Pamera Churchill(1920-1997) Sara Churchill(1914-1982)
(チャーチル首相の義理の娘=長男の嫁) (チャーチル首相の次女、映画女優)
鉄道王のアヴェレル・ハリマンと結婚
序
ウィストン・チャーチルは、、1939年9月1日のナチスドイツによるポーランド侵攻当時、ネヴィル・チェンバレン内閣の海軍大臣であった。
チェンヴァレン首相は、フーバー元大統領が『裏切られた自由』で書いてあるように、ヒトラーとスターリンは天敵であり、放っておけば必ず独ソ戦になると予想していた。
この見立てはフーバーと同じであった。
そのチェンバレン首相に激しい圧力をかけ、ポーランド独立保障を約束させたのはルーズベルト大統領であった。
そのことは、当時の駐英大使であったジョセフ・ケネディ(ジョン・F・ケネディ大統領の父)自ら証言している(『裏切られた自由』)。
ケネディ大統領に、チェンバレンの背中を押せとルーズベルト大統領が命じていたのである。
ルーズベルトが期待したヒトラーによるポーランド侵攻が現実になると、イギリスとフランスは、ポーランド独立保障を根拠に対独宣戦布告した(1939年9月3日)。
ヒトラーが英仏両国を侵略したのではない。 英仏の対独戦争は自衛戦争ではなかった。
この日から暫く経った9月11日、ルーズベルトは秘密の暗号電をチャーチルに打った。そこには、これからのことは直接連絡をとりあっていきたいとあった。
ルーズベルトのカウンターパートは、首相のチェンバレンでありながら、まだ一介のの大臣に過ぎないチャーチルと直接交渉に入ったのである。
チャーチルは自身の書『我が半生』の中で、それを自慢する。 この時から、ルーズベルトとチャーチルは、いかに米国の参戦を実現するかに「知恵を絞り」始めたのである。
1940年5月10日、チャーチルは体調を崩したチェンバレン首相の後を襲った。 戦争を利用して権力を奪取する彼の念願がついに実現した(彼の特異な権力欲、名誉欲である)。
しかし、英仏の対独戦争は自衛戦争でなかっただけに米国は国民は、ばぜ他国(ポーランド)の独立を守るために戦争を始めたのか理解できなかった。
他国の自由を守るために、自国の若者を戦場に遣ることは、よほどのことがなければ国民は納得しない。
相当に合理的な説明と説得が必要だ。
ヨーロッパの戦いが始まっても米国民の80%以上がヨーロッパ大陸問題非介入を望んだのは、その合理性を見いだせなかったからである。
日本の真珠湾攻撃(米国の参戦の実現)までのチャーチルの政治目標は、米国の軍事支援の継続であった。
米国参戦を実現させるまでの最低限の外交目標であった。
そのために彼は、リーズベルトの名代のような米国外交使節を自分の娘達を使って籠絡し、米国の軍事支援を確かな物にしていた。
英国首相が仕掛けた最大級のハニートラップであった。
真珠湾攻撃を聞いた夜の晩餐会と米駐英大使の喜び
日本の真珠湾攻撃の報がロンドンに伝わったのは1941年12月7日、日曜日の晩(現地時間)のことだった。
チャーチルは、この夜の晩餐に米駐英大使ジョン・ウィナントを招いていた。 アヴェレル・ハリマンの顔もあった。 ハリマンは、この年の春からロンドンに赴任し、ルーズベルトの名代として英国への武器供与(注:武器貸与法による)全般を英軍と調整する要職についていた。
後に駐在ソ大使となる人物(任期:1943年10月~1946年1月)である。
チャーチルが、ハリマン籠絡にもう一人の娘(義理の娘:長男ランドルの妻パメラ)を使ったことは後述する。
晩餐の最中、侍従がラジオを持って食道に現れた。それを電源に繋ぐと、日本の真珠湾攻撃を伝える報が流れた。
これを聞いたチャーチルは、喜びのあまり部屋中を踊るように飛び跳ねた。
その『踊り』にウィナントも加わった。 おそらくハリマンも手拍子を打ったに違いない。 真珠湾攻撃は米国による対日戦争だけでなく、対独戦争も可能にした。
チャーチルの願い通り米国議会は真珠湾攻撃の翌8日、対日宣戦布告したからである。
ウィナント(1889~1947)はニューハンプシャー州知事を三期務め、査定賃金の導入、福祉の充実、大型公共投資の実施、森林保護といった政策を進めた。
