話題作『ヒトラーとドラッグ』(白水社・2018年)は、主治医、モレルのカルテを掘り起こし、ヒトラーが麻薬中毒患者になり、ドイツ帝国が滅亡に陥る凶器を描いた。 当初、モレルはブドウ糖とビタミンを配合した注射をヒトラーに打っていた。 注射とヒトラーの相性はよく、やがて注射の成分は80種を超えるようになる。 ホルモン超合剤、ステロイド、医薬品などを調合して、毎日、注射の中身を少しづつ変えるようにしていた。 特定の薬物依存になることを避けるためだ。

だが、薬物を常習していたヒトラーの身体は、薬物に慣れてしまい、用量を増やさなければならない。オイコダールとモルヒネの混合薬物を常用する。 麻薬患者のヒトラーは,戦局を冷戦に見ることができなくなり、狂信的な作戦を実行せしめる。 薬物投与が妄想の世界を創り出し、多幸感を抱きつつ、ヒトラーは自らの決断こそが正しいものだと信じた。 ヒトラーの健康状態は、坂道を転げ落ちるように悪化。 晩年のヒトラーは、歯のエナメル質が熔け、口の粘膜は乾き、歯はボロボロになり抜け落ちていった。

ヒトラーの秘書として仕えた女性は、「ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当たって、カタカタと音を立てていました」「唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服は食べ物で汚れていました」と証言する(ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』白水社・2018年)。 ヒトラーは左手の震えを抑えるために、右手で強く握りしめたり、身体にピッタリとくっつけていた。 外出するときは、左手を常にポケットに入れていた。 さらに左脚を引きずって歩くようになる。 これは、明らかにパーキンソン病の症状である。 パーキンソン病は、脳内の神経伝達物質ドパーミンの減少によって引き起こされる。

ヒトラーが覚醒剤やコカインと相性がよかったのは、パーキンソン病による震えや身体節々の鋭い動きを一時的に改善していたからだ(小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足』中公新書・1999年)。  麻薬中毒患者は、ヒトラーだけに留まらない。 愛人エヴァ・ブラウンやヒトラーの側近たちも薬物に溺れていく。 イタリアのベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini・1883-1945年)、親衛隊長ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler・1900-1945年)、ドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop・1893ー1946年)、軍需大臣アルベルト・シュペーア(Albert Speer・1905-1981年)、さらには日本の駐独大使・大島浩中将(1886-1975年・A級戦犯として終身刑)なども、モレルの常連患者となっていた(オーラー『ヒトラーとドラッグ』)。

1940(昭和15)年9月に結ばれた「日独伊三国同盟」の立役者・大島浩が薬漬けであったように、第二次近衛内閣で外務大臣だった松岡洋右もコカイン常習者と囁かれている。 満鉄総裁を務めた松岡は、「二キ参スケ」の一角として名を轟かせ、満州国で政治力を存分に発揮した。 松岡は満鉄総裁のとき肺を患い、苦痛を和らげるためにコカインに手を出す。 コカイン中毒になった松岡は、「言葉の製造器」と呼ばれるほど饒舌となり、大言壮語して大見栄を張り日本外交を狂わしていく。

ムッソリーニとの会談を、コカインを吸ったせいで寝過ごしたとも云われている(山内「麻薬と戦争」・註・堀田江里『1941 決意なき会戦』人文書院・2016年では、「異常な活発さから、松岡はアメリカ時代よりコカイン中毒だったと噂する者もあった」と言及されている)。  


昭和天皇は、首相の近衛文麿に対して、松岡洋右を更迭するよう求めていた。 松岡が1941(昭和16)年3月にドイツを訪問して日本に戻ってきたら「別人の様に非常なドイツびいきになった」恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないか」と勘ぐっておられた。 松岡の外交姿勢に対しても、「松岡のやる事は不可解の事が多いが、彼の性格を吞み込めば了解がつく」
「彼は他人が立てた計画には常に反対する」「条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」と悩まれていた(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録 寺崎英成御用日記』文芸春秋・1991年)。 


大島浩・松岡洋右の推進した日独伊三国同盟は、麻薬がもたらす幻想のように脆く、1943(昭和18)年10月にイタリアが離脱し、1945(昭和20)年5月7日(月曜日)にナチス・ドイツの降伏により自然消滅した。

