ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

エア・ハグ

2020-07-26 | アメリカ事情

先週久々にオフィスへ出勤した朝のこと。しばらく会わずにいた同僚たちと、通常時ならばハグをするところだが、お互いにソーシャル・デイスタンスを持って、ハグの真似をした。その時、ヴァーチャル・ハグでも全然ないより楽しい、などと話していたが、ふとこれはエア・ハグと呼ぼう、と思いついたのだった。そうしたら、すでにAir Huggerというサイトがあり、綺麗な色のピン(一つ2ドル)を売っているし、感謝したい病院へそのピンを送ってもくれると言う。

 

どなたでもhttps://www.airhuggers.com へいらっしゃれば、その趣旨がお分かりになる。マサチューセッツ州にある私学バブソン大学の学生ヘレナ・ドウエックさんが、イタリアのフローレンスで勉強中にCovid-19のおかげで、帰国せざる得なかった。帰国して友人・知人にあっても、ハグできないのを残念に思った彼女は、「接触できません」といちいち断るのではなく、「あなたのことを気にかけています。エア・ハグを差し上げます」と代わりに言うことにした。そうしたことからこの小さなエア・ハガーズ(エア・ハグをする人々)のサークルが出来上がり、共感する人はその仲間に入り、小さなピンを身につけるだけで、エア・ハグのメッセージを伝えられる。ピンは淡いブルー、ピンク、グリーン、薄い黄色、紫、そして黒があり、Air Huggerと書かれている。こうすれば、「触らないで!」と言うメッセージよりもずっと親しみがあり、温かい。

 

そのピンも色によって隠れたメッセージがある。

ブルー:私は信じる者ですーより高いところの力を信頼しています。

ピンク:私は戦士ですー自分の道にくるものと戦うのに十分強いです。

イエロー:私は楽天家ですー苦しい時でも明るい面が見えます。

紫:私は擁護者ですー全ての人々の個人的なスペースを尊重することを信じています。

グリーン:私は環境保護主義者ですー地域社会と地球のより良いあり方に責任を持っています。 

 

思えば、日本人には古代よりの挨拶の仕方がある。お辞儀。これを世界に広めるのも一考である。ただし、相手に頭を下げることが屈辱に感じる民族やお国柄があるかもしれない。また頭の下げ方にも色々注文がつきそう。将棋の藤井聡太棋聖、つまり聡ちゃんのようなお辞儀が私は好きだが、へりくだれない民族性もあるやかもしれない。

 

私は早速ピンを注文し、到着したら、家族やオフィス仲間と分け合い、マスクの端にでも留めてみよう。こんな時には、こんな小さなことが実はとても大切なことだと思う。

 

 

 

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ふとした素敵な時間

2020-07-25 | 考え方

 

 

このところ、毎日の暗〜いニュースに、つい懐古的になる私は、きっと1970年代にでも戻りたいらしい。世界規模の奇禍が起こるずっと以前に戻れるならば戻りたいらしい。あの頃は学生の身でアパートにテレビやステレオセットを持っていたら、いっぺんにルームメイトたちに尊敬された(まさか)時代だったし、絵文字が今世界中にemojiとしてヒットするとは想像もできず、へのへのもへじのこととしか思えなかったろう。第一E-mailって何?パソコン、って? そんな1970年代はだからと言って、決して暗黒ではなく、今よりもずっと人々は想像的で生産的でさえあったのではなかろうか。

最近と言っても10年から15年くらい経つが、レトロな音楽が現代の歌手によってカバーされるのが流行っている。70年代はバリー・マニロウ、80年代はハリー・コニック・ジュニア、飛んで2000年代から今は、マイケル・ブブレイが、代表的なクルーナーだが、かのロッド・スチュワートもスタンダード・ナンバーのアルバムを出している。ロッド・スチュワートは学生時代ナパ・ヴァレー出身のルームメイトが大好きで、その頃はあの独特のしわがれた声のロックアルバムをしょっちゅう彼女は聞いていたので、いやが応にも私はいくつかの曲を覚えてしまった。彼の前身は、墓掘り人夫だというのも知り、それでも当時(現在も)あれだけの人気を得ていたのは、やはり類まれな才能のなせる技だろう。

