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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

越前北の庄(福井市)

2022-01-22 | 行った所

柴田神社は北の庄城址にある。

 祭神は柴田勝家。

 如何にも武人の勝家像がある。ここは勝家が作った城の跡だ。

 遺構が少しと資料館もある。

  
勝家は出自は定かならぬといいながら織田家の家臣で、信長の父信秀に仕えていた。信長と弟信行の家督争いには、始め信行に与し、後に信長方に転じている。自分に逆らうものに容赦なかった信長だが、勝家を見込んだところがあったのか重用している。羽柴秀吉との比較から武辺一辺倒の荒武者で、頭が固い愚か者扱いされるきらいがあるが、城下町を作り、街道の整備にも意を用いている。突き抜けた異才であった信長のすることにもよくついて行っているし、秀吉よりは20歳近くも年長であったらしい勝家は同世代の武将たちの中ではむしろ柔軟な面もあったのではないか。

北の庄と言われ後に福井県の県都となる福井市だが、この北の庄の辺りがどんなものであったかよくわからない。

南北朝時代、越前を舞台に南朝の新田義貞、北朝の斯波高経が激しい戦いを繰り広げた。新田勢の拠点として、九頭竜川の北に石丸城があったことが知られる。義貞弟の脇屋義助の居館だったという。当然斯波方の拠点もいくつかあっただろう。太平記は7つを数えるが、場所は確定されていない。北の庄付近にも何か無かったろうか。新田義貞は灯明寺縄手で死んだ。灯明寺町というのは九頭竜川と足羽川の間だが、九頭竜川の方にうんと近い。江戸時代に義貞の兜が発見されたところとして「新田塚」もあるが、もとよりそれが義貞の兜であった可能性は低い。縄手というからには辺りは深田が広がり、馬を駆けさせられる場所は限られていただろう。

九頭竜川のもっと河口に近いところに黒丸城というのがあった。ここは斯波のものだったらしく、後に朝倉氏も支城として使った。一向一揆をにらみ、三国湊に上がる物資を九頭竜川・足羽川の水運での運搬にも関与しただろう。北の庄は古来からの北陸道が北へ向かって走り、足羽川とクロスする。水運の中継所、津のようなものかあったかもしれない。何か砦のようなものでもあったのか。


越前の戦国大名朝倉氏の本拠は一乗谷だ。
柴田神社の数百メートル南を足羽川が流れている。概ね東南から西北に向かって流れるこの川に沿うように国道158号線が走る。別名美濃街道。福井県大野市を経て、岐阜県郡上市白鳥へ出るルートだ。近年中部縦貫道として整備されつつあるが、大野までの道は永平寺町・勝山市を回り、従来の美濃街道とは外れる。
足羽川の支流の一つが一乗谷川だ。図でもわかるように細い谷間の里だ。普段住まう館は谷に、城砦はその裏に控える山にあった。このような形は珍しくない。浅井家の小谷城などは同じような立地で、谷は小谷というだけに一乗谷より狭い。
一乗谷に館を構え、家臣団を住まわせたのは、朝倉孝景(英林、敏景とも)、朝倉家最後の当主となった義景よりも5代も遡る。孝景は、斯波家の守護代に過ぎなかったが、応仁の乱で武名を上げ、越前を平定し、戦国大名への道を切り開いた。孝景が制定したという「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)は分国法の内もっともはやい例に数えられる。朝倉家の不幸は孝景以上の人物が出なかったことだ。比肩するのは孝景末子宗滴教景で、分国法は宗滴教景の制定だという人もいるが、彼は当主にならなかった。義景が家督を継いだのは宗滴晩年のことだ。
一乗谷は織田信長軍の侵攻により灰燼に帰し、朝倉家は滅ぶ。
その灰燼の後、町として顧みられることはなく、田畑に帰す。それが遺跡として残った理由の一つだ。町として上書きされ、近代以降の建物が建ってしまえば、遺構の調査さえ難しくなる。今一乗谷は朝倉氏遺跡として、当時の城下町の様相が明らかになってきている。御館様が住み、家臣団が居を構えれば、商工業者も住み着く。その街並みが復元されてある。