ナチス・ドイツ軍の兵士たちも薬物の力を借りていた。覚醒剤を服用することで、進軍の際に集中力を高め、さらには疲れを知らずに戦うことができるからだ。 兵士にとって。覚醒剤はエネルギーを倍加させる特効薬。 ドイツ軍の兵士は、ドーピングで戦果を挙げていた。 少年兵に対しても、「メタンフェタミン」(註・日本の「ヒロポン」)が配られた。ロシアの戦車や銃砲を前にして、縮み上がることなく、突撃するためだ(オーラー『ヒトラーとドラッグ』)。

「ハーケンクロイツ」(鉤十字)がヨーロッパを覆い、人々を恐怖の坩堝に追いやった。 ハーケンクロイツのデザインは特徴的だ。 2000年以上の歴史を持つ仏教のシンボルは「左まんじ」だが、ハーケンクロイツは「右まんじ」。 ヒトラーは、仏教の卍を盗用。 卍の本来の意味はめでたい兆しや幸運を意味するが、ヒトラーはドイツ復興のために「ハーケンクロイツ」を幸運の意味で用いた。

卍をじっくり見ると、卍の記号の中に十(十字架)が隠されている。「鉤の十字架」という新しい象徴の下で、ドイツのカトリックとプロテスタントを統合し、十字架のもとで聖戦を行い勝利の印としたのだ(中垣顕實『卍とjハーケンクロイツ』現代書籍・2013年)。





ナチス・ドイツと麻薬貿易

ナチス。ドイツでは、国民の間でも麻薬が大流行。麻薬は、あたかも常備薬。 ドイツには、麻薬が広がる下地があった。 それは、第一次大戦のショックが大きく、惨敗の深い傷を負った国民を奮い立たせる薬物が求められていた。しかも、植民地を失ったドイツは、国内で人工的に製造する製薬産業しか残っていない。 

ヒトラーはじめドイツ国民が麻薬中毒者であったように、鎮痛・鎮静剤のモルヒネの原料である阿片は、戦場で大奮戦するときの必需品だ。 ナチス・ドイツは、戦時物質を東アジアから輸入しており、満州から阿片を買い付けていた。 1944(昭和19)年6月17日(土曜日)に調印された「第4次満独通商協定」では、満州国が阿片と粗製モルヒネをドイツへ輸出すると約束。 

シベリア鉄道は敵国ソ連の手中にあり、会場は封鎖されていたが、それでもなお、ナチス・ドイツは東アジアから約24万トンもの戦時物質をUボート(潜水艦)と封鎖突破戦で海上輸送し、その半数はドイツに届けられた。

日本からは、阿片・生ゴム・タンステン・錫・雲母・工業用油脂など8万4千トンの貨物がドイツに届けられた(熊野直樹「ナチ阿片・公益営団・GHQ」『法政研究』第81巻3号・2014年)。 遡ることドイツと満州の貿易協定が結ばれたのは、1936(昭和11)年4月30日(木曜日)。 

ナチス・ドイツが満州を正式な「国」と承認したのは、1938(昭和13)年2月20日(日曜日)。 いったい何時から満州国の阿片がナチス・ドイツに輸出されたのか。 終戦時、関東軍の保有していた阿片を隠蔽するために奔走した古海忠之(ふるみただゆき)が貴重な証言をしている。 

古海はシベリアで過酷な拘留生活を過ごし、1950(昭和25)年に中国の撫順(ぶじゅん)戦犯管理所に収容された。 撫順は、日本人捕虜に対して組織的な思想改造を強制した収容所として悪名が高い。

1954(昭和29)年5月7日付の古海忠之の供述書によると、「1941年10月末、満州国とドイツ国間の貿易協定に基く満洲側借款700万マルクの(一部)決済として、ドイツ側の要求に基き阿片7万トン(価格1両30円)を売り渡しを売り渡した」と記されている(古海忠之「満州国阿片政策に関する陳述」荒井利男、藤原彬編『侵略の証言』岩波新書・1999年)。 

ナチス・ドイツと満州国の蜜月は「阿片貿易」だけに留まらない。日本の「コカ」もナチス・ドイツに輸出されていた。 ナチス・ドイツは、ジャワ産のコカの葉を輸入していたが、大戦が始まると海上封鎖の影響を受けたので、日本からコカの葉を調達した。