共和党員であったが、リベラル思想を持つハンサムで裕福な政治家だった。その『リベラルぶり』は、ルーズベルト大統領が『空想家(utopian:ユートピアン)』とからかうほどであった。
知事一期目も終わるころに大恐慌(1929年)が起きた。 自身も相当の資産を失ったが、議会の建物を警備する警官に、「腹を空かせた失業者をみたら食事を与えて欲しい。 その費用は私が立て替える」と指示するほどだった。
彼の『活躍』に目をつけたのが、フランシス・パーキンスだった。 ルーズベルト政権では第一期から四期まで労働長官を務めたルーズベルト親衛隊のような女性政治家だった。
後のことだが、彼女はFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)の閣議での振る舞いから何らかの病に侵されている事を知った。
重篤である事も分かったが、決して口外しなかった。
徹頭徹尾FDRに尽くした女性だった。
ルーズベルトは、ウィナントを新設の社会保障局長に抜擢した。 その後、パーキンスの強い推しでILO(国際労働機関)事務総長(第三代)に就任した。
ルーズベルトは、リベラル思想の塊のような彼を、「英国はドイツに勝てない。講和の道を探るべき」だと訴えるジョセフ・ケネディに代えて駐英大使に起用した(1941年3月)。
ウィナントは、家族を置いて赴任したロンドンで、たちまちチャーチルの娘サラと不倫の恋に落ちた。
サラの結婚生活は破綻していたが、米人俳優の夫との離婚は成立していなかったから『ダブル不倫』であった。
ウィストン・チャーチルは禁断の恋を歓迎した。 ウィナントはまるで、チャーチル家の一員であるかのように扱われた。
チャーチル一家は、ロンドンの北西65kmのところにあるチェッカーズの首相別邸で週末を過ごしすことが多かったが、そこにはいつも彼の姿があった。 これが1941年12月7日の晩餐にウィナントが招かれていた理由である。
ジョセフ・ケネディとウィナント
ウィナントは、1889年2月23日、ニューヨーク市で生まれた。 父フレデリックは同市の不動産業者だった。
ウィナントは、プリンストン大学で学んだが学位を取らないまま大学を離れた(1912年)。あまり優秀な学生でなかったようだが、政治の世界に強い興味があった。
1916年には州議会下院議員(共和党)に当選した。
米国が第一次大戦に参戦(1917年)すると、義勇兵として第8航空隊所属のパイロットとなった。
戦後帰国し、1919年、コンスタンス・ラッセルと結婚した。 義父アーチボルト・ラッセルはスコットランド出身の金融資本家で東部エスタブリッシュメントに属していた。
金融事業のパートナーの一人がエリオット・ルーズベルトで、エレノア(赤いファーストレディ)の父であった。
ウィナントは、早くも1920年には州上院議員に選出され、1925年には知事選に出馬し当選した。 結局三期(25-26、32-33、33-34、:任期2年)勤め上げた。
彼の人気は労働者思いの政策にあった。労働組合に「寄り添った」政策をとり、最低賃金引き上げ、子供手当などを導入した。
このことから分かるように、共和党に所属しながら民主党的政治家だった。
ルーズベルト政権(193~1945)が始めたニューディール政策を熱烈に支持したことからも分かるように『名前だけの共和党員(RINO:Republican in Name Only)』の先駆けだった。
彼にルーズベルト大統領の忠臣パーキンス労働長官が注目したのは当然だった。
1034年、彼を新設の経済安定委員会委員に指名した(委員長はパーキンス)。
この年、米国は国際労働機関(ILO:International Labor Organization)に参加した。当時のハロルド・バトラー議長は、米国の影響力を利用したいと考え、副議長に米国人を据えたかった。
ルーズベルト政権はウィナントを送った。
この頃にはルーズベルト自身もウィナントに注目していた。
彼のあまりの進歩思想をからかって『ユートピア人種(夢想家)のジョン(Utopian John)』と呼んでいたが、彼の組織力には一目置いていた。ウィナントは周囲の期待に応えた。
バトラーは自身の後継に彼を推し、1939年1月1日から1941年2月15日の2年あまり議長を務めた。