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 特設サイト (fukuisan.jp)

北の庄の立地はそれとはまったく異なるものだ。平地に石垣と天守をそびえさせた近世の城だ。足羽川も堀として利用したものだろう。北の庄の城下には勝家の家臣団が住んだのはもちろん、寺や商人が移住を即し、楽市が開かれた。信長の真似、といえばそれまでだが、誰にでもできたことでもないだろう。ルイス・フロイスは北の庄に二度訪れ、城下が安土城下よりも倍も広いと書いている。


北の庄城址にあった城の復元図は五層の天守だが、九層だったという話もあるようだ。

 
この天守で天正13年(1583)春、賤ケ岳の戦いに敗れた勝家がお市の方と共に火を放ち、自害する。ただ城下町が灰燼に帰したわけではなさそうだ。


勝家の城下町北の庄復元図と、結城秀康の北の庄入り以来松平が城主であった城下町福井の図の基本構造はほとんど変わらないようだ。
南から足羽川を九十九橋(大橋)で渡って城下に入る。商業地の呉服町を北進し、右に曲がり、武家が多いところをジグザグに東進、松本に至って北へ曲がる北陸道がメインストリートだ。

九十九橋(大橋)は半石半木の奇橋として知られる。

  これは勝家が作ったものとされる。それ以前に橋はあったようだが。半木なのはいざ敵に攻められた時、木の部分を落として敵を渡らせないようにするため、と聞いたことはあるものの、勝家が賤ケ岳から逃げ帰ったとき、落としたとは聞かないから多分違うのだろう。

 九十九橋の橋脚


城下を抜けて北陸道を北進すると、九頭竜川に行き当たる。

 この川にかかる橋は舟橋だ。これも作ったのは勝家とされる。舟橋の船をつないだ鎖は、刀狩で取り上げた刀を鋳なおしたものだという。

 


朝倉を滅ぼし、勝家の越前支配がすんなりと始まったわけではない。
信長は朝倉旧臣で信長方についた前波吉継を越前守護代にするが、他の朝倉旧臣が前波を嫌い、一向宗と共に一揆を始める。前波は一揆に殺される。
信長の宗教戦争は苛烈だ。比叡山の焼き討ち、伊勢長島・大阪の石山での合戦は有名だが、越前の一揆退治も凄惨を極めた。
武生市五分市で発掘された文字瓦はその一端を伝える。
この瓦では前田利家の所業となっている。前田利家は不破光治・佐々成政とともに一揆平定の褒美として府中三人衆となっている。不破や佐々、おそらく柴田も同じようなことをしていたのだろう。またしなければ信長に殺される。

 ▲天正年間の府中付近の一揆を示す文字瓦
        文字瓦には、5月24日に一揆がおこり、信長
        配下の前田利家が一揆勢を約1000人生捕り
        にし、はりつけや釜あぶりに処したことが刻ま
        れている。  武生市 味真野史跡保存会所蔵 図説 福井県史より https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B22/B222.htm

府中は現越前市になる。北の庄城跡からは20キロ近く南になる。律令時代国府が置かれたのはここだ。木曽義仲が倶利伽羅・篠原の合戦に勝ち、北陸路を南進する時、ここで覚明が延暦寺に牒状を書き送っている。「木曽、越前の国府について、家の子・郎党召し集めて評定す。」(平家物語第7巻「木曽山門牒状」)
越前国府は碑はあるものの遺構は確認されておらず、場所は確定されてはいないが、越前市府中近辺とみられる。府中は中世以降も一貫して都市であり、現府中には市役所もある。朝倉遺跡のように広範囲な発掘は望めない。

