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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

能褒野 ヤマトタケル

2022-03-22 | 行った所

古事記のヤマトタケルはとても魅力的な物語だが、世界中の神話が持つ英雄譚なのだろう。日本神話の中でもオオナムジ(大国主)がスサノオの与える試練を経て、スセリヒメを得る話ともちょっと似ている。
ヤマトタケルにいくつかのイメージがあるのは、いくつかの話が統合されてできた物語の所為だが、女装したり、叔母のヤマトヒメに父親が俺に辛く当たる、などと愚痴ったりするのは、可憐な少年を思わせる。その前に兄貴を引きちぎって殺すのは、狂暴すぎる。さらにイズモタケルを討つ話は、友達になったフリをし、剣をすり替える等狡猾、ズル過ぎる。もっとも佐伯真一「戦場の精神史」によれば、古来戦いは勝つためには何をしてもいいのが普通、というから、勝ったヒーローは狡くてもいいのかもしれない。征西・東征譚は、倭王武(雄略)の上表文を思わせる。ミヤズヒメやオトタチバナヒメとは素敵な男性を演じ、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」との老人とのやり取りは、教養ある良き主人だ。伊吹の神を素手で殺すと言挙げする傲慢な男。そして傲慢さの報いとしての死、故郷を思う哀切さ。葬られてもなお白鳥になって飛んでいく魂。ここ以外、天皇もしくは準じる皇族たちは死んで葬られてお終い、なのではないだろうか。何故ヤマトタケルの魂は飛翔するのか。天皇やそれに準ずる人々の死は、何歳でいついつに死んだ。墓はどこそこにあり、としかない。ほかに例があるのだろうか。

 伊吹山 西の方から
ヤマトタケルは伊吹の神に敗れて病になって死んだ。ろくに装備を持たずに冬山登山をしたように見えるが、伊吹辺りの勢力との戦いに敗れたということだろうか。尾張のミヤズヒメのところへ帰るつもりで東へ出て、体力が持たないと最期は大和に向かおうとしたのか。

 三重県立総合博物館の展示パネルに加筆
古事記に出てくる地名は玉倉部清水・当芸野・杖衝坂・尾津の崎・三重の村、そして能褒野だ。
玉倉部は壬申の乱でも出てくる地名のようである、不破の近くか。ヤマトタケルの脚がたぎたぎしくなったところで当芸野(たぎの)というとあり、岐阜県養老町だそうだ。杖衝坂は不明、養老山地のどこかだろうか。尾津の崎は三重県桑名市、江戸時代の東海道は桑名から宮まで七里の渡しがあった。ヤマトタケルの舟を使うつもりだったか。現代の三重郡は三重県の西側だいぶ鈴鹿山地寄りだが、古代はどうだろう。能褒野は亀山市になる。鈴鹿山地への登り口だろうか。
尾津の崎から尾張に向かわず伊賀を通って大和に向かう道筋だろうか。

 

亀山市能褒野王塚古墳はヤマトタケルの墓と宮内庁が管理している古墳だ。あたりにはほかにいくつかの古墳がある。能褒野王塚古墳は4世紀の古墳だが、他の古墳はもっと時代が下るようだ。

ヤマトタケルの墓と称するものは他にもある。白鳥の飛び立ち、また舞い降りたところに白鳥陵と呼ばれる古墳がある。
大阪の河内、奈良の御所、そして名古屋の熱田神宮の近くにもある。神話の中のヒーローの奥つ城を求めても仕方のない所であるが。

能褒野王塚古墳所在地の亀山市歴史博物館にいくつか解説があった。

 


伊勢 斎宮

2022-03-18 | 行った所

高樹のぶ子「業平」は伊勢物語を題材とした小説である。小説であるから作者の想像力と創造力による在原業平一代記であるのだが、これでやっと「伊勢物語」が読めるようになった気がする。「伊勢物語」はそう長いものではないし、120数段あるとはいえ1段ごとは短く、わずか数行というものも少なくない。歌ひとつづつを味わっていけばいいのだろうが、「物語」というとついつい前後のつながり、即ちストーリを求めてしまう。ところが各段のつながりがさっぱりわからず、それなりの長さのある段にしても、そしてどうなったのだ、と思ってしまう。突如また前にかかわりがあったらしい人との歌が出てきたりする。その辺をつなげてくれただけでも「業平」はありがたい小説だった。

「業平」の<夢うつつ>の章は、業平が伊勢へ赴き、斎宮とあう話だ。業平は伊勢道を進んだのだろうか、斎宮の敷地の広さに驚き、大きな門をくぐれば方格地割された土地に整然と白木、檜皮葺の建物が立ち並ぶ光景、清浄な竹の都の佇まい。
これは十分の一サイズで復元された斎宮歴史公園の光景そのものだ。

 復元された伊勢道

 