彼のジュネーブ在任時代、ドイツのポーランド侵攻があり、ヨーロッパで戦火が広がっていた。当時の米駐英大使はジョセフ・ケネディ(ジョン・F・ケネディ大統領の父)だった。
彼はルーズベルト陣営への献金による功績でアイルランド系カトリックでありながら栄誉蝕である駐英大使の座を射止めていた。
ケネディ大使は、英国の対独宣戦布告(1939年9月3日)は危険だと考えていた。
陸軍も空軍もドイツの能力がはるかに英国のそれを上回っていた。彼の見立てが正しかったことはすぐに分かった。
ヒトラーは、英仏両国との戦いは望んでおらず、天敵であるスターリンとの戦いに向けて東に軍を進めたいと考えていた(独ソ不可侵条約は対独戦を考えている英仏への牽制だった)。
ヒトラーは、英仏が対独宣戦布告してからも、暫く英仏との外交渉に応じないチャーチルからの対独強硬派にしびれをきらした。
ヒトラーの本格的陸の攻勢は1940年4月初旬から始まった。
ケネディの駐英大使就任は、ルーズベルトへの献金論功行賞である。 アイルランド出身のカトリック教徒である彼にとって、アイルランド人を苦しめた旧宗主国に米国大使として赴任することは格別の意味があった。
ルーズベルトは、時に残酷な振る舞いをすることがあった。 大使就任を望むケネディに、「君は足がO脚だから、英国での伝統儀式に不都合ではないか。 むこうでは半ズボンにシルクの靴下という礼装が必要な儀礼がある。 ズボンを脱いでその足を見せてくれ。
我が国大使のO脚が写真に撮られたら笑いものになる」とからかったことがあった。
ケネディはプライドがあったに違いないが、このサディスティックな『命令』に従った(1937年秋)。
ジョセフ・ケネディは、アイルランドのジャガイモ飢饉(1845~1849年)から逃れてボストンにやってきた移民の二世で、金融投資家として財を成した。
民主党支持者として、高額な献金を続け新設の証券取引委員会委員長に指名された(1934年~1935年)。 「ルーズベルトのこの人事は、オオカミに鶏小屋の番人をさせるようなものだ」と皮肉られた。
ケネディの民主党(ルーズベルト陣営)支援は続き、ルーズベルトは彼を好いてはいなかったが彼の望み(駐英大使)のポストを与えざるを得なくなっていた。
ズボンを脱いだケネディの大使任命をルーズベルトは『覚悟』したが、親友ヘンリー・モーゲンソー財務長官に、その心情を吐露していた(1937年12月)。
「奴を大使にすることを決めたが、彼の言動は常時監視することにした。 奴が一度でも僕を批判するようなことがあれば直ちに解任する」(ルーズベルト)
モーゲンソーも、「ケネディの任期はせいぜい半年程度になると理解していた」と回顧している。 しかし、結局は1940年末までその任に留まることになった。
ケネディは、英国の対独宣戦布告に批判的であったことは既に紹介した。
その理由は英国にはナチスドイツに勝利する軍事力がないことを理解していたからである。
彼は、英国はヒトラーとの間で何らかの妥協を探り、外交交渉による決着が可能であると考えていた。
米国は、その仲介の労を取れる立場にあると信じていた。
「この戦争が長期化すれば、我が国(米国)の国柄までも変わってしまい、我が国までもカオスになる」として、米国そのものが全体主義化することを憂えたのである。
ヒトラーは、1939年9月にポーランドに侵攻したが、英仏の対独宣戦布告にも関わらず、陸での戦いの本格化を嫌った。外交交渉で戦いを止めたかった。
ヒトラーが交渉に応じないチャーチルの態度に業を煮やして本格的な陸の戦いを始める1940年4月までの期間を欧米の史家は、『偽りの戦い(Phony War)』と呼んでいる。
ケネディ大使はロンドンに赴任すると、英国内の対独融和派との良好な関係をたちまち築き上げ、彼の評判は良かった。
だからこそ、ルーズベルトは彼を短期間で辞めさせられなかったのである。
1940年は大統領選挙の年でもあった。 史上初の三選をルーズベルトは狙っていたが、大統領三選は不文律で禁じられていた。 世論も必ずしも彼に好意的ではなかったし、国民の8割以上がヨーロッパ問題には干渉すべきでないと考えていた。