 府中から南下し、畿内や尾張に出るには、三つのルートがあるが、いずれも冬季に軍隊を進軍させるのは困難な積雪地帯の峠越えだ。

 この内栃木峠越えは勝家が開いたルートだという。信長が居た安土に少しでも早く駆け付けられるように道を整備したのだという。木の芽峠越えで一旦敦賀に出るのまどろっこしく感じたのだろうか。
ちなみに山中峠が一番古く、大伴家持が通ったルート、木の芽峠は平安時代初め頃開かれ、父の赴任先越前府中に同道した紫式部も通ったという。義仲も通ったのだろう。


尾張あちこち(桶狭間の頃)

2022-01-19 | 行った所

桶狭間とは文字通り狭い窪地のようなところかと思っていたが、どうやら違うらしい。今川義元が陣取っていたのは桶狭間山という小高いところだったという。確かに敗れはしたが、東海一の弓取りと言われた武将が、狭い窪地に陣を敷くはずもない。名古屋市緑区に桶狭間という地名があり、桶狭間公園というのも行ったことはあるが、実際には、公園から西南に名古屋と隣接する豊明市の栄町一帯が桶狭間と言われたところらしい。豊明に前後という地名があるが、桶狭間の戦いで、獲った首を前後に並べたところ、という伝承があるそうだ。
名古屋と豊明の間はほぼ一体化した住宅地で、元の地形はよくわからないが、アップダウンのある丘陵地のようである。

今川義元は駿府を出立し、桶狭間の戦い前夜は沓掛城にいた。

 豊明市内の桜の名所、なかなか良いところである。

沓掛城から桶狭間までは4~5キロ程だろうか。軍隊の行程としては短すぎる気がするが、激しい雨に早い休憩となったのか。

一方の信長は清州城にある。

 平成になってから作られた清州城模擬天守

清州から桶狭間は20キロほどあるだろうか。信長は中間地点となる熱田神宮で戦勝祈願をしている。

戦いに先立ち義元は尾張の城をいくつか落とし、今川方の武将を入れた。織田方はその周りに砦を築き対抗する。大高城は後に徳川家康と名乗る松平元康が、兵糧を入れ、自らも入って守っていた城だ。

大高城址と丸根砦に行ってみた。


どちらも住宅地に囲まれている。

 丸根砦は特別保全地区になっていて、大高城との関係がわかる説明版があった。お互いを警戒しつつ対峙していたのだろう。

 

近くに鷲津砦もあったはずだがよくわからなかった。
大高城は一部公園になっている。

  大高城址

鳴海城も公園になっていた。


大津あちこち

2022-01-17 | 行った所

大津歴史博物館

 エントランス前の琵琶へ向かう眺望がいい。

大津京や京へ向かう街道、琵琶湖の水運など興味深い展示が多いが、ロビーにこんなものもある。

 

福井県敦賀市もまた1945年の7月から8月にかけ何度かの空襲を受け、大きな被害を出した。その中の1回は原爆の投下実験だったという。これだったのだろう。敦賀でも東洋紡績の工場が狙われている。地方都市の工場がターゲットだったのだろうか。武器弾薬の類を作る工場ではなかったはずだが。

屋外展示の車輪石と穴太遺跡のオンドル。

 

 
朝鮮系の遺跡と知られている。非常に合理的なものだろうと思うのだが、日本で普及しなかったのは何故だろう。
穴太の石積みは技術集団として戦国時代終わりごろには城の石垣づくりに知られるが、渡来系のものだったのか。

渡来人歴史館

展示は人類史から始まる壮大さである。日韓(日朝)関係のみならず世界史的に見ていこうという意図だろう。古代中世の日本の歴史には東アジア情勢が不可欠に絡まるのに、知らなすぎることが多い。参考になり、かつ面白かった。ソウルが城砦をめぐらした中にある都市だと実は初めて知った。
近現代史は「加害者」側として辛いものがある。
知ろうとしない、学ぼうとしない怠惰な者たちのみが、空疎なヘイトを口に出して平気だ。