業平が会った斎宮は恬子内親王、斎宮制度が確立されたとされる事実上の初代斎宮大伯皇女から数えて22代目、文徳天皇の娘である。母は紀名虎の娘で、惟喬親王の同母妹である。文徳帝には惟喬親王と惟仁親王、二人の後継候補がいた。惟仁は藤原良房の娘・明子が母である。紀氏は古代からの名族だが、この時代既に藤原氏に対抗できなかった。平家物語第8巻の「名虎」は後白河院が強引に高倉帝の第4子を帝位に就けるところで長々と挿入されているエピソードだ。

神話の時代はともかく、斎宮制度が確立されたらしい初代斎宮大伯皇女は、天武の娘で母の大田皇女は天智の娘で、鸕野讚良皇女(うのささら:持統)の姉になる。天武の有力な妃だったが、大伯皇女と大津皇子を生んで死んだ。大田皇女の死後、鸕野讚良が天武の妃として大きな影響力を持つ。我が子草壁皇子のライバルとなりそうな皇子たちを殺していくのだが、大津皇子の死に際し大伯皇女が詠んだ痛切な歌がいくつかある。

神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背とや見む

飛鳥浄御原令を定めた天武は律令制の大いなる推進者で、律令制とは中央集権的な法治制度を目指すものだと理解している。それは中国、唐の制度に範をとったもので、もちろん斎宮制度などはない。天皇に代わってつながりのある女性に祭祀を司らせる。最古の権力者のありようはどこでも祭政一致の巫女的な性格を有していたのはずで、巫女的な力を都から隔離する?しかし斎宮がシャーマン的な力を発揮したことはないようだ。斎宮の仕事としては、年に数回、伊勢神宮に極めて形式的なお参りをすることだけ。即物的に見れば何の為かさっぱりわからず、600年も続いたことも信じがたいほどだ。律令と相反する斎宮が何故天武の頃に確立したのか。

歴代斎宮のほとんどに馴染みはないが、恬子内親王と大伯皇女以外に多少の見覚えがあるのは、井上内親王とその娘の酒人内親王だろうか。井上内親王は聖武天皇の娘だが異母妹に藤原光明子の産んだ阿倍内親王(孝謙・称徳)がいる。斎宮から戻って光仁天皇皇后となる。息子も生むのだが、何故か夫を呪ったとして幽閉され殺されている。桓武とその周辺の陰謀とされる。その娘酒人内親王は伊勢から戻った後、桓武妃になっている。母親が謀反人として死んだ皇女を桓武が手元に引き取ったようにも見える。桓武と酒人は異母兄妹である。
この4人を見る限り、どこか時の権力者にとって都合が悪い、扱い辛い内親王を伊勢に追いやっているように見えなくもない。

復元伊勢道の両端近くにいつきのみや歴史体験館と斎宮歴史博物館がある。

 

十分の一サイズで復元された建物群はいつきのみや体験館の近くにある。

 瓦ぶきはなく、茅葺であったか、屋根が二重になっているように見える (いつきのみや体験館)

 群行時には斎宮はこのような輿に乗ったのだろうか(いつきのみや体験館)

体験館には平安時代の遊びも貝覆い・蹴鞠・毬杖など、いくつか展示してあった

 

歴史博物館では写真を撮り損ねてしまっているので、以下の解説はアスニー(京都市生涯学習総合センター)でみたものである

       

 

群行の途中は何泊する。宿泊所の頓宮は土山で見た。あいの土山、東海道の鈴鹿の西の宿に斎宮の道もあった。

 


西ノ京

2022-03-08 | 行った所

平城宮趾は国営平城宮跡歴史公園として、広い宮域に大極殿・南門・朱雀門・庭園址・役所跡なども復元され、遺構館、資料館も充実している。
この広大な土地を調査復元、公園化を可能にしたのは、都が長岡京・平安京と遷都し、あおによしと歌われた奈良の都が荒廃し、田畑と化していたからだ。どう考えても京都の市街地でこれはできない。
平城宮には大極殿が二つある。復元されているものは、第一次大極殿で、平城宮ができた当初の大極殿。その東側に第二次大極殿がある。こちらは基壇や柱列などが復元されているだけだ。聖武天皇は、平城京を捨て、恭仁京・難波京・紫香楽宮と彷徨った挙句、平城京へ戻ってきた。そして建てたのが第二次大極殿ということになる。彷徨っていたといってもペーター・カーメンチントじゃあるまいし、百官引き連れての遷都騒ぎである。第一次大極殿は解体され、使える資材は新しい都へ運ばれている。戻ってきても住むところがないから新しく立てざるを得ないのだ。
難波の宮にも前期難波の宮と後期難波の宮がある。前期は乙巳の変(大化の改新)後、飛鳥からの遷都であったが、しばらくして都はまた飛鳥に戻る。後期難波の宮は聖武の建てたものだ。
加えて、大仏だ、全国に国分寺だときりもない。古来普請道楽で身を誤る人間は多いのだろうが、これ程のものは珍しいだろう。つくづく聖武は暗君だと思う。生育史的には同情できるし、悩み多き人生ではあったろうし、間違ってもうらやましい人生だったはずもないが、それでも大仏開眼を見、鑑真にも会い、極楽浄土を夢見て畳の上?で死ねた幸運があった。