その彼のスタンダード・ナンバーの曲は、驚くほどスムーズで聞き惚れるが、ということは私も歳を寄せたものだ。70年代に飛び跳ねていた人も、スタンダードに帰るのだな、という安心感に似た気持ちになったりする。やれやれ。

最近は心が落ち着く、切なさも多少手伝って、歌詞の美しさ、辻褄の合う音楽が耳に心地よい。1943年に書かれた歌”You’ll Never Know"もスチュワートは歌う。この曲は最近様々な歌手が歌っていて、ダイアナ・クロール、マイケル・ブブレイも然り。どれも皆それぞれ心地よいが、ロッド・スチュワートのスタンダードが今の私は気に入っている。

1970年代からシカゴが大好きで、特に”If You Leave Me Now"は当時大学のダンスでよく演奏され、大好きだった。勿論本家本元のピーター・セトラのシカゴがいいが、昨日偶然にシカゴをカバーするロシアのバンドがいるのを発見した。Leonid Vorobyerv & Friends(リオニド・ヴオロビェイルとフレンズ)と言うが画面を見なければ、本物のシカゴの演奏そのままである。この人たちはアメリカ公演を予定していたが、残念ながらウイルス奇禍のため、中止となってしまった。けれども1970年代と違って今はYouTubeがある。私はこのグループの演奏に圧倒された。フレンチ・ホルンも上々な出来で、ピーター・セトラよりもずっと若い歌手(Serge Tiagniryadno)が、歌うが、非常にうまい。

このトンネルから抜け出す日が来るのを信じているが、それでも時折、様々な自粛や制限がこれからのノーム(当たり前)であるのをしみじみ感じると、ちょうどアドレナリンが急激な身体の痛みを和らげるように、適度に懐古的になるのは否めない。でもそれは案外、明日への希望に繋がる。それはモーツァルトのピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K 467 第2楽章でもいいし、スタンダードメドレーでもいいし、懐古調のポピュラー音楽でも良い。とにかく気を休める音楽が一番ではないだろうか。そして自宅勤務や自宅退避で疎遠になりがちなあの人、この人に電話やテキストをしてみるのも、明日の朝をすっきりと起きられることにつながるかもしれない。なぜならば、この奇禍に私たちは皆一緒にいるからである。

 

懐古的になるのが必須の曲#1

 

もっとずっと昔への懐古的をお望みならば、の曲#2

 

 

 

 

 

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春に

2020-07-24 | 人間性

春に野原を踊るように飛び跳ねる駿馬のごとくに、あらわれて、そして十年を三回迎えたところで目の前から消えてしまった人がいる。これから本命の人生が始まらんと言う時に。

その春の馬は、娘の一人と同年に誕生したから、彼が3歳の頃は、12歳頃には、と大した空想力を持たずとも、娘の成長に合わせれば容易に浮かんでくる。これから果てしない成功と挫折と栄光と反省と、それでも価値のある時間がその一生にたくさんあっただろうことを想像すると深いため息が漏れる。おそらく誰にも告げず、誰にも知られずにたった一人で悩み、底しれない淵へと追い詰められてしまっただろう。その時は悲壮な灰色だっただろう美しかった瞳は、そのまま閉じられてしまった。もし壊れた心のかけらがほんの少しでも見えたならば、と残される者は自問自答を繰り返す。

カリフォルニア州オークランド在住の32歳クレッチ・ユボゾさんは言う。

 

Photo credit: Goodmorningamerica.com

クレッチ・ユボゾさん

 

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一見すべてを持っているように見える人々を失うことは、非常に怖いことである。見た目にだまされる可能性があることを私は直接知っている。

自殺未遂の直前、私はまさに、「すべて持っているように見えた」者だった。私の好きな分野での仕事、良い人間関係、そしてニューヨークタイムズで最初の学部生としての出版。順風満帆ながらも私は絶えず自殺することも考えていた。

なぜ私は誰にも連絡を取らなかったのか? 真実は私は救いを求めたのだ。私は悩んでいることを静かに話そうとしたが、助けの代わりに、私が利己的で劇的で、祈る必要があると言われたきりだった。そんなメッセージは何の役にも立たなかった。私は自分が重荷のように感じ、その痛みを隠し、何もないかのようなふりをするのを学んだ。一度性的暴行をされた後、私の感情を押しつぶす長年が最終的には自殺未遂に発展したのだった。