矢橋帰帆

近江八景は中国の瀟湘八景をそのまま無理やり当てはめたもののようで、道理でなかなかぴんと来ず、覚えられないのも道理というものだ。
石山秋月・勢田夕照・粟津晴嵐・矢橋帰帆・三井晩鐘・唐崎夜雨・堅田落雁・比良暮雪

 http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/oumi8K/oumi8kei.html から画像拝借

矢橋(やばせ)は近江大橋を東岸へ渡り、北へ行くと直ぐだ。湖岸からわずかに離れ島のようになっている。琵琶化東岸には安土の西湖(にしのうみ)のような内湖がたくさんあったというが、その名残の一つだろうか。

 矢橋から見た比良

大津歴史博物館の敷地は南で三井寺と接している。

 長柄公園入口の案内板より
三井寺の南に長柄神社があり、その脇から小関越えの道がある。旧東海道の逢坂越えはもう少し南から行く。

 案内板の地図は北が下になる。
札ノ辻とはいえ、何もそれらしい物はない大通りの交差点だった。

 とはいえ東行きが東海道、まっすぐ奥の道を行けば東海道を東に下る。京へ行くには写真の右手へ、南に登って行き、逢坂山を越えるのだ。

 西行きが西近江路とも呼ばれた北國街道となる。

  近くには蓮如道、蓮如の御座所だったところや代官所跡があった。

札ノ辻を北へ下ると琵琶湖に出る。

 浜大津の大きな地下駐車場だが、大津城のあったところらしい。


 札ノ辻から東への東海道は細い道が通っているが、途中で分からなくなった。

石坐神社前の東海道表示

 

粟津晴嵐から採ったであろう晴嵐町、粟津の戦いは義仲最後の戦いだ。

 近くに今井兼平の墓もある。

瀬田唐橋を渡る

 唐橋からの比良

唐橋を渡って、旧東海道は1号線に吸収されたか、またわからなくなり、一里山の山の神遺跡へ行く途中で見た標識を探す。

道なりにこれだろうという道を進むと弁天池だ。

 

野路に入る。大津を出て草津市になったらしい。


「雲雀揚がれる野路の里」平家物語の「海道下」の野路はのどかな田園の里だが、全くの住宅地の道だ。

南草津駅の南付近でまた1号線と一緒になったようだ。


大津の御霊神社

2022-01-15 | 行った所

京都で御霊神社と言ったらその祭神の筆頭は決まっている。井上内親王(大皇后)か早良親王(崇道天皇)
井上皇后は桓武帝の父光仁帝の皇后だ。聖武の娘で孝謙(称徳)の異母姉、伊勢斎宮を経て、白壁王に嫁す。白壁は長く皇統から離れていた天智系の皇子で天智の孫にあたる。既にかなりの年配で成年に達していた息子たちもいた。井上内親王は皇后に立てられ、息子他戸親王は皇太子だ。ところがある日、この親子は夫である光仁帝を呪詛したとしてとらえられ、五條(奈良県)に幽閉され殺される。
早良親王は桓武の同母弟、桓武即位後皇太弟になるが、長岡京遷都の責任者藤原種継暗殺に加担していたとして捕らえられるが、抗議の断食自殺をする。
疫病が流行したりすると、彼ら恨みを飲んで死んだであろう者の祟りを恐れ、御霊と敬い鎮まることを祈る。御霊と祀ること自体自分の後ろめたさを吐露することではないかと思われる。

大津の御霊神社は弘文天皇(大友皇子)を祭る。

しかしながら一方的に無実の罪を着せられ、殺された者たちに比べると、壬申の乱で敗れ死んだ大友皇子は、少なくとも二つに割れた勢力がぶつかり戦って敗れたのであるから、不運は嘆くとも祟るだろうか。殺した側もそこまで恐れるだろうか。