平城京は大極殿(第一次)から真南にある朱雀門から南に延びる朱雀大路の左右に条里を五番目のように広げ、10万人が暮らす大都会だったという。東側には外京もあった。興福寺や東大寺のある部分である。平城京の南端、羅生門跡は大和郡山市の市域になる。
この大きな街が捨てられ、跡形もないと思われていた跡を拾い集め、プランの復元をした人がいる。幕末の藤堂藩士、北浦定政である。彼は騒然たる世相の中、黙々とフィールドワークを続けた。測量し、字名を拾い、「平城宮大内裏跡坪割之図」ができた。彼は国学者たちに近く、荒れ果てた陵墓の整備の機運も高まっていたころではあるらしい。どちらにせよ大変な驚きで、資料館の展示を見た。

朱雀通の西側は右京だが、西の京と呼ばれた。
かつて、奈良へ行くときは近鉄線によく乗った。近鉄奈良駅で降りると直ぐ奈良公園だ。誰もが奈良観光というと思い浮かべる場所だろう。そこから西の京へ行こうと思うと、近鉄線で西大寺まで引き返し、樫原線に乗り換える。
京都の東寺と西寺跡の間は1キロ程度だから歩いてもどうということはないが、東大寺と西大寺の間は、平城宮址を挟み5~6キロはあろうから、歩こうと思ったことはない。近鉄樫原線西ノ京駅で降りると薬師寺が近い。

 もともと観光客が多い所ではあるのだが、復興白鳳伽藍とやらが立ち並ぶと、境内そのものが些かうるさいようなおちつきのなさがあるような。

凍れる音楽が解け出ししゃべりだしたか。


平城宮趾の復元建物と比べるとどうしても安っぽさがある。

これは東塔の軒。平瓦の反りに合わせて軒さきの桁に彫り込みがしてある。

東院堂の説明版に足が止まる。吉備内親王、長屋王の妃だ。長屋王の変で夫と3人の子供らとともに死んだ。藤原氏によるフレームアップで排斥されたという。 
国宝聖観音はこの中だ。

 

薬師寺の北に唐招提寺がある どちらも平城京の条里内にあるのだが、大きな区画が用意されたのだろうか

 南門前の道が街道っぽい。

 門から天平の甍金堂を望む

 これも金堂

 軒瓦に唐招提寺の文字、こちらの建物は新しいのだろう

 境内図

 鑑真の墓


俊乗房重源

2022-03-07 | 行った所

重源は保安2年(1121)の生まれだというから、平家物語の同時代人と言っていいだろうが、平家物語(岩波ワイド文庫版)では出てくる箇所はただ一か所、第11巻「重衡被斬」である。一の谷で捕らえられた重衡は鎌倉へ送られた後、南都衆に渡され、南都焼亡の首謀者として木津川河原で首を斬られる。首は般若寺に晒されたが、胴体は北の方佐の局が引き取り、日野の法界寺で供養する。「昨日まではゆゆしげにおはせしかども、あつき頃なれば、いつしかあらぬさまになり給ひぬ。」となかなかリアルな描写がある。そして「頸をば、大仏のひじり、俊乗房にとかくの給へば、大衆にこうて日野へとぞつかはしける」とあるのだった。

 日野の法界寺

事実かどうかは無論わからない。ただここで、東大寺大仏殿をも焼き払った重衡、再建する重源、その対比は意図的な気もしないではない。

 

国立奈良博物館の仏像館に行ったら重源がいた。重源上人座像、東大寺の秘仏のはずだから、模刻か。しかしこの頃のレプリカは馬鹿にならない、少なくとも私が見るのに何の障りもない。
肖像彫刻として知られた像だが、重源はきっとこんな容貌だったのだと思わざるを得ない。晩年の像なのだろうが、こんな爺さんに睨まれたら怖いだろうな。
重源は3度宋に渡ったという。平安時代末期、日宋貿易が盛んになったころだ。平清盛は盛んに宋から文物を手に入れていた。おそらく定期航路のようなものもあったのだろう。それでも、船乗りでもないものが、外国へ渡るという経験は一般的なものであったはずもない。
そして東大寺再建の勧進が始まった時、齢既に還暦を過ぎていた。余程の知力・体力・気力を持った人だったのだろう。

特に重源を追いかけた訳ではないが、所々で遭遇する。

 般若寺前から 

般若寺で南都の僧兵たちは、平重衡率いる軍勢を迎え撃とうとするが、本気の合戦となればもとより僧兵は武者の敵ではない。南都は焼け落ちることになる。


 東大寺南大門の説明版
南都焼亡で数百人が東大寺で焼け死んだという。仏の加護はなかった。その後、重源により再建された東大寺の伽藍で、残っているこの南大門だけだ。

戦国時代、大和は三好一族・筒井順慶・松永弾正らが相争う。奈良でも市街戦を繰り広げ、大仏殿は大仏もろとも焼け落ちた。ここでも大仏の加護はなかった。その焼亡に南大門は焼け残った。