癒しは人それぞれである。私にとっては、癒しは、ずっと避けてきた感情を再び繋げ、自分の周りに境界線を引き、トラウマに基づく治療、メンタルヘルスの擁護者に交わり、そして有害な人々を人生から取り除くことだった。 私は家族や友人だけの、私が躓いたら捕獲してくれる安全網を構築したのだった。

誰かが肉体的に病気のとき、私たちは何をすべきかを正確に知っている。 キャセロールを持参し、花やカードを送り、痛みを抱えている人が何を必要としているのか考えを巡らす。 自殺を感じている人たちにとっても、それは変わらない。 個人的に、私は人とのつながりを必要とし、頭の中での孤立感と否定的な考えを妨げようとする。

だから、お互いに親切でありたい。 その考えを共に持つあなたの心強い友人と、「忙しすぎて」消えてしまっている友人を本当に大丈夫なのかチェックしなければならない。 自殺の兆候を見逃さず、苦しんでいるときに人々が声を上げて大丈夫かと尋ねて行けたら、そんな世界を作ることができれば、他の誰かが死ぬのを防げるのではないだろうか。

 

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モリー経過報告

2020-07-23 | アメリカ事情

 

モリーの経過報告が入ったので、手短にお伝えする。

モリーモリー#2の続き)

 

今日の午後、ティムと話したところ、物事は良い方向へ向かっているとのことでした。モリーは、手術以来、話さなかったので、それは両親の気がかりでしたが、昨日話し始めました。彼女はまだ起き上がったり車椅子に座ろうとするとき、かなりのめまいがあるそうです。めまいが起こる前には、立つことができたと言うことです。

MRIは、腫瘍全部が除去されたことを示しており、これまでのところ病理検査結果も問題が無いようですし、すべて朗報です。繋がっていたすべてのチューブや排出管は取り外され、健康的に旺盛な食欲がモリーに戻ったようです。皆はモリーがすぐにICUから別のフロアに移動することを期待しています。ティムは、義理の父が明日白内障手術を受けるので、モリーの姉妹二人の面倒を四日ほど見ることになっています。モリーの姉妹たちは、オンラインで2日間、友人の家で2日間、夏休み聖書学校に参加するので、ティムも少しは休むことができます。モリーの手術からずっと祈り、思ってくださった方々にモリー、モリーの家族は皆とても感謝しています。テイムは皆様のサポート、祈りが圧倒的であることをとても喜び感謝に絶えません。これからもモリーと彼女の家族が必要とする最大限のサポートが、あることを願っています。

世界的なウイルス奇禍にあって、通常時でさえ重篤な病と戦い、危険と隣り合わせの大手術を超えて、今、暗いトンネルを抜け出そうとしている8歳の少女のために明日は少しでもめまいが治りますようにと願っている。

 

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同僚のこと

2020-07-22 | 家族

spiritbutton.com

良き息子になれる者は良き父親となる

 

 

四か月ぶりのオフィスは、涙ぐむほど皆心が温かった。各々出勤日を決めるので、全員ではなかったが懐かしかった。私は週一日月曜日出勤という運びになったが、今日は自宅勤務のための支度準備などを主にした。休み時間に机上のコンピューターを開けて、久しぶりにブックマークを覗く。同僚で論文コンサルタントのチャックの、メモアール(回想録、思い出)の続きを読みたかったのだ。

彼は優秀な論文コンサルタントで、図書館が新装した際には、学院学生専門の「綴り方教室」を開設したりするなど、様々な学生を支援する策を始終練っている。今日は彼は自宅勤務の日だったので会えないはずだったが、朝何かの用事でオフィスにひょっこりやって来て、ドアを開けて私を見つけるなり、マスクが透けているかがごとく破顔して大きな笑顔で私の名を叫び、こう言った:「なんてラッキーなんだろう!あなたがここに今日いるなんて!」と。お断りするが、私は大した存在ではない。長い間一緒に働いていると、いわゆる「同じ釜の飯をわけあった仲間」と言う状況になるようだ。つまり私のいるオフィスは非常に皆仲が良く、キャンパスでも有名だ。