そうした世論の中で、対独融和派(ヒトラーと何らかの妥協が可能と考える勢力)の駐英大使を軽々と交代させるわけにはいかなかった。
ルーズベルトは、1940年11月の選挙で三選を勝ち取った。 「ヨーロッパの戦場に我が国の若者を遣らない」とする偽りの選挙公約がなければ勝利は危うかった。
ルーズベルトとケネディは選挙前の10月に会っていた。 FDRは、大使に対して干渉主義外交に舵を切るように圧力をかけていた。
ケネディはルーズベルトの三戦を見て、もはやこれまでと覚悟したかのように辞任を決めた。 その空いた席に、ルーズベルトが押し込んだ人物が共和党のウィナントだったのである。
サラ・チャーチル
サラは、1914年10月、ウィストン・ヤーチルの次女として生まれた『サラ』は、チャーチル家の興隆の基礎を、英国王室(アン女王)との強い関係を利用して作り上げた女傑サラ・ジェニングス(1660~1774年:初代マールボロ公ジョン・チャーチルの妻)にちなんでの命名だった。
初代『サラ』がいかにしてチャーチル家の憲築いたかと築いたか? サラの名を次女に与えたことは、その後の彼女が父に似た性格に育つのを予め知っているかのようであった。
父ウィストンが若き日に祖父ランドルフの不興を何度もかったように、彼女もまた父を怒らせた。
ケント州にある全寮制女子学校ノースフォランドロッジを卒業すると喜劇俳優ヴィック・オリバー(オーストリア系ユダヤ人)と両親の許しなく結婚した。22歳の時である。
俳優との結婚は、自身の夢である女優の道の第一歩であった。
実際、結婚の翌年(1937年)には初めての映画出演(喜劇 Who's Your Lady Friend?)を果たしている。
当然のように、この作品には夫オリバーも主演級で出演していた。サラは、家族からはその強情な性格から『Mule(騾馬)』と呼ばれるほどのじゃじゃ馬であった。
彼女は貴族的人生を生きることを嫌った。だらこそ貴族とは対極にある役者の道を進んだ。
しかし夫オリバーは役者らしく恋多き男だった。
彼女は自身が成長するにしたがいそれが許せなくなっていた。 破局の直接の原因は、ヨーロッパの戦いが始まってからの米国政府の政策にあった。
米政府は、英国に住む米国籍の者に帰国を命じ、従わない場合には国籍を失うと通告した。
夫オリバーは1936年に米国籍を取得していたこともあり、帰国を決めたがサラはその決断ができなかった。
彼女は夫との離別を覚悟した。 母クレメンタインへの手紙には、「英国を捨てそして家族を置いて米国に行くことはとてもできない」(1940年6月)と当時の苦悩が綴られている。
サラは父の力を利用することは好きではなかった。 しかし、彼女はその人生で一度だけ父の影響力を利用したと回想している、。
夫と別れた後、演劇の世界にいったん見切りをつけ、国防に貢献したいと決めた時である。
彼女は父を通じて、婦人補助空軍(WAAF:Womens' AuxiliaryForceForce)への入隊を志願した。 WAAFは、英国空軍が人員不足を女性労働力で補った組織だった。
入隊許可は48時間で降りた。
WAAFの幹部は、首相の娘だけにデスクワーク職に留めたかったが、彼女は現場にできるだけ近い仕事を望んだ。
その結果、ロンドンの西60kmの町メドメナムにある航空写真解析班に配属された。 航空写真から、空爆のターゲットとなる軍事目標を決める部署である。
軍事目標はカモフラージュされていることが多く、彼女の部隊には正確な写真の読み込みが要求された。
出会い
この頃の英国の外交目的は、とにかくルーズベルトの再選を支援することであった。 この狙いは1940年11月に不文律である三選禁止を破っての彼の当選で実現した。
この時の英国情報部がいかなる工作を仕掛け、ルーズベルトの三選に協力したかは『第二次世界大戦とは何だったのか:戦争指導者たちの謀略と工作』(PHP研究所)に書かれている。1941年の英国外交は、一歩進んで、いかにして米国の参戦を実現させるかにあった。
ルー。ズベルトは三選実現のために、「我が国の若者を外国の戦争には絶対に遣らない」とする公約で国民を欺いていただけに、米国の参戦はドイツによる米国軍船への直接攻撃しか手立てがなくなっていた。