 近江国庁址北側にあった御霊神社

 大津市鳥居川町(瀬田唐橋西)にあった御霊神社

鳥居川町御霊神社の少し北側にも御霊神社があった。いずれも初詣や七五三も普通に行われるようで、少なくとも現在、御霊という意味は薄いようだ。

 こちらは石坐神社

てっきりイワクラ神社と読むのだと思った。イワイ神社だそうだ。
祭神は、天智・大友・伊賀宅子媛である。伊賀宅子媛は大友の母だが、伊賀の豪族の娘らしく「卑母」と言われる。
天智・天武の兄弟の母、宝皇女(皇極・斉明天皇)とは比ぶべくもないというわけであったか。

大津市の坂本の北に木の岡本古墳というものがあり、伊賀宅子媛の墓だという伝承があるそうである。

 丘陵地で高級住宅街の様相なのだが、丘陵全体古墳群かと思われる。一部が下坂本陵墓参考地として宮内庁の管理だ。

  近くのあちこちに参考地の飛び地もある。

古墳の時代も合うとは思えないし、なぜここに伊賀宅子媛の伝承があるのかわからない。


大津京と福原京

2022-01-14 | 行った所

大津京と福原京は時代も背景もまるで違う遷都だけれども、意外に似ているのではないかと思うのはこの歌だ。

「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの 御代ゆ 生れましし 神のことごと 
 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 
 あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 
 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 
 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 
 ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも」

「ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の舟 待ちかねつ」 
「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
 
柿本人麻呂の長歌はともかく、反歌二つを知る人は多いだろう。

「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」

平忠度が都落ちの際、師の俊成に託した歌の一つだが、明らかに人麻呂の反歌を本歌としている。そして彼らは長歌の方もよく知っていて、代々の大君が都としていた素晴らしい大和を捨てて近江に都を移した天智天皇の大津京が5年で荒れ果てたことを嘆くこの歌に、桓武帝以来400年の都だった平安京を捨て、清盛が遷都した福原を重ね合わせていたのではないか。忠度は単に人麻呂の歌言葉をまねただけではないのだろう。

平家物語第5巻「都遷(みやこうつり)」治承4年(1180)6月、遷都がうわさされてはいても、まさかあるまい、と思っていた都人の期待を裏切り、あわただしく遷都が実行される。「都うつりは是先従なきにあらず」と神武東遷以来の歴代の宮の変遷を長々と語っているのだが、不思議なことに聖武帝の難波だ、紫香楽だ、恭仁だと移り歩いたことは書かれない。元明から光仁まで奈良の都とあるばかりだ。そして長岡京を経て平安京に移ったことが書かれ、この地がほめ上げられる。桓武帝は平家の先祖に当たるのだから特に尊重すべきと、帝でも移されぬ都を移す清盛を非難する。
短歌が二首あがっている。
「ももとせを 四かへりまでに過ぎきしに おたぎのさとの あれやはてなん」
「咲きいづる花の都をふりすてて 風ふく原のすゑぞあやふき」
特に二首目は政道批判の落書きの狂歌のようだ。

福原京はさすがの清盛も周囲の反対と相次ぐ反平家の挙兵の相次ぐ中、京へ都を戻す。新都福原は半年余りの都であった。そして翌年、新院高倉が若干19歳で死去し、続いて清盛も急死する。

大津京・近江京・志賀の都、どの名称が正式のものか知らない。
天智天皇による遷都は唐・新羅と戦った白村江の敗戦を受け、断行されたという。瀬戸内海沿いには屋島城(やしまのき)・鬼ノ城などの防衛施設を作り、唐・新羅の襲来に備えた。こちらも海を越えて戦ったのだ、向こうも簡単にやってこれるだろう、本土決戦の決意と恐怖があったのか。大和飛鳥は難波などより防衛には有利だが、逃げ場はむずかしい。その点、大津は琵琶湖がある。「大宮人の舟 待ちかねつ」だの志賀の大わだの淀みに昔の人に会いたいというのも、案外優雅な舟遊びというより水軍への退避訓練のようなものだったかもしれない。対外防備のためと、律令制への理解がない豪族の力が強い大和からの脱出も遷都の動機だ。この地で近江令や庚午年籍など律令制の基礎が作られる。
天智は死んで息子大友と弟大海との間で争いがおこる。壬申の乱だ。大友は敗れ、大津京は廃棄される。