現在の大仏殿は江戸時代の再再建だ。

 中央の唐破風が東照宮めいてそぐわない感じがする。

 境内図

南大門から入り、中門の手前で右に曲がると手向神社への参道になっていて、鳥居がある。その手までで左の坂を上ると俊乗堂や行基堂がある。重源上人座像は俊乗堂内にある。

 

 

さらに登って行くとお水取りが行われる二月堂などがある。

 二月堂

 三月堂 
三月堂(法華堂)は奇妙な建物だ。奈良時代の建造物なのだが、鎌倉時代に継ぎ足しがあったらしい。

 正面から見るとわからないが、側面からは屋根が不自然に見える。これに重源もかかわったのだろうか。

 

重源は、東大寺大仏殿再建に際し7か所の別院を設け、物資の輸送の便を図ったという。その一つは大阪にあった。古来からの難波の渡辺の津である。

東大寺大仏殿銘の軒丸瓦が出たという展示が、大阪歴史博物館にあった。↓

 

 


滋賀県多賀町 胡宮(このみや)神社は、名神の多賀SAのすぐ近く、高速道路を見下ろす位置にある。その境内というか参道というかの脇に碑があった。東大寺から仏舎利を贈られたというものだ。

敏満寺というのはかなりの力のある寺だったらしいが、元亀3年織田信長の兵火により焼失、再建されなかったとあった。
元亀3年は1572年だ。姉川の合戦は元亀元年だが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡まで、戦火は続いていたのだろう。
敏満寺は今も地名に残っている。
その敏満寺は東大寺再建大勧進重源にだいぶ協力したらしい。それに謝意を表して、重源から敏満寺へ舎利等が贈られたというこらしい。


大和郡山城

2022-03-06 | 行った所

県道9号線(奈良大和郡山斑鳩線)を東から西に走ったら郡山城跡の看板が目に入った。リニア云々の看板も目に入ったが、こっちは全然ぴんと来ない。

近くに図書館などの施設があり駐車場もあったから駐めて、近寄ってみる。看板近くに桜門址の表示のある石垣。


しかし、城内に入るにはどこへ行けばいいのだ。9号線沿いに歩いてみるが、入口が見当たらない。それどころか、堀は半ば以上埋まり、石垣も荒れた感じが強い。

戻って東側を見ると堀の中?を近鉄線のレールが走っている。結局、南側の橋を車で渡って中に入った。かなり大きな城跡だが、今調査中でさらに公園化の工事中のようだ。


大和郡山市は大和盆地のほぼ中央に位置しするが、中心部は西寄りだ。すぐ北に西ノ京、南西に斑鳩とあるので観光的には素通りされる市なのだろう。
ここで近世の城郭址は有力な観光資源とは言えないのだろう。
天守辺りの整備は終わっている。


上ればなかなかの眺望が望める。すぐ西に生駒から続く山並みが迫ってはいるが、城自体は平城だ。平野部に堀と石垣でできている。石垣はなかなか立派にそびえる。

こもりくの大和、周囲の山に守られし平野部。一望できる。 天気がいまいちだったので写真は案内パネル

場内には柳沢神社がある。梅が咲いていた。祭神は柳沢吉保だそうだ。

大和は古来寺社の力の強いところだ。源満仲の次男の頼親は大和国の国司となったが、興福寺と抗争を繰り返した。この頼親の子孫は、平家物語で源頼政が以仁王を焚付けるくだり「源氏揃」で「大和の国には宇野七郎親治が子供・・」と挙がっている。しかし、大和国をまとめることはできなかったようだ。鎌倉時代になっても室町時代になっても、武家政権も大和には守護を置けず、大和を掌握できなかったようだ。
 葛城市歴史博物館の展示パネルから

筒井順慶の筒井氏も元来は興福寺の衆徒で、それが武者化したらしい。筒井家も含めいくつかの豪族勢力と興福寺が互いに争う複雑な情勢の中、三好衆や松永弾正も攻め込み、混沌の合戦が繰り広げられる。果ては東大寺大仏殿が焼け落ちる事態となる。
最終的には織田信長に従った筒井順慶が、大和を統べ、大和郡山城を築くに至る。
順慶が死んだのは36歳だったという。ずいぶん曲者のイメージがあり、食えないじじいだったのかと思っていたが、意外に若死にのようである。


大和郡山城は筒井順慶が縄張りをしたが、その後豊臣秀長が拡張したものが今残る石垣のようである。
更に主を変えていった郡山城だが、最終的な殿様は柳沢氏で柳沢神社があるのはそのためだ。金魚の街だという大和郡山は、藩士の内職・副業として始まったもので、柳沢の殿様は大いに奨励したとのことである。


復元遣唐使船(平城宮址)

2022-02-28 | 行った所

重源は3度宋に渡ったという。ウィキペディアの重源の項には「舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる」とあり重源は周防国徳地から用材を調達し中国に送っている。当時中国では木材資源が枯渇し、日本からの木材は貴重なものであったという。

