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アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイ  全記事

2024-11-11 11:04:53 | 世界史を変えた女スパイたち

アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

①アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー1: 生い立ちhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/99da503f67a7ab05933d0308c10c061b

➁アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0ca79bdb97a935f6072417e5ead77af6

③アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー3: 西洋人共産主義者とのプロパガンダ
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f5191256ae9c9e00515142bea52f9479

④アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/af2ab0ab3afcd5d6d7c7e419e685b696

⑤アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: スメドリーを支援していた米国務省
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0de36463345568f460480f294e3c3223

⑥アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー6: スメドレーの死https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3454290d5d7d58ccce7f785eb1bbc4b6

 

 

 


アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー6: スメドレーの死

2024-11-10 20:20:58 | 世界史を変えた女スパイたち

 



アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: 中国共産党幹部との接触https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0de36463345568f460480f294e3c3223
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スメドレーは、香港での手術後帰国した。 彼女は、サンディエゴにいた家族のもとに暫く落ち着いた。

真珠湾攻撃を切っ掛けに日米戦争が始まると、中国は米国の陣営に与したこともあり、スメドレーの中国礼賛の時局評論にはニーズがあった。 ニューリパブリック誌などに寄贈し、時に講演の依頼もあった。 

そんな中で、彼女がもっとも力を入れたのは、先に書いた『中国に捧げる賛歌(Battle Hymn of China)』の編集(一九四三年発表)と朱徳の伝記執筆であった(伝記出版はスメドレー死後の一九六五年)。

スメドレーは、サンディエゴには」長くとどまることはなく、ニューヨーク州サラトガ・スプリングの芸術村(ヤド―:Yaddo)に移った。 そこでは政治劇に熱中し、暇さへあれば劇場に通った。 

ガーデニングにも熱心だったが、美しい花には関心がなく、トマト栽培に夢中だった。中国では西安事件をきっかけに第二次国共合作も成立していただけに、この頃の彼女は幸せだった。

 

中国共産党への肩入れは、ルーズベルト・トルーマン両政権では問題視されることはなかった。 しかし、中国共産党が国民党のそれを圧倒する一九四九年に入ると安寧の生活は一変する。

米陸軍情報部が、彼女はゾルゲ・スパイグループの一員であったとする報告書を発表したのである(二月十日)。 健康不安だったが直ちに中国行を決めた。 彼女の愛した中国は、女性の天国になっているに違いなかった。

 

まずはロンドンに向かい、そこでビザを取得する考えだった。 英国は、西側諸国では真っ先に中共政府を承認(一九五〇年一月)しただけに、彼女は英国に行けばビザの取得ができると考えたのである。

しかし、旅先のロンドンで持病の胃潰瘍が悪化した。 一九五〇年五月四日、ロンドンで胃の三分の二を切除する手術を受けたが、肺炎を併発しこの二日後に死亡した。

 

スメドレー死去のニュースを聞いたエドガー・スノーら友人およそ二〇〇人がニューヨークで偲ぶ会を開いたのはこの数日後のことである。 西洋諸国で、彼女の死を惜しんだのは親共産主義のリベラル芸術家や知識人だけであったが、中国共産党政府は彼女の死を悲しんだ。

彼女を殺したのは米陸軍による『根拠のないスパイ疑惑』であると米政府を批判し、毛沢東ら共産党幹部は追悼文を中国紙に寄せた。

 

スメドレーは、「遺骨は中国に埋めてほしい」と遺言していた。 親族は祖の遺灰を北京に送りその処理を朱徳に託した。

翌一九五一年五月、遺灰は彼女の願い通り、北京八宝山革命共同墓地に埋められた。 中国共産党こそが女性解放の旗手となると信じたスメドレーの願いはこうして実現したが、彼女の喚問を計画していた非米活動調査委員会にとっては、悔やまれる師であった。

 

 

END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: スメドレーを支援していた米国務省

2024-11-10 11:47:15 | 世界史を変えた女スパイたち



アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/af2ab0ab3afcd5d6d7c7e419e685b696
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ここまでの記述で明らかのように、スメドレーはコミンテルン(共産主義インターナショナル)のあるいは中国共産党の直接の指揮下にはなかったから、厳密な意味でのスパイではなかった。 