京阪石山坂本線の近江神宮駅西側から近江神宮に突き当たる近くまで、錦織遺跡として、何か所か発掘調査がされ、大津京の内裏のありようが明らかにされている。

  

  

大津市のこの錦織近辺は意外に平地が少ない。

  大津歴史博物館の展示パネルと模型

北へ向かって上りになるし、東に向けてはもっと急角度で上がる傾斜地だ。地図で見ると余裕ありげだが、少し歩いてみるとはっきり傾斜がわかる。これでは内裏を作るので精いっぱいで、左右に条坊を作る余裕はなかったのではないか。もっとも最初の条坊制の都城は藤原京だから、なくてもよかったのか。
福原では新都の事始めとして公卿たちが集まり議論するが、場所が狭いと地割も決まらず、泥縄ぶりを露呈している。大津京は5年間は都として機能していたのだから、福原ほどの混乱ではなかったのだろうが。

 

 

点在する錦織遺跡発掘地点を南から北へたどるようにすると、北端にシンボル緑地がある。

 

その先は近江神宮だ。 

天智天皇は漏刻(水時計)を作り、時計と縁があるとかで、境内に日時計や火時計がある。でも漏刻は飛鳥だったと思う。

 近江神宮の北西に宇佐八幡があった。戦国時代宇佐山城があったそうだ。


山の神遺跡・源内峠遺跡(瀬田東丘陵生産遺跡)

2022-01-14 | 行った所

山の神遺跡は近江国庁址から東北へ1.5キロほど行ったところにある窯業遺跡である。また近江国庁址から南東2キロのところには製鉄遺跡である源内峠遺跡がある。

 どちらも、国府・国分寺・大津京に関係する遺跡と考えられている。


 瀬田東丘陵生産遺跡と称するが、少なくとも山の神遺跡の方は宅地化され造成が進み、高架道路が造られているので、元の地形はわからない。わずかに少し小高くなったところの斜面に窯が作られているのかと思うばかりである。

 

 大きな鴟尾が4基出たという

 須恵器

源内峠遺跡は滋賀県立びわこ文化公園の中になり、丘陵地であることは実感できる。びわこ文化公園は図書館・美術館・埋文センター・日本庭園・子供広場・ビオトープなどが広大な林間に散在する広さ40数ヘクタールという大規模な公園だ。ただ琵琶湖は見えなかった。

 文化公園内の日本庭園「夕照の庭」 瀬田の夕照からか。

源内峠遺跡はこの南の端にある。すぐ龍谷大学の敷地に隣接するようだ。

 復元製鉄炉が3基

 

 

 

 休憩場になっているが炉の復元や製鉄実験のパネルが掲げてある

 

製鉄址は山の神遺跡北方、草津の黒土遺跡もある。
窯業にせよ、製鉄にせよ、膨大な燃料がいる。すべて木材だ。この丘陵はその薪の供給源でもあったのだろう。畿内最大の須恵器生産地であった泉州の須恵村古窯跡群が衰退したのも森林資源の枯渇だという。切りまくり、燃やしまくったのだ。

源内峠遺跡の復元窯に置いてあったのはマキノの鉄鉱石だった。マキノは湖西側の湖北だ。原材料をマキノから運んだのだったら、それは必ず琵琶湖の水運によったであろう。


近江国庁跡(大津市)