阿育王寺に日本からモノを送る話は平家物語にもある。第3巻「金渡」である。平家物語では聖人君子扱いの重盛は治承3年(1179)死ぬ。この前後に重盛に関するエピソードがいくつか語られる。「金渡」もその一つである。安元の始めの頃、とある。後白河院と清盛の仲を取り持ってきた建春門院(平滋子)が死んだのは安元2年だ。後白河院と清盛との溝が露わになっていく。安元3年が鹿ケ谷事件だ。安元の大火(太郎焼亡)も起こる。とはいえ安元は3年までしかない。安元の初めはまだ滋子は生きていたのか。
ともあれその頃、重盛は、宋へ向かう船頭に黄金3500両を預ける。500両は礼金1000両は育王山へ2000両は宋王へ献上の上育王山へ寄進と用途を指定する。黄金は無事宋へ届き、みんな感謝して育王山では重盛の後生の祈りが継続される。このエピソードにどれ程の事実の裏付けがあるのか知らない。ただかなりの頻度で日宋間に船便の往復があったことは確かだろう。育王山と呼ばれることも多い阿育王寺は寧波、揚子江河口の南に位置する港湾都市にあり、日本でもよく知られた寺だったのだろう。

隋から唐、大国際国家唐が滅び、戦乱を統一したのが宋なのだけれども、この頃の宋は南宋だ。金に北の領土を奪われ中国統一国家としての面目もない。いわゆる中原を失い、洛陽、長安はなく、開封は皇帝を金に連れ去られた屈辱の街だ。それでも首都臨安(杭州、寧波も近い)は、十分アジアの中心、中華であったろう。
倭は大陸の国家の盛衰をどこまで意識しただろうか。漢・魏・晋・宋(南北朝の)隋・唐、唐はともかく他は新羅か百済かのような問題とは意識されなかったのではないか。その時々で朝貢し、見返りをもらう。邪馬台国は三国時代の魏をどう意識したのか。邪馬台国の所在が大和であろうと九州であろうと、航路は島伝い、朝鮮半島の沿岸を航行しただろう。その航路で自然に行けたのが魏なのか。内陸の蜀は行けない。揚子江の南の呉へ行くためには東シナ海を横断しなければならない。日宋貿易でのメインルートとなる東シナ海は卑弥呼の時代にはありえなかっただろう。少なくとも邪馬台国が使者を送った先は三国鼎立時代の一番有力なところを狙った、ということはなかっただろう。

6世紀末から始まる遣隋使のルートも朝鮮半島の沿岸ルートだったに違いない。このルートが使えなくなるのは百済が衰え、新羅と敵対関係になった以降である。とはいえ情勢は流動的でもあったらしく、表の飛鳥時代の航路は663年(白村江敗戦)後も南路に固定はしていない。それでも奈良時代以降になると渤海経由の一回を除き皆東シナ海ルートの南路を取る。


鑑真が日本に渡ろうとして何度も失敗した話とか、遣唐使船の2隻に1隻は帰ってこなかった等という話(何で知ったのかわからない)が頭にあって、東シナ海ルートはイチかバチかの大博打みたいなものと思っていたが、この説明版によれば、奈良時代の遣唐使船18隻のうち14隻が戻っている。八割近くが勝てる勝負だった、ということになる。鑑真の渡海にしても、渡航そのものが妨害され、そもそも出港できなかったものも失敗に数えられているようだ。東シナ海ルートでこれなら北路の遭難は余程運が悪かった、ということなのだろうか。

日宋貿易の時代ともなれば、羅針盤が実用化され航海はより容易なものとなっていただろう。


遣唐使の陰に隠れてしまっているが、渤海との通行も活発だ。「図説福井県史」https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A12/A121.htm によれば、727年(神亀4)の初来日から919年(延喜19)までに、渤海使の来航が34回、遣渤海使の派遣が13回に及ぶという。

 ルート図によれば、日本から渤海に行くには日本海をなんと北海道付近まで北上し、大陸沿岸を南下する海流に乗って渤海にたどり着く。これに比べれば、渤海から日本へのルートはずっと簡単だ。もちろん両国の政治情勢もあろうが、この難易差が来航、34回、派遣、13回に現れているかもしれない。こちらの航海はどの程度のバクチだったのだろうか。

平城宮址に復元された遣唐使船は全長30メートルとあった。


「北前船」の大きさは、千石船で長さ=約28m、幅=約8m、高さ=約2.5m位だったという(http://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/port/akita/history02.html 秋田港湾事務所HPから)
北前船は基本的に日本の沿岸を航行する船だが、遣唐使船もそれくらいのサイズはあったことになる。ただ帆も違えば全体の構造もかなり違っていただろう。