しかし、第五列として十分すぎる活躍を見せた。 戦後、ソビエトとの冷戦が現実になると、米国は共産主義思想の拡大に神経質になった。 米国陸軍情報部は、彼女はソビエトのスパイだったのではなかったかと疑ったが、その証拠を呈示できなかった。

 

一九四九年、スメドレーの願った通り、中国共産党が中国本土を制圧し、中華人民共和国が成立した。 翌一九五〇年六月には北朝鮮軍が南下し朝鮮戦争が始まった。 破竹の勢いであった

北朝鮮軍がダグラス・マッカーサー指揮下の国連軍によって中国本土まで押し戻されると、中国が義勇軍と言う名目で解放軍を投入した。 こうして朝鮮戦争は『米中戦争』にエスカレートした。 

この状況に米国議会保守派が憤った。 米国は中国を共産主義者に『奪われた』のである。 容共的であったディーン・アチソン国務長官の示したアチソンライン構想は、朝鮮半島の共産化を容認するかのようであり、それが朝鮮半島の引き金になったと疑われた。

米国議会は、アチソンに代表される国務省に蔓延する容共派実務官僚への風当たりを強めた。チャイナハンズと呼ばれていた彼らは下院非米活動調査委員会の厳しい尋問に晒されることになった。

 

その一人がオリバー・クラブ(Oliver Edmund Club、一九〇一年生)だった。 一九二八年に国務省に入省すると翌年には中国に赴任した。 爾来(じらい:それ以降)漢口の副領事などの要職に就いた。 非米活動調査委員会がクラブに証言を求めたのは、一九五一年三月および八月のことである。 

当時、国務省中国部長であり対中外交の実務上のトップにあった。 ただ前年にはこのポストから一時的に外されていた。

彼には、前年(一九五〇年五月)に死去していたスメドレーの中国での活動を幇助した疑いが欠けられていた。厳しい追及に、スメドレーに便宜をはかったことを認めたが、クラブはそれが国務省本省の指示であったと反論した。 その時のやりとりをいかに示す。

 

 

一九五一年八月2二〇日 下院非米活動調査委員会 証人尋問

 

ジョン・ウッド委員長: どれくらいの頻度であなたは彼女(スメドレー)と会っていた
            のか?

クラブ証人     : おそらく上海で一回、漢口で二回ほどだと思います。 ところ
            で委員長、彼女に特別な便宜をはかったのは、本省からの指示
            によるものです。 その証拠となる資料を提出したのですが?

フランク・タヴェンネア委員 : コーデル・ハル国務長官のレターですか?

クラブ証人      : そうです。

タヴェンネ委員   : 是非見せて欲しい。

クラブ証人       :   お示ししたレターには、国務省のレターヘッドが使われてお
             り、(在中国の)外交官あてに出されたものです。 アグネ    
             ス・スメドレー女史を公式に紹介するもので、それなりの便宜
            をはかるよう現地外交官に求めています。

 

クラブが示した長官指示書には次のように書かれていた。

 

 

一九三四年五月四日 

米国外交官及び領事館職員

 

ニューヨーク州選出のロバート・ワグナー上院議員(注:民主党のリベラル議員)の要請により、ニューヨーク市出身のアグネス・スメドレー女史を諸君に紹介しておきたい。 彼女はこれから海外に出ることになっているが、彼女に対しては必要と思われるそれなりの礼節を払い適当な支援をお願いしたい。

                                     コーデル・ハル

 

ウッド委員長  : 長官からの紹介状を受ける側前の段階、あるいは受け取った段階であなたは彼
          女が共産主義者に利する活動をしている事を知らなかった、と主張しているよ
          うだが?