彼の唯一の抜け道は、他国から攻撃された場合だけだったからである。 ヒトラーはそのことが分かっていただけに、米駆逐艦によるUボート潜水艦攻撃に対しても反撃しないよう厳命していた。
独海軍は、反発しながらもその命令に従っていた。 米国内でも、チャールズ・リンドバーグらを代表とするアメリカ第一主義委員会が、ルーズベルトの隠された悪意を感じ取り、全米各地でヨーロッパ問題非介入を訴えており、世論の80%以上がその主張に賛同していた。
こうした状況であっただけに、英国は、米国からの外交使節に対して格別の配慮をみせた。
ルーズベルトは、武器貸与法による英国への武器供与の総合調整にアヴェレル・ハリマンをロンドンに遣ったが、チャーチルはその接待に長男の嫁パメラ・チャーチルを使った。
ウィナントが極端に親英・反独であることは、チャーチルも英王室も知っていた。 英国が、ハリマンとウィナントの二人の外交使節に、可能な限りの『接待攻勢』をかけたのは当然だった。
英国の『ウィナント大使熱烈歓迎』の模様は、当時の米国の新聞が伝えている。
「ジョージ六世は、自らブリストルとロンドンの間にある駅(注:戦時中のため具体的駅名を挙げていない)っまで出かけウィナント新大使を迎えた。 国王は大使一行を国王専用車で、エリザベス女王が用意しているティーパーティに案内した。 パーティの場所は明らかにされていない。
新大使はあまりの歓迎ぶりに緊張したのか、唇を噛みながら、『この重大な時期に、英国に赴任できたの事は、この上ない喜びである』と語った」(Midland Journal、1941年3月14日付)
英国王室の歓迎に続いて、チャーチルも彼を篤くもてなした。
暫くすると毎週末を、チェッカーズの首相別邸で過ごすウィナントの姿が見られた。 ドイツの爆撃があるたびに、チャーチルは被災地を視察した。
そこにも大使の姿があった。 不発弾の危険もあるなか、被災者や消防士を励ます大使にロンドン市民は感謝した。
ウィナントは、ロンドンの状況を大統領だけでなく、米国民に詳細に伝えることで、当時ワシントン議会で湧き上がっていた、英国はドイツの講和野道を探るしかないとの見立ての『消火』をはかった。
そうすることで、「米国からの軍事物資支援は一次停止すべきだ」とする議会の動きに歯止めをかけたのである。
議会は、英独講和となった場合に、米国からの支援物資がドイツに利用されることを危惧していた。
終末のチェッカーズには、サラもやってきた。
夫と別れたばかりのサラと性格の合わない妻を本国においての単身赴任社の間に、恋情の火がつくのは時間の問題であった。 サラは夫と別れたとはいえ、まだ法的な離婚は成立していなかった。
恋人のような二人の破局とウィナントの自殺
ウィンストンは、連合国首脳との会談で、海外に出ることが増えた。 彼は妻クレメンタインと話し合い、身の回りの世話に娘を同行させると決めた。
二人は、サラと末娘のメリー(1922年生)を交互に使うことにした。 メリーは、第一回ケベック会談(1943年8月)とポツダム会談(同年11~12月)、ヤルタ会談(1945年2月)に同行した(注:連合国首脳がこうした会談で何を話し合ったかについては、フーバー大統領の書『裏切られた自由』に詳しい)。
サラはWAAFの制服に身を包み、首相の娘と言うよりも軍の代表かのように振る舞った。 カイロとテヘランでは、ウィナント大使の姿もあった。
二人は世界の将来を左右する会談に参加しながら、世間の目の届かない逢瀬を満喫した。
会談の緊張が解けたディナーが終わると二人はダンスで身体を寄せ合った。
ロンドンでも二人の逢瀬は続いた。
サラのアパートは、米国大使館から歩いてわずか5分の距離であった。 当時の模様は次のように描写されている。
「スキャンダルを怖れた二人は目立たないことを心がけた。 周囲は二人の関係を怪しんだがそれを誰も口にしなかった。 サラは後日、『父は気づいていたようだったが何も言わなかった』と語っている」(New England Historical Society)
いや、ウィストン・チャーチルはむしろ積極的に二人の関係の発展を促したのではんsかったのではないだろうか。 二人が愛人関係に陥るような舞台を設定したのではなかったか。
そうすることで、米国からの軍事支援を盤石にし、両国関係の強化に利用したかった。