コカの葉は、1903年まで清涼飲料水「コカ・コーラ」に含まれており、健康飲料品として売られていた。 植物のコラノ木の種子(コーラ・ナッツ)も含まれていた。 現在でもコカ・コーラのレシピの全貌は公表されていないが、薬剤師・ジョン・S・ペンバートン(John S.Pemberton・1831-1888年)が開発し、1886年から神経衰弱や胃酸過多などの病気に効くと謳ってコカ・コーラを販売した。

コカ・コーラは健康食品。 病気になってから薬を飲むのではなく、普段から薬のような効果を発揮する健康食品を口にすべきだと宣伝した。安全な水を確保することに苦労してきた欧米諸国にとって、コカ・コーラは水の代用品となり、裕福な白人層に瞬く間に広まった。(鈴木透『食の実験場アメリカ』中公新書・2019年・ジャック・アタリ『食の歴史』プレジデント社・2020年)。 

南米大陸ではコカの葉は「聖なる植物」である。 とくに、インカ帝国では宗教儀式や医療で用いられた。 酸素の薄い高地アンデス山脈で重労働となる農作業を行うときや、疲労感や空腹を抑える強壮剤としてコカの葉は必需品。 コカの葉を噛んで唾液を飲む、を繰り返す。

貪欲なヨーロッパの貿易商人は、コカの葉をヨーロッパに持ち込む。1885年にドイツ人科学者フリードリヒ・ゲートゲ(Friedrich Gaedcke・1828-1890年)がコカの葉から薬理作用のある成分を抽出することに成功。その4年後、同僚のアルベルト・ニーマン(Albert Niemann・1834-1861年)により純粋な活性成分分離に成功し、コカインが誕生した。 コカインは万能薬ともてはやされ、瞬く間に大流行。精神分析学の学祖ジークムント・フロイト(Sigmund Freud・1856-1939年)は、コカインに心酔する。 中毒になった。 フロイトは「コカについて」(Uber coca)という論文を発表し、コカインを神経衰弱、心気症、ヒステリー症状の患者に対して用いた。

ワイン文化のヨーロッパでは、コカの葉入りのワインまで製造される。1863年、コルシカ島出身の実業家で化学者のアンジェロ・マリアーニ(Angelo Mariani・1838-1914年)が「コカワイン」(Vino Coca Mariani)を長寿と若返りの秘薬」として売り出したところ、バカ売れ。発明王トーマス・エジソン(Thomas Edison・1847-1931年)や娯楽作家のH・G・ウェルズ(H・G、Wells・1866-1946年)までもが愛用した。 

ローマ教皇(レオ13世/1810-1903)年はマリアーニの偉業を称えゴールド・メダルを贈呈した。 マリアーニのコカ・ワインを模倣したのがコカ・コーラだ(宮西照夫、清水義治『古代文化と幻覚剤』川島書店・1995年)。 だが、万能薬と思われたコカインは、人間を廃人にした。 阿片と同じく、コカは世界中で禁制品となる。 禁制品のコカを日本帝国はこっそり生産していた。1930(昭和5)年、世界に出回るコカインの4分の1は、メイド・イン・ジャパン。 へロインの全世界生産量の半分は、日本が占めていた(倉橋編『ニ反長音蔵・アヘン関係資料』)。  GHQの公衆衛生福祉局麻薬取締課の統計によると、1942(昭和17)年に1万5千kg、1944年に2万kgもの膨大な量のコカインが日本からドイツへ輸送されている。

日本のどこでコカの葉が生産されていたのか。 小笠原諸島の南東にある「硫黄島(いおうとう)」だ。 日本は、硫黄島だけでなく、沖縄本島や台湾でもコカの葉を栽培していた。 「硫黄島」と聞くと、私たちは反射的に「硫黄島の悲劇」を思い浮かべる。
日本が劣勢に立たされた太平洋戦争で、米軍は圧倒的な侵攻を続け、36日間の壮絶な戦いの末、1945(昭和20)年3月26日(月曜日)、硫黄島を陥とす。 日本兵、1万9千人、玉砕。 米兵6800名、戦死。

米海兵隊が英雄扱いされる転機になったほどの激戦だった。アメリカ・アーリントン国立墓地の北側に、硫黄島の「摺鉢山(すりばちやま)」を日本兵から戦い取った直後(2月13日)、アメリカの国旗「星条旗」を雄雄しく打ち立てた海兵隊員称え、慰霊するためのブロンズ製の記念碑が建っている。大英雄として祀られている。