クラブ証人   : 彼女が共産主義者であることは知りませんでした。

ウッド委員長  : 私はそんなことを聞いているのではない。

クラブ証人   : 彼女が中国共産党のシンパであることは知ってました。 彼女が一九三三年に
          出版した『中国の宿命』を読めば分かります。 また彼女のそうした思想は、   
          フランクフルター・ツアイトウング紙やマンチェスターガーディアン紙への寄稿
          記事でもはっきりしていなす。 しかし、彼女が共産党員であるとか、スパイ
          網の一員であったというようなことは知りませんでした。

 

この議会証言で分るように、米国務省はスメドレーが中国共産党に利する行為を続けていたことを知っていた。そうでありながらハル国務長官を含むチャイナハンズの実務官僚は、スメドレーの活動に便宜を図っていたのである。

クラブ証言は、国務省チャイナハンズによる中国共産党支援が現実に行われていたことを示すものであった。

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー6: スメドレーの死https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3454290d5d7d58ccce7f785eb1bbc4b6

に続く

 

 


アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触

2024-11-09 20:33:39 | 世界史を変えた女スパイたち



アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー3: 西洋人共産主義者とのプロパガンダhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f5191256ae9c9e00515142bea52f9479

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スメドレーの活動は上海だけに留まらなかった。 特に北京を訪問し、エドガー・スノー(一九〇五年生)に会った。 スノーは一九二八年七月に上海にやってくると、同市で発行されていた週刊誌(China Weekly Review)の記者となった。


一九三三年には北京の燕京大学(私立)に移った。国民党政府鉄道省の嘱託として中国各地を旅したこともあり、国内事情に詳しい人物だった。 一九三六年には、その事情を記したエッセイ集(Living China
)を発表した。

スノーが中国共産党の支配する陜西省北部に入ったのは一九三六年夏のことである。多くの共産党幹部にインタビューした。 毛沢東とのインタビュー(七月一六日)の内容が発表されたのはChina Weekly Review (同年一一月一四日、二一日号)紙上だった。毛の英語は拙かったから通訳(Wu Liang -ping)がついた。インタビューと次のように始まった。

 

スノー : 日本を中国から駆逐出来たら、西洋諸国による帝国主義的中国侵略の問題
      のほとんどを解決できると考えますか?

毛沢東 : そうだ。他の帝国主義国が日本のような態度を取らず、我が国が日本を敗    
      北(駆逐)させたら、大衆は目を覚ましてくれる。 そうなれば大衆を動 
      員し独立が可能だ。 我が国における帝国主義国家による侵略問題のほと
      んどが解決する。

スノー : 中国ソビエト政府(中国共産党政府)は、他の政党や軍に対して団結する
      ことが重要で、日本陸軍を駆逐できれば日本帝国主義に打ち勝つことがで
      きると訴えているのですね。

毛沢東 : 注意すべきは日本も我が国も単独で動いているわけではないということ
      だ。 世界の動きと連動しており、極東が平和になれば世界は安定する。 
      日本には、ドイツとイタリアがついている(注:潜在的協力国)。 日本
      に対抗するには中国も他国の支援が必要だ。 だからと言って中国が、外
      国支援なしでは日本と戦えないとは言っていない。 われわれは、(必要
     とあらば)自力での抗日戦を戦える。

 

スメドレーは、一九三三年には、中国の大衆を憐れむ『中国の宿命(Chinese Destinies)』、中国共産党を礼賛する『中国紅軍は前進する(China's Red Army Marvhes

)』を書いた。 スノーのインタビューは、スメドレーが積極的に続けていた中国共産党礼賛の活動に連動していた。

一九三六年、上海の逼塞状況に苛立ったスメドリーは西安に移った。 この転居が彼女に幸いした。 時を図ったかのように、この年の一二月一ニ日、この町で張学良(満州軍閥)が蒋介石を誘拐する事件(西安事件)が起きた。 張は、蒋介石に共産党弾圧の中止を強要し、共同して対日戦を進めるよう求めた(第二次国共合作)。

 

運よく現地にいたスメドレーは、この事件を詳細にレポートした。共産党に好意的な彼女の報道に気をよくした中国共産党は、彼女を共産都本部(中央委員会)が置かれている延安に招いた。 

西安事件の報道でスメドレーの名は広く西洋各国に知れることになったが、延安の山中の洞窟で毛沢東、周恩来、彰徳懐、朱徳らの話を聞いた。 彼女のお気に入りは貧農から身を立て軍指導者となった朱徳だった。 スメドレーの執筆した朱徳の伝記はスメドレーの死後二上されている(一九五六年)。

 

一九三七年に入ると、スメドレーはますます意気軒高となった。 中国共産党要人とのインタビューを果たしたことで舞い上がっていたらしく、中国共産党入党を決めたのである。 然し党幹部はそれを認めなかった。 落ち込むスメドレーを、「党員にならな方が、あなたの活動は価値がある」と諭した。 共産党は第五列の有効な利用法をよく知っていた。