サラもそれが分かっていて『国のために』ウィナントと恋したのかも知れない。
そこまで疑うのは、連合国の勝利か確定してから、サラはウィナントの求婚を拒否したからである。
大戦が終わるとサラは夫ビッグと正式に離婚した。 ウィナント大使は、自身も離婚を進めると約束し求婚した。
しかし、離婚成立まで待って欲しいとの彼の訴えをサラは聞かなかった。 彼女は彼から逃げるように、役者の世界へ戻り、ローマでの映画撮影に旅立った。
傷心の大使がその職を辞したのは、1946年のことである。
職を離れてもロンドンから暫く離れようとしなかった。しかし、サラのローマ行きの数ヶ月後ようやく諦めたのか帰国を決めた。
帰国すると出版社から回顧録執筆の依頼があった。
三部作になるはずの回顧録第一部が上梓された1947年11月3日、ウィナントは、自邸(ニューハンプシャー州コンコルド市)の息子の部屋に入ると手にした拳銃で自らの命を絶った。58歳であった。
サラのその後は、幸福には程遠かった。 ローマでは、映画監督マリオ・ソルダッチに恋したが彼も既婚者だった。
次に惚れた男はライフ誌カメラマンのアンソニー・ボーシャンだった。 二人は、1949年10月に結婚した。
二人ともハリウッドではよく知られた存在だったこともあり、盛大な披露宴だった。 しかし、父ウィンストンはこの写真家を嫌った。 アンソニーが義父に宛てた手紙が残っている。
「あなたのサラへの影響力はとてつもなく大きい。 あなたが私を嫌い(僕らの結婚生活を)邪魔している以上、僕にはどうすることもできません」
1957年、アンソニーも自ら命を絶った。 彼女が離婚したいと告げた翌日のことであった。サラの次の伴侶は、ヘンリー・オードリー男爵(1913年生)だった。
貴族生活を嫌っての結婚遍歴であったが、やはり同じ貴族の男爵とは気が合ったらしかった。
父ウィンストンもこの結婚には喜んだ。 二人はジブラルタルのロック・ホテルで結婚した(1962年4月)。
しかし、男爵はこの後、すぐ心臓発作を起こし半身不随となり、翌1963年7月脳内出血で亡くなった。サラは、自身の幸の薄さを嘆き酒に溺れた。
時に暴れて監獄付属の病棟に収容されたこともあった。 彼女は、男爵の死からおよそ20年経った1982年9月に息を引き取った。
サラは、本来的な意味でのスパイではもちろんない。
しかし、ウィナントとの交際は、父思いの彼女がその意を汲んで、自ら仕掛けた『ハニートラップ』だったと思えるのである。
パメラ・チャーチル、長男ランドルフとの結婚と不倫生活
2010年、女性歴史家リン・オルソン(1949~)は、英国支援(最終的には米国の参戦)にもっとも影響力を発揮した男たちの内幕を書いた書(Citizens of London)を発表した。
彼らは、みなルーズベルトの名代のような立場でロンドンにいた男だった。
オルソンは、とりわけ三人の男に注目した。
一人は先に詳述したウィナント大使である。 二人目は先に書いたように武器貸与法に基づく英国への軍事物資供与の総合調整役アヴェル・ハリマン。 三人目は、米国CBSから派遣された特派員エド・マーロウだった。
マーロウは,その低音の渋い声で、ドイツの空爆に耐え抜くロンドン市民の姿を米国民に伝えた。
米国議会の対英支援中止の動きを牽制するためにする報道であった。 ナチス・ドイツ宣伝相ゲッペルスも絶賛したハリウッド映画『海外特派員』(1940年:アルフレッド・ヒッチコック監督)は、マーロウがモデルだった。
オルソンの注目した三人すべてにウィンストン・チャーチルの『ハニー・トラップ』が仕掛けられていた。ウィナント大使の担当は前述のように愛娘サラだった。 ハリマンとマーロウを『担当』したのは長男ランドルフの妻パメラだった。
チャーチルの長男ランドルフ(1911年生)は、対独戦争が始まると、前線に出ることを覚悟した。死を意識した彼はどうしても世継ぎを残して戦地に向かいたかった。
伴侶を求めたが次々に断られた。
女好き、酒好き、ギャンブル好きの三大悪徳が社交界に知れ渡っていたからだった。
それでも彼は諦めなかった。9人目にプロポーズした女性がパメラ・ディグビー(1920年生)だった。