2022-01-13 | 行った所

近江国府跡は瀬田川の東岸、瀬田の唐橋を渡ってほぼ1キロ程度の位置にある。低い丘陵の上にあり、周りは住宅地でなかなかアクセスしにくい場所である。唐橋と国府址の間に建部神社がある。国分寺址は唐橋の西側だが、小学校の敷地内のようで入れなかった。

日本で一番初めに調査復元がされた国府址だそうだ。

この丘全体が国府だったのだろう。


ウィキペディアによれば「各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ」とのこと。

  築地、基壇 建物等が一部復元されている。

 出土の瓦(大津歴史博物館展示)

国庁址から東北へ1.5キロほど行ったところに山の神遺跡がある。巨大な鴟尾(しび)などを焼いていた窯業遺跡である。また南東2キロのところには製鉄遺跡である源内峠遺跡がある。どちらも、国府・国分寺・大津京に関係する遺跡と考えられている。

国庁跡の北に接し、御霊神社があった。祭神は弘文天応(大友皇子)だった。


東山道(中山道 武佐~守山)

2022-01-12 | 行った所

 大津歴史博物館の展示パネルから

壬申の乱における大海人皇子(天武)軍の進軍路は、吉野をでて伊賀伊勢を通り美濃に入る。不破の関を突破し、息長横河、鳥籠山、犬上浜と戦いを勝利し、近江を西南方向へと概ね東山道(中山道)を通って行き、更に安河浜、栗太、瀬田と近江朝廷軍を蹴散らしていく。

近江八幡と市辺の間くらいに武佐がある。旧街道は国道8号線と付かず離れず並行に走る。武佐の宿の入口のようなところにはそれなりの看板があったのだが、あまり宿場の雰囲気はない。歩けば街道の面影も探せたかもしれないが、そのまま行き過ぎる。8号線に合流してはまた別れ、と進んだが、旧街道は日野川でいったん途切れる。

渡し場があったのであって橋がないからだ。堤防の上に案内板があった。

 
木が生い茂り枯れ草がぼうぼうの河川敷で川が見えない。100メートルほど右手に草木の途切れるところがあり、河川敷へ降りれる小道もある。石碑のようなものも見えたので、てっきり渡し場の碑かと思い降りてみる。

 石碑の文字は南無阿弥陀仏、辺りは墓地だった。墓標は木製だが卒塔婆のようなものではなく角柱のてっぺんに屋根上のものをつけている。笠塔婆といわれるものだろうが、墓域が長方形で棺を埋めたらこんな感じではないかというサイズなのだ。古い時代のものならともかく、墓標には平成二十年代の日付が記され墓主誰それと読み取れるものがある。あのようなものは見たことがなく、荒涼たる風景あいまり非常に不気味であった。

8号線に戻り日野川を渡る。鏡の里、大篠原と国道を進み、小堤という交差点の先でまた細い道を行く。
野洲市市街地で新幹線の高架をくぐり進む。行事神社の近くで朝鮮人街道の標識を見た。朝鮮人街道は近江八幡の方へ行く。
野洲川は安河だ。野洲川橋を渡る。川筋は変わっているかもしれないが、この野洲川の西に近江朝廷軍は陣を敷く。何とか立て直し、ここで食い止めたい。その陣からは三上山の端正な姿が見えたことだろう。この戦いも大海人皇子の勝ち戦となり近江軍は瀬田を目指し敗走する。栗太の戦いは旧栗太郡のどこであったかわからないようだ。現代の栗東市より広い範囲となる。大津市歴史博物館には瀬田唐橋とその上で戦う兵士の人形の模型がある。