 

入党は断られたが、彼女の昂揚はおさまることはなかった。 洞窟で暫く暮らすことを決めると、洞窟内の鼠の駆除作業、菜園づくりに嬉々として参加した。 更には共産党幹部に西洋式ダンスまで教えた。 幹部の妻たちは、『西洋女』に指導され破顔して踊る夫を、苦々しく見つめていた。

 

延安での生活をエンジョイしていたスメドレーが落馬で背骨を傷めたのは、この年の九月のことである。 彼女が西安に戻らなくてはならなくなったのは、この怪我が原因だった。 暫くすると朱徳からのコンタクトがあった。 自身の指揮する八路軍への同行を誘ったのである。 三ケ月にわたる同行取材を終えると、臨時首都となっていた漢口に移った(一九三八年一月)。

 

同地でも彼女は精力的に中国赤軍に尽くした。 赤十字からの医薬品を軍に配給する作業のかたわら、マンチェスターガーデン紙に寄稿した。 彼女の中国共産党幹部への「食い込み」は、西欧諸国にも知られており、彼女のレポートを欲しがった。 レポートは『China Today』『The Nation』『Modern Review』などの有力誌にも掲載された。

 

一〇月には漢口も陥落した。 スメドレーは、新たに編成されたゲリラ戦主体の新四軍に参加し、揚子江南岸を転戦する同軍の衛生兵として活躍した。 同時に従軍記者として寄稿を続けた。 一九三八年一一月から一九四〇年四月までのレポートは『中国に捧げる賛歌(Battle Hymn of China)』としてまとめられた(一九四三年発表)。

彼女は中国を愛する西洋人女性ジャーナリストとして下級兵士の間でも人気があった。特に、彼らの前でスピーチすることもあった。

 

彼女の赤軍での『セレブ生活』は突然に終わった。 胆嚢が悪化し、香港の病院(Queen Mary Hospital )で手術が必要となったのである(一九四〇年八月)。 香港の英国官憲は彼女を監視下に置いた。 警察は、執筆活動のスベテを禁じ、メディアへの接触を許さなかった。

彼女が帰米したのは、翌四一年のことである。以後、二度と中国の地を踏むことはなかった。 毛沢東らが利用した最高の第五列女性ジャーナリストは、中国を去ったが、彼らの期待通り、中国礼賛の言論活動を帰国後にも続けた。

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: スメドリーを支援していた米国務省https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0de36463345568f460480f294e3c3223

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アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー3: 西洋人共産主義者とのプロパガンダ

2024-11-07 08:16:37 | 世界史を変えた女スパイたち

アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れ
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0ca79bdb97a935f6072417e5ead77af6

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ゾルゲと別れたづメドレーは、その後も上海の左翼勢力と積極的に交流した。 

逮捕されたスイス人夫婦を救う組織が陳幹笙や宋慶齢らによって結成されていたが、彼女がそのメンバーになったのは当然だった(彼らは、夫婦の開放を世界世論に訴えたが、二人は終身刑となった)。

 

一九三三年に大きな動きがあった。 

ソビエトが対蒋介石外交を再開したのである。 ソビエトは一九二七年に蒋介石による共産主義者パージ事件以降、国民党政権から距離を置いていたが方針を変えた。

 

この変化がスメドレーをさらに刺激した。

彼女は一九三〇年頃から上海の知識人層との交流を深化させ、芸術活動を共産主義宣揚プロパガンダのツールと認識していた。

 

彼女の眼鏡にかなった知識人の一人が茅循(ぼうじゅん:Mao Dun、一八九六年生)だった。 中国の芸術に思想性を持たせ、一斉に協賛主義礼賛に変えた男である。 

彼女を魯迅に紹介したのも彼であった。小説家であり、文芸批評家だった茅循は中華人民共和国成立(一九四九年)後に、初代共和国文化部長に就任し一九六五年までその要職にあったことから、彼の中国共産党への貢献がいかに評価されていたかが分かる。

スメドレーは、彼と協力し、中国の社会主義芸術作品の外国語への翻訳作業を進めた。

 

 