彼女は二つ返事で同意した。 二人が挙式したのは、10月4日のことである。 初でーとから3週間後のことであった。
1940年10月10日、彼女は健康な男子を生んだ。 チャーチル家の世継ぎの生母となった彼女は、真の栄誉(グローリー)を手中にした。
チャーチルは孫の誕生を喜んだ。 祖父を一層喜ばせるかのように、同名のウィンストンと名付けた。 パメラの父は、第11代ディグビー男爵だったから、チャーチル家にとっては、それなりに相応しい貴族の血を引く女性だった。
パメラは三歳の頃から乗馬に親しんでいた。 これもまた陸軍騎兵隊出身のウィンストン・チャーチルを喜ばせる彼女の『資産』だった。
ただディグビー男爵家は、当時の貴族のほとんどがそうであったように、土地持ちだったが、現金がなかった(Cash Poor)。
パメラは自身の結婚が真の愛情によるものではないことは分かっていた。 親友には、「私は彼を愛していない。 健康な私に世継ぎを生んで欲しかっただけ」と本音を漏らした。
しかし、彼女は、『チャーチル』という姓を得た。 それが何物にも代えがたい財産になることを彼女自身よく分かっていた。
彼女がルーズベルトの名代でロンドンにやって来たアヴェレル・ハリマンと不倫の仲に陥ったのは年が明けてすぐのことだった。
ルーズベルト大統領は、対英軍事支援の法的根拠を作るため武器貸与法(1941年3月)を成立させた。 中立法により交戦国には武器供与できないことになっていたが、共和党の反対を押し切って成立させた新法だった。
実際には、無償供与で無制限に英国への武器供与を実現する悪法だったが、「ただ武器を貸しているだけ、後で返してもらう」という『屁理屈』で米議会と国民を煙に巻き、チャーチルを喜ばせた。
武器貸与法の成立で、米国は実質対独戦争の当事国になった。
アヴェレル・ハリマンは当時全米で四番目の資産家とされていた。 彼の資産は鉄道王だった父エドワード・ハリマンの築いた『鉄道王国』から譲られたものだった。
エドワードは支配権を握った米大陸横断鉄道を利用した世界規模の交通インフラストラクチャー構築(自身の支配下にある世界交通網構想)の夢を描いた男だった。
ニューヨークを出発し、大西洋航路 → シベリア鉄道(東清鉄道)→ 南満州鉄道 → 太平洋航路大陸大陸大陸横断鉄道のルートで再び西からニューヨークに戻ってくる交通網の完成を目指していた。
かつて、日本の桂太郎政権はハリマンの要請を受け入れ、南満州鉄道の共同経営構想に一端乗った(桂ハリマン協定:1905年)が外務大臣・小村寿太郎の反対で頓挫した。
アヴェレルは、最後まで鉄道経営高度化の夢を捨てなかった父とは違い、金融資本家として活躍した。
1931年には、ブラウンブラザーズ(フィラデルフィア)と組み、ブラウンブラザーズハリマン社を設立している。
その彼を、ルーズベルト大統領は、対英支援(武器貸与法)のコーディネーターとしてロンドンに遣った(1041年3月)。
武器貸与法の成立は、ウィンストン・チャーチルが待ちに待ったものであった。 その具体的運用にやってきたハリマンは、当時の英国にとってウィナント大使同様に最重要の賓客であった。
歓迎パーティがロンドンの高級ホテル『ザ・度チェスター』で開かれた。 ハリマンの隣に座ったのは、パメラ・チャーチルだった。
彼女は肩を大きく晒したドレスに身を包んでいた。食事の間、彼の腕にその指をしなやかに纏わり付かせ、彼のたわいのないジョークに破顔した。
二人はその夜を共にした。 21歳の女の魔力に既婚ではあったがハリマンは、抵抗できなかった。 30歳も年下であり娘キャシー(キャサリーン)と同年代の女の魔力だった。
パメラは、英国最大級の賓客をたった一夜の出会いで『落とした』のである。
闇夜の仲でドイツの爆撃が続いていた。 二人の関係は、ハリマンのモスクワ赴任(駐ソ大使)までの二年間続いた。彼からの金銭支援はその後も絶えることはなかった。
ドイツの空爆に耐えるロンドン市民の姿を米国民に伝えていたのは、既に紹介した米国CBS特派員、エド・マーロウだった。
パメラは一人の男で満足できる女ではなかった。 マーロウも、義父ウィンストン・チャーチルにとってはウィナント、ハリマンと同様に賓客だった。