その彼が最近意を決したかのように本を書き始め、最初に出版したのは、この地域にある古いキャンプ場についてで、そこで彼は、少年時代から幾夏も過ごしてきたのだ。その本は、わかりやすく、素直な書き方で、とても好感が持てる。ふた昔ほど前のテレビドラマのワンダーイヤーズ(邦題:素晴らしき日々)的な内容である。

チャックは今年の春先、ニューヨークの出版会社からオファーがあって、新しい本出版に向けて、とても張り切っていたのだった。これはある少年の半生記のごとく、ちょっとしたエピソードや思い出をウェッブサイトにまとめ、時折更新していたのだ。その頁を私は休職に入る前に楽しく読んだが、どこのペイジだったかしっかり覚えていなかったので、自宅待機中ずっと気になっていたのだ。今朝本当にわくわくして読んだが、あるエピソードで、胸が締め付けられ、思わず落涙した。「もう彼は!まだ午後仕事あるのに。。。」とつぶやきながら、私は彼にメイルで感想を送った。この話の要約を今日は書きたい。

*******

 

チャックが物心つく頃から、彼の母親は病気がちで、臥せることが多かった。重度のルーパスで、高校もまともに出席できなかった母親は、21歳の時、ある医師が新しい治療を試み、それが彼女には効き、元気になった。それから三年ほどして、結婚した。医師は、子供は無理ですよ、と念を押した。何故なら妊娠と出産によって、病状が激変するかもしれないと言った。しかし、たったひとりの子供、チャックは生まれた。

 

幼いチャックに、ルーパスが悪化し始めていた母親は、自分にできないことをいくつか挙げて、チャックが何でも一人でできるように覚悟して学びなさい、と言った。チャックが字を読むようになる前のことだ。母親は、ジグソーバズルを幼い息子に与え、「おかあさんに助けて、とはいわないでね。」と言い、チャックはひとりで賢明にピースの多いパズルを作っていった。ジグソーバズルが終わってしまうと、リンカーン・ログ*で、その次はエッチ・スケッチ**、その次は、あれこれ、と母親はチャックに渡した。基本すべては自分でやり方を学び、母親には聞かないこと、が条件だった。母親の容態は次第に悪くなり、たくさんの薬を取らなければならない生活になった。薬の瓶の蓋を開けることすら、ままならぬ母親のためにチャックはいつでも開けて、きちんと母親が嚥下するのを見定めるのだった。

*Lincoln Logsは1916年あの建築家フランクリン・ライトの息子のジョンが作り販売したミニチュア丸太を組み合わせて小屋を作るアメリカの玩具

**Etch A Sketchエッチスケッチはフランス人が考案した機械的に絵を描く玩具で1960年アメリカでオハイオ・アート社が繰り出した玩具。

 

医師を訪問する母親に付き添い、食料品の買い物などで車を使う時さえ、幼いチャックは、母親の介助をした。恐ろしい話だが、母親がクラッチをできるだけ力いっぱい押し、凍り付いたような両手でかろうじてハンドルを握り、チャックが助手席からスティックシフト(手動変速器)を操縦した。母親と息子は一心同体のように行動し生きていた。

 

だから医師のオフィスではすぐにチャックは「自分の」本、「自分の」イス、「自分の」お気に入りの看護婦などができた。お気に入りの看護婦は、いつもチャックのほほを軽くつまんでは、「ああ、あなたを私のうちに連れて行きたいものだわ」と言うのだった。チャックは、勿論行きますとも!と、心の内で、叫んだ。それは非常に甘美な誘惑だったが、現実には彼女には夫がいるし、子供たちもいたから、チャックはいつも微笑むきりだった。

 

チャックが八歳になる少し前に、父親が出て行った。父親とは名ばかりで、何もせず、チャックがいつも病身の母親を支えていた。そして、父親は黙って去った。「父親が、自分に、『まあ、ここに座って。あのね、これからおとうさんはここには住まないから、君がおかあさんを助けていくんだよ』、とでも言ってくれても別に大した違いはなかった、」彼は言う。「自分は、母親に甘えることよりも先に母親の世話をすることをしてきたのだから。」と書いている。

 