古墳時代の埴輪の舟は、丸木舟に側舷等を取り付けた準構造船とみられる。

 三重県宝塚古墳出土埴輪

基本的に手漕ぎの舟らしい。しかしこれで少なくとも朝鮮半島との往来ができていたことは間違いない。
準構造船は琵琶湖の北「淡海 丸子舟の館」で見られる。ここには全長17メートルの現物がある。帆走の舟だし、もちろん埴輪の舟とはかなりイメージが違う。しかし、丸木舟に構造材を取り付けるという準構造船の技術は近代まで残っていた。湖とはいえ琵琶湖は大きい。場合によっては荒れるのだ(と言っても海ほどではないと言ってしまえばそれまでなのだが)意外に年代が下っても準構造船は使われていたのではないだろうか。
白村江や初期遣隋使の舟は準構造船ではなかったか。
だいたい構造船ができたところで、海を渡れるとは限らない。鎌倉時代の実朝が陳和卿に造らせたのは大型の構造船だったのだろうが、由比ガ浜に座り込んだまま、海面に浮くこともなく朽ちた。(もっとも政治的な理由で浮かせなかった可能性はある)
平城宮址の復元船は、吉備大臣入唐絵巻を参考にしているらしい。ただし400年も下った時代に描かれたものなのだが、他に資料がないらしい。
以下は復元遣唐使船にあった説明版

  

 

 

 

 

 

 

 

 


鴨稲荷山古墳(高島市)

2022-02-03 | 行った所

滋賀県高島市の安曇川の少し南を鴨川が流れている。鴨川という川は全国に珍しくない。鴨・加茂神社も多い。たいてい古い由緒を誇る。大和の御所市の高鴨神社では全賀茂社の総本宮を称していた。鴨氏は渡来系の氏族ではないかと思われている。

その高島の鴨川の南に鴨稲荷山古墳がある。


封土を失って石棺埋葬部上部を建屋で覆っている。発見は明治時代の道路工事で、それまで古墳があることを知られていなかったために盗掘を免れていたのか、多彩な副葬品が掘り出された。
*建屋の窓からのぞくと石棺が見える

近くには高島歴史民俗資料館があり、関連する展示がある。
*建屋建設前の状況
*復元模型
*説明
 石棺は二上山で採れる凝灰岩で、大和と河内の境から運んできたことになる。

継体天皇を古事記は武烈の項の最後に品太(応神)天皇五世の孫(ヲホト)を近つ淡海から上らせて武烈の姉妹と娶せて継がせたとある。日本書紀はもっと詳しく、ヲホトは近江国高嶋郷三尾野に生まれたが、父彦主人王は早くに死に、母振媛の実家の越前で育ったとある。さらに継体の妃は古事記で7人、書紀で9人を数えるが、その内二人は三尾氏の娘だ。

この鴨稲荷山古墳の主は三尾氏の関係者だろうか。
気になる煌びやかな冠や履、イヤリングなど朝鮮半島とのつながりを感じさせる遺物だが、若狭の古墳からも似たものが出土している。若狭から京都へは鯖街道が知られるが、熊川宿を通じ、この地域は若狭にも近い。


父彦主人王の墓は田中王塚古墳ではないかという。


北が下なので見慣れない地図に見えるが、こっちから見るとまた違って見える。これに琵琶湖内の水運も加わってくるのだろう。


高島市勝野

2022-02-02 | 行った所

近江に近藤重蔵の墓があると知ってかなり驚いた。どういうつながりかわからなかった。
蝦夷地の探検家として知られる重蔵は、晩年を近江高島で過ごした。それも息子の殺人の罪の連座で配流された罪人として。重蔵は御家人の息子だが、目黒に広大な土地を所有するなど裕福だったようだ。そこの管理を任せていた長男が、町人7人を斬り殺すという事件を起こしたのだ。息子は八丈島に流された。相手が凶悪な盗賊団だったというならともかく7人も殺して流罪でよく済んだものだ。江戸時代の連座制では重蔵の近江配流もやむを得ないことだろう。
重蔵は大溝藩の預かりとなる。ただ監視は緩かったようだ。むしろ普段は入らない情報源として珍重したのかもしれない。
*


*重蔵の墓
*墓前の案内板
 墓から琵琶湖が見える

近藤重蔵の墓から湖岸へ向かうと大溝藩の城下となる。道の中央を水路が走る街並みだ。
総門址に案内所がある。
なかなか興味深い展示パネルがある。

 

 

琵琶湖は南北に細長いが、堅田の南の細い尻尾のようなところを除くと、この地はほぼ湖西の真ん中、安曇川が琵琶湖にそそぐ沖積平野らしきものが湖岸にせり出しているように見える。それだけに交通の要衝となってきた。

 大溝城は信長の甥の城で縄張りしたのは明智光秀で水城だとか、琵琶湖をめぐる城ネットワークの一角とか

それより興味は古代の方に行く。

 

 乙女が池 
「勝野の鬼江」というのは武者にとっては縁起のいい名のような気がするが、乙女が池とはまた思い切って可愛い名にしたものだ。鬼江産パールよりは乙女が池パールの方が売りやすかったのだろうが、あまり恣意的な地名変更はどうだろうか。
*池の南の山が三尾山
*仲麻呂の乱(ウイキペディアから)
*壬申の乱(岐阜市歴史博物館特別展「壬申の乱」図録から)
 三尾山を挟み、向こう側に白髭神社がある。
*湖の中に立つ大鳥居
*石段をあがったところに紫式部の歌碑がある。
「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」