盟友ルーズベルトが身動きをとれなかったのは80%を超える米国民の、ヨーロッパのゴタゴタには二度と関わりたくないという強い思い(世論)であった。
マーロウは、英国赴任前には既に名の知れたニュースキャスターだった。 その彼が空爆に果敢に耐える英国市民の姿を好意的に米国に伝えることで、その世論を変えることができるかも知れないのである。
義父チャーチルの思いを感じ取ったのか、彼の密かな指示があったのか。 それは誰にも分からないが、パメラはマーロウにも目をつけた。
彼もたちまち『落ちた』。
落とした男たちは、彼女が望むものは何でも与えた。彼女は、ロンドンの高級住宅街名フェア地区にあるグロスヴェノアスクエアに居を構え、息子ウィンストン・ジュニアは乳母に任せきりであった。
スクエアの隣組の一人に、ジョン・ヘイ・ウィットニーがいた。 彼女は彼までも『落とした』。
後に米主要新聞の一つ、ニューヨークトリビューンの社主となり、米駐英大使(任期:1957~1961)に登り詰めた人物である。
彼女は少なくとも、三人の男と同時進行の不倫を重ねていた。
パメラの戦後
多くの人は、長男の嫁の不倫をウィンストン・チャーチルは不快に思うはずだと考えるに違いない。それが常識的感情である。
しかし、チャーチルはその重要人物たちとの不倫を歓迎していたと考えられている。
チャーチル自身の生い立ち,出世そのものが母、ジェニーの不倫の成果の賜物でぁった。彼女が関係した男性は100人を超えるといわれている。
その一人に国王エドワード7世もいた。 母ジェニーは、王室関係者をはじめとして多くの政治家、財界人、実務官僚、高級軍人との『不倫人脈』を築き上げ、チャーチルに出世の便宜を図り続けた。
当時の英国上流社会では『不倫は文化』であった。
チャーチルは、パメラの行動が英国の対独戦争勝利に役立つ事を知っていた。 パメラのターゲットはすべて国益に利する重要人物ばかりだった。 義理の娘の『ハニー・トラップ』の効果に、彼はほくそ笑んだのではなかっただろうか。
米国は、日本の真珠湾攻撃を利用して、ヨーロッパ大陸の戦いに参戦した。 米国の参戦なしには対独戦争に勝てないことを知っていたチャーチルの目標は達せられた。
戦いが終わると、パメラの不倫は、自身の将来のための『私的ハニートラップ』にシフとした。
彼女とランドルフの離婚は当然の成り行きであった(1946年)。
パメラがパリに渡ったのは1947年春のことである。 花の都で一層『女』を磨いた。暫くして知り合ったのはヨーロッパでもトップクラスの富豪、ジアンニ・アグネーリ(イタリアの自動車会社フィアット社オーナー)だった。
彼女は、彼との結婚を望みカトリックに改宗までしたが、プレイボーイの彼は彼女との結婚に同意しなかった。
1959年、彼女はアメリカン・ドリームを求めて渡米した。 たちまち次の男が見つかった。
ブロードウェイ・ミュージカルの大御所ルランド・ヘイワードだった。 日本でも知られているミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』や『南太平洋』のプロヂューサーである。
1960年に結婚したが、彼は1971年に亡くなった。 彼女はヘイワードの葬儀(1071年3月)の翌日、かつての不倫相手アヴェレル・ハリマンに接触した。
彼は二番目の妻を亡くしたばかりの79歳の寡夫になっていた。 二人はこの年に結婚した・
ハリマンは15年後に莫大な財産を残して死んだ。パメラはこの遺産を使って米国民主党最大級のスポンサーとなった。
1992年は大統領選挙の年であった。 彼女が推したのは若きアーカンソー州知事ビル・クリントンだった。
同陣営に1200万ドルを集めた。
彼女こそがビル・クリントンを大統領に押し上げた女であった。
クリントンは、彼女を駐仏大使に任命し、その恩に報いた。 彼女が赴任地パリで死去したのは1997年2月5日のことである。
日本人には想像もつかない、『優雅』なそして、『下品』な西洋エスタブリッシュメントの出世物語りである。
彼女もサラ・チャーチル同様に、本来的な意味でのスパイではない。 しかし、彼女のしかけた『ハニートラップ』は、英国の対独戦争勝利にとてつもない貢献をした。
ハニートラップは、敵国に仕掛けるだけではない。 同盟国にも仕掛けるのである。
以上