しかし、硫黄島の惨劇は真実を覆い隠せない。 日本は硫黄島でコカの葉を栽培していた。1920年代、砂糖キビ農場だった硫黄島では砂糖の価格が世界中で暴落したことから、コカ栽培に乗り出し。1930年代になると砂糖を上回る生産量となる。「各生産地別のコカ葉生産量」の統計を見ると、太平洋戦争を境に硫黄島で急激に生産量が増加した。


各生産地別のコカ葉生産量(単位kg)
年   硫黄島   沖縄本島    台湾
1937 ----52,559---------4,000--------119,813
1938-----53,383--------22,598-------- 82,298
1939-----52,550--------23,555-------- 70,101
1940-----52,850--------22,050-------- 44,650
1941-----82,300--------24,200-------- 87,274
1942-----85,275--------32,440-------- 71,038
1943-----39,025--------32,440-------- 49,391
1944-----26,062--------28,350-------- 78,293
1945----- -N/A------------N/A-------------N/A
参照・熊野直樹「コカと日独関係」「法制研究」
第84巻3号・2017年


1940年と1942年の硫黄島のコカの葉の生産量が、沖縄本島と台湾を上回る。製薬会社は収穫され山積みされたコカからコカインを精製した。製造兼を持っていた会社は、5社に限定されていた。

(1)星製薬株式会社
(2)株式会社武田長兵衛商店(現・武田薬品工業)
( 3 ) 三共株式会社(2005年に第一製薬と経営統合)
(4)江東製薬株式会社
(5)株式会社塩野義商店(現・シオノギ製薬)

5社とも日本国内でコカインを製造して大儲け。5社の中で三共製薬株式会社がコカインを最も大量に生産した(熊野直樹「コカと日独関係」『法政研究』第84巻3号・017年)。


製薬会社の「戦争犯罪」は、見過ごされている。それどころか、日本の製薬会社は、1951(昭和26)年に「覚せい剤取締法」が制定されるまで、堂々と覚醒剤を製造・販売していた(西川伸一「戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究」『明治大学社会科学研究所紀要』第57巻1号・2018年)。

日本帝国は、満州阿片と硫黄島コカ葉を活用して、ナチス・ドイツと「麻薬貿易」に励んでいた。 日本は官民挙げて阿片を生産し、占領地や植民地で膨大な阿片をばらまいた。 まさに「阿片戦争」を展開していたのだ。




1951(昭和26)年までに覚醒剤を製造していた会社名と製品名
会社名         製品名
参天堂製薬      ホスピタン
タカラ製薬      タカラピン
小野製薬工業     ネオパンプロン
万和製薬       メチパミン
日之出ケミカル    ヒノデドリン
東邦産業       ネオパミン
日新化学工業     スーパミン
小林製薬工業     コボポン
淀川製薬       メチプロン
陳遠述(陶材薬房)  フィクゼドリン
日東薬品化学     ネオヒロン
大日本製薬      ヒロポン
上野製薬       プロアミン
大正製薬       メチルプロパミン
武田薬品工業     ゼドリン
静岡カフェイン工業所 アロン
三田製薬       ホスピタン
富山化学工業     アゴチン、アクタミン、ネオアゴチン
内外製薬       プロパミン
岡野製薬       オカプロン
白井松薬品工業    メチプロン
塩野義製薬      パーテン
同仁製薬       ザンドルマン

(参照・西川伸一「戦後直後の覚せい剤蔓延から覚醒せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究」『明治大学社会科学研究所紀要』題7巻1号・2018年)


出所 『占領神話のj崩壊』 著者:西鋭夫・岡崎匡史、発行:中央公論新社  
西鋭夫 : スタンフォード大学フーヴァー研究所・教授
岡崎匡史:元スタンフォード大学フーヴァー研究所・リサーチフェロー

*占領期の日本から多くの公文書が密かに米国に持ち出されていた。 スタンフォード大学・フーヴァー研究所に手付かずのまま残された数万枚に及ぶ極秘文書。これらを徹底的に調査し、新たな発見をもとに、隠蔽された歴史の真実にせまる。




おまけ

最古参教団元幹部が初証言/安倍家三代と旧統一教会【12月28日(水)#報道1930】
https://www.youtube.com/watch?v=MvQ03QVerGc

ロスチャイルド財閥-152 終戦
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