物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

高島市勝野

2022-02-02 | 行った所

近江に近藤重蔵の墓があると知ってかなり驚いた。どういうつながりかわからなかった。
蝦夷地の探検家として知られる重蔵は、晩年を近江高島で過ごした。それも息子の殺人の罪の連座で配流された罪人として。重蔵は御家人の息子だが、目黒に広大な土地を所有するなど裕福だったようだ。そこの管理を任せていた長男が、町人7人を斬り殺すという事件を起こしたのだ。息子は八丈島に流された。相手が凶悪な盗賊団だったというならともかく7人も殺して流罪でよく済んだものだ。江戸時代の連座制では重蔵の近江配流もやむを得ないことだろう。
重蔵は大溝藩の預かりとなる。ただ監視は緩かったようだ。むしろ普段は入らない情報源として珍重したのかもしれない。
*


*重蔵の墓
*墓前の案内板
 墓から琵琶湖が見える

近藤重蔵の墓から湖岸へ向かうと大溝藩の城下となる。道の中央を水路が走る街並みだ。
総門址に案内所がある。
なかなか興味深い展示パネルがある。

 

 

琵琶湖は南北に細長いが、堅田の南の細い尻尾のようなところを除くと、この地はほぼ湖西の真ん中、安曇川が琵琶湖にそそぐ沖積平野らしきものが湖岸にせり出しているように見える。それだけに交通の要衝となってきた。

 大溝城は信長の甥の城で縄張りしたのは明智光秀で水城だとか、琵琶湖をめぐる城ネットワークの一角とか

それより興味は古代の方に行く。

 

 乙女が池 
「勝野の鬼江」というのは武者にとっては縁起のいい名のような気がするが、乙女が池とはまた思い切って可愛い名にしたものだ。鬼江産パールよりは乙女が池パールの方が売りやすかったのだろうが、あまり恣意的な地名変更はどうだろうか。
*池の南の山が三尾山
*仲麻呂の乱(ウイキペディアから)
*壬申の乱(岐阜市歴史博物館特別展「壬申の乱」図録から)
 三尾山を挟み、向こう側に白髭神社がある。
*湖の中に立つ大鳥居
*石段をあがったところに紫式部の歌碑がある。
「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」

 
長徳2年(996年)式部は父為時の越前国士赴任に同行し越前へ向かう。逢坂山を越え、大津から船に乗り高島の勝野で一泊、また船に乗り塩津に渡り、深坂越えで敦賀に至る。木の芽峠越えで越前国府(越前市府中付近?)に着いたはずである。

三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」 
この歌は京都を出て一泊目のことなのに早くも都恋しいと言い出している。三上山も伊吹山も見えたはずだが、興味なかったか。鄙(田舎:地方)を低く見るのは平安京の貴族の通念だろうが、一年余りの越前滞在中の歌も、何を見ても京が恋しい、といったものである。事実我慢できなくなったのか、父をおいて式部のみが京へ帰っている。
歌碑は境内から数メートル上がっただけだが、琵琶湖がよく見える。三尾山まで上がったらさぞよく見渡せるだろう。湖東の山本山からの琵琶湖もよく見えたが、葛籠尾崎の陰になり、海津・マキノは見えなかった。全湖を見渡すにはこちらの方が優れているようだ。合戦で取り合いになる場所だろう。


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