 
長徳2年(996年)式部は父為時の越前国士赴任に同行し越前へ向かう。逢坂山を越え、大津から船に乗り高島の勝野で一泊、また船に乗り塩津に渡り、深坂越えで敦賀に至る。木の芽峠越えで越前国府(越前市府中付近?)に着いたはずである。

三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」 
この歌は京都を出て一泊目のことなのに早くも都恋しいと言い出している。三上山も伊吹山も見えたはずだが、興味なかったか。鄙(田舎:地方)を低く見るのは平安京の貴族の通念だろうが、一年余りの越前滞在中の歌も、何を見ても京が恋しい、といったものである。事実我慢できなくなったのか、父をおいて式部のみが京へ帰っている。
歌碑は境内から数メートル上がっただけだが、琵琶湖がよく見える。三尾山まで上がったらさぞよく見渡せるだろう。湖東の山本山からの琵琶湖もよく見えたが、葛籠尾崎の陰になり、海津・マキノは見えなかった。全湖を見渡すにはこちらの方が優れているようだ。合戦で取り合いになる場所だろう。


愛発 (敦賀市疋田)

2022-01-31 | 行った所

不破・鈴鹿・愛発の関を古代三関(さんげん)と呼ぶ。壬申の乱(672年)で大海人皇子が不破道を塞ぎ、大友皇子近江朝廷側が東国に出られないようにした場所が不破の関になったという。三関は8世紀には機能していたが、平安時代に入ると実効性を失い、形式だけのものとなる。特に愛発関は早く廃絶し、三関も不破・鈴鹿・逢坂山を指すことも多くなる。
愛発関の場所も諸説ある。
 高島歴史博物館展示パネルの一部。
敦賀市公文名に芋粥発祥の地の看板を掲げる天満宮がある。

道真と共に、利仁将軍こと藤原利仁を祀っている。芥川龍之介の「芋粥」の主人公で元の話は「今昔物語」で敦賀の豪族の婿になっていた利仁が京都でのさえない五位の上司を敦賀に連れて行き大御馳走をする話だ。
この天満宮の付近が利仁が婿に入った敦賀の豪族藤原有仁の館跡らしい。神社の宮司さんが出てきていろいろ説明してくださったのだが、彼に言わせると利仁たちはマキノからまっすぐ北上する道を通って、敦賀に出たそうだ。愛発の関もあったという。高島の史料館の地図の真ん中の愛発関?に当たるのだろう。確かに公文名あたりに出るには最短距離ではある。近くを黒河川がほぼ南北に走り、川沿いの道があったのかもしれないが、地図をにらむ限り現在車で通れる道はありそうにない。松原駅が公文名あたりに比定されれば有力な候補地かもしれないが、今のところ松原駅・松原客院の場所はわかっていない。
西側の愛発関?の場所は若狭道で北陸道の関とは思えない。
結局東側の愛発関?が最有力だ。なんといっても地名に「愛発」を残すこと、現在に至る交通の要衝であることは大きい。また琵琶湖の水運によって塩津に至れば、自然、道は、塩津-深坂-愛発-敦賀になるであろう。


敦賀から国道8号線を南下していく。161号と重複しているようだが、疋田で8号線は東へ、木ノ本へ向かう。161号は南に、湖西道路へと道は分かれる。その付近に愛発の案内板があった。だいぶ傷んでいて見難いがだいたいのところはわかる。
*案内板
*案内板の前から東方向 手前の道が161号線、左奥が8号線になる。
愛発関がもっともその機能を発揮したのは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)でだろう。天平宝字8年(764年)のことである。孝謙天皇とその母光明子の信頼を得て台頭した仲麻呂だが、光明子の死、道鏡の登場により権力に陰りが出る。兵を集め軍事力で政権掌握を図る。反乱当初は太政官印も持ち、優勢とみられていたが逆転され殺される。
 ウィキベディアから
奈良から宇治を経て近江国衙に入り、東国・北陸の兵も集めるつもりが、瀬田橋を落とされ、国衙に入れなくなる。越前に息子がいたので合流しようとするが、孝謙側は先んじて越前に兵を送り、息子を殺し、愛発の関を固める。北陸に向かった仲麻呂は関を突破できずに、湖西に戻り、三尾山に陣を敷くが、敗れ殺された。斬られたところを勝野の鬼江という。
  勝野の鬼江(現在乙女が池という池になっている)、後ろが三尾山で壬申の乱でも戦場となっている。

愛発のイラストの案内板の後ろが愛発の集落となる。
*宿場らしい雰囲気がある。水路が舟川

愛発舟川の里展示室がある。
敦賀湾の最南端から琵琶湖の塩津の最北端まで、20キロ弱しかない。しかも両側ともほぼ南北に流れる川がある。

この川と川をつないだら船で大量輸送が可能になる。確かにそうなのだが、実現は実に困難なものであったというほかない。

愛発(あらち)」は荒地・荒路であろう。川と言っても渓流のようなもの、しかも間の山は険しい。

 年表の最初は平安時代1666年ごろとあり、清盛が息子重盛に運が開削を命じたが困難で中止したとある。ここで清盛に会うとは思ってもいなかった。さすがに兵庫の港湾のようにはいかなかったようだ。大谷刑部や河村瑞賢も考えたという。物資の集積地敦賀の荷を一気に琵琶湖を通して大津まで、確かに魅力的に見えただろう。しかし瑞賢は運河開削の困難を見て取ると西回り航路の開拓の方へ動く。航路は長いが、日本海側の荷物を一気に大阪まで運べる。これでは太刀打ちできない。江戸時代を通して何度か運河開削の願いでがあったが、反対も多く立ち消えになっていく。反対は馬借などの陸運業社だったのだろう。