スメドレーは、魯迅とも積極的に交流した。スメドレーと初めて会ったときには、既にドイツ語版の『大地の娘』を読んでいたこともあり、二人はたちまち意気投合した。

左翼作家連盟(League of Left Wing Writers)を結成し、メンバーの作品を西欧社会に紹介した。 彼女はこの活動を『文化ゲリラ戦(Cultual Guerrilla  War)』と自慢した。スメドレーは魯迅を中国革命におけるヴォルテールに喩えた。

 

*ヴォルテールとは

ヴォルテール(1694~1778)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家で、啓蒙思想家として知られています。理性と自由を掲げ、専制政治や教会、狂信や不正裁判に反対して闘いました。

 

この時期のスメドレーの『敵』の主体は『英国』であった。上海租界地は基本的にはヨーロッパ勢力(後に日本も加わる)の安全地帯として生まれたものでありその中心に英国がいた。 スメドレーはインド民族派の独立運動を支援していただけに、繁栄感情がすさまじかった。

ところが、彼女のその意識は、満州事変(一九三一年九月)以降、反日本に次第に変化していくことになる。

 

当時の関東軍の狙いは満州に近い支那北東部諸省を非武装化し緩衝地帯にすることであった。軍閥や国民党軍による満州の不安定化工作に一定の歯止めをかけたかったのである。

この方針は、第一次上海事件後に成立した塘沽協定(タンクーきょうてい:一九三三年五月三十一日)で実現した。

 

*塘沽協定とは

塘沽停止戦協定は、1933年5月31日河北省塘沽で日中両軍終了された軍事停戦協定。

 

この協定は、米国の史書でも書かれているように、国家間協定で有効なものであると西洋諸国も理解した。

 

 

時代は少し下るが、スターリンは、国家安全保障を理由に、東欧諸国の共産化っをテヘラン会議(一九四三年)などの首脳会談を通じて、ルーズベルトとチャーチルに認めさせた。 日本の塘沽協定は、ソビエトの外交方針と同じ性質のものであった。

スメドレーと独紙『フランクフルター・ツアイトウング』との契約が第一次上海事件の起きる少し前に切れている。 

 

ドイツでは、一九九三年初めにヒトラー政権が発足することから分るように、独国内世論はヒトラーにベルサイユ体制の鎖からの解放の願いを託したいtの考えにシフトしていた。

不条理な体制を前提に、英仏と折り合いをつけながら国力の回復が、ワイマール体制の基本であったが、独国民はそれに我慢できなくなっていた。

 

ヒトラー政権は、ワイマール体制下の民主主義的手続きによって成立していた。 

こうした世論の変化で、『フランクフルター・ツアイトウング』紙にとって、スメドレーの中国情報の市場価値が低下したのである。

 

 

ドイツへの論文発表の道は閉ざされたがスメドレーは困っていない。 この頃には米国への発言ルートを作り上げていた。 とりわけ二人の米人共産主義者との人脈は彼女の財産になっていた。

一人はハロルド・イサックス(Harold H. Issacs、一九一〇年生)である。 裕福な家庭に育ち、二〇歳でコロンビア大学を卒業すると暫くニューヨークタイムズ紙に勤務した。 その後上海に渡った。

 

彼は政治的にはノンポリだったが、上海でスメドレーとフランク・グラス(Frank Glass)と知り合ったことで共産主義者となった。

 

 

グラスは世界革命を夢想するトロッキストであった。 一九〇一年生まれ(英国バーミンガム)の彼は1一九〇九年に南アフリカに移住した。 一九二一年には、同地の共産党創設に参加した。

一九二八年頃には反スターリングループ(Opposition Left : トロッキスト)に属し、世界革命を夢見る過激共産主義者となった。 一九三一年には活動拠点を上海に移し、西洋人社会に潜り込んだ。 一九三二年から三三年にかけて、タス通信のレポーターだった。

 

スメドレーはこの二人と中国共産党の拡声的週刊誌『China Forum Weekly』を発刊した。魯迅の短編小説や左翼作家連盟所属作家の作品も掲載しながら、反国民党の論陣を張った。 

中国でもスメドレーと五サックスが共同編集した『国民党による反動(反革命)の五年間(Five Years of Kuo-mintang Reaction)』(一九三二年五月)はインパクトのある論文で会った。

 

国民党政府からの厳しい検閲を惹起したことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触

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