野洲川を渡ると守山市だ。市街地で旧東海道が西から東への一方通行になっていたこともあり、この辺でおしまいにした。

中仙道六十九次は守山の次は68番目の草津で東海道と合流する。その次は大津で、逢坂の関を経て、次の京都三条で上がりだ。

瀬田唐橋での最後の戦いに敗れた大友皇子は山前(やまざき)で自害したという。この山前を普通名詞か固有名詞かどちらに考えるかで場所は変わる。一般的には普通名詞とし、大津の長柄山付近で死んだとするようだが、固有名詞とし、大山崎の山崎、西国街道、摂津と山城の境、明智光秀と秀吉の天王山の戦いのあったあたりとする説もある。倉本一宏は天王山説だ。字句の解釈はともかく、大友皇子の性格にもかかわってくるような気がする。

 


市辺之忍歯(いちのべのおしば)皇子墓伝承地

2022-01-12 | 行った所

池澤夏樹の「ワカタケル」を読んだ。素晴らしかった! 池澤夏樹は小説家で詩人で翻訳家で書評家だそうだ。余程古事記を読み込んだのだろうと思ったが、古事記の現代語訳までしている人だった。そして恐ろしく間口が広い。ホメロスを読むように古事記を読んだかもしれない。

ワカタケルは大泊瀬幼武、後に雄略と諡号される。埼玉県の稲荷山古墳・熊本県江田船山古墳出土の鉄剣の銘文、中国南朝の宋の歴史書にある「倭王武の上表文」と呼ばれる文書により、実際に関東から九州まで、日本の広い地域を実際に支配下に置いた可能性の高い大王である。

面倒なので以下諡号で書く。
雄略の前の大王は安康、雄略の兄であるが殺されている。雄略は兄の仇眉輪王(妃の連れ子)と庇った葛城の円王を殺し、ついでに他にもいた自分の兄二人も殺し、大王位をうかがう。ところがまだ候補者がいる。市辺之忍歯皇子、雄略の従兄弟である。古代の政権は基本的に豪族の連合政権だというが、大王たるもの豪族どもを従わせるだけの器量がいる。子供は論外で、若く経験不足も向かない。だから必然的に兄弟相続が多い。安康・雄略兄弟の父の世代も履中・反正・允恭の兄弟相続だ。だがそうすると次の世代は大王の息子たちが従弟の関係で犇めくことになる。雄略と市辺之忍歯皇子の関係もそうだ。
記紀によれば、雄略は市辺之忍歯を狩りに誘い出して殺すのだが、ほかの皇子を殺しまくっている雄略の誘いに乗ってのこのこやってきた市辺之忍歯も甘すぎる、と言わねばならないだろう。

狩りの場は、来田綿蚊屋野、近江国蒲生郡の「蒲生野」だという。

この図は大津の渡来人歴史館にあった滋賀県の渡来人分布図だが、蒲生郡というのは現在の近江八幡や日野町を含む相当広い範囲に見える。蒲生野は朝廷の薬猟場、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも」の舞台だともいう。
近江八幡市の加茂神社辺りは「御猟野の杜」という。
 近江八幡の加茂神社の境内

近江鉄道市辺駅から南東に1キロほど行くと道沿いに「履中天皇皇子磐坂市辺押羽皇子墓」と宮内庁の例のパターン化された形式の柵と標識がある。

中には小さめの円墳が二つ。

 

一つは王子が殺されたとき抱き上げて悲しんだ従者佐伯部仲子の墓だという。従者も殺され、二人一緒に埋められたが、後に探し出して墓を作ったときに骨が分けられず、同じような墓を二つ作ったというのが記紀の話だが、それに合わせて作ったかのような円墳二つなのだった。

後期古墳に分類されるようで、5世紀の皇子の墓かどうか・・・ただ石室などの調査はされていないようだ。


 近辺にある若宮神社

狩りの場所の蚊屋野はもっと南の日野町の方に比定されているようだ。丘陵地帯が、鹿の足が林のようだったという狩場にふさわしいようだ。そっちの方にも市辺之忍歯の墓と称する古墳がある。音羽西古墳という横穴式先室を持ち、6世紀末の須恵器が出ているようで、明確に市辺之忍歯の墓ではない。

 石室か