父親はいつでも今していることよりももっとすごいことが自分を待っているかのように見果てぬ夢に取り憑かれ、安定した職を持たなかった。チャック自身の子供たちは、小さな時に、「他の子たちは大抵二人のお祖父ちゃんいるのに、なんでうちには一人しかいないの?」と聞いたそうだ。チャックは「一人のお祖父ちゃんは、いつももっと青々とした草地を見つけたかったんだよ」としか答えられなかった。そして、「ひとは、あっちのほうが、そっちのほうがここよりずっといい、と思い、そこへ行くけれど、本当は、思ってたよりたいしたことがないんだよ、」と付け加えた。

 

その子供たちも成長し、十代となり、いないお祖父ちゃんについての真相を知っているが、ちょっと前までは、父親が病身の母親と幼い息子を捨て去るなどと、理解できなかった。その話題になると、神妙な顔をする子供たちを前に、チャックは何度も言った。「心配しなくていいんだよ。おとうさんは煙のように消えはしないよ。」子供たちはまだ疑い深い目を向けると、チャックは又言った。「本当に。おとうさんはおじいちゃんの息子だけど、おとうさんはおじいちゃんじゃないんだから。おとうさんはだからおじいちゃんの息子じゃないんだ、とも言えるよ。」

 

チャックの厚紙でできた幼児向けの絵本は、頻繁に使用されたためにすり切れ、角は丸くなっていた。それでもチャックにとってそれを自分で開いては(母親はペイジさえめくれなかった)、母親に開いた頁を音読してもらうのが、本当に楽しく、わくわくしたそうだ。字が読めるようになると、チャックはたくさん本を読み、彼の世界は広がっていった。そして成長するにつれて、彼は母親が病身であることを恥と感じ始め、もし他の子供たちが知ったら、きっと自分など敬遠されてしまうだろうと恐れた。母親は中毒と言ってもいいほどプレドニゾン錠剤を頻繁に使用して、免疫抑制を高めようとする一方、母と息子は、母の障害をひたすら隠すことに長けていった。

 

学校の劇に参加することになった時、劇の責任者は母親にチャックの衣装を縫うように頼んだ。チャックは母親が口を開く前に、「うちにはミシンがないんです!」と言った。誰をだまそうと言うのだろう? 当時どこの家にもミシンはあり、あの時代服作りは、大流行していたのだ。誰もがミシンを持っていたのだ。彼の家のクローゼットにも入っていたのだ。

 

チャックの憑いた嘘は、気高くもあった。両手の指が、ハクチョウの首のように曲がってしまった母親には、ミシンを使うのは、旅客機ジェットを操縦するよりも困難なことだった。そうなってしまった手指を隠すために、セーターのポケットに両手を入れていたり、あるいはハンドバッグで隠したりした。写真を撮るときは、膝乗せ犬を抱いてごまかした。こうして母と息子の共同作戦は功を奏した。運転さえ、ふたりで協力して、外から見てわからないように、親子で車を駆ったのだった。それはチャックが16歳になり、免許を取得するまで続いた。

 

チャックは自分が看れる限り、母親の世話をし、とうとう一人の手では負えない状態に母親が陥った時、そうした施設に入れた。それまでに彼はUCLAを卒業し、結婚をして、フロリダの大学院を終え、子供も三人生まれた。

 

彼は自分が普通の人とは逆の人生を歩んできているのに気がついた。病院、薬局、医師のオフィス訪問などは、年取った人のすることで、ほんのちいさな子供の世界ではないのに、そんな世界で育った。ごく普通の優しいお父さんがいて、健康なおかあさんのいる家庭に恋焦がれてきたチャックは、成長し、その憧れが決して来ないのを知ってから、それならば、自分が人を愛し、自分の子供を愛し、夢見た家庭を造ればいいのだと決めた。チャックは父親を反面教師として良い夫、良い父親になった。人生は髭を剃ったばかりの綺麗な顔のようではないし、見栄えは対して良いものではないことが往々だが、チャックは自分は父親のようにはならないことを固く誓った。そして以前にもまして弱った母親にもっともっと愛情を持って接した。それは良い夫、良い父親になるために、良い息子でありたかったからだった。

 

*******

 

チャックの母親は、去年八十歳を少し過ぎて、亡くなった。辛い悲しい人生だったが、この母親の息子は世界で一番母親を愛し、妻を愛し、三人の子供たちを愛してきている。彼の人生の17年を私は職場で共にできて、大変に幸運なことだと思う。

 

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