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大和郡山城

2022-03-06 | 行った所

県道9号線(奈良大和郡山斑鳩線)を東から西に走ったら郡山城跡の看板が目に入った。リニア云々の看板も目に入ったが、こっちは全然ぴんと来ない。

近くに図書館などの施設があり駐車場もあったから駐めて、近寄ってみる。看板近くに桜門址の表示のある石垣。


しかし、城内に入るにはどこへ行けばいいのだ。9号線沿いに歩いてみるが、入口が見当たらない。それどころか、堀は半ば以上埋まり、石垣も荒れた感じが強い。

戻って東側を見ると堀の中?を近鉄線のレールが走っている。結局、南側の橋を車で渡って中に入った。かなり大きな城跡だが、今調査中でさらに公園化の工事中のようだ。


大和郡山市は大和盆地のほぼ中央に位置しするが、中心部は西寄りだ。すぐ北に西ノ京、南西に斑鳩とあるので観光的には素通りされる市なのだろう。
ここで近世の城郭址は有力な観光資源とは言えないのだろう。
天守辺りの整備は終わっている。


上ればなかなかの眺望が望める。すぐ西に生駒から続く山並みが迫ってはいるが、城自体は平城だ。平野部に堀と石垣でできている。石垣はなかなか立派にそびえる。

こもりくの大和、周囲の山に守られし平野部。一望できる。 天気がいまいちだったので写真は案内パネル

場内には柳沢神社がある。梅が咲いていた。祭神は柳沢吉保だそうだ。

大和は古来寺社の力の強いところだ。源満仲の次男の頼親は大和国の国司となったが、興福寺と抗争を繰り返した。この頼親の子孫は、平家物語で源頼政が以仁王を焚付けるくだり「源氏揃」で「大和の国には宇野七郎親治が子供・・」と挙がっている。しかし、大和国をまとめることはできなかったようだ。鎌倉時代になっても室町時代になっても、武家政権も大和には守護を置けず、大和を掌握できなかったようだ。
 葛城市歴史博物館の展示パネルから

筒井順慶の筒井氏も元来は興福寺の衆徒で、それが武者化したらしい。筒井家も含めいくつかの豪族勢力と興福寺が互いに争う複雑な情勢の中、三好衆や松永弾正も攻め込み、混沌の合戦が繰り広げられる。果ては東大寺大仏殿が焼け落ちる事態となる。
最終的には織田信長に従った筒井順慶が、大和を統べ、大和郡山城を築くに至る。
順慶が死んだのは36歳だったという。ずいぶん曲者のイメージがあり、食えないじじいだったのかと思っていたが、意外に若死にのようである。


大和郡山城は筒井順慶が縄張りをしたが、その後豊臣秀長が拡張したものが今残る石垣のようである。
更に主を変えていった郡山城だが、最終的な殿様は柳沢氏で柳沢神社があるのはそのためだ。金魚の街だという大和郡山は、藩士の内職・副業として始まったもので、柳沢の殿様は大いに奨励したとのことである。

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