それでも幕末になってようやく異国船来襲に備える京都への糧道確保のためとオカミは腰を上げた。当時疋田の辺りは小浜藩で所管で奉行は小浜藩三浦勘解由左衛門がなり、敦賀から疋田への舟川が整備された。
 資料館に加賀藩の高低差を示す測量図があった。何故加賀藩かというと湖北に飛び地を持っていた関係らしい。なかなかの高低差である。右は敦賀で左が塩津。県境の深坂峠で急激に高度が挙がっているのがわかる。それに琵琶湖面と敦賀湾の海面にもかなりの落差がある。二十八丈七尺四寸だろうか、80メートルを超える水面差を克服するには堰がいくつ要るのだろう。当然計画されてはいたと思われるが、この運河が琵琶湖側へ抜けることはなかった。
集落を流れる舟川の流れは驚くほど速い。

明治になると鉄道の時代がやってくる。長浜-敦賀間が開通したのは1882年(明治15年)のことだというから早い方だろう。柳ケ瀬トンネルが難工事で当初は徒歩の区間があったという。敦賀から船でロシア経由ヨーロッパまでの国際線があったという。福井までの延伸も難工事を極め、スイッチバックという手法で山を登る線だった。北陸トンネルができて廃線になったが、今庄から敦賀にかけて鉄道遺跡が随所にある。
疋田付近には現役の勾配緩和施設がある。鳩原ループだ。これは1964年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が走った年だ。
勾配の大きな土地で、線路をループ状に一周させて線路を敷き、勾配緩和をしているのである。


ゆりかもめは 芝浦ふ頭を出て、レインボーブリッジを経てお台場に向かうが、ブリッジに乗る直前ぐるりとループを回る。これを経験している人は多いだろう。ゆりかもめは窓から外を見れば、線路がループしているのが見える。北陸線ではうっかりしているとよくわからないが、車内で車掌さんが案内してくれることもあった。今はどうだろう。

 


街道に沿って 福井城下から鯖江まで

2022-01-30 | 行った所

九十九橋を南へ足羽川を渡る。

 まっすぐ行ってすぐの久保町の信号で左手に橘曙覧生家跡の碑がある。

 そこを東に向かう。次の信号は左内だ。もちろん橋本左内から採った町名だ。近くに左内公園があって左内の像と墓がある。右に行けばすぐ愛宕坂、足羽山に登り口だ。道なりに足羽山の東を進む。二つ目の信号を左へ曲がる。ほどなくフェニックス通と合流する。福鉄の電車が走る通りだが、次の新木田の交差点で電車は左にそれていく。幅を狭めたフェニックス通を南下していく。100メートルほどで木田の一里塚がある。と言っても何ほどかの空き地に案内板があるだけだが、奥は世直し神社とある。

*松本荒町の一里塚がどこかわからない。中荒井の一里塚まで36町は普通で松本までの24町は少し間隔が近いようだ。

木田銀座が見えてくる。

 松岡屋さんという呉服屋くらいからフェニックス通から分かれた道に入るが、間もなくまた合流する。その後またY 字に分かれる道を右へ入る。そのまま道なりに狐川を渡り、しばらく行くとショッピングタウンベルに突き当たる。仕方がないのでベルの裏を進む。
江端川を渡る。玉江橋という橋だ。


道のカーブがなんとなく旧街道っぽい。下荒井から中荒井の集落を抜けようかというところに一里塚があった。


田んぼが広がってくるが、この道とほぼ平行に走っているフェニックス通はこの辺りは車のディーラーが軒を並べているはずだ。

 麻生津まで来た。ここは宿場だ。
 本陣跡
 朝むつ川に架かる朝むつ橋

 芭蕉と西行の碑

そのまま街道らしさのないでもない道を南下。やがて上江尻町でフェニックス通に出る。フェニックス通はここで西循環線と分かれ、つつじ通りと名前を変え鯖江を南下る。

 旧北陸道はフェニックスから斜めに東へ入る道になる。

 間もなく浅水川で、橋に北国街道の表示がある。
  鳥羽橋から南方向に続く道。

11キロ少々で右手に兜山古墳が現れる。直径70メートルの大きな円墳だ。てっぺんに神社があり、埋葬施設などは調査されていないが5世紀頃と比定されている。

兜山の南数百メートルに小高いところがあり森のようになっている。神社がある。北陸道はその脇を通るが、そこに案内板がある。

 少し変わったアジサイが咲いていた。


鯖江藩の中心はここから3キロ程南の旭町で陣屋跡がある