古事記のヤマトタケルはとても魅力的な物語だが、世界中の神話が持つ英雄譚なのだろう。日本神話の中でもオオナムジ(大国主)がスサノオの与える試練を経て、スセリヒメを得る話ともちょっと似ている。
ヤマトタケルにいくつかのイメージがあるのは、いくつかの話が統合されてできた物語の所為だが、女装したり、叔母のヤマトヒメに父親が俺に辛く当たる、などと愚痴ったりするのは、可憐な少年を思わせる。その前に兄貴を引きちぎって殺すのは、狂暴すぎる。さらにイズモタケルを討つ話は、友達になったフリをし、剣をすり替える等狡猾、ズル過ぎる。もっとも佐伯真一「戦場の精神史」によれば、古来戦いは勝つためには何をしてもいいのが普通、というから、勝ったヒーローは狡くてもいいのかもしれない。征西・東征譚は、倭王武(雄略)の上表文を思わせる。ミヤズヒメやオトタチバナヒメとは素敵な男性を演じ、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」との老人とのやり取りは、教養ある良き主人だ。伊吹の神を素手で殺すと言挙げする傲慢な男。そして傲慢さの報いとしての死、故郷を思う哀切さ。葬られてもなお白鳥になって飛んでいく魂。ここ以外、天皇もしくは準じる皇族たちは死んで葬られてお終い、なのではないだろうか。何故ヤマトタケルの魂は飛翔するのか。天皇やそれに準ずる人々の死は、何歳でいついつに死んだ。墓はどこそこにあり、としかない。ほかに例があるのだろうか。
伊吹山 西の方から
ヤマトタケルは伊吹の神に敗れて病になって死んだ。ろくに装備を持たずに冬山登山をしたように見えるが、伊吹辺りの勢力との戦いに敗れたということだろうか。尾張のミヤズヒメのところへ帰るつもりで東へ出て、体力が持たないと最期は大和に向かおうとしたのか。
三重県立総合博物館の展示パネルに加筆
古事記に出てくる地名は玉倉部清水・当芸野・杖衝坂・尾津の崎・三重の村、そして能褒野だ。
玉倉部は壬申の乱でも出てくる地名のようである、不破の近くか。ヤマトタケルの脚がたぎたぎしくなったところで当芸野(たぎの)というとあり、岐阜県養老町だそうだ。杖衝坂は不明、養老山地のどこかだろうか。尾津の崎は三重県桑名市、江戸時代の東海道は桑名から宮まで七里の渡しがあった。ヤマトタケルの舟を使うつもりだったか。現代の三重郡は三重県の西側だいぶ鈴鹿山地寄りだが、古代はどうだろう。能褒野は亀山市になる。鈴鹿山地への登り口だろうか。
尾津の崎から尾張に向かわず伊賀を通って大和に向かう道筋だろうか。
亀山市能褒野王塚古墳はヤマトタケルの墓と宮内庁が管理している古墳だ。あたりにはほかにいくつかの古墳がある。能褒野王塚古墳は4世紀の古墳だが、他の古墳はもっと時代が下るようだ。
ヤマトタケルの墓と称するものは他にもある。白鳥の飛び立ち、また舞い降りたところに白鳥陵と呼ばれる古墳がある。
大阪の河内、奈良の御所、そして名古屋の熱田神宮の近くにもある。神話の中のヒーローの奥つ城を求めても仕方のない所であるが。
能褒野王塚古墳所在地の亀山市歴史博物館にいくつか